第9話
さくらに連れられて地下へと降りる。
清掃の行き届いた地下階は、他の階とそう作りは違わなかった。
ただ他の階ほど豪奢な照明がなく、簡素な照明が壁際に並んでいた。
その薄明りの下、二人の影が長く伸びている。
ひりつくほどに静まり返った中、二人は脇目も振らず進んでいく。
ワインセラーから陽子を追いかけた範囲以外地図でしか知らない閑と違って、日頃通っているからか、さくらは慣れた様子だった。
これから彼女は一世一代の反逆をするというのに、実に落ち着いたものだった。
「君は本当にいいのかい」
さくらのあまりの変化のなさについ訊ねてしまう。
「手を出さないならそれに越したことはない。だが、何事も起こりというものがある。その最初を見逃すというだけだ」
その気になれば、その起こりのタイミングでも制圧できるだろうに。
さくらも一度決めたら動かない人間なのだろう。
まったく強情な人間ばかりが揃ったものだった。
だからこそ、女王の名を冠するソサエティで、派閥の長を務められるのかもしれないが。
会話はそこで途切れて、また足音だけが響くようになる。
そうしてしばらく歩くと、さくらが歩みを止めた。
なんの変哲も無い壁に見えるが、隠し階段と同じように、わかるものにしかわからない仕掛けがあるのだろう。
それを探すようにさくらが壁に指を這わせる。
目印を見つけたのか、コンコンコンと三度のノックが響く。
間取り図に書かれていた通り、隠し階段と同じ仕掛けだ。
壁の一部が内側に開いて、真っ暗な通路が現れる。
「ここが?」
「そうだ」
にわかに湧き上がる緊張を押し殺しながら、閑は暗闇へと踏み出す。
「少し進めば扉がある。あとは私たちの居室と同じだ」
まるで一人で行けと言われているような言葉に、閑かは疑問を抱いた。
「……ついてこないのか?」
当然、部屋の中で侍っているのだとばかり思っていた。だから、見逃すと言ったのだと。
「お姉さまが呼んだのは君だけだ。私は帰るよ」
「なるほどね……」
そう言い含められていたなら、見逃すも何もないだろう。
仲間意識を持って損をした気分だった。
「もしも、僕がお姉さまに危害を加えでもしたらどうするの?」
「あの方は、それも運命だというだろう。まあ、基本的な護身術はお教えしたから、本気なら舐めてかからない方がいいとは言っておく」
窘めたいのか、けしかけているのか、まったくわからない発言だった。
それだけ、さくらも智恵理への仕打ちは思うところがあるのだろう。
「じゃ、行ってくるよ」
「なるべく穏便にな。扉は閉めてくれると助かる」
その言葉が少し引っかかった。
どちらが閉めようが、時間的には大差ないはずだ。
このあと急ぎの用事でもあるのだろうか?
それに、少し声が硬かった気がする……。
さくらが陽子以外に緊張するような相手なんて、いるんだろうか?
