第6話

 食堂で智恵理と共に夕食を済ませた閑は、部屋に戻ってから延々と片付けをしていた。

 

 元々人を招く予定があまりないこともあり、読んだ本を散らかしがちな彼女の部屋は、決して綺麗とは言えなかった。

 清掃そのものは《ご奉仕委員会》の者たちに頼んでいるから、埃が溜まるというようなことはないが、ともかくしまっていないものが多い。

 物の移動はトラブルの原因になりかねないからと委員会の連中は請け負ってくれないので、気づけば物がどんどん散乱していく。


「まったく、どうして元の場所に戻せないんだろうね」


 過去の自分に愚痴をこぼしながら、閑は散らかしていた本を棚へと納め終えた。


「さて、こんなものかな」


 積み上げられた本が消えるだけでも、十二分に部屋の中は綺麗に見える。

 丹念な掃除をしている《ご奉仕委員会》の仕事に頭が下がる思いだった。


「やっぱり結構ギリギリ……大浴場は無理だな」


 それなりに汗をかいたから大浴場でリラックスしたかったが、今からの利用だと消灯時間をオーバーして寮監に捕まるのが見えている。

 部屋のシャワーで汗を流して智恵理を迎えにいくしかないだろう。


 普段から横着をしているからこうなる。

 はあ、と小さくため息をついて、閑は汗を吸って張り付く部屋着を脱ぎ捨てる。


 これも、見えないようにきちんとカゴに納めておく必要があるだろう。

 ……なかなか、部屋に人を招くというのは気を使う。


 智恵理はよくあんなにも部屋を汚さないで暮らせるものだと、少し尊敬した。

 いや、あれは少し行き過ぎだとは思うけど。

 

     ***

 

