終章
ぴちゃん、ぴちゃん。
浴槽に雫の落ちる音が響く。
二人は部屋に併設された風呂に、身を寄せ合って浸かっていた。
「こうして一緒のお風呂というのもいいものですね」
「前は別々に済ませたからね。大丈夫? 狭くない?」
「たしかに広くはないですが、これはこれで良いものです」
広くはない、というのは最大限誇張した言い方だ。
この浴室は、そもそもが一人用として設計されたものだ。
智恵理を後ろから抱きしめて浸かっても、二人で入るには余裕がない。
少しでも身じろぎすればバスタブの内側に当たるし、足を延ばす余裕もない。
きっと十人が十人狭いというだろう。
けれど、智恵理にしてみれば、この狭さも特別なものなのだ。
「見飽きた一人用のお風呂ですけど、誰かと入るのはいいものなのですね」
「……君は、毎日一人で?」
「ええ。だって、この背中でしょう? 大浴場へは行けませんよ」
「誰も何も言わないと思うけど」
内心驚きはするだろうが、不躾に訊ねることはないだろう。
「ええ、きっとみなさん何も言わないでしょうね。でも、思うことはあるでしょう? そうして気を遣われたり、何かされるのが嫌なのです」
「色眼鏡で見られたくないって?」
「そうですね。勘違いをされると、そこから外れた時に面倒なことになりますから」
たぶんきっと、そういう事態を何度も経験したのだろう。
友人間もそうだろうし、あるいは新しい親にそういう対応を取られたことがあるのかもしれない。
「よく僕には説明する気になったね」
閑の言葉に、智恵理は一瞬考えるような顔をした。
「ん……隠せないというのもありましたけど、そもそも私はあなたに隠し事はしないつもりでしたから」
「どうしてか、聞いてもいい?」
閑の問いに、智恵理は小さく笑った。
「そうやって、一歩引いてくれるところです。あなたは頼めば私自身を見ることなく、即物的なものを渡すこともできたでしょう?」
「……まあ、そういう注文がなかったとは言わないよ」
閑が目を逸らしながら答えると、智恵理は面白そうにくすくすと笑って、それから目を伏せて懐かしむように囁く。
「けれど、あなたを欲しいと言った時、あなたは寄り添うことを差し出してきた。だから、この人には全て話そうと決めたのです」
「なるほどね……」
あの時、そんなことまで考えていたのかと、閑は深く息を吐いた。
「まあ、まさかこうなるとは思ってませんでしたけど……」
言って、智恵理が身をよじった。
器用にバスタブにぶつかりすぎないよう身を反転させた彼女は、閑に目配せをして目を閉じる。
請われるがまま口づけをすれば、智恵理は嬉しそうに微笑んだ。
「どうすればこの関係を長く続けられるのでしょうか」
「難しい話だね……」
「閑は、どうしたいんですか?」
少し不安そうな声。
「同じ気持ちだよ。君を離したくなんかない。だけど、君の親御さんが納得してくれるかな」
「ん……待ってもらうのは、簡単だと思います。使いたいという意思はあるようですし、私もそれを受け入れるつもりでしたが、無理強いをする気は無いそうなので」
「そうなの?」
「今の両親は本当にいい方ですよ? まあ、ちょっと手が出やすいところはありますし、家政婦や侍従を見る目は無いみたいですけど」
その言葉の裏に隠されたものを読み取って、閑はため息を吐いた。
「……君のところは複雑だね」
「ふふ。ある意味では単純だと思いますけどね。それに待ってもらえると言っても、先延ばしでしかありません。私が相手を選べるわけではありませんから」
「あとは、僕、か……」
安芸家において、全ての決定権を持っているのは閑の父親だ。
彼を説き伏せられるのならば、母親も黙らせられるだろう。
彼女は感情的になりやすく、よく父親とも衝突しているが、最終的には言われるがまま従ってきた人だ。
「大変そう、ですか?」
「どうかな……。それが家のためというか、うちの会社のためになるなら父は頷いてくれると思う。あの人はそういう人だし」
