第5話

 寮の入り口で妹たちと別れ、二人は見慣れた智恵理の部屋に部屋に飛び込んでいた。

 いつもなら鞄を部屋に置きに行って身なりを整えるのだが、かなり強引に部屋に連れ込まれてしまった。


 促されるまま椅子に腰掛けさせられると、口を挟む間も無くお茶まで用意されてしまった。

 普段の智恵理にはない強引さに、閑は少し面食らってしまう。


「さっきは妹たちがごめんなさい。不快じゃありませんでしたか?」

「大丈夫だよ。わかってて行ったんだから」


 起こるとわかっていて乗り込んだのだ、智恵理が謝る必要はない。

 普段、一緒に帰るときやカフェテラスで昼食を共にするときは、《女王国》の人たちにはあまり近くにこないようにお願いしてある。

 その人とこんなにも間近で言葉を交わせるタイミングが降ってきたのだから、少し興奮して姉との関係を色々と訊ねてしまうのは当然のことだろう。


「それでも迷惑をかけたのは事実ですよね」


 だがそれでは気持ちが収まらないのか、ずずいと顔を近づけてきた智恵理が言った。

 それは謝罪がしたいというよりも、何か別の感情をうかがわせる。


「……もしかして、ヤキモチ焼いてた?」


 指摘に智恵理は耳まで真っ赤になった。


「ち、違います!」

「なんだ、焼いてくれないんだ」

「う……」


 少しずるいと思ったが、ここはあえて引いてみた。

 閑の言葉に面白いくらい百面相をした智恵理は、おずおずと身を引くと深く息を吐いて心を落ち着ける。


「嫌な子だなって、思いませんか?」

「思わないよ。言ってみて」

「……こんな気持ちになったのは、初めてなのです。平然と妹たちに混じっていけるあなたをみて、少し戸惑いながらも質問に答えているあなたをみて、なぜだか胸がもやもやして。どうして私と話してないんだろうって、そう思ってしまったのです」


 智恵理は不安を吐露するように、感情を思い出しながら低い声で語る。


「ああ、これが他の子たちが言っていた嫉妬というものかと。私の中にもそういう感情があったのだな、と。……けれど、それはあまりにも強烈で、勝手な感情で、少し怖くなってしまいました」


 ギュッと智恵理の手がシーツを握りしめた。その感情を表すように綺麗なシーツがしわくちゃされていく。この細い腕にこんなにも力があったのかと思うほどの皺が出来上がった。