 いつものように抜け道を通り、智恵理の部屋へ行く。


「こんばんは、智恵理」

「待ってましたよ、閑」


 出迎えてくれた彼女は動きやすいようにだろう、以前も見たことのあるセパレートのパジャマ姿だった。


「さあ早く行きましょう」

「わかったわかった」


 逸る智恵理をなだめつつ、閑は彼女の手を取った。


「これからの道順をちゃんと覚えて。いい?」

「はい」


 それから二人して息を潜めて薄暗い廊下に出る。

 閑は道を覚えさせるためにゆっくりと歩き、やがて智恵理の部屋から少し離れたところにある柱の前で足を止めた。

 それは寮となる以前からの歴史を表すように、表面にたくさんの傷がついた柱だった。

 それ以外にはなんの変哲もなく、他とそう変わらない。


「ここが?」

「うん。よく見てて」


 疑問に首を傾げる智恵理に、閑は小さな声で頷いた。

 それから柱の傷と、壁紙のラインを目安にして、手の位置を決める。

 そして、とん、とん、とん、と柱の三箇所を叩く。

 響いたのは中身が詰まった材木の音ではなかった。

 空箱を叩いたような軽い音がして、金属の擦れるような音が少し遅れて聞こえる。

 それからぐっと柱を押し込むと、柱が内側に開いて、ぼんやりとした明かりが漏れてくる空洞が出来上がった。


「僕の手を離さないで」

「は、はい」


 閑は念を押すように告げて、ぎゅっと繋いだ手を握りしめた。

 二人が空洞へと足を踏み入れると薄暗く圧迫感のある道が現れた。

 閑は智恵理が入ったのを確認して扉を閉める。

 内側から見た扉には、何か閂のような仕掛けが三箇所ついていた。

 この場所を外側から叩くと、うまいこと開くようになっているのだ。


「ここは……」

「僕の部屋で説明する。早く抜けよう」


 質問しようとした智恵理を遮って閑が歩き出した。


 ぺたんぺたんと足音がいやに響く。

 その響き方は学校や病院の階段を連想させた。

 通路の蛍光灯のケースの書き方も、その印象を強くする。


 その明かりを頼りにして歩いていると、途中で幅広の階段と踊り場に出くわした。

 この階段は、いったいどこへ通じているのだろう……。

 この寮にはこういう仕掛けがどれだけあるんだろう。


 そんなことを考える智恵理は閑に手を引かれ、ただの階段にしてはやたら広い踊り場を抜ける。

 入ってきたものと同じ扉を開けると、薄暗い廊下に出た。


 そこからは入った時と同じ。

 扉を閉めて、息を潜めて歩いて、歩いて、歩く。


 柱の場所からいくつ扉を通り過ぎたか。


「ここだよ」


 閑は優しくそう言うと足を止めた。

 安芸閑。そう書かれたプレートのはめられた扉を開けて、二人はようやくゴールにたどり着いた。


 部屋に入ればもう安全だ。

 閑が照明のスイッチを入れると、必死で綺麗にした部屋が照らされる。


 いくつもの本棚が置かれた、クリーム色の壁紙の部屋。

 ベッドの周りはフェイクファーの長毛カーペットが敷かれ、横になれるようなソファも置いてあったりとリラックスできる空間が作ってある。

 それほど手を加えた部屋ではないが、智恵理のものがいかに素のままかがよくわかる、閑の色味が出た部屋だった。


「ここが閑の部屋。……なんだ、綺麗にしてるじゃないですか」


 智恵理の放った感想に、少しどきりとする。


「どうしてそんなことを?」

「さっき、ちょっと嫌そうな顔をしていたので。散らかってるのかなって」


 そんな顔をしていたのか、と閑は少し唸り声をあげた。


「……そっか。まあ、綺麗にしたんだよ。といっても、物をしまっただけだけど」

「あら、誤魔化さないんですね?」

「今更でしょ。だったら素直にいうよ。君相手だしね」

「そういう素直なところ、好きですよ」

「ありがとう」


 閑が礼をいうと、智恵理はおかしそうに小さく笑った。


「じゃあ、もともとそんなに汚くないんですね」

「出しっぱなしにしてただけだからね」

「なんだか意外です。そういうところ、きちんとしてる人だと思ってました」

「実のところ、僕はそういうタイプなの」


 部屋の使い方には人となりが現れる。

 いつか返すことになるとはいえ自分の庭。

 人を招かなくても綺麗にしているものもいれば、招かないのだからと汚しているものもいる。


 閑は後者で、智恵理は前者よりだ。

 もっとも、智恵理の場合は部屋を汚すほど使わないというのが正しいのだろうが。


「じゃあ、結構キャラを演じてるんですか?」

「うーん、どうかな。そういう作り込みをしてる人はいるらしいけど、僕自身はそこまで気を付けたことはないよ。そう感じるなら、親の躾の成果かもね」

「どういう風に言われてたんですか?」

「人前ではきちんと、家では多少緩くてもいい。まあ、メリハリをつけろってことだろうね」


 流石にここまで部屋を汚すようになるとは考えていなかっただろうが。

 ただ、父親も部屋に物を溢れさせるタイプだったので、もしかすると血なのかもしれない。


「へぇ……でも、意外な話が聞けて良かったです。来た甲斐がある、というか?」

「ふーん。イメージ通りじゃなかったのに?」

「色々な面を見たいじゃないですか。なんでも想像の通りだったら、退屈しちゃいます。それで失望する人もいるんでしょうけどね」

「なるほどね」


 イメージ通りなら納得できるし、違っても新しい面を知れて得しかない。いわれてみればそうかもしれない。


「それに、閑がリラックスできる作りっていうのが、こういう柔らかい雰囲気なんだなって学べたのは大きいです」

「それはなによりだよ」

「はい。秘密の通路を通った甲斐がありました」


 智恵理がともかく嬉しそうなので、閑としても連れてきた甲斐があった。


「そうだ、結局あの場所ってなんなのですか?」

