1章
第4話 目覚めと出逢い
体が凍えそうに寒い。
まるで自由が効かず、息苦しくて意識が遠のいていく。
こぽこぽと視界の端に映る泡のようなもの。ここでようやく私は、自分が水の中にいるのだと気がついた。
しかし、どういうことなんだろう。私はどうして溺れるような状況になったのだろう。
もしかして、自分から湖にでも身を投げたのだろうか。
記憶が混濁していてあまり覚えていないけれど、私はすべてに絶望していた。
クラウド様が亡くなり、皇都が業火に焼かれ、大切なソルディアの大地は南ガルト帝国とシュトラウス王国によって分断されることになった。
だからもう、命を擲ってしまいたいと思ったのかもしれない。
それならいっそ、早く──……
「おい、しっかりしろ!」
いきなり凄まじい力に腕を引かれ、一瞬、澄み渡る空と、胸を突くような黄昏が見えた気がした。
「うっ……げほっ、ごほっ!」
「焦るな、ゆっくり息を吸うんだ。そう、呼吸を楽に」
大きく咳き込んだ私の背に、誰かが手を添えてくれた。
飲み込んでしまった水を何度も吐き出し、速まる鼓動を落ち着かせていく。
「お兄さまー! 大丈夫!?」
「早くこっちに上がってくださいっ」
ようやく呼吸が整い始めたころ、聞こえてきたのは子どもの声だった。
まだ頭がぼんやりとしているせいか周りの様子を確認することができない。いまだ下半身は水に浸っており、ぶるりと体が震える。
すると、すぐ隣にいる人が上着をかけてくれた。
「これを。少し濡れてしまったが、暖は取れるはずだ」
なんだか妙に聞き覚えのある声だと思いながら、私は腕を引かれて岸まであがる。
じっと、掴まれた腕を確認した。
男の人の手だ。まだほんのりと幼さが残る、豆が潰れて皮が厚くなった、剣を握る人の手。
クラウド様と同じような、努力を知る人の手だ。
そう考えるだけで、目の奥が熱くなってしまう。
ずっと状況はわからないままだけど、きっとこの人が私を助けてくれたんだ。
水の中で流れに身を任せていたから、果たして助かったと言っていいのかわからないけれど、この手の人が必死に呼びかけてくれたのは確かだ。
「あの、助けていただ……いて……」
肌に張りついた髪を拭い、私は視線をようやく前に向ける。
目を、疑った。
「…………ク、ラウド……さま……?」
「まだ無理に喋らなくていい。いま弟妹に温かい飲み物を持ってこさせているから」
か細すぎた私の声は、どうやら彼に届いていなかった。
けれど見間違えるはずのない姿に頭は困惑するばかりだ。
紫がかった黒髪と、美しい黄昏色を閉じ込めた目。
クラウド様だ。半月前に死んだはずのクラウド様が目の前にいる。
つまりここは、あの世ということ?
「……クラウド様!」
堪らず私はその胸にしがみついた。息をして意思が通じる彼に伝えたい言葉があったからだ。
「弱いままで、ごめんなさい。あなたの大切な場所を守れなくて、ごめんなさいっ」
私は縋るように言い募った。ここが天の国でも、夢でも、なんでもよかった。伝えられる機会を得られたなら。
しかし、クラウド様からは戸惑うように息遣いが聞こえるだけ。次第に肩を支える手にも躊躇いのような動きが感じられた。
そこで、私はようやく違和を覚えた。
「あークラウドお兄さまいけないんだ!」
「ほかの女の子と抱きついて、メルねえさんに言っちゃうからねっ」
「こらお前たち。状況を考えろ」
たたたたっ、と軽快な足音が近づいてくる。
呆れ混じりのクラウド様の声が降ってきて、さらに私の中で膨らんでいく疑念。
「はい、どうぞ。温かい飲み物よ」
「ハンスがね、用意してくれたんだよ」
幼い男女の子どもが湯気の立ちこめるカップを手渡してくる。よく見ると顔が似ていて、おそらく双子だというのがわかった。
もう一度、私はクラウド様に目を向ける。
姿形は彼そのもの。でも、私の記憶にあるクラウド様よりも、あきらかにまだ幼さが残る青年だった。
いよいよわけが分からなくなってきたとき、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
「レティシャ王女! ああ、なんてこと。このような大切な日に、あなたという人はどこまで恥知らずなのですか!」
現れたのは比較的妙齢の女性だった。
私に向ける鋭い視線と怒りに満ちた表情に、思わず肩がびくりと揺れる。
この女性には見覚えがあった。
私がシュトラウス王国の亡霊王女と呼ばれていたころ、傍付きとして置かれていた人である。
北ソルディア帝国に輿入れすることになってからは、べつの王女の宮に移ることになり、私の前で「ようやく亡霊王女から開放される」と言ってとても喜んでいた。
「あなた、いま、私のことを」
レティシャ王女と、そう呼んだ?
