第10話
一条楓と出かけた日から、特に変わったこともなく日常は静かに流れていった。
それでも、彼女のさりげない仕草やあの時の会話が、遼の記憶の片隅に鮮やかに残っている。
午後、連休前最後の授業を控えた教室には、気の緩んだ空気が漂っていた。
生徒たちは窓の外の青空に思いを馳せながら、談笑したり、机に突っ伏して眠ったりしている。
天城遼は、席に座ったままノートにペンを走らせていたが、ふと視線を窓の外に移した。
春の柔らかな風が木々の葉を揺らしている。その景色に目を止めながら、彼はぼんやりと思った。
(ゴールデンウィーク、何しようかな……)
一方で、一条楓も静かに教科書を開き、淡々とノートに文字を写していた。
その横顔は整然としていて、クラスの喧騒から一歩距離を取ったような雰囲気がある。
「高嶺の花」と呼ばれる彼女の存在感は、その涼やかな表情がさらに際立たせていた。
(……相変わらず誰も話しかけないな)
遼は横目で彼女を見ながら、クラスメイトたちが楓に向ける微妙な視線を感じ取っていた。
誰もが彼女を一目置きながら、話しかける勇気を持てずにいる。その様子に少し違和感を覚えつつ、遼は再びノートに目を戻した。
◇
授業が終わると、教室は一気に活気づいた。
生徒たちが「連休だー!」と騒ぎながら席を立ち、カバンを片手に友人たちと笑い合う。
そんな中、坂口晴斗が遼の席に近づいてきた。
彼は遼の机に肘をつき、軽い調子で話しかける。
「なあ、遼。ゴールデンウィーク、何か予定ある?って、どうせ暇なんだろ?」
晴斗のからかい混じりの言葉に、遼は苦笑いを浮かべる。
「暇って決めつけないでよ。でも……まあ、特に何もないかな」
「だよな!俺なんて部活漬けだぜ。朝から晩まで走りっぱなし!全国目指すってのも楽じゃねえよ」
晴斗が愚痴っぽく言うと、遼は優しい笑顔で頷いた。
「全国か。大変だろうけど、それだけの目標があるのはいいことじゃない?」
「そうだけどよ。たまには息抜きしたくなるってもんだろ」
その瞬間、ジャージ姿の篠崎瑠香が現れた。
髪を一つにまとめた彼女は、水筒を片手に晴斗を鋭い目で睨む。
「晴斗、何バカなこと言ってんの。真面目にやりなさいよ」
「いや、俺だって真面目にはやってるよ。ただ、さあ……上がれる人数が多いから、今回の地域大会はそこまで気合い入れなくても大丈夫だって」
「そういう考えがダメなんでしょ!」
瑠香の声が一段高くなる。
晴斗は困ったように頭をかきながら返した。
「だって、次からが本番じゃん。決勝で6位以内。地域大会はタイムレースで30位以内だろ?」
「そういう甘さが後で命取りになるのよ。あんた、スタートでまた出遅れても知らないよ?」
瑠香の冷静かつ容赦ない指摘に、晴斗は一瞬たじろぐが、すぐに開き直るように笑った。
「それは……俺の走力でカバーすれば問題ないだろ!」
「問題しかないでしょ!」
瑠香はさらに睨みを利かせると、大きくため息をついて腕を組んだ。
「いい?今回の地域ブロック大会を軽く見てると、全国どころか都道府県大会にも上がれないかもしれないんだから」
「……わかってるよ。でも、俺もたまには息抜きしたくなるんだって」
「練習がオフの日もあるんだからそう言う日に息抜きしなさいよ。言っとくけど、私は絶対気抜かないからね」
晴斗がぼやくように「怖ぇな」と呟くと、瑠香は鋭い目を向けながら「怖がらせてるのは自分でしょ」と突き放した。
そんな二人のやり取りに、遼は思わず笑みを浮かべた。
「晴斗、君、完全に篠崎さんに頭が上がらないんだね」
「そりゃそうだよ!こいつ、怖いし完璧だし、意外と鬼コーチだし!」
晴斗が苦笑いで応じると、瑠香は「当然でしょ」と言わんばかりの顔で肩をすくめる。
「ほら、行くよ。部活の時間、無駄にしないで」
「わかったよ……まったく、ゴールデンウィークなのに大変だぜ」
二人はそんな軽口を叩き合いながら教室を出て行った。
残されたクラスメイトたちは、楽しげにひそひそと話を始める。
「あの二人って、付き合ってるのかな?」
「なんかそう見えるよね」
◇
一方、一条楓は静かに教科書を閉じ、丁寧にカバンへしまっていた。
その動作一つ一つが端正で、無駄がない。
クラスの一部の生徒たちが彼女を見ながら「やっぱり一条さん、綺麗だよね」と囁く声が聞こえる。
楓はそれに全く反応することなく、身支度を整えて教室を出て行った。
その背中には、どこか周囲との隔絶を感じさせる冷たい空気が漂っている。
遼は彼女が扉を閉めた後、その後ろ姿を思い返しながら、ふと小さく息をついた。
(……無理してないといいけど)
教室の喧騒の中で、彼だけがそんなことを考えていた。
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