「説明するから、まずは座って。好きな椅子に座っていいから。お茶でも飲みながら話そう」

「……はい」


 智恵理はなんだか不満そうだ。

 どうしてだろう。

 少し考えて答えを思いついた閑は浅く笑った。


「君の部屋でしていた風にしたいなら、それでもいいよ」

「はい!」


 どうやら正解だったらしい。とても嬉しそうな声が返ってきた。

 ずいぶん彼女の気持ちを読むのが上手くなってきたらしい。

 それだけ仲が深まったということだろうか。


 そんなことを考えながら閑は二人分のお茶を用意した。

 立ち昇る二本の湯気を見つめながら、腕の中に智恵理を収めて閑は喋り出す。


「この寮が元々なんだったかは知ってる?」

「創設者の一人が持っていた別荘……でしたっけ?」

「うん」


 この学園は複数の富豪が出資して作られたものだ。

 校舎はのちに作られたものだが、閑たちの暮らす寮はその中の一人の持ち物だと言われている。


「でも、それにしては大きすぎますよね? 一族全員を集める目的があったにしても、こんなにも部屋数が必要だったんでしょうか?」

「そこは学園にするってことになってから増築したみたいだよ。元は広かった部屋を小さくしたりとかで、数を稼いだのもあるみたい」


 当たれる範囲の史料を調べた限りでは、元からこの規模の大きさではなかったようだ。


「ただ、それを考慮しても、大き過ぎるのは確かだね」


 どれだけ調べても、その理由はわからなかった。

 建物に古くから残っている部分を見ても、贅を尽くした作りというわけではないし、無駄に大きな建物を作った理由はわからない。


「説の一つとしては、ここは社会的地位のある人たちを招くための場所だった、というのがあるね」

「それだけでは隠し通路の説明がつかないのでは?」

「そこは当時の感覚で、使用人たちが行き来する姿を見せたくなかったんじゃないか?というのが《ご奉仕委員会》の見解だね」


 閑としてはあまり納得はいかないが、他にあの通路の存在を説明できる説がない。

 実際、古い旅館などでは、従業員が移動するための特殊な空間があるものもあるし、学園設立当時は、現代よりも使用人に対する意識は差別的なものだった。彼らの姿を隠したがるのは理解できる。


「でも、もしそうなら、どうして封鎖しないんでしょう? 寮則破りもしやすくなりますし、うっかり迷い込みでもしたら大変じゃないですか」

「なんでだろうね。委員会の連中は学園側に調査報告を出してるはずだし、潰してないってことは何か理由があるんだろうけど……」


 そこには閑たちの知らない理由があるのだ。

 そのリスクを許容できるだけのなにかが。


「わかりませんね」

「まあ理由はなんであれ、あれを使えば夜も移動できるから、便利に使わせてもらってるよ」


 《白烏》の仕事をするにはこれ以上ないほどに便利な設備だった。

 あの通路なしに他人の部屋へ行くのは手間がかかりすぎる。


「あれって各階に通じているんですか?」

「うん。一階までは行ったことがあるよ。まあ、一階の部屋は夜は全部鍵がかかってるから、降りていく意味はないけどね」

「でも、外に続く道があるかもしれないんですよね?」

「うろ覚えだから、もしかしたらないかもしれないけど……たしか、地下にあったような気がするんだよね」


 地下には厨房やボイラー室があると、寮の間取り図には書かれている。

 だが、それと以前見た地図では、書かれていた部屋数が違ったような気がするのだ。


「うーん、やっぱり地図を見ないとなんとも言えないかな」

「それってどこにあるんです?」

「図書館にあるよ。奥の方にあるから知らないと手にはとらないかもしれないね。禁帯出だから覚えるか書写さないといけないし」

「へえ」


 智恵理はひどく意外そうな顔をした。

 もっと隠されているものだと思ったのだろう。


「学園史の本とかもあるし、面白い本もあるよ」

「私はあまり行かないので、その辺りさっぱりです」

「僕も限られた範囲にしか行かないから。広いからね」


 二人して苦笑いしてしまった。


「外、繋がってるといいね」

「はい。楽しみです」


 閑がぎゅっと強く抱きしめると、智恵理はくすぐったそうに身をよじる。


「もう、なんですか」

「こうしたら楽しい気持ちが伝わるだろう?」

「ふふふ。おかしなことを言うんですね」


 だけど、と智恵理は言葉を続ける。


「そういうところが好きです」

「ありがとう」


 言葉に甘えるように肩に顔を埋めれば、抱きつく腕に智恵理が口づけを落とす。

 ち、ち、と啄むように、高く音を鳴らすキス。


「ねえ、閑」

「うん」


 焦がれるような甘い声に、閑は頷いて顔を覗き込む。

 少し躊躇うように唇を動かしていた智恵理が、やがて瞼を伏せて閑と口を重ねる。

 一度、二度、擦り付けるだけのようなキスをして、智恵理は熱く潤んだ目を閑へと向ける。

 はあ、と熱く蕩けた吐息をしながら、また閑を求める。


「花園……とても、綺麗、なんですよ」

「夜はもっと綺麗だろうね」


 喘ぎ喘ぎ、唇を重ねながら智恵理は少し先の約束を語る。


「ええ……だから、あなたと、見たいんです」

「嬉しいな。君と一緒なら、もっと綺麗だろうね」

「そう……ですか? なら、私も、嬉しい、くて……」


 は、は、と吐息の熱が上がっていく。

 溺れるように、空気を求めるように、智恵理は閑の唇を求める。


「もっと……もっと、この前みたいに……深く、してぇ……」

「いいよ」


 吐息を絡ませ、水音を響かせながら、二人は互いを啜り合う。


「しゅ、き……すき、閑。あなたが、私は……ねえ、あなたは」

「僕もだよ」


 喜びを露わにするように、智恵理の体から力が抜ける。

 それを強く支えながら、閑は彼女を愛し続ける。

 