「あなたが私だけのものではないのとわかっているのに。こんなにも、欲しくなってしまう」


 恐ろしいものですね、と微苦笑する智恵理はたまらなく美しくて、閑は思わず息を飲んだ。

 初めて知った感情は彼女には大きすぎて。

 けれど、もう彼女はそれとの付き合い方に気付きつつあった。


「……そっか」


 強い子だな、と思う。

 ありがたいな、とも思う。

 だからこそ、閑は彼女を癒さなくてはいけない。


「そんなに思ってくれてありがとう。だから、というのも変だけど、したいことは、ある?」


 その我慢を少しほどくように誘いの言葉を落とす。

 智恵理はたっぷり考えて、小さく唇を開いた。


「……はしたないと思いませんか?」

「大丈夫。言ってごらん」

「その、この前みたいにキスをしたりしてお話をしようかなって」


 なんだそんなことかと言いそうになって、はしたないという言葉の意味を少し考えた。

 可愛らしいお願いだけど、今の彼女にとっては、はしたないことなのだろう。

 あんな風にキスをねだっておいてなにをとは思うけれど。


「今、散々にねだったくせにと思いませんでした?」


 黙って視線をそらすと、頬をつかんで前を向かされた。


「……ごめん」

「もう……たしかにあの時の私は知りたい一心で先走りました。だけど、それがいかに恥ずかしいことだったか、今はわかってるんですよ」

「そっか」


 この短い間に、智恵理は変わっている。

 とても愛らしく、とても美しく。蕾が開いていくように。


「そ、それで、ダメですか?」

「……いいよ。あの時みたいにしよう」

「ありがとう。閑」


 甘えるように智恵理は閑へ口付ける。

 それが恥ずかしいことだとわかりながら、彼女は貪欲に求めてくる。

 それは息が苦しくなるほどで、貪られていると表するのがぴったりだった。


「はあ……ふふ、ごめんなさい。汚くなっちゃいましたね」

「ううん、そんなことないよ」

「そうですか?」


 彼女の唾液が汚いだなんて思わないけれど、この状態のまま話すのはたしかに少し気恥ずかしい。

 閑がハンカチを取り出そうとするよりも早く、智恵理が口を拭ってくれた。


「ごめんね、ありがとう」

「いいえ、私の方こそごめんなさい。なんだか、ついもっともっとと思ってしまって」


 熱っぽい瞳で、智絵里は閑の唇をなぞる。


「いいんだよ。今は、そういう時間だ」

「節度がなくても?」

「君はきちんとそこを分けようとしてるじゃないか。気にしすぎだよ」

「でも……なんだか、溺れてしまうような気がして」

「少し怖い?」

「……はい」


 初めて与えられたものに夢中になってしまうのはよくあることだ。


「大丈夫だよ、僕が見てるから。君が溺れてしまわないように、ちゃんと注意するから」

「本当に?」

「キスの時だって、そうだったでしょ?」


 言われて、散々に引き伸ばされたことを思い出したのか、ふっと笑った。


「そうですね。あなたは、そういう人でした」

「もっとインスタントなものを求められたなら別だけどね。君は僕に、たしかなものを求めたから」

「そんなこといって、インスタントな相手でも私みたいにしたんじゃないですか?」

「どうして?」

「あなたは優しいから」

「買いかぶりすぎだよ。本当に優しいなら、こんな仕事はしないさ」

「そう、なんですか?」

「うん。もちろん、優しいと見てもらえてるのは嬉しいけどね。優しすぎると、心を壊してしまうから」


 本当に優しいものは、この仕事を長く続けられない。


「僕みたいに最後の学年まで務めるのは少ないって言われたことがあるよ。みんな途中でやめてしまうんだって」


 愛を囁いたあと、感情でしわくちゃになったシーツの跡に気づいた瞬間、運んでいたものの本当の重さに気づいて、みんな墜落していく。

 《白烏》での活動は、もって一年、長くて二年だ。


「だからきっと、僕は割り切ってるんだよ」


 それを超える期間、活動できている閑はきっと、智恵理のように大切なものを知らないのだろう。


 そのことを語る自分が、あいまいな笑みを浮かべていることに閑は気づいているのだろうか?

 なんでもないように語る声が、どうしようもなく寂しく聞こえることに、気づいているのだろうか。


 それを唯一知る智恵理は、ほんの少し目を伏せて、目をそらすように話題を切り替えた。


「……元締めみたいな人がいるんですか?」


 少し口を滑らせたな、と思いつつ閑は頷いた。


「まあ、一応ね。外とのパイプは代々受け継いでるけど、引き継ぐ子がいなくなった時に預かる役を持ってる人はいる」

「それは教務の側にということですよね?」

「ノーコメント。聞かなかったことにして」


 実質イエスと言ったようなものだ。元々あまり他の連中とは話さないと言っていたのが仇になった。

 智恵理なら、あと少しのヒントで正解に辿り着いてしまうだろう。

 元締めの顔を浮かべながら閑は頭を振った。

 追及を拒む閑の態度に、智恵理は少し吐息する。


「ふふふ、ではこれは私と閑の秘密ということで」

「そうしてくれると助かるよ」

「はい」


 なぜだか智恵理は嬉しそうだった。

 秘密を握れたからというよりも、それを共有する関係になれたことを喜んでいるように見えた。


 まるで普通に恋愛を楽しんでいるよう……。

 頭の中に浮かぶ言葉。それはうまく智恵理の望みを叶えているということ。


「じゃあ、《烏》を始めた理由は聞いても平気ですか?」

「それくらいなら大丈夫かな」


 気をつける必要はあるが、元締めに辿り着かれる心配はないだろう。

 そもそも、勧誘そのものは公然と行なっているのだから。


「以前、僕の家が商家って話はしただろう?」

「ええ。たしか規模の小さなところなんですよね」

「うん。それで将来的なパイプ作りを含めて所属したってわけ」

「閑が家を継ぐんですか?」

「出来のいい部下を養子に取るか、婿養子にするかとか色々話は出てるみたいだけど……少なくとも、嫁ぐって形にはならないんじゃないかな。兄とかがいればまた違ったのかもしれないけど、うちは僕しかいないから」


