第8話

 いったいどうしてこうなったのだろう。

 朝日の差し込む自室の椅子の上、一睡もしなかった閑は天を仰いでいた。


 あんなにもうまくいっていたのに、ほんの僅かなことで失ってしまった。

 陽子が現れただけで、全てが変わってしまった。

 たしかに可能性はあった。同じ寮にいると気づいた時点で、出くわす可能性も考えた。

 けれど、それでもどうにかなると思っていた。

 敵対しているわけでもないのだから、穏便に軽く話をして済むと思い込んでいたのだ。


 それはつまり……結局のところ、閑は女王と呼ばれた女の恐ろしさを理解していなかったのだ。


 あの時陽子がしたのは、ただ背中を押しただけ。

 特別の悪意を持って、情報を捻じ曲げたわけでもない。

 元々伝えるつもりだったものを、本人以外の口から伝えただけだ。

 そのせいでぎこちない空気になったとしても、本来ならその後に影響するようなことじゃなかった。


 だって、二人にとってあれはどうでもいい話だったのだから。


 それよりも陽子の誘いをすぐに拒めなかったことが影響している。

 拒めていれば、流れを取り戻して智恵理を抱きしめることもできただろう。


 けれど、それすらも出来なかった。

 あの時の閑は致命的に遅かった。

 陽子も、智恵理も、閑が足踏みしている間に先へ行ってしまった。


 それでも、智恵理とだけならその速さで足りていたのだ。

 彼女は閑よりも少し足が速かったけれど、その場で待っていてくれた。

 振り向いて、手を差し出そうとしてくれた。


 だから、ああ、今ならわかる。

 たとえ笑顔が曇るとしても、全てを伝えておくべきだったのだと。

 そうすればきっと、智恵理は別の形で好意を伝えただろうし、閑はそれを受け入れられたはずなのに。


「クソっ……」


 いったいどうしてこうなったのか。


 女王のことを隠していた閑が悪かったのだろう。

 そもそも好意を隠していた智恵理も、悪かったのかもしれない。

 それを引っ掻き回した陽子も、もしかすると悪いのかもしれない。

 だが、その全ては、ほんの少し時間がズレていれば成立しなかった話。


 つまり、あえて答えを出すならば……。

 

 間が悪かったのだ。

 

 そんな言葉で諦められるほど、閑は大人ではないけれど。

 

     ***

 

 次の日から閑は足繁く智恵理の元へ通った。

 その大半は門前払いだ。

 仲介してもらうクラスメイトや派閥の子らを通して『会いたくない』と伝えられるのは辛いものがある。

 それは顔すら見たくないということだからだ。


 けれど、それ以上に『別れたの?』と訊ねられることが胸を締め付ける。

 決まって『喧嘩しただけだよ』と言い訳をしていたけれど、それもいつまで続けられるのだろう。

 智恵理がその問いに答えてしまえば全てが終わる。

 振られた女に執着している、愚かな女の出来上がりだ。


 だが、希望はまだある。

 智恵理も問いをはぐらかしているらしいから、タイミングがさえあえば……。


「と言ってもなあ……」


 閑は一人、閑散とした放課後の教室でため息をついた。

 なにせ彼女とは生活圏が重ならないのだ。

 出待ちをしても、智恵理が望まなければ妹たちの壁を越えることはできない。

 閑の側からできることは、もうやりつくしてしまった。


 ……本当にそうなのだろうか?