   ***

 

 翌日のこと。


 閑は授業をサボって図書館に来ていた。

 本のために理想的な気温湿度に保たれた図書館は、勉強に励む者や本を読む者、お昼寝にきた者と三者三様の利用風景が見える。

 それでもきちんとマナーを守って静けさが保たれているのは、育ちの良さが現れているのだろうか。

 その静寂の中、閑はあまり人の寄り付かない学園史のコーナーに足を踏み入れる。


「あったあった」


 呟きながら手に取ったのは寮の間取り図だ。

 何世代も前の《ご奉仕委員会》がマッピングした、地下から天井裏までを網羅した貴重なもの。

 智恵理が驚いたことで改めて思ったが、こんなものが堂々と開架に置いてあっていいのだろうか。

 そのおかげでこうして確認できてありがたくはあるのだが。


 そんなことを思いながら、閑は几帳面な文字で掃除の優先順位などの補足が書き込まれた間取り図をめくっていく。

 目的の地下階のページはすぐ見つかった。

 それによれば、古くはワインセラーだった部屋があり、そこから外へ続く道があるようだ。

 あらかじめ書き写しておいた今現在の寮の間取り図と比較してみると、その部屋は今もあるらしいことがわかる。


「あとは出口が潰されてないかどうか、か」


 寮がマッピングされたのは何代も前の話だ。

 厨房や電気系の改装工事で業者が入っていたはずだから、出口が塞がれている可能性がある。

 寮に戻って扉を探す必要があるだろう。

 鍵だって掛かっているかもしれない。

 その時はそれを開ける方法も探さなくてはならない。

 

 そんなことを考えながら二つの間取り図を見比べていると、今の間取りにはない部屋があることに気がついた。


 不思議な記号が書かれたマークで廊下と繋がる、一続きの部屋。

 古い時代にボイラーの管理していた人たちの部屋だろうか?

 いいや、管理人部屋なら一階にある。


(まて、これは……)


 ページをめくって秘密の通路の入り口を確認する。

 書かれていたのは同じマークだった。


「……秘密の、部屋?」


 どうしてそんなものが学生寮にある?

 わざわざこの部屋の人間が使うような出口まで用意して、寮の中を移動できるような秘密の階段を用意して。


 ――この部屋には、誰が住んでいたのか。

 そしてそれを問われて、当時の教務は何を答えたのか。


『案外近くにいたりするかもしれないですね』


 智恵理の声が蘇る。


「まさか、ね」


 妄想が現実になっていくような不気味な感覚を覚えた閑は頭を振った。


 馬鹿げた話だ。あるわけがない。

 けれど、どれだけ頭を振っても染み付いた疑念は追い出せなかった。

 

 それから寮に戻って、ワインセラーの出口を探した。

 巨大な寮をぐるりと回って、間取り図に描かれていたワインセラーの出口がありそうなあたりにたどり着く。


「あった」


 そこには塀に囲まれた地下へと続く階段があった。

 周りに散らされた緑が絶妙にその姿を隠している。

 寮の裏手になんてほとんど来ないから、もし何かの用事できたとしてもこの階段に気づけたかどうか怪しい。


「さて」


 問題は鍵がかかっているかどうかだ。

 いいや、防犯の事を考えると掛かっていてくれなくては困るのだが、南京錠などで閉鎖されていたら突破のしようがなくなる


 こつ、こつ。靴音を響かせながら階段を降りると、見るからに重そうな扉が出迎えてくれた。

 外からかけるような鍵は見当たらない。

 一安心しながら、好奇心に突き動かされるままドアノブをひねってみる。

 

 ……開いた。

 それも、スムーズに。

 

 不用心にもほどがある。たしかにこの島には不審者など侵入のしようもないけれど。

 だけど問題は……。


「……ははは、まさかね」


 扉を開けた感触は、しばらく誰も開けていないものではなかった。

 しっかりと手入れされて軋みもしないそれは、頻繁に使われているものだ。

 外からの正方形の明かりに照らされた旧ワインセラーには、埃が積み重なっているということもない。


(委員会の連中だろう)


 あの連中なら扉の整備くらいお手の物だろう。

 ここの掃除だって、ルーチンに入っているだけかもしれない。

 

 そう思っていても、なにか薄ら寒いものを感じてしまう。

 ここを普段から誰かが使っているんじゃないかという想像が。

 

 ギィ……。

 

 足音がする。

 だれかいる。

 

 掃除に来た委員会の連中だろう。

 そうに決まっている。


 思いながらも、確認のために歩み出すのを止められない。

 浅く、呼吸音のしないように息をして。

 軽く、足音のしないように歩く。

 一歩、一歩、廊下へ繋がるはずの扉にたどり着いて……!