 安芸はそれなりに長く続いた家だ。閑が嫁ぐとなれば、家の名は絶えることになる。

 どうも父は企業としての名とは別に、家そのものを残したいという欲もあるらしい。

 そんなにもこだわるのなら、出来ることはなんでもして子供を増やせばよかったのにと思わなくはない。

 あるいは、そうして方々手を尽くしても、閑しか生まれなかったのかもしれない。

 技術が進歩しても、命を授かるのは天運であることに変わりはない。


「そうなんですか……」

「まあ、少なくとも大学が終わって数年は待ってくれるみたいだから。それまでに僕が使い物になるかどうか見極めたいんじゃないかな」


 これからの努力で多少幅はあるものの、家業を継ぐことに変わりはない。それ自体に不満はないのだが……。


「でもまあ、いくら腕が良くても性格が終わってる男を婿に取りたくはないから、なるべくなら自分で背負いたいものだけどね」

「候補の方、ひどいんですか?」

「そういうのもいるってだけだよ。……とまあ、僕が《烏》に入った理由はそんな感じ。裏の方はまだ秘密。いい?」


 こくり、智恵理は頷いた。元より聞けると思っていなかったのだろう。


「家といえば智恵理のところはどうなの?」

「うーん、私は普通に使われるだけだと思います。両親はあなたの幸せを、とは言っていましたが、それは両親なりのものでしょうし。実際、何か特別にしたいこともありませんしね」

「あーそうか……ごめん、愚問だったね」


 白鷺の家は全盛期と比べれば勢力を落としたとはいえ、名家と呼んで差し支えない家だ。

 その娘ともなれば引く手あまただろうし、上手いことよい相手と巡り合えば、勢力を再び増すことも夢ではないだろう。

 それを彼女の両親が望んでいるかはわからないが、彼女のパートナーには相応の格が求められるに違いない。


「いいえ、閑のように特殊な場合もありますから。さくらなんかも嫁ぐのではなく娶ると言ってましたし」

「へえ、黒峰家はそうなのか」


 家の話をするほど仲良くはないから細かいところはわからないが、あそこにはたしか弟がいたはずだったから、意外な選択肢だった。


「まあ、子離れできんだけだ、と本人は言ってましたけど。でも、家を出たいとも言ってたので……どうするつもりなんでしょう」

「それは女王を追いたいって?」

「はい。できれば後をついて歩きたいみたいですね。使われると、そうもいきませんし」

「そう言う意味では、子離れ出来てないのは有利なのかな」

「かもしれませんね」


 ふと、疑問が湧いた。


「女王はどうするんだろうか」


 女王は、美女揃いの学園でも並ぶ者がいないほどの美貌だ。

 相手には困らないだろうし、価値も高いだろう。

 加えてソサエティを治めていたともなれば、聡明さは折り紙付きだ。

 すでに社交界では、水面下の争いが起きているとも聞いている。

 

 そして、その主導権はすべて女王の手にある。

 まさに、女王のお相手選びというわけだ。

 

「お姉さまは、出来れば自立したい方だとこぼしているのを聞いたことがあります」

「へえ。モラトリアム中に遊びきったら旦那を操縦するタイプかと思ってた」


 女王は人心を操るのに長けた、したたかな女だ。

 並大抵の男では彼女の要望を跳ね除けられず、言われるがままになるだろう。


「ふふふ。私もです。それも簡単に出来そうですしね。でも、それをこぼした時はなにか歯に引っかかるような言い方をしていた気がします」

「思うところがあるのかな」

「だから今も行方をくらましているんではないでしょうか」

「たしかに、ね……」


 未だに女王が見つかったという話は聞かない。

 本当に一体どこに隠れているのだろう?