だが、それがなんであれ、閑には関係ないだろう。疑問に思いながらも扉を閉めた。
闇に閉ざされた視界の中、意識を切り替えて足を踏み出した。
たぶんきっと少し探ればここの灯りもつけられるのだろうけど、今はそんな時間すら惜しくて歩を進めた。
暗闇の中に自分の足音だけが響く。
視界もほとんどないせいで、鼓動の音が聞こえてくるような気がした。
闇の中に浮かぶ二つの音を聞いていると、この先に部屋なんてないんじゃないかという疑念が湧いてくる。
さくらは協力するフリをして、自分を殺そうとしているのではないのかと。
間取り図で確認した以上、それは単なる疑心暗鬼でしかないとわかっている。
だからきっと、ここはそういう疑念を抱かせるための空間なのだろうなと思った。
陽子の暮らす部屋は隠された部屋なのだから、悪意を持った者の心を折るための仕掛けがあっても不思議ではない。
そんな仕掛けがどうしてとも思うけれど……そんなことは今はどうでもいい。
今考えるべきは智恵理のことだ。
あの子のために、ここにきた。
だから、それ以外はどうでもいい。
結論を得るのと同時、探るように出していた片足がなにかに触れた。
さくらの言を信じるならば、陽子のいる部屋の扉だ。
ふ、と一つ息を吐いて呼吸を整える。
ノックなんて丁寧なことはしない。
ドアノブを探して、手に当たったそれを捻って、開けた。
――溢れかえる光。
眩しさに目を細めながら前を見れば、少し広い部屋の中、純白のネグリジェ姿の陽子がこちらを見ながら微笑んでいた。
いくつものレースで彩られた薄絹のネグリジェを陽子が着ていると、まるで絵本の中から飛び出してきたお姫様のようだった。
あるいは、大理石から神秘の幻想美を削りだした名工の作品かとも。
本当に腹がたつくらいに美しい少女だった。
けれど、その心は作りもののように綺麗ではなく、色濃い執着心を持つものであると、閑はすでに知っている。
「秘密の部屋へようこそ。安芸さん」
それにしても立ち位置といい、まるで自分が現れるのを知っていたようだ。
「どうして、って顔ね」
疑問が顔に出ていたのか、面白そうな声で言葉を投げかけられる。
少し考えれば、答えはすぐにわかった。
「仕掛けか」
匿うための場所なのだから、隠し扉が開いたことを知らせる仕組みくらいあるだろう。
「正解。超能力とか言い出したらどうしようかと思ったわ」
「僕がそう思っても不思議ではないことを、あなたはしたように思うけどね」
「あはは、そうね。でも、この前は本当にたまたまよ。場所と時間の予想は立てていたけど、間に合うかどうかは私の外側だもの」
「……自白してくれて助かるよ」
さくらから聞いてはいたが、本人の口から意図的だったことが聞けたのは大きい。
閑の反応に陽子は楽しそうに口を歪めると、席に座るよう促した。
「あちらへどうぞ。立ち話も疲れるだけでしょう? 私を殴るなりして立ち去りたいならそれでもいいけれど」
「お言葉に甘えさせてもらうよ」
促されるまま席に着くと、陽子は回り込むようにしてその対面へ移動する。
ネグリジェの裾が翻らないような小さな歩幅でありながら、軽やかで柔らかな歩み。
腰を下ろす時にはネグリジェに空気を含ませて、ふんわりと膨らませながら座る。
小さな体に似合う、実に可愛らしい動きだ。
何も知らずに目にしたなら、きっと虜になっただろう。
だが、閑の心はすでに智恵理で満たされていた。
だから、陽子の動きを見ても、どこか智恵理の動きを思い出してしまう。
もしかしたら、彼女の丁寧な所作は、陽子に仕込まれたものかもしれないと思った。
「王子様から見て、私の動きはどう?」
「実に愛らしいと思うよ。きっとみんな好きな動きだ」
「そう。あなたも、十分スマートで羨ましいわ」
「ふん……」
身構えて鼻を鳴らした閑に対して、陽子は思わず見惚れそうになるくらいの、甘やかな笑顔を浮かべた。
しっかりと相手の目を覗き込みながらの微笑は、人を恋に落とす魔法と言っても過言ではないだろう。