 

 バタン!

 

 遠くで扉の閉まる音がした。

 振り向けば、入ってきた扉は開いたまま。


 急いで飛び出せば、廊下には誰もいない。

 厨房も稼働している様子はない。

 いいや、そもそも厨房はあんな音を立てて閉まる扉などではない。


 ああ、やはり誰かがいるのだ!

 この地下に。

 何食わぬ顔をして、閑たちと共に暮らしていたのだ。


「まさか……まさかね」


 呟きながら閑は必死で首を振る。

 別の白烏が人に気づいて逃げただけだろう。

 そう思おうとしても、浮かんでしまった答えを打ち消せない。

 

 ……女王は、すぐそこにいたのだ。

 

     ***

 

 夜、いつものように智恵理の部屋へ行けば、彼女は待ちきれなかったように問いかけてきた。


「それで、外へ繋がる道はあったんですか?」

「……うん。無事見つかったよ。塞がれてなくて助かった」

「じゃあ、今日は見に行けるんですね?」

「そうなるね」

「やったぁ」


 報告を聞いて、智恵理は見るからに浮かれていた。

 普段なら間違いなく気づいただろう、閑の逡巡を見逃すほどに。

 それだけ期待されていたというのは素直に嬉しい。

 けれど、それを上回るほどの懸念がある以上、閑は浮かれることができない。


「どうしました?」


 ようやく閑の様子がおかしいことに気づいたのか智恵理が問いかけてくる。

 ここでいうべきなのだろう。

 地下に女王がいるのだと。

 けれど、ここまで喜んでいる彼女に伝える必要があるのだろうか。

 地下に住んでいるだけで、この先出くわすとは限らないのに。


「閑?」

「……ううん。晴れると良いなって思ってただけだよ」

「おかしなことを言いますね。お昼はあんなに晴れていたじゃないですか」

「でも、ここの天気は変わりやすいだろう?」

「たしかにそうですけど……気にしすぎじゃないですか?」


 気にしすぎ……そうなのだろうか。

 女王がいるかもしれないと思っていたからそう勘違いしただけで、やはり他の《白烏》なのではないか。

 そもそもあの部屋の実在を確認したわけでもないのに、こじつけているだけなんじゃないか。


「そうだね、そうかもしれない」

「……なにか、隠してることでもあるんですか?」

「ううん、そんなことないよ」


 思わず否定してしまっていた。

 告白する千載一遇のチャンスだったのに。


 それはきっと、閑自身が否定したいからだ。

 ただの錯覚なのだと。


「楽しみだね、外」

「はい。汚れても良い格好をしてきてくださいね? パジャマのままとかダメですよ」

「じゃあ制服で行こうか。夜なのに変な感じだけど」

「あ、それいいですね! じゃあ私もそうします。楽しみですね」


 こうして楽しそうにしている智恵理を見られるなら、言う必要はないんじゃないかと。

 閑はそう思った。

 思ってしまった。


 ――本当は、真実を話すべきだったのに。

 

     ***

 