「じゃあ、色々と我が家の後ろ暗い話をタレ込みましょうか? 安くして買い上げたほうが楽かもしれませんよ?」
さらりと恐ろしいことを言うものだ。
選べるわけではないなどと、いったいどの口が言ったのだろう。
だが、好きな人に迎えにきて欲しいというのは、彼女の中にある夢なのかもしれない。
出来ればその王道を通って彼女を迎えたいとは思う。
「それは最終手段にさせて……。まずは、普通に君を迎えに行けるだけの価値を積み上げないと」
「でもそれは、たくさんの運が絡むことでは?」
「そうだね。ただ、運の関与を少なくしていくことはできる。《白烏》をやってたのは、そのためなんだから」
閑の言葉にたしかな意思を感じたのか、智恵理は淡い微笑みを浮かべた。
「……わかりました。じゃあ、私は待ってますね」
「うん、ありがとう。君の提案に乗った方が楽かもしれないのに」
「いいえ。離れない未来が見えただけで、充分嬉しいです。それに、それは最後の手段としてとっておけばいいんですよ」
結ばれる未来を現実のものとするにはたくさんの困難があるけれど。
それでも不可能ではないと知れたことは大きい。
話は済んだ。あとは、己で考えること。
だからと閑は話題を変えた。
「ねぇ、今度、もう一度花園へ行こうよ」
「また夜に、ですか?」
「うん。あの日言えなかったことを、ちゃんと言いたい」
「さっき言ってくれたのに……」
「験担ぎみたいなものだよ。失敗したことを、ちゃんと成功させて打ち消しておきたい」
「……わかりました。でも、言葉だけじゃやです」
「うん、もちろん。とびきりの贈り物を用意するよ。だから、少しだけ待ってくれるかな」
「はい。もちろんです」
***
閑には必要なものがあった。
花園へ行く前になんとしても手に入れたかった。
それは学園内では手に入らない。
もちろん、この世間から隔離された学園からでも、望むのならば大抵の物は手に入る。
たとえ規則の上では禁止とされているものでも、《烏》である閑ならば手に入れられる。
けれども、普段使っているルートでは彼女の望むものは手に入らない。
普通の少女はそんなものを望まないから。
特別に注文しなくてはならないものを、まだ使われる前の少女たちは望まないから。
だからこそ、閑は連絡を取らなくてはならなかった。
だけど、それには手続きが必要で。
必要性がなくてはならなくて。
それがない閑は、教師を丸め込まなくてはいかなくて。
いくらその作業が慣れたものであっても、その手間がひどくもどかしい。
――満月は待ってはくれないから。
早く早くと急く心を落ち着けながら、手順を踏んでその部屋に入る。
そこは、およそあらゆるものが余裕ある作りになっている学園内で、唯一閉塞感を覚えるよう作られた部屋だった。
左右の壁も天井も、身を擦りそうなほどに余裕がなく、外を窺える窓には金属製の格子が嵌められている。
――この学園で、本当は何を育成してるかを語るような部屋。
そんなせせこましい空間の中に、ポツンと電話が置かれている。
今時珍しい黒電話だ。
何度来ても慣れる雰囲気ではないな、と閑は思いながら重いダイアルを回す。
幸い、通話先にはすぐに繋がった。
いくつかの言語が混じり合う雑踏の声が耳に飛び込んでくる。
「久しぶり、父さん」
背後の様子からするに相変わらず忙しいらしい。
『久しぶりだな。わざわざこっちにかけてくるとは何の用だ』
どこか不機嫌そうに娘に対応する父に、閑は笑いそうになってしまう。
小娘たちのお遊び用の窓口は用意してあるのに、自分が関わるのが煩わしいのか。
けれど、こちらとしては間に誰が挟まるかわからないあちらを使う気にはなれないのだ。
今回の買い物は、それだけ特別なものだから。
「買いたいものができたんです」
この話をするのに買う、などという言い回しは使いたくないが、父に話を通すにはこれが一番なのだ。
父の世界が事物の売買で出来ている以上、それ以外のワードを用いても、彼の心を動かすことはできない。