並大抵の人間なら、陽子が自分を好きに違いないと勘違いして、彼女のことを好きになってしまう。
そういう魔性の笑顔だった。
だが、智恵理の笑顔を思い出せば、惑わされることもない。
陽子がどれほど美しくても、恋の力には敵わない。
閑に笑顔が通じなかったのが気に食わんかったのか、陽子は小さく肩を揺らした。
「大体はこうして微笑むと照れ顔でも返してくれるんだけれど……あなたは本当に私と戦う気なのね」
「戦うというのは大袈裟だろうけど、あなたに文句を言いに来たのは事実だよ」
「ふふ、面白い子ね。あなたがあの子の隣にいて、ありがたいことだわ」
そうこぼす陽子は、妹のことを本心から思う姉のように見えた。
わざわざ逢引を引き裂きに来る性格の悪い女には見えない。
「ならどうして引き裂こうとする?」
「それだけじゃダメだから」
「それを決めるのは僕らじゃないだろう」
それを決めるのは智恵理だ。
「そうね。それはある意味では正しい。《烏》なんてやってるんだからわかってるでしょうに」
陽子が付け足した言葉によって一気に視座が広がった。
たしかにそれが言えるのは、この島にいる間だけだ。
学園を卒業してしまえば、閑も智恵理も選ぶことなどできはしない。
二人とも家の事情に流されるだけの小娘なのだから。
しかし、だからと言って、智恵理を傷つけてまでする必要があるとは思えない。
「……ねえ、あなたは星は好き?」
「突然何を?」
「いいから答えて」
あまりの話題の急転換に頭がついていかない。
だが、陽子にとっては必要なことなのだろう。
「……まあ、人並みに名前を挙げられるくらいには興味はあるけれども」
有名どころの名前と伝承を会話のタネにするくらいはできる。
しかし、その答えはお気に召さなかったらしい。
陽子は言葉を続けた。
「じゃあ、子供の頃に星を手に入れたいと思ったことは?」
「何度かあったと思うよ。それで?」
「私も昔は好きだったわ。キラキラして、綺麗で。だけど、知ってるでしょう? 大体の星は自ら輝くことができないほど小さくて、軽くて。誰かがいなくては、光ることなんてできない。輝きの周りをさまようだけ」
「それは天文学の話だろう。僕らが小さい頃欲しかった、キラキラしたものの話じゃない」
手に入れたかったのは幻想の星だ。
夜空にキラキラと輝き、時に降り注ぐものが本当は何かなんて知らなかったから、欲しがっただけのもの。
そんなものはどこにもないのだと、いつかは知るものでしかない。
「ええ、そうね。これは天文学の話かもしれないわ。じゃか、夜空の星を地上に下ろしてみるとどうなるかしら? 自ずから輝き、人々を惹きつけてやまぬもの。……たとえばそう、アイドルとか、カリスマ。そんな風に呼ぶでしょう? ここではそういう人たちのところに集う者たちを、ソサエティなんて呼ぶわね」
この女は何が言いたいのか。
たとえているなら何が繋がっているのか。
恒星と惑星。
アイドルとファン。
女王とソサエティ。
「……自分は太陽だって?」
「ええ、そう呼ぶこともできるわね」
「随分と自信のあることで。それで、そんな輝かしい君がどうして智恵理に執着するんだい?」
智恵理は女王のように、誰もの目を焼く存在ではない。
だけど、閑にとっては何より大切な相手だし、彼女を慕って派閥に集う者たちもいる。
自分たちにとっては、彼女の笑顔は太陽よりも輝いている。
そんな閑の思考を読んだかのように、なにがおかしいのか、陽子はくすくすと笑い出した。
「太陽のような恒星だって、何かに引かれて落ちている。知ってるでしょう?」
問いの答えはすぐに浮かんだ。
誰でも知っている、天文学の話。
たとえ話にしても、実に馬鹿げた話だ。
「あの子が君よりも魅力的だって言いたいのか」
「信じられないって顔ね」
「ああ。だってもしそうなら、女王国は割れてないだろう」
たしかに智恵理は愛らしい。
けれど、背筋の凍りそうなほどの病的な美しさはない。