「随分、凹んでいるようだな」

「……さくら」


 忘れ物でも取りに来たのか、茜色の教室にさくらが現れた。

 意識して避けていた相手だ。

 正直、今は会いたくない。


「まあそう嫌そうな顔をするな。私としても、あの夜のことは悔いている」

「どうして君が? あれは単に間が悪かっただけだろう」


 少なくとも、閑はそう結論付けた。

 いくら陽子が並々ならぬ気配をしているとしても、あの日あの時間をピンポイントに狙って現れることなんてできるはずがない。

 閑が下見をしていたから、寮を抜け出そうとしていたことはわかっていただろうが、どこに行くかまではわからなかっただろう。

 智恵理の性格から行く先を絞ることができるとしても、だ。


 閑の言葉に、さくらは首を振った。


「たしかに、そう言い訳することはできる」

「まるで全てを知っていたような物言いだね。傲慢じゃないか?」

「まるでではなく、知っていたんだよ」


 懺悔するように、息を吐きながらさくらはそう告げる。

 たしかに、智恵理とさくらは大切な手紙を託すほどの仲だから、約束についても相談をしていたっておかしくはない。


 だけど、だからなんだというんだ。

 閑の中で、何かの切れる音がした。


「だからなんだ。あの日、あの時間に僕らが会うことまで知ってたとでも? たしかに君は護衛だったんだし、女王に意見できたんだろうさ」


 大方、あの日突然花園に行きたがったとでもいうのだろう。

 あるいは、閑たちの約束を報告していたのかもしれない。

 だから、自分が悪いとでもいうのか。


 ――ふざけるな。


 閑は激情を叩きつけるようにさくらへ歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。


「だからなんだ。加害者ぶるのはやめろ」

「だけど!」

「じゃあ何ができる! 女王すら翻意させられなかったお前が、智恵理を僕のところへ連れてきてくれるとでもいうのか」


 八つ当たりだ。そんなことはわかっている。

 わかっているのに。

 溢れる言葉を吐き出すのを止められない。


「ああ私にはできないだろう。あの子は強情だ。あるいは、主に並ぶほどに」

「だったら黙ってろよ」

「いいや、言うさ! 私は言えなかったから、言えないで壊してしまったから!」

「それが……!」


 その態度が気に入らないと言うのに、この女はなおもそれを続けてくる。

 激情が弾けて手が上がった。

 ビンタしようとしたその腕を、さくらは押し留める。


「だからこそ、君は主に……お姉さまに会わなくてはいけない。君が本当にあの子のことが好きならば、なおのこと」

「それでどうしろっていうんだ。あの子をくださいとでもいうのか?」


 さくらの提案を鼻で笑う。

 智恵理はものじゃない。

 いいや、あの子をうまく使いたい血縁者からすれば、そういう道具かもしれないけれど。

 少なくとも、陽子が決定権を持っているわけではない。


「それは君が決めることだ。ただ、ここで会わなければあの人は何度でも君たちの邪魔をする。君たちが次へ進もうとするたびに、本当の意味で結ばれようとするたびに、それを壊しに行くだろう」

「そこまで女王が智恵理に執着しているって? 仮にそうだとして、決めるのは智恵理だろう」

「そうだ。そのために会うんだよ」


 意味がわからない。

 わからない、けれど。

 少なくとも、昨日邪魔をした件に関しては、一度殴りに行ってもいいのかもしれない。


「……ああ、いいさ。会うよ。会ってやるよ! 僕が何をしても止めるなよ!」

「少し殴り合いをするくらいなら見逃してやる」


 腕を掴まれた状態でにらみ合いながら、閑は決心を告げた。

 さくらはそれをどこか嬉しそうに受け止めて。

 ふん、と二人して鼻を鳴らして距離をとった。


「準備ができたら私の部屋に来い。連れて行ってやる」


 去り際、かけられた言葉を胸に留めて、閑は大切な人のところへ走る。

 

     ***

 

 急いで寮に戻ると、入り口の名札をチェックした。

 智恵理の札はもう帰寮済みになっていて、閑のように無駄に学校に長居したということはないようだった。

 付き合っていた頃の記憶に従えば、智恵理はもう部屋にいるはずだが、談話室や妹たちの部屋にいないとは限らない。

 念のため各階の談話室を覗いてから、智恵理の部屋へ移動した。


 本当にいるだろうか。

 祈るように、トントン、と名乗らずにノックをすれば、智恵理の聞き心地のいい声が返ってくる。


「どなた? 少し待ってください」


 部屋の奥から足音がドアの前までやってきて、彼女がドアノブに手を伸ばす気配がする。

 このまま待っていれば、不意打ちで会うことはできるだろう。


 だけど、今の閑は智恵理に会う資格はないと思っている。

 だから、戸が開く前に口を開いた。


「ごめんね。僕には会いたくないだろうけど。ううん、だからこそ扉越しっていうズルをさせて」

「……帰ってください」


 ドア越しに聞こえた声は険しかった。

 気分を逆なでしたことを申し訳なく思いつつ、言葉を続けた。


「うん、一つだけ言ったら、帰るよ。とても、大切なことなんだ」


 ひとつ、ふたつ、呼吸をして待つ。

 智恵理がドアから離れて行ってしまわないか、痛くなるほどに震える心臓を感じながら待った。


「……どうぞ」


 不機嫌そうな声。

 でも、聞いてはくれるんだ。


 閑は安堵とともに口を開いた。


「女王に会いに行くよ。あの人は、意図的にあの時会いにきたらしいから。これを言いにきたのは、君が止めてくれるかもしれない……そう思って報告しにきたわけじゃないんだ。ただ、女王に会うなら君に報告をしなきゃいけないと思ったから。僕はあの時、すぐに君を選べなかったから。迷ってしまったから。そうやって君を傷つけてしまったからこそ、僕はあの人を殴りに行くよ」


 言い切った。

 ドアの向こうの智恵理は、さぞかし困った顔をしているだろう。

 意味がわからないと、怒ってすらいるかもしれない。


 でも、そんなことはどうでもよかった。

 この告白は一方的なもので、ただ閑の中で必要な区切りをつけたかっただけ。

 だから、その言葉に対して智恵理がなにを言ったとしても、彼女は聞いてすらいなかった。

 なにを言われても行動を変える気はなかったから、どんな言葉も意味がなかった。


「じゃ、行ってくるね」


 一方的に叩きつけた閑は、軽やかに走り出して姿を消してしまう。

 ほんの少しだけ願うことはあったけれど、それを決めるのは智恵理だったから。

 

 そうして閑が立ち去ってからしばらくして、ゆっくりと扉の開く音がした。

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