少し待っていると、ペン先の走る音と、受話器を深く掛け直す音が聞こえた。
話を聞く気になってくれたようだ。
『くだらん買い物なら切るぞ』
「そう急がないでください。……白鷺がほしくなったんです」
それが動物の話ではないことなど、あえて補足をつけるまでもなかった。
電話の向こうの父がため息をつくのがわかった。
『ずいぶんと大きくでたな。全盛期に比べれば安くなったとはいえ、そう安い買い物でもない。……ああ、お前の同学年にあそこの娘がいたな。話でも聞いたか?』
「その娘を買いたいんです」
兄弟に唾をつけるという話だと思っていたのか、予想を外れた返答に珍しく息を呑む音がした。
だが、それは実質的なカミングアウトに対するものではなく、ただ頭の中のそろばんを弾きながら出た吐息だ。まだ反対でも賛成でもない。ただの生理反応。
『勝算は? あそこの娘は見栄えがいい。多方面に買い手がいるぞ』
「ついてないなら直通を使わないよ。あの子は完全に味方だから、最悪家ごと暴落もさせられる」
その価値を下げてまで欲しいのだと、娘の口から出てきた言葉に、電話口の父が珍しく動揺したのを感じた。
「あの子と結ばれるなら、僕は何でもするよ」
閑の言葉に、深いため息が返ってきた。
安芸の家を支えてきた大商人は、迂闊な言葉で立場を危うくするものをたくさん見てきた。
だからこそ娘には、散々に何を言い、何を言わないかを説いてきた。
その娘が、あえて使った言葉だ。その重みを理解しないほど愚かではない。
『迂闊な言葉はお前を貧しくすると教えたはずだ。……だが、覚悟は伝わった。それで?』
「いわゆる予約金ってやつかな。彼女と僕に繋がりがある品が欲しい」
『いくら必要だ? その手のものはお前らのほうが詳しいものだろう』
珍しく父が明確なアドバイスを返してこなかった。
白鷺家の格から、相応しい職人の名前などが返ってくると思っていたのだが。
既に婚姻を終えた先人としてのアドバイスが欲しかったのだが……直接的に言った方がいいのかもしれない。
「……ごめんなさい。僕はまだそういうつもりがなかったから見識がないけど、指輪っていくらぐらいなの?」
今度は呆れた吐息が聞こえた。
その程度、調べておけとでも言いたげな気配だった。
『わかった。付き合いのある連中のカタログを手配しよう。金に糸目はつけなくていい』
「助かります。細かいところは櫛田さんに?」
『ああ。……それにしても、久しぶりわがままを言ったかと思ったら、ずいぶん高い買い物をねだるものだ』
「その分は回収しますよ」
『どうだか。唾だけつけて、逃げられることもあるだろう』
「そうならないように教育してくれたでしょうに」
『わからんぞ。金だけではどうにもならんことの筆頭だろう』
「それはそうですけど……」
親子揃ってため息が重なった。
その間隙にふと、心の中に浮かんできた言葉があった。
「……止めないんですか?」
『くだらんことを聞くな。お前は欲しいと思った、そのために必要なものがあるから俺に無心している。それだけだろう』
「言葉にするとそうなりますけど……」
『ならそれでしまいだろう』
随分とさっぱりした回答だなと思う。
女に懸想するような娘は使い道に困ると言われそうだと思っていたが。
『俺はろくにお前を育ててはいないが……お前をそこにやってるのはなんのためだ?』
唐突に何をいうのだろう。閑は少し考えて答える。
「ええと……将来のパイプのためですよね」
『そうだ。まあそこが選択肢に入ったのには、あれが行かせたがったというのが大きいが、拒まなかったのは将来的な稼ぎが大きくなるからだ。つまり……俺が言いたいことはわかるな?』
男を好きだろうと女を好きだろうと、家に稼ぎをもたらすなら同じだということ。
それは同時に、益をもたらさないならば、相手がどれだけ高く見えるものでも認めないということだ。
この男はそういう人間なのだ。