 そして、隠れている間、なにをしているのだろう。


「あの人、本当にどこにいるんだろう」

「案外近くにいたりするかもしれないですよ?」

「灯台下暗しって? たしかに、ここは人目も限られてるし隠れやすいかもしれないけど……食事はどうするんだい?」

「あっ、それがありましたね」


 寮の食事は人数分用意されるものだ。好き嫌いやアレルギーで別のメニューを食べている者もいるけれど、用意される皿の数は変わらない。


「部屋で食べる子もいますけど、常に半分こしてたら健康に影響がありますし……」

「そもそも学年が上がってから急に部屋で食べるようになれば、疑問の目で見られるからね」


 どう足掻いても不自然さを隠すことはできないわけだ。


「うーん……いいひらめきだと思ったのですが」

「食事の問題さえクリア出来れば、正解のような気もするけどね」


 その一点さえクリアしてしまえば、現代社会から隔離されたこの場所は、隠れるのに打ってつけだろう。


「でも、どうしてそう思ったの?」

「もう数ヶ月経つのにあれほど目立つ人が見つかっていないので、もしかしたらって。あと、この寮ってオバケが出るって話があるじゃないですか」

「ああー……」


 なにか思い当たる節があるような閑の反応に、智恵理は首を傾げた。


「閑、おばけダメなんですか?」

「いやその、たぶんそのおばけって、僕らじゃないかなって」

「……ええっと、どういうことです?」

「ほら、前にこの部屋に来た時に仕掛けがあるって話をしただろう?」

「ええ。……あ、そういうことですか?」

「うん」


 話が早くて助かる。


「たしかにそれならいないはずの人影を見たり、それが逃げて行ったり、消えたりするのにも説明が付きますね」

「中には本物もいたんだろうけど、大半は僕らだと思う」

「えっ」


 一瞬空気が凍った。


「本物?」

「いや、幽霊の話については、僕らの間でもたまに話題に出るんだよ。見つかったやつ誰だって」


 《白烏》が寮内を移動するのに使っている仕掛けは秘匿されたものではないが、それでも普段使いしているような人間は限られる。


「アレは知っていれば誰でも使えるし、《ご奉仕委員会》の連中も使ってるはずだから、使用頻度そのものは高いんだ。でも、幽霊って特定の時間帯にしか見つかってないだろう?」

「そ、そうですね」

「あんな時間に委員会の連中は使わないだろうからって、一度スケジュールを確認させられたことがあるんだよね」

「……誰も仕事がない日だった、と?」

「そうだね」


 会議が騒然としたことを覚えている。

 こんな商売をしていても年頃の少女の集まりだ。幽霊騒ぎは大好物なのだ。

 もちろん、《白烏》でも《ご奉仕委員会》でもない、第三者の可能性の方が高い。

 幽霊などフィクションの中の存在でしかないのだから。


「……まあ、それが女王だったら面白いけどね」

「でも、食事の問題があるから、その線はないんですよね」

「彼女を匿うのに、教務が関わってないならだけどね」


 教師たちがわざわざ女王に手を貸す理由はないし、無理筋だろうとは思う。

 だが、もしも閑や智恵理の知らない、学園側が女王を匿うに足る理由があったなら……。


「結局、よくわかりませんね」

「ま、だったら面白いなっていうお話だよね」


 まったく、せっかくの二人きりなのに、余計な話に花を咲かせてしまった。

 ただ智恵理は少し満足そうなので、これで良かったようにも思う。


(それにしても、この寮に、か)


 通り抜けるために使っている空間で時折耳にする足音を思い出す。

 まさか、この寮に隠れ住むことができる場所があるのだろうか……。

 この寮は古い建物で謎も多いし……。


 沈みかけた思考を、智恵理の言葉が遮る。


「ねえ、閑。今夜は、いつまでいてくれますか?」

「ん? んー、君が寝る時間までいてほしいなら、また改めて来るよ」

「さっき話した場所を使って?」

「うん」


 頷く閑に、智恵理は少し考えるような顔をして。


「ねぇ、寮の外へ行ってみませんか?」

「見たい場所でも?」

「寮の近くって、手入れされた花園があるじゃないですか。たしか今日は満月でしたし、見に行くのも、どうかなぁって」

「それは魅力的な提案だけど、今日はダメ」

「どうして?」

「あそこを初めて通る人にそこまで遠出はさせられないよ。それに、外へ続く道があったかは覚えてないんだ。あったような気はするんだけど……」


 昔、道を教えられた時に見せられた地図には、外へ出られるような道が載っていた気がする。

 だがその記憶が正確とは限らない。何かと混同している可能性もある。

 確認のために、もう一度、地図を見なくてはならないだろう。


「あら、残念です……あ、じゃあ、閑の部屋に行く、というのは?」

「それならいいよ」

「やった! じゃあ、約束です。迎えに来てくださいね」

「うん。またあとでね」


 これは少し、部屋の片付けが必要そうだ。

 喜びに満ちた顔の智恵理をみながら、閑は小さくため息をついた。

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