 そうして閑が昼間見つけておいたルートで、二人は外へ出た。


 閑の偽りの懸念を嘲笑うように、空は雲がほとんどない晴れで、少し肌寒い。

 天に浮かぶ月は、満月からは少し欠けてしまっているものの、十二分に美しく輝いていた。


 その月明かりを頼りに二人は迷わないよう慎重に歩みを進め、花園へとたどり着く。


「わあ……花が閉じてますよ、閑!」

「聞いたことはあったけど、面白いね」


 昼間はめいっぱい太陽に微笑むように咲き誇る花たちが、今は休んでいるかのように閉じている。

 もちろん中には変わらず開いたままのものもある。

 その差がどこからくるのか、二人にはわからなかったけれど、この不思議な景色の前にはどうでも良いことだった。

 惜しむらくは、今は月に雲がかかってしまっていることだろう。

 月明りが降り注いでいれば、この花園はもっと美しいに違いない。


 そして二人だけの花園で、月明かりに煌めく花たちに囲まれる智恵理は、きっと、ため息が出るほど美しいだろう。


「抜け出してきた甲斐があったね」

「はい!」


 静まり返った花園の中、智恵理は楽しそうに花たちを覗き込んで笑っていた。

 そうだ、こんなにも彼女は満足そうなのだから、それでいいじゃないか。


 閑が余計なことを考えるのをやめ、目の前の少女に集中しようとしたその時、智恵理が何かを決意したように息を吐いた。


「ねぇ、閑。私、あなたに言わないといけないことがあるのです」

「なんだい?」

「初めて会った時、あなたのことを誰から聞いたのか、と言ったでしょう?」

「ああ、そのこと」


 閑には、智恵理がそれほどまでに気負う理由がわからなかった。


「別に、言わなくても構わないよ。僕が仕事を受けたのは、言葉を知っていただけが理由じゃないし」


 そもそもそれを辿るのはマナー違反だし、当時の彼女の様子からするに、閑が驚くような相手ではないと考えていた。

 秘密にしていては、関係に傷が入るとでも考えたのだろうか。

 それにしたって、どうして今更?


「でも、言わなくてはいけない気がしたんです。そうでないと、私たちは」

「わかった。わかったよ。そんな悲しそうな顔しないで」


 ひどく恐ろしい言葉を言われる気がして、閑は思わず止めに入った。

 合言葉を教えた相手が誰か程度で、今更この関係が破綻するとでもいうのだろうか。

 そもそも、この関係の破綻とはなんだ?

 対価を得て、愛を囁く。

 ただそれだけの単純な仕事だ。

 それが終わるとすれば、依頼人側から契約を打ち切られる以外にない。


 何度も何度も、その終わりを繰り返してきただろう?


 なのに、どうして、その言葉を聞きたくないと思ってしまったのか。

 わからない。それを探るには、今は余裕がなさすぎる。


「じゃあ、教えて。君に、僕の合言葉を教えたのは」

「はい。あなたのことを教えてくれたのは……」


 まるで一世一代の告白をするように、強く息を吸い込んだ言葉は、生み出されることはなかった。

 急にあたりが明るくなっていく。

 数少ない雲が月から退いたのだ。

 月光に照らされて、花園の花たちが美しく輝き出す。そのことに驚く二人の耳に――

 

 ざり……。

 

 誰かが砂を踏む音がした。

 

 慌てて振り向けば花園に向かって歩いてくる人影が見えた。

 一人ではない。小さなその影は、傍に同じくらい背の低いポニーテールの番犬を侍らせている。

 この学園に通うものならば、それだけでそれが誰だかわかってしまう。


 この月明りの中では、ただの輪郭でしかないというのに。

 

「おねえ、さま……」


 掠れた智恵理の声がした。

 ひどく怯えた彼女は、閑にすがりつくようにその手を握りしめている。


 彼女の降臨を祝福するように、月を覆った雲が晴れていく。

 まるで少女の歩く道を示すように、雲の裂け目からこぼれた月光を開いた花弁が照り返し、一本の道を作る。


 その道を、まるでランウェイでも歩くかのように自負に満ちた顔で少女は進んでいた。

 

 学園生の中でも小さい方の体を、そうとは感じさせない堂々とした歩み。

 一歩、また一歩と進むたびに、その体を包む淡いクリーム生地のネグリジェが翻る。


 その生地の上で、炎が揺らめくように、真っ赤なロングヘアが跳ねて揺れた。

 そこには枝毛一つない。

 丹念な手入れに、生まれながらの髪質の良さを主張する、誰もが憧れる強烈な赤色。

 

 その髪の集う先、芸能人にも稀なほどの小さな顔には、まるで恒星のように、月明りの中でも輝く雲色の目が嵌められている。

 美しい部品を、黄金比に従って配置したかのような顔貌と肉体。

 

 ――美少女。

 

 閑はその形容が似合う人間を、この女しか知らない。

 

しば……陽子ようこ


 さくり。

 二人の目の前で足を止めた彼女は、その美しい顔を笑みの形に歪ませた。


「――こんばんは。安芸さん、白鷺さん」


 そして聞いたものを魅了する美しい声で二人の名前を呼んだ。

 ただそれだけなのに、吐きそうなくらいに背筋が冷えるのを感じていた。

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