「ドライですね」
『そうでもない。そう見えるようにしているだけだ。この件について詳しい話は今度帰ったときに聞く。用意しておけ』
「はい」
唐突に耳から雑踏の音が消えた。
言葉もなしに電話を置いた父に、ため息を吐きながら部屋を出る。
そう長い会話をしていたわけではないが、ひどく疲れた。
それはやはり、好きな相手をもの扱いしたからだろうか。
それが彼女と共にいるためだとわかっていても、少し辛い。
だがこれで全てが済んだわけではない。
まだ爪先を掛けたくらい。
これからすることは多く、これ以上の苦難もあるだろう。
この程度でへこんでいては、陽子に横取りされかねない。
ふ、と一息ついて気合を入れなおした。
すべては幸福な未来のために。
***
気づけば、発注から一月経った。
届いた小さな箱を手に、閑は智恵理とあの日歩いた道を進んでいる。
あの日と同じようにこっそりと抜け出して、二人だけで晴れた夜の中を歩く。
けれど、頭上に輝くのはあの日と違う満月。
眠る花々の顔ぶれも変わっている。
同じものはどこにもない。
明月の微笑む中、智恵理の手を取り進む閑はどこか決然とした顔をしていて。
導かれるがままにされる智恵理は、この先に待つなにかに少し怯えるような顔をしていた。
その恐れが伝わっているのか、閑は時折握る手に力を込める。
大丈夫だよと声をかけるように。
そうやって歩いて、歩いて、歩いて。
また花園に辿り着く。
透き通った月光に照らされながら、密やかに咲く小さな花たちが二人を出迎えてくれた。
「綺麗だね」
「……そう、ですね」
呟きに答えた声は不安を滲ませている。
もう陽子は現れないはずなのに、いざとなると心の中で笑うあの女の影から逃れられない。
「そんな顔をしないで。微笑んでくれないかな」
「こう、ですか?」
「うん、可愛いよ」
少し唇を震わせながら、頬を持ち上げた智恵理へ閑はそう告げる。
不格好に歪んだその笑みは、美しいなんて呼べるものではなかったけれど。
閑にとっては十二分に愛らしかった。
「あの日、言えなかった言葉を言うよ」
少し開けた庭園の真ん中で、いびつに微笑む智恵理の前に閑は跪く。
流れるように、握る手の先へキスをして、懐から小さな箱を取り出した。
少し間の抜けた音ともに開くベルベットの箱の中、鎮座していたのは釣鐘型の小さなカゴだった。
美しいカラスがその持ち手で羽を休め、中にある宝物を守っている。
「それ、は?」
「君に持っていてほしいんだ」
言葉とともに差し出された箱から、智恵理は恐る恐るカゴを摘み上げた。
銀色のチェーンとカゴの中身が、月光を照り返す。
「指輪?」
小さなカゴの中には、シンプルなデザインの指輪が二つ、止まり木のように収められている。
その内側には二人の名前と、誕生石があしらわれていた。
「素直に渡せればよかったんだけど……」
少し照れるように言いながら、閑はもう一度指先にキスをする。
「好きだよ、智恵理。君と一緒に生きていたいと思ってる」
「気取ったやり方ですね」
「うん、少し演出過剰かなとは思うよ。父にも呆れられた」
素直に渡してアピールに使えばいいものをと。
けれど、まだ智恵理と生きるには自分はあまりにも弱くて。
愛していると、共にいたいと、そう告げるには幼すぎる。
「だけどね、僕はまだ子供なんだ。君を誰かから守れない。君を迎えに行くための服もない」
「別に私は貧しい暮らしでもいいですよ?」
「そんな真似、あの人は許してくれないよ」
見下すような陽子の顔が二人の脳裏に浮かぶ。
そんなことになればまず間違いなく、あの女は二人を引き裂きに来るだろう。
愛さえあれば、など、富んでいるから言える言葉だ。
「……そう、ですね。きっと、あなたと離されてしまう」
「うん。だからね、先に気持ちだけを渡しておくことにしたんだ」
「それが」
これ?と問うように智恵理がカゴを揺らした。
鎮座する二つの指輪が、きらりと月光を照り返した。