それだけじゃない。どうして彼女がここにいるんだろう。
だってここは、滅亡寸前の北ソルディア帝国のはず――
「なにを訳のわからぬことをブツブツと言っているんです! やはりあなたは催事に参加するべきではなかったんですよ!」
「……っ」
彼女が強引に腕を引いて私を立たせたことにより、持っていたカップが地面に落ちて割れてしまった。
うまく力が入らない体はいとも簡単に引っ張られ、クラウド様や、幼い双子の男女を残してその場を離れようとする。
「失礼、どうか手荒な真似はやめてください。彼女はたった今湖に落ちたばかりなんです」
「……ああ、ソルディアの皇太子殿下ですか。お気遣い痛み入ります。ですが、レティシャ王女のことには口出ししないでくださいますか。わたくしは王家より王女の行動を厳しく管理するよう仰せつかっておりますので」
その歯に衣着せぬ物言いは、隣国の皇太子など取りに足らないというシュトラウス王国の傲慢さそのものだった。
そう、シュトラウス王国の人間は、常に北ソルディア帝国を見下していた。王家や貴族がそうであるように、一介の民の意識もそれが当たり前だったのだ。
「クラウド様――!」
"ソルディアの滅亡を目前にして、なにもできなくてごめんなさい。"
先ほどから謝罪の言葉ばかりだが、私にはそれ以外の発言をする資格はないと思った。
なのに、発しようとした言葉も、声も、なぜか不自然に途絶えてしまった。
唇が塞がれたわけでも、舌を噛んだわけでもない。
ただその瞬間、喉から音が出せなくなったのだ。
結局伝えたい言葉はろくに伝えられないまま、私が傍付きの手を引かれ、古びた塔まで連れていかれることになったのだった。
***
懐かしいとすら感じる旧管理塔の中。冷たい石造りの床に置かれるのは、腐りかけた木の寝台(ベッド)と、情け程度にある机と椅子、棚。
部屋を一瞥し、感情ばかり先走っていた頭がようやく冷静になっていく。
ここは、シュトラウス王国で私が過ごしていた部屋。
無能な亡霊王女レティシャの塔である。
「まったく、どうしてあなたの世話係なんかをやる羽目に……それも陛下の温情で黄昏の催事への出席が許されたのにあのような失態まで犯して。いい加減、こっちにまで恥を欠かせないでくださいよ!」
この苛立たしげに睨まれるのが、あのころの私は恐ろしくてたまらなかった。
なるべく迷惑をかけたくなくて肩を縮ませ、ソルディアへ嫁ぐまでは彼女の言う通りに過ごしていたのだ。
「ここは、シュトラウス王国……ですよね。大陸歴は何年ですか?」
やっとの思いで口にすると、奇怪な目を向けられてしまう。
「湖で溺れて頭まで変になったんですか? 本当に気味が悪い。もうお願いですから食事を運んでくるまでここで大人しくしていてください」
こちらの質問には何ひとつも答えず、彼女は部屋を出ていってしまった。
強く扉が閉められると、振動が机にまで伝わり、置かれた多くの古新聞が床に散らばる。
私はそれを拾い上げ、一番真新しい色味の記事にある日付に目を向けた。
「……ルスタン大陸歴710年」
記事を置き、頬をつねる。痛い。さらに強くつねると、激痛になる。
ここは天の国でも、夢でもないのかもしれない。
それから状況を理解するのに、しばらく時間がかかった。
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