第7話

 陽子の突然の登場に、辺りは静まり返っていた。


 智恵理はただ怯え、閑は動けない。

 さくらは無言で侍り、陽子は微笑んでいるだけ。


 風が葉を揺らす音が耳に痛いくらいに響く中、沈黙を破ったのは閑だった。


「初めまして、芝さん。どうしてここに?」

「黙っているのが怖いだけの問いかけなら、意味はないんじゃないかしら」


 問いに、訳のわからない返しがきた。

 たしかに、沈黙を破るために言葉をかけたのは事実だが……。


「ああ、ごめんなさい。これではわかりにくいわね。そうね、そうか……」


 なにか、当たり前のことを改めて問われたかのような顔をして、陽子は言い直した。


「初めて、ではないでしょう? 私たちは、昼間会っているじゃない。いえ、会ったというのは語弊があるかもしれないけれど。まあ、誤差ね。それで、どうしてここにか。ねえ、あえて目的があってと思うの? 私があなたたちがいること知ってきた、と?」

「それは……」


 たしかに、それはこじつけた考え方なのかもしれない。

 この島に住んでいるならば、夜に散歩することもあるだろう。

 もはや寮則に縛られるわけでもないのだから。


「ああ、それとも、それはこの島に、という意味? なら、そうね。まだ外に出たくなかったから、でいいかしら」

「……そう、ですか」

「まあでも、この程度の回答、全部わかっていてのことでしょう? あえて聞く意味があったのかしら……」


 弁を振り回して閑を滅多打ちにした陽子は、ひどく不思議そうな顔をしてみせた。


 一方、閑の方はといえば、陽子にたやすく主導権を取られ、雰囲気に飲まれ、うまく頭を回せないでいた。

 他愛のない言葉を、こんなにも細かく拾い上げられて弄ばれたのは久しぶりの経験で、思考が停止してしまっている。


「いいえ、普通の人は知りたいものね。ごめんなさい、勝手に考えてしまったわ。白鷺さんもそんなに怯えないで。あなたたちの仲を裂こうだなんて思ってないわ。だって、そんなに素敵な顔をしているんだもの、知りたかったものは知れたんでしょう?」


 急に話を向けられた智恵理が、閑と繋いだ手に強く力を入れた。その手は氷のように冷たく、ひどい怯えが伝わってくる。


「私では教えてあげられなかったものね。それはあなたと私の求める先が違うからだけれど、姉として残念に思っていたの。だから……」

「やめて!」


 饒舌に語る陽子の言葉を、智恵理が遮る。

 震えは止まっていないどころか悪化していた。


 それでも彼女は叫んだ。

 陽子が口にしようとしていることは、それだけ閑に聞かせたくないことなのだ。


 ……一体、何を遮ったのだろう?