「そこに僕の心を置いていくよ。君を迎えにいくその日まで、預かっていてくれないかな?」
赦しを請うように見上げる閑に、智恵理はくすりと破顔した。
「……はい」
その答えに閑は喜びを抑えながら立ち上がり、柔らかく智恵理を抱きしめる。
「好きだ。好きだよ。待たせてごめん。だけど、すぐ行くから、待っててほしい」
「私も、私もです。好きです、閑。でも、そんなに長くは待てませんから」
うん、と言葉をこぼしながら閑は智恵理の顎を持ち上げる。
智恵理がゆっくりと目を閉じて、閑の唇を待っている。
閑はそんな彼女の顔を見つめながら、まるで初めて口づけをするように怯えながらキスをした。
ただ重ねるだけのそれを、長く長く、離れたくないと言うように続けて。
やがて、どちらともなく離れた。
「じゃあ、つけてください」
「うん」
閑は智恵理の手のひらからカゴを受け取って、慎重に彼女の首へとつける。
「……綺麗だ」
「ありがとうございます。大事にしますね」
「うん、そうしてくれると嬉しい」
そうして大切な約束をして。
二人は空を見上げる。
何物にも縛られない月が輝くのを目に焼きながら。
そして、
そして、
▽▽▽
長い、長い時間が過ぎた。
少女たちは皆、立派な女性となった。
あるものは再び女王の座に就き、あるものは悪名高き商人と化した。
忠犬はその牙をより鋭く磨き、カゴの中の鳥は、今もまだ誰の手にもわたっていなかった。
そして、カゴの開く日が来る。
太陽が輝く中、花々が咲き乱れる花園に、あの夜の四人が集まっていった。
スカートなんて卒業以来履いていなかった閑は、スーツスタイルでいいと言ったのだが、智恵理がごねにごねて二人でドレスということになった。
参列者兼立会人の陽子はシンプルな赤いドレス。
お姉さまは圧が強いので控えめにしてください、と智恵理がリクエストしたのを堂々無視した形だ。
主役を食いかねない美しさを放っているのは、精一杯の嫌がらせだろうか。
そんな彼女の護衛としてついてきたさくらは、唯一のスーツスタイル。
学生時代と変わらぬポニーテールが、刃のように周囲を圧してくる。
閑も智恵理も、散々に修羅場をくぐってきた。それは陽子やさくらも同じだ。そんな彼女たちを見守る中、かちり、と音がして、しまわれていた指輪が取り出される。
窮屈な籠の中から、広い広い空の下へと。
まるで二人の未来を示すように。
「落とさないでくださいね」
「うん、気をつけるよ……まったく、昔の僕はどうしてこんな仕掛けにしたんだろうね」
カゴの中に二指を入れ、一つ、また一つと指輪を取り出して、さくらの持つリングピローの上に並べていく。
名前と、誕生石があしらわれた特注品の指輪だ。
当時は結婚指輪にまではするつもりはなかったけれど、改めて結婚指輪を探す段になってこれがいいと智恵理に言われたのだ。
『これがあるから、ずっと待っていられたの』と、嬉しそうに鳥かごを持ち上げられては、頷くしかなかった。
そんな思い出深い指輪を、智恵理の指へ通すのだ。自分のものより細い手を取って、薬指に通していく。
「あっさり入りましたね」
「変わらなかったんだね」
くすり、笑い合いながら今度は同じように。
指輪を取った智恵理が、薬指へ指輪をはめてくれる。
あの頃より細くなったのか、指輪は収まりが悪かった。
「……しまらないなあ」
「それだけがんばったってことじゃないですか?」
「かもね」
二人して笑いあっていると、小さくため息が聞こえた。
「ベラベラ喋ってないでこっちを早く見なさい」
指輪交換に付き合ってくれている陽子が呆れた顔をしていた。
「まったく、そんなんで大丈夫なのかしら」
「そのために頑張ってきたので」
「燃え尽き症候群なんてダメよ。これからの方が長いんだし、ようやく軌道に乗ってきたビジネスのパートナーに倒れてもらっちゃ困るのよ。智恵理も、ちゃんと支えてあげなさいな」
「はい、お姉さま」
「本当にわかってるのかしらね」
