第5話

朝9時50分。

天城遼はマンションのエントランス前で立ち止まり、腕時計に目を落とした。


(少し早く出ちゃったな)


空を見上げると、澄み渡る青い空に春の陽光が柔らかく降り注いでいる。穏やかな風が街路樹を揺らし、遼の心をふと軽くした。

しかしその余韻に浸る間もなく、背後から軽やかな足音が聞こえてきた。


振り返ると、白いブラウスに薄いグレーのスカートを合わせた楓が立っていた。淡いピンクのカーディガンが春の雰囲気を引き立て、ふんわりと揺れる髪が柔らかく光を反射している。


「おはよう」


楓が軽く手を上げながら挨拶する。その表情は、いつもより少しリラックスして見えた。

遼は微笑みながら頷いて返した。


「おはよう。一条さん、準備早いんだね」

「遅刻するの嫌いだから。それに、せっかく天城くんに付き合わせてるんだし、失礼はしたくないしね」


楓は軽く微笑みながら言い、歩き出す。遼はその隣に並び、二人で静かに目的地へ向かった。


 

目的地の本屋は広々とした路面店だった。

入り口をくぐった瞬間、紙とインクの心地よい匂いが鼻をくすぐる。木目調のインテリアに囲まれた空間は、どこか時間が止まったような静けさを感じさせた。


「本屋って、久しぶりかも」

楓が小説コーナーを見ながら呟く。その声は、どこか懐かしさを含んでいるようだった。


「意外だな。普段から結構本読んでるイメージだけど」

「うん、読むけど、最近はネットで買うことが多くて。こうやって店に来て選ぶのは久しぶり」


楓は平積みされた小説を手に取り、表紙をじっと見つめた。それは話題の恋愛小説で、優しい色彩で描かれたシンプルなデザインが印象的だ。


「これ、前から気になってたんだよね」

楓が小さく言うと、遼はそれを一瞥して少し驚いた表情を浮かべた。


「恋愛小説とか読むんだ」

「変?」

「いや、意外ってだけ。何となくもっとシリアスな本が好きなのかなと思ってた」


楓は微かに頬を赤らめ、視線を下げながら表紙を見つめる。


「……たまには、こういうのもいいかなって思っただけ」


遼は軽く笑いながら隣の棚に目を移した。そこにはブルーバックスシリーズの科学書が並んでいる。

彼が手に取ったのは、宇宙に関する最新トピックを扱った一冊だった。


「やっぱりこういうのが好きなんだね」

楓が彼の手元を見ながら言うと、遼は頷いた。


「うん、こういう科学系の話って面白いんだよ。普段の生活じゃ触れないテーマが多いし、読んでてわくわくする」

「男の子って感じ」

楓が微かに笑いながら言うと、遼も少し恥ずかしそうに肩をすくめた。


本屋の奥に進むと、料理本のコーナーが目に入った。

楓はふと足を止め、色とりどりの表紙を見つめると、一冊の本を手に取った。


「これ、いいかも。簡単なパスタのレシピが載ってる」

「そういえば料理するだっけ?」

 

遼が興味深そうに聞くと、楓は軽く頷く。


「まあね。一人暮らしだし、自炊しないと結構きついから」

「すごいな。俺、全然やったことないんだよね」

「だから言ったでしょ?少しはやりなよ。料理って、意外と楽しいものだよ」


楓は本のページをめくりながら、柔らかく笑った。その笑顔は、普段学校で見せる「完璧なお姫様」の仮面とは違い、どこか親しみやすいものだった。


 

購入する本をそれぞれ手に持ちながら、本屋を後にした二人。

楓がふと遼の手元を見て尋ねた。


「何買ったの?」

「これ。宇宙の未来について書かれてる本」

「へえ、面白そう」

 

楓は軽く笑いながら、自分の手元の恋愛小説と料理本を見せた。


「お互い全然違うジャンルだけど、こうやって本を選ぶのも悪くないね」

「確かに。お互いの趣味がちょっと見えて、面白かった」


遼が言うと、楓は少し考え込むようにして呟いた。


「……次はお昼だね。お腹空いてきたし」

「そうだね。何か食べに行こうか」


二人はまた並んで歩き出し、次の目的地であるショッピングモールへ向かった。

その足取りは、少しずつ互いの距離が縮まっていくように見えた。

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