一つの派閥をまとめているけれど、見たものの感情を否応なしに揺り起こし、好感か嫌悪かを湧きたたせるほどの魅力はない。
智恵理は少しだけ影のある、どこにでもいる少女だ。
目の前の魔女とは違う。
ただの女の子で、閑が初めて好きになった特別な人。
閑の言葉に、陽子は楽しそうに笑う。
「ふふ、そうね。そうなっていたかもしれない」
含みのある言い方だった。
そうなるはずの道を潰したとでも言いたげな、悪い笑み。
「君は智恵理に何をしたんだ?」
「私は、何も。ただ、いなくなっていないか時折確認しに行っただけよ」
それは智恵理自身が話していたことだ。
だが、女王がそんな真似をすれば、周囲は簡単に誤解してくれる。
「君は自分がそんな振る舞いをすれば、どうなるかわかっていたんじゃないのか」
実際、対外的にも寵愛を受けたと認識されているのだから、内部でどれだけの感情が渦巻いていたのかわからない。
当然、智恵理は嫌がらせを受けたりもしたのだろう。
当人はそんなことを全く感じさせない語りをしていたから、なかったものだとばかり思い込んでいたが。
「どうかしらね。五年も前のことよ。まだ中等部の私はわかってなかったのかもしれない。あるいは、甘く見ていたか。
でもね、あの子が今みたいになったのは、私のせいじゃないわ」
「言い逃れじゃなくて?」
「そうだったらあなたも責めやすかったでしょうね。そもそも、私はあの子を守ろうとしたのよ? あの子に手を出そうとする子を追放したり痛めつけたりするの、大変だったんだから」
過去の重労働を思い出して嫌な気分になったのか、陽子は深くため息をついた。
智恵理が言っていた、時折本人を追放していたというのはこのことなのだろう。
嫌がらせをしてきた相手が追放されたのなら喜びもしそうだが、智恵理の語り口にはそんなものはカケラもなかった。
それだけ陽子が頑張っていたということなのか、智恵理にとっては嫌がらせだと感じない程度でしかなかったのか。
あるいは、無意識下で、陽子の行動が自分を守るためのものだと理解していたのかもしれない。
いずれにせよ……。
「なら、どうして見に行ったんだい。君がそれをやめれば、周りも嫌がらせをやめただろうに」
閑の問いに、陽子は少しだけ沈黙した。
その間の彼女は、ひどく嫌なものを思い出すように、倦み疲れた表情を浮かべていた。
付き合いだした頃に智恵理が話してくれた、倦んだ顔だ。
「……知ってるだろうけど、あの子は部屋にものを増やしたがらないわ。まるで、いつでも別のところへ飛んでいけるようにしてるみたいに」
「あれは育ちなんだろうね」
「なんでしょうね。だから、もしかしたら女王国もやめて、ある日突然学園からいなくなるんじゃないかって思ったのよ」
そう言った陽子の目はくたびれたものだった。あの月夜でも煌めく雲色はどこにもなく、どんよりとした曇天の色がそこにはあった。
「あなたは、そんなふうに思ったことはない?」
「……あるよ」
中庭に呼び出されたあの日、どうしようもない恐怖を感じたことを覚えている。
陽子はあの感情を知っているのだ。
目の色が曇るほどに、ふとした瞬間に思い出しては苦しんできた。
だから、倦んだ顔になるくらい、地平線の星を確認しに来ていた。
智恵理がまだそこにいると確かめるために。
そうしてしまう気持ちを、今の閑は痛いほどに理解できる。だって、それを避けるために陽子と話し合いにきたのだから。
「なるほどね。……なんだ、真っ当に好きなんじゃないか」
「そうよ? だからこそ、後からポッと出のあなたに取られるのは気に入らないし、ちゃんと価値を知って欲しかった」
「それは姉心……ではないね」
それは明確に、恋をした人の言葉だ。
「無粋なことをいうのね。仕事以外では王子様らしさはなし?」
「僕と君は敵のようなものだろう」
「あら、敵対していたってスマートさは必要でしょう? それとも悪罵を塗りつけるのがお好み?」
「ごめんだね」
「ふふ、私もよ。……さて、私の話したいことはこれで全部。ねえ、安芸さん、あなたはあの子の居場所になれるの?」
すっ、と目を細めて陽子が問う。
「いずれ使われるだけのあなたが、手綱を渡されてすらいないあなたが、あの子の拠り所になれて?」
それは島の外の話だ。
本当ならまだ考える必要のない、大人の世界の話。
だが、そのことを陽子に問われた閑の胸中では、嵐が吹き荒れていた。
その問いに頷くことはできないからだ。
自分にはまだ智絵里を守る力はない。
どれだけ賢しらに振る舞おうとも、それは箱庭を世界の全てだと思っているだけの子供でしかない。
「あえて問うよ。君ならなれる、と?」
だからあなたなら出来るのかと問い返した。
陽子は力強く頷いた。
疲れ果てていたその瞳に、旭日のような光が煌めく。
「ええ。そのための準備をしてきたわ。きっと、私はそう長くは生きられないでしょうけど、生きている間はあの子を守ってあげることができる。あなたと違って、ね」
全身が宝玉のような少女。
きっと彼女はオスカー・ワイルドの『幸福な王子』のように、全てを売り払って己の宝物を守るための取引をしたのだ。
随分と自信のある言葉だけど……。
「その守るっているのは、ここにでも閉じ込めてって?」
一人用には少し広い部屋の中を眺める。
寮の他の部屋とは違う、続き間も備えた快適な部屋。
たぶんきっと、この部屋は陽子のような、特別美しい少女を匿うためのものだったのだろう。
あるいは、この島そのものが、愛する女を守るための巨大なカゴなのかもしれないけれど……。
「そんなの、今の生活と何が違うの」
本人が望むのなら、この島で楽しく暮らすのは簡単だろう。
少し流行には遅れるけれど、欲しいものは取り寄せることができるし、食事や掃除は他人が全てやってくれる。
生涯続くモラトリアム。
だけど智恵理はそれを望むのだろうか。
「じゃああなたは守れるの? あんなにも可愛くて魅力的なあの子を売り飛ばされないようにして、繋がりのためだけに食い散らかされないようにできるって?」
叩きつけるような荒々しい語気とともに、陽子の眼光が閑を射抜く。
数歩先をいく女からすれば、閑は理想を捏ね回すだけの子供でしかない。
「出来ないだろうね。僕の家はそんなに大きくないし、もしそれが叶うほど大きかったとしても、僕は女だから」
本当の意味で智恵理をつなぎとめることは出来ない。
少なくとも、今はまだ。
けれど、明日は違うだろう。
「だったらここにいた方がいいじゃない! そうすれば安全で……」
「ねえ芝さん、気づいてるかな。それはあの子を食い物にする人たちと同じ考え方だよ」
「ッ……!」
閑の言葉に、陽子の顔が真っ青に染まる。
一方的な都合で智恵理の自由を奪うなら、それは陽子の唾棄する相手と同じなのだ。
たとえそれが、どれだけ智恵理のことを考えたものだとしても。
愛はあらゆる行為を許す免罪符ではない。
愛があろうとなかろうと、行為の是非は、受け手の想い次第なのだ。
「だから、それを決めるのは僕らじゃない」
閑が祈るように呟くと同時、部屋の中にがらがらとなにかの巻かれる音がした。
「あなた、まさか」
「僕は何もしてない。選ぶのは智恵理なんだよ」
誰かの訪問に狼狽える陽子に、閑は淡々とそう返す。
あくまでも、閑はここにくることを告げただけだ。
どうするかを決めたのは彼女。
「まてまてそう急ぐなよ智恵理」
「閑!」
そうして、本当はここにいなくてはいけない人物が、ようやく現れた。
乱入してきた智恵理は交互に二人を見た。
片やいつも通り、片や珍しく不安を露わにした表情を見て、智恵理はなにか納得したようだった。
それから一つホッとしたような息を吐いて、一歩、歩き始める。
「お久しぶりですお姉様」
「この前会ったばかりじゃない」
「はい。けれど、アレからずいぶん経ちましたから。いつだって、あなたは突然現れるんですね」
ゆっくりと歩きながら、智恵理は閑を背に隠すようにして陽子の前に立った。
それは彼女なりの敵対表明だったのだろうか。