文句を言いながら、陽子がペンを差し出す。
まずは閑が受け取って、それから智恵理が受け取って、二人でサインをする。
「はい。誓いました。誓いました。二人はこれで結ばれました。……なんて、私ができるのは真似事だけど、これでよかったの?」
「そうしたかったらしいので」
「こうでもしないとお姉さま諦めないでしょう?」
婚姻の立会人にさせることで諦めさせようということらしい。
「悪趣味だこと。それに、こうしたって諦めるとは限らないけど」
「今度こそ諦めてくれると助かるんですが」
「あら、女王様は欲張りなのよ」
ふ、と笑った陽子の手には指輪がある。
その相手は、なんと隣にいるさくらだ。
さくらが学園を卒業するなりさっさと捕まえたかと思えば、自分も事業を立ち上げて、こちらに圧をかけ続けてきた。
当時、どう安芸の事業を大きくすればいいかと考えていた中で呼びだされた結婚式で、ブーケを智恵理に投げつけて「早くなさい」と圧をかけられたのも、こうなった今ではいい思い出かもしれない。
「まあ、区切りにはなるわね」
そんなことを言いながらも付き合ってくれるあたり、学生時代よりは丸くなったのだろうか。
時にくじけそうになる閑の背を蹴飛ばして喝を入れたのは陽子なので、色々と思うところもあるのだろう。
「それじゃあお邪魔虫は一旦退散するわ。あとは好きになさいよ。それと、気を抜いたらいつでもかっさらいにくるから覚悟してなさい。智恵理も、嫌になったらいつでも逃げてきなさいな」
ふん、と最後に鼻を鳴らしながら気の抜けないことを告げて、陽子は去っていく。
その目尻が赤くなっていたのは見間違いではあるまい。またこっそりと泣くのだろう。
「お二人とも、お幸せに!」
指輪を持っていてくれたさくらは、もう顔を真っ赤にして泣いていて、祝福を叫ぶなり主人のあとを追って去っていった。
「まったく、最後まで気の抜けない人だ」
「でも、忙しい中付き合ってくれましたから」
「あれを言うためだけに付き合ったんじゃないかな」
「まだ終わってないのに逃げるあたりそうかもしれませんね……」
変わらないな、と二人して笑いあう。
そうしてひとしきり笑うと、智恵理は優しい顔をして閑の薬指を撫でた。
「色々、大変でしたね」
「ダメなんじゃないかって、何回も思ったよ」
その度に踏ん張って耐えた。智恵理が待っていてくれるのを知っていたから。
「ふふ。父から話を聞かされた時はダメだったのかなって思いました。ひどく嫌そうな顔をしていましたから」
「まあ……色々やったからね」
いったいどれだけ悪し様に言われているのだろう。
言われるだけのことをやってきた自覚はあるけれども。
「本当に怖かったんですよ? けれど、それがあなただとわかって、私が喜んでからは父も喜んでくれましたから」
一途な思いを貫き通したといえば聞こえはいいが、やったことがやったことなので感情が好転したわけではないんのだろうなと閑は思った。
「……やっぱり、父のこと気になります?」
おずおずと訊ねてきた智恵理に首を振る。
それでもいいと、あらゆることをしてきたから今日この瞬間があるのだから。
「君といられるようになったってことの方が嬉しいし、大切だから」
「そうですか……」
言葉に、智恵理は満面の笑みを浮かべてくれた。
「じゃあ、離されないように気をつけましょうね」
「うん」
これまでの苦労を思い出しながら、二人はキスをする。
「……愛してるよ、智恵理」
「私も、愛してます。閑」
たしかめるように愛の言葉を重ね合わせ、手を繋ぎながら彼方を見る。
もうカゴは閉じていない。
舞う風のように、二人はどこへだって行ける。
そんな二人を祝福するようにぼうと汽笛の音がした。
出港を告げるその音色とともに、二人は歩き出す。
約束の道の、その先へと。
君と歩む、約束の小径 佐々森渓 @K_ssmor
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます