第12話 最低限のキッチン

インターフォンの音が静かな部屋に響いた。

遼はモニターを確認した後、軽く伸びをして玄関へ向かう。時計はちょうど10時を指していた。

ドアを開けると、デニムジャケットにスカートというカジュアルな服装の楓が立っていた。春らしい装いがどこか柔らかな雰囲気を漂わせている。


「おはよう。時間ぴったりだね」


遼が笑顔で迎えると、楓は軽く眉を上げて応じた。


「約束した時間なんだから当たり前でしょ。隣なんだし」


靴を脱ぎ、部屋に足を踏み入れた楓は、一瞬立ち止まって辺りを見回した。

整然と片付けられた家具、埃一つない床、無駄のないシンプルなインテリア。生活感を感じさせない空間だった。


「……意外」


楓が率直に感想を漏らすと、遼は不思議そうに首を傾げる。


「何が?」

「部屋、思ったより綺麗だから」


遼は苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。


「まあ、料理以外はそれなりにできるから。掃除も片付けも嫌いじゃないし」


楓は壁に掛けられたシンプルな時計を眺めながら、小さく口角を上げてからかった。


「天城くんのスペックなら、料理も普通にこなせそうだけどね」


その言葉に、遼は少し目を細めて返す。


「昔の俺なら、周りに言われて挑戦してたかもね。でも、今は自分の心に従うって決めたんだ。……まあ、料理に関しては、ただ楽をしたいだけなんだけど」


楓はその言葉に目線を落とし、ふと考え込むような表情を見せた。


(自分の心に従う……か)


そのフレーズが妙に引っかかる。自分の生き方と重ね合わせているのだろうか。

楓はわずかに視線を上げ、遼を見つめた。


「そういう生き方、少し憧れる」


不意の言葉に、遼は驚いたように目を見開いたが、すぐに照れたように笑みを浮かべ、頭を掻いた。


「俺もできてるわけじゃないけどね」


二人はキッチンへ移動し、調理器具や調味料を確認し始めた。

楓がキャビネットを開けると、中には新品同然の鍋やフライパンが最小限並べられているだけだった。


「……ほんとに使ってないんだね」


調味料の棚を開けると、完全に空っぽ。炊飯器もなく、電子レンジが一つポツンと置かれているだけだ。


「ここまで潔いと感心するわ」


楓が呆れたように言うと、遼は笑いながら肩をすくめた。


「最低限の装備だけ買って満足しちゃったんだよね」


一方で、キッチンカウンターの隅にはハンドドリップ用のコーヒー器具が一式揃っている。

温度調整機能付きのケトル、ドリッパー、フィルター、手動と電動のグラインダー……その本格的な設備に、楓は目を丸くした。


「料理しないくせに、コーヒーだけはプロみたい」


遼は冷凍庫から袋詰めされた豆を取り出し、軽く振りながら笑った。


「趣味の一つだからね。豆を挽いてると無心になれるし、香りがいいからリラックスできる」


彼は少し目線を遠くに向け、懐かしむように続けた。


「実は父さんの影響なんだ。昔、家でよくコーヒーを淹れてくれてたから、憧れて始めたんだよね」


楓は器具や豆を見ながら、小さく笑みを浮かべる。


「……なんかいいね。じゃあさ、食後に一杯お願いしてもいい?」


不意の提案に、遼は驚いた表情を見せたが、すぐに笑顔で頷く。


「もちろん。任せて」


楓は満足そうに微笑むと、改めてキッチンを見回した。


「で、これは……プロテイン?」


棚に置かれた大きなボトルを指差して言う。


「朝ごはん代わりかな。ジムに通ってるから、たんぱく質くらいは取らなきゃと思って」

「ほんと感心するわね。料理しない以外は完璧なんだもん」


楓は呆れつつも、どこか楽しげに言うと、決意したように手を叩いた。


「とりあえず今日のお昼はパスタにするね。あ、あと炊飯器がないとご飯作れないから、うちのを持ってくる」

「え、そこまでしてくれるの?」

「言ったでしょ?暇なんだから。使わない時期に貸すだけでしょ」


遼はその言葉に軽く頭を下げた。


「ほんとにありがとう。頼りっぱなしだね」


スーパーへの道を歩きながら、遼がふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、学校の人に俺たちが一緒にいるところ見られても平気?」


楓は一瞬歩調を緩めたが、特に気にした様子もなく答える。


「別に。見られて困ることなんてしてないし、聞かれたら適当に流せば終わるでしょ」


遼はその答えに意外そうな表情を浮かべた。


「気にならないんだね。そういうの」

「慣れただけ。どうせ何しててもひそひそされるんだから。そっちこそいいの?好きな人とかいたら、変な噂になって迷惑じゃない?」


遼は少し考え込むように黙ったが、やがて肩をすくめて笑った。


「そういうのないから大丈夫だよ」


楓はその答えに満足したように頷き、前を向いて歩き続けた。

遼は彼女の横顔をちらりと見つめた後、軽く笑いながら歩調を合わせた。

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