「ところでお二人はなんの話を? ビジネスの話ですか」
決然とした言葉。
智恵理の肩越しに陽子を見れば、どこか諦めたような目をしていた。
表情こそ常日頃浮かべている悠然としたものだったが、その瞳に秘めた感情までは隠しきれない。
話してもいいということだろう。
閑は口を開く。
「君のことを話していたよ」
「大したことではないわ」
補うように言葉を繋げた陽子は、己の恋心を隠したかったのだろうか。
二人の言葉を聞いた智恵理は、ひどく不思議そうな顔をした。
「あら、どうして私のことを?」
「姉として、あなたのパートナーの安芸さんに昔のあなたについて話していたのよ。お返しに、最近のあなたについて聞いたりね。そんなにおかしいかしら?」
全てが嘘というわけではない。
智恵理について話していたのは事実だ。
けれも、そんな言葉では智恵理を誤魔化すことはできない。
「……嘘ですね? どちらが、までかはわかりませんけど……お姉様は嘘をついています」
「面白いことを言うのね。どうしてこんなことで嘘をつかなくてはいけないのかしら。姉が久しぶりに会った妹について友人に様子を聞く……おかしなところがあって?」
言葉に、智恵理は首を振った。
「普通の方であればおかしくはないでしょう。変化のあったとき、本人からは語らないこともありますから。特に色恋沙汰が混じるのなら、なおのことでしょう」
智恵理のいうように、普通の姉妹ならばそうおかしなことではない。
だが、ここにいるのは普通の姉妹ではなく、その姉も真っ当な人ではない。
「けれど、そもそもがおかしいのです。あの日、お姉さまは閑を誘いました。私を変えた閑のことが知りたいと。なのにどうして私の話をしているのでしょうか」
「何事にも流れというものがあるでしょう。共通の話題から入るのは当然ではなくて?」
「一理ありますね。ですがやはりそれも普通の人ならば、という冠のつく話です。あなたはそんなことを気にしない。私ではなく閑に興味を持ったのなら、閑自身に関連深い話をするでしょう。……それこそ、ビジネスの話とか」
陽子の悠然とした顔が引きつった。
閑が商家出身だというのは、当然陽子は知っていただろう。
なにせ、合言葉を知っていたくらいだ。それ以上のことを知っていても不思議ではない。
だから、閑を知ろうと会話を掘り下げていくのなら、智恵理のことを話題に出す必要はないし、最近の様子を聞く必要もない。
なのに二人が答えたのは自分のことだった。
あの陽子が、わざわざ大したことではないと、内容を補ってまでそう答えた。
多少なりとも頭が回るなら、疑って当然だ。
「それに部屋に入った時、お姉さまは珍しく慌てた様子をしていました。もし、閑の話をしていて、閑にとって魅力的な話題を出して、閑があなたになびいていたのなら、焦るのはお姉さまではなく閑のはずです」
あの一瞥で、智恵理はそこまで確信していたのだ。
伊達に派閥の長はしていないということだろう。
「ならば、していたのは私に知られたくない私の話だったのではないですか。いいえ、私と絡めたお姉さま方の話というべきでしょうか?」
ちらり、振り返りつつ智恵理はそう言い放つ。
彼女の予想は何もかもが正しかった。
まるでその場で聞いていたかのよう。
閑も陽子も、何も言葉を挟めなかった。
それを肯定と見て、彼女は言葉を続ける。
「なんとなく、何を話していたかはわかります。……私には実感がありません。色々なことを知った今なお、私があなたに寵愛を受けていたということはよくわかりません。けれども、私よりも愛を知っている人たちがそう判断したのなら、きっとそれは正しいのでしょう」
智恵理は何を言おうとしているのだろう。
どうにもこの姉妹は迂遠な言い回しを使いたがる。
閑はただ、姉へと立ち向かう彼女を見つめていた。
「ならば、いいえ、だからこそ、私は言わないといけません。私を好きになってくれてありがとうございますと。そして、あなたの行動はありがた迷惑ですと」
「ありがた迷惑……面白いことを言うのね」