「あら、どうして叫ぶの? 大した話でもないでしょう。ただ」

「それは、私から話そうって!」

「無駄におおごとにしたがってはダメよ。ねえ、安芸さんもそうは思わない?」

「ええと、なんの話だか……」

「もしかして、あなたはそうやって察しの悪い子を演じてきたの? 頭の回る子ね」


 陽子は大きく肩を落とした。

 今のやりとりのおかげで答えに察しはついている。

 この話題は、ついさっき智恵理が言いたかったことだ。

 そして、それが予想通りならば、彼女が閑の仕事を知っていた理由も納得がいくものだ。


「本当に大したことではないのよ」


 浅く苦笑を浮かべた陽子が口を開く。


「私が白鷺さんに」

「やめて」

「《白烏》というものを」

「やめて」

「対価と引き換えに愛を囁いてくれる女がいることを」

「やめて!!」

「教えただけの話じゃない」


 陽子は何度も挟まれた叫びを聞こえないというように、平然と言い切った。

 ああ、たしかに大したことではない。


 けれど、どうしてだろう。

 何かとても大切なものを踏みにじられたような気がした。


 ようやく完成したものが、滲み、歪んでいくような、そんな不快感が閑の胸の奥に広がっていく。


「……智恵理」


 閑が自分でも驚くほどに低い声が出た。

 手を握っていた智恵理が飛び退くように離れて、大きく首を振った。


「ちがう、違うんです。隠していた、訳じゃ」


 泣きそうな声だった。

 信じて欲しいと、懇願する声だった。


 そんな声を出さなくてもわかっている。

 そもそも、当時教えようとしていた彼女を止めたのは閑なのだから。


「うん、わかってるよ。どうでも良かったことだし。君は伝えようとしてくれてたし」


 なのに、どうしてこんなにも苦しくなるのか、閑自身わからない。

 きっと智恵理は、その理由に少しだけ早く気づいたのだ。

 だから伝えようとしていた。


 けれど愚かな閑は気づけなかった。

 だからこうして傷ついている。


 ちっぽけな、どうでよかった真実は、築き上げた関係には何も影響しないはずなのに。

 ひどい歪みが生まれたのを、二人ともに感じていた。


「うーん、その様子だと言わない方が良かったみたいね。ごめんなさい。余計なことをしたわ」


 言葉こそ謝罪しているが、そこに気持ちは一分も感じられなかった。

 軽薄すぎて怒りはわかない。むしろ、不気味さすら感じる。


 この美しい生き物は、どうしてこんなにも上滑りするだけの言葉を聞かせられるのだろう。

 そしてどうして、その言葉で動揺させられてしまうのだろう。


 陽子への評価が両極端な理由を、閑は少しだけ理解した気がした。


「お姉さまは、いつもそうです。突拍子もなくて、私のしたいことを横から」

「ごめんって言ってるでしょう。もう、そこまで気にしていたのね。昔はどうでもいいという顔をしていたのに、それも恋をしたおかげ?」

「お姉さま!」

「ああもう、余計な事ばかりね。ごめんなさい。静かにするわ。でも、そうね、あなたをそんな風にした安芸さんのこと、少し気になるわ」


 ハッと智恵理が息を飲むのが聞こえた。

 それから彼女は、閑に何も聞かせないという風に、飛びついて頭を抱きしめる。


 けれども、その音は耳に届いてしまった。


「石に花が咲くように、海の底にはそれが住む。……どうかしら?」


 閑を抱きしめる智恵理は震えている。

 全身から断って欲しいという意思が伝わってくる。


「だめ、やめて、いや、いや……おねがい……」


 小さな声で繰り返す智恵理は泣きそうだった。


 損得を考えるなら、陽子の誘いを受ける以外はあり得ない。

 彼女のお墨付きを得れば、販路は無限の広がりを得られる。


 損得だけを考えるなら、答えは決まっている。

 けれども、頷こうとする自分はどこにもいなかった。


 智恵理を蔑ろには出来ない。

 ……いいや、したくない。


 彼女を泣かせてまで仕事を受ける意味はないと、閑はそう考えていた。

 過去、一度だってこんなことはなかったし、複数の客が着いた時だって、お互いに割り切っていた部分があったように思う。


 でも今は違う。

 智恵理相手には、そんな風に割り切れない。


 こうして陽子と出くわす危険を知りながら、何も言えなかったのは、智恵理が楽しそうにしていたからだ。

 そんな彼女を曇らせたくはないと、そう考えてしまって、何も言えなかった。


 だから、答えは決まっているのだ。悩む必要などない。

 けれど本当にそれでいいのか?という小さな小さな引っかかりを乗り越えられない閑に、陽子は頷いた。


「そう。考えておく、ということね」


 もう数秒あれば否だと言っていただろう。

 だけど答えを出すには少し足りなくて。

 迷っている間に、陽子は話を進めてしまう。


 ああ、この女は、ほんの少しだけ他人より速く歩いているのだ。

 だから言葉を隙間に挟み込むのがうまくて、こちらは何もできないまま心を掻き乱される。


 ――なんて美しくて、恐ろしいのだろう。


「じゃあ、答えが出たらいらっしゃい。私がいる場所は知ってるわよね。楽しみにしてるわ」


 そうして、言いたいことを好きなだけ言って、陽子は去っていった。

 残されたさくらは、ひどく複雑そうな顔をして、八つ当たりのようにボロボロにされた二人に声をかけるか迷っていた。

 何度となく口を開きかけて、結局なんの慰めも言えずに主人の後を追っていった。

 

