光の波

まぐ

始まりの物語

彼は逃げ出した。


公園で遊ぶ子供たちの声がやけに耳を劈く。

穏やかに流れる川とは裏腹に、腹の奥底に鉛のような重い感情が渦巻いている。


「もうどうでもいいんだ。」


彼は呟く。


鞄ももたずに飛び出したから、携帯もお金もない。

逃げ出したところで何もできない、そう気づいた彼は、自分を嘲笑いながらポケットに手をつっこんだ。

すると、冷たい感触とともに金属の触れ合う音がした。


「これ、今朝の…」


今朝、大学に向かう途中コンビニでタバコを買い、おつりをポケットに入れたことをすっかり忘れていた。

彼は小銭を握りしめ、迷わず駅へ向かった。

誰も知らないところへ。

彼は今持つ全財産を注ぎ込み、縁もゆかりもない街を目指し、電車に飛び乗る。


中は空いていた。

窓際の席に彼より少し年上の男が1人座っているだけだった。

彼はその男と少し離れた席に腰掛ける。


彼はいつだったか、その男に会ったことのある気がしていた。


彼は窓の外を眺めた。

小刻みにゆれる振動が心地よかった。

窓の外が少しずつ見慣れない景色になっていくにつれて、さっきまで抱えてきた鉛のような感情が解けていく気がした。



彼はいつしか眠ってしまっていた。


彼は見慣れない街を歩く。

青く澄んだ高い空に、冬の訪れを感じる。

交差点を曲がり、少し歩くと路地に入った。

彼は地図もなしに彷徨い歩く。


歩くうちに小さなアトリエが目に入った。

木でできた、いわゆるログハウスのようなアトリエで、中に人がいる雰囲気はない。

彼はほんの少しの好奇心で中を覗いた。


そこにはまだ描きかけの絵が1枚、ぽつんと置かれているだけだった。


抽象画のようだった。

黒に白に黄色…

色々な形を纏った光の波が彼の頭をいっぱいにする。

彼はその場から動くことができなかった。

酸素を巡らそうと、鼓動が早くなる。

瞼の裏に熱いものが込み上げる。

息ができない。

その瞬間彼は膝から崩れ落ちた。 


「良かった…」


そう彼は溢す。


キャンバスの裏に半分顔を覗かせた1枚の写真。


そこにはさっき電車で出会ったあの男が写っている。

右下にお世辞にも綺麗とは言えない字でこう書いてあった。



『始まり、天野亮』



彼の名前だった。






「次は終点です。お忘れ物にご注意ください。」


彼は目を覚ます。

不思議と背筋が伸びる。

心は軽い。


扉が開く。


「さぁ、始めようか。」


知らない街が彼の背中を押す。

彼はスタートを切った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

光の波 まぐ @umi_no

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画