半笑いで逃れようとする陽子を智恵理は逃さない。
どこまでも淡々に彼女は攻撃を続ける。
「お姉さまが急に戻ってきたことも、あの瞬間に声をかけたことも、今こうして閑と話し合ったことも、全部そこからきているのですよね。だから私たちの邪魔をする」
「まったく何を言うかと思えば。邪魔をしてるだなんて、それがあの日、あなたたちに話しかけたことを言ってるなら間が悪かっただけよ。もし仮に意図的だったとして、私が声をかけたくらいで関係が崩れたのはあなたたちの問題でしょう」
それについては、既に意図的だったと認めている。
いいや、智恵理はそれを知らないから仮定の話で逃れようとしているのだろうが……。
それにしても、関係が崩れたことを批判されると耳が痛いと閑は思った。
たしかにそれは陽子のせいではないからだ。
「ええ、たしかに、その点に関してはお姉さまを批判できません。私の心が弱かったせいです」
「違うよ。あれは僕が」
閑の言葉に、わかっているというように智恵理は手を上げて制する。
「その話は後にしましょう。閑」
「……そうだね」
今はノイズを挟み込むべきではない。
閑の同意を得て、こくりと頷いた智恵理は、改めて陽子を見つめる。
「こういう風に、私たちはすぐ心を乱してしまいます。たしかに、それはお姉さまのせいではありません。けれど、そうなるよう誘導したんですよね」
「へえ。あなたたちのコミュニケーション不足を私に転嫁するつもり?」
「いいえ。私が言いたいのは、お姉さまはそこが弱点かもしれないと意図的に刺激したということです。本当に間が悪いと思っていたのなら、あんなにも広長舌を披露せずに素直に引いたでしょう。お姉さまはそういう振る舞いができる方です」
「なるほど、そういう点から意図的に崩しにきたと思ったのね。……だから? それが姉心かもしれないでしょうに」
「世間でいう姉は妹の恋人の体までチェックするものではないでしょう。仮にそうだとしても、あんな風に見せびらかすように合言葉を言い放ったりはしない。もっと密やかに行うはずです」
そんなことが明らかになれば、普通は嫌悪を向けられるからだ。
破局でも望んでいない限り、真っ向から誘惑する意味などない。
試しているのだとしても、あまりに性格が悪い。
「……そうまでする理由が私にはわかりませんでした。いいえ、今ならわかります」
「あなた……」
陽子は息を飲んだ。
いくらでも反論を突きつけてきそうな舌は止まってしまった。
智恵理が今、いまだかつてないほど柔らかな笑みを浮かべているのが、背後にいる閑にはわからない。
だから、なにか陽子が驚くような顔をしているということしかわからなかった。
「そう。そこまでなのね」
「はい。お姉さまが引き下がらないのであれば、もっと大胆なこともできますけど」
智恵理の言葉に、陽子は大きく息を吐いた。
閑にはわからなかったが、顔を見ている陽子には彼女がなにをしようとしているのかわかっているのだろう。
「やめなさいやめなさい。そんなはしたない真似」
呆れた風に制止する陽子の顔には、苦い表情が浮かんでいた。
おかげで、なにをしようとしていたのか閑にもわかった。
どうやら陽子は、智恵理ほどは恥の感覚が外れていないらしい。
その辺りの感覚は自分と一緒なのかと奇妙な親近感を得てしまった。
もしかすると、仲良くなれるのかもしれない。
「……わかったわ。今のところはちょっかいを出すのはやめてあげる」
「今後一生、ではなく?」
「それはあなたたち次第よ。せいぜい私に横槍を入れられないように仲睦まじくなるのね」
陽子はまた深く息を吐いて、しっしと追い払うように手を振る。
「話はこれで終わりでいいわね。私にもすることがあるの。出て行ってちょうだい」
「……わかりました。閑もそれでいいですか」
問いかけに、少し陽子の顔を見た。
何かを堪えるように頬を震わせる彼女を、見ていてはいけない気がした。
「うん、行こう」
「では、またいつかお会いしましょう。お元気で」
