保養所にて

「こんなところあったんですねえ」

加賀隆は部屋の広縁から外を眺めて呟いた。


「何かありましたらこれでご連絡ください。私たちは左の部屋に居ますので」

男は加賀の独り言をさり気なく無視してそう言い、テーブルの上にスマホを置いた。


「…………」

加賀は振り返ってそのスマホを見た。正確に言うとその男の姿を見たくなかった。


「では」

男はそう言って一礼すると部屋から出ていった。


加賀はテーブルに近づきそのスマホを見た。呆れた事にそのスマホには「桔梗の間」という名前しか登録されていなかった。隣の部屋の事である。


──私達は交代しますので

ここまでの車中で加賀は男に名前を尋ねたがそういう形で往なされた。つまり男自身の名前など意味がないという事だろう。いや──


「最悪の場合は口封じもあるってか?」

加賀は無表情にそう独りごちた。ドラマや小説じゃあるまいし。だがここに至る話を聞いた後ではあながちそれもないとは言えない。だがもし口封じがあるとしても今の加賀には響かなかった。その前段の説明で彼の人生は事実上崩壊したのだから。


──…………

加賀はテーブルの近くから再び外を眺めた。よく晴れたいい日で景色も素晴らしい。つい昨日までの激務が嘘のようだった。


──もうね、ヤバイよ。人生最大のピンチだよ

つい昨夜自分がそう言ったのを思い出した。それは全くの本音だったし、これ以上の大ピンチがあったら自分はとても対応できないとも思っていた。


そしてそれは本当にその通りだった。

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