 あとに残ったのは、感情を引っ掻き回された女が二人。


「……どうして」


 閑を解放した智恵理が、ぽつりとそう呟いた。


「ごめん」


 閑はそう言うしかなくて。

 けれど、それは智恵理の望む答えではなくて。


「謝らないで。謝らないで、ください……」

「でも、僕は!」

「あなたの立場なら迷うのはわかるんです。わかりますよ」


 だから、閑が謝ることしかできないことをわかっているのだ。

 これが智恵理の八つ当たりでしかないこともわかっているのだ。


 それでも言わずにはいられない。

 押し殺せるほど大人ではなかった。


「でも、それでも……私は、否定して、欲しかった」

「しようとしたよ。でも、あの人が早すぎた」


 言い訳じみた言い方だった。

 けれど、それが真実だと、二人ともわかっている。


 わかっていても、心が荒れ狂うのは止められない。

「知ってる、知ってます。あの人はいつもそうだから」

「じゃあ、どうして」


 いつもなら、もっと適切な言葉を吐けただろう。

 美辞麗句を並び立てて、智恵理をなだめられたに違いない。


 なのに今はそれができない。

 まるで初恋の相手が泣きじゃくる前でうろたえるしかない少年のように、閑は無力だった。


「わかりません。わからないんです。私は、私、わからない。こんな、こんな気持ちになるなんて……だから、お姉さまに、あなたのことを聞いたって、言おうとして。最初はそれだけだったって。でも、私は、それから、それから……」


 そして智恵理は泣いていた。

 ぐしゃぐしゃにかき乱された心を、どうしていいかわからなくて。

 

「ちゃんとあなたが好きだって、そう言いたかったのに!」

「智恵理……」


 涙まみれの告白に、閑は息を呑んだ。


 何か、何か返さなくてはいけない。

 真摯な言葉を。

 上っ面なものではなくて、きちんとした心からのものを。


 わかっているのに、唇は動かない。

 だって、その気持ちに気づきそうになるたび、時間がないと目を逸らしていたんだから。


 ――どうして独占したかったのか。どうして胸がときめいたのか。

 ――傷を見せられた時、何も思わないようにしたのはどうしてか。

 ――智恵理が消えてしまいそうだと思ったとき、怖くなったのはどうしてだったのか。


 そのすべてに仕事だからと言い訳していたのは、なぜ?


 その答えに、閑はようやくたどり着いた。


「いいんです。何も言わないでいいです。あなたは、こういうの、慣れっこでしょう?」


 涙を流しながら、智恵理は浅く口を歪める。

 それはひどく不器用な微笑みだった。

 それでも、今まで見たことのないくらい、美しい微笑みだった。


「ごめんなさい。勝手に好きになって。ごめんなさい。勝手に、本気になって。あなたは、あなたは……仕事だから、私にしてくれてるのに」


 ――違う、違う!

 そう叫びたいのに、唇は動かない。


 たしかに、今までだってこういう告白をされたことはある。

 これは仕事だからとそれを断ったことがある。


 けれど、今は違う。

 目の前で泣き、微笑む智恵理に抱く閑の気持ちは、対価のためのものではなく……。

 

 ――僕も君が好きだ。

 

 気持ちは同じなのに。

 否定し、受け入れるためのその一言が、どうしても出てこなくて。


「こんな風になったら、ダメですね。ごめんなさい。もう、いいです。仕事は、もう……」


 迷っている間に、智恵理は先に進んでいた。

 本気になってしまったなら、商売のまま繋がっていることはできない。

 けれども、本物の愛がそこにあるかなんてわからないから、契約を終わらせるしかない。


 何度も何度も、繰り返してきた終わり。


「さよなら!」


 智恵理は引き止めようとした手をすり抜けていく。

 まるで陽子の後を追うように、彼女が夜の中へ消えていく。


 追わなきゃいけない。

 わかっているのに、足は動かない。


 仕事を理由に愛を切り捨てた、過去の自分が目の前に立ちふさがってくる。

 それに、追いついて何を言えばいいのかわからなかった。

 今度こそ本気だから、なんてどうやって信じてもらえばいいんだろう?


「くそッ!!」


 一人残された閑は、叫ぶことしかできなかった。

 より良い方向へ変われたはずのお出かけは、最悪の結果に終わってしまった。

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