「ええ」
「失礼します」
そうして閑は智恵理とともに陽子の部屋を後にする。
去り際、ずっと無言でいたさくらが、陽子へと駆け寄っていくのが見えた。
小さな彼女に抱き締められる陽子は、年相応に小さく見えて。
扉が閉まるまでのほんの少しの時間、すすり泣きが聞こえたのは気のせいではなかっただろう。
***
秘密の部屋を出て、ただ無言で閑は智恵理の後を追った。
先を行く智恵理の背中には不機嫌さが滲んでいる。
陽子をうまくやりこめたのだから、達成感があっても良さそうなものだが、彼女にとっては喜びに繋がるようなものではなかったのだろう。
そうしていくつも階段を登りきり、二人は見慣れた智恵理の部屋に戻ってきた。
部屋の中では、唯一持ち込まれた椅子が入り口を向いて置かれていた。
まるで誰かを待っているかのように。
「閑」
「は、はい」
名前を呼ぶ声があまりにも厳しかったものだから、閑は背筋を伸ばして答えてしまう。
「そこに座ってください」
「う、うん」
智恵理がどんな顔をしているのか恐ろしくて見られないまま、言われた通りに腰を下ろした。
途端、椅子ごと倒れそうになる衝撃と、智恵理の匂いが鼻腔を埋め尽くした。
「……心配、しました」
「ごめん」
「さくらに頼むの、大変だったんですから」
「うん」
「どうして言い残して行ったんですか。あんなの心配になるに決まってるじゃないですか」
「別れたのに?」
閑の言葉に智恵理は顔を上げた。
不機嫌そうに眉根が寄っている。
「わかってて言ってますね」
「少し賭けの部分はあったよ。君が僕のことを好きで居続けてくれるかわからなかったから」
「ひどい人」
「ごめんね。でも、追いかけてきてくれて嬉しかったよ」
「……あなたがお姉さまに会うと思ったら、居ても立っても居られなかったんです」
かぼそい声でそう呟いた智恵理は、閑に甘えるように唇を突き出す。
「こんな気持ちにさせた責任、とってください」
熱っぽい吐息と共に告げられた言葉に、閑は脳を焼かれる気分を味わった。
あざといとしか言いようがない姿なのに、今まで見てきたどの女性よりも可愛らしくて、強烈な衝動が全身に迸るのを感じていた。
それは初めて芝陽子を目にした時の衝撃よりも激しく体を動かそうとする。
必死で理性を動員してそれをねじ伏せながら、閑は優しく智恵理の唇にキスをした。
「あまり可愛いことを言わないで。歯止めが効かなくなる」
「そんなに私を求めてくれるなら、嬉しいです」
「甘やかさないで」
「ふふふ。可愛いんですね」
智恵理はすっと、耳に顔を寄せて。
「じゃあ、歯止めを効かなくしたあなたが見たいって、私が言ったらしてくれるんですか?」
「契約をした頃ならしたかもね」
けれど、二人の関係は変わった
今、二人の間を繋ぐのは契約ではなく、二人の想いだ。
「今はしないよ。君を傷つけたくないしね」
「優しいんですね」
「単に不甲斐ない自分を見せたくないだけだよ」
自制ができるというだけで褒められても困る。
むしろ、それくらいできなくては、商いの道へは進めないだろうと閑は思う。
だからこそ、智恵理をめぐる様々なことで、こんなにも気持ちを狂わせられるのは堪え難い。
それが恋というものだけれど。
「じゃあ、優しいあなたにまた夢を見せて欲しい。シて欲しいって言ったら?」
「それくらいならお安い御用だよ」
悪戯っぽく笑いながら求めてくる智恵理に恭しく首肯すれば、二人の口から笑い声がこぼれ出る。
柔らかな空気のまま二人はベッドへ移動して、いつものように閑が智恵理に覆い被さった。
「好きだよ、智恵理」
「私も好きです、閑。初めて言ってくれましたね」
「ごめん。避けてたから」
「商いですものね。でも、これからはたくさん言ってください」
「うん」
どちらともなく唇を重ねてベッドの上で身を寄せ合う。
甘い甘い夢を見るために。
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