第4話

 二人はなんの変哲もない恋人同士な日々を続けていた。

 別クラスの智恵理と休み時間のたびに言葉を交わし、昼休みになれば昼食を共にする。

 お弁当の日は、週に一度だけ。お互いの負担にならないように、そう決めた。

 智恵理ばかりじゃ不公平だからと閑が作ることもあった。


 放課後はソサエティの活動がないときには一緒に寮まで帰る。

 どちらかが忙しい時には、智恵理の部屋で抱き合って過ごした。

 いつの間にか、智恵理をハグすることがお気に入りになってきた。


 そんな物語のような平穏な日々。

 けれど、いつまでもそこで足踏みしているわけにはいかない。


「今夜にしようと思うんだ」


 寮の東西を分ける回廊、いつも別れるその場所で、閑は智恵理にそう告げた。

 智恵理はずっと先に進むことを望んでいた。

 迷い、躊躇いながらも己を曝け出そうとしていた。


 だから閑はそれに応えなくてはならない。


「それは……本当にいいのですか? いえ、そもそも消灯時刻を超えれば、あなたは」


 閑の提案を一度は喜んだ智恵理の顔は、すぐさま不安に飲み込まれた。

 消灯時間後の部屋移動が明らかとなれば、厳しい罰を受けることになる。

 すぐ近くの部屋ならともかく、二人の部屋は正反対の位置だ。

 どう頑張っても今いる回廊を抜けなくてはいけないし、ここは特に寮監も目を光らせている場所だ。

 それを甘くみた新入生が、気の抜けてきた五月ごろに捕まるのは毎年の風物詩だった。


 けれど、それをすり抜ける手段を閑は持っている。

 不安そうな顔の智恵理の手を取り、軽く指を絡めながら握る。

 大丈夫だよと伝えるように、少しだけ力を込めて。


「安心して。ちゃんと会えるよ」

「でも、どうやって?」

「前に言っただろう? この寮には仕掛けがあるってね」

「そう、でしたね」


 納得の言葉には、どこか恐れの色があって、握った手からは少しずつ温度が抜けていく。

 それは望んできた時が来たことへの恐れなのだろうか?

 いや、閑の知る白鷺智恵理は、その事でこれほど怯えたりするような少女ではない。

 そもそも、一度は驚くほど軽く誘ってきたくらいなのだから、何か閑の知らないものが眠っているのだ。


「……怖い?」

「いいえ……いえ、少し怖い、です」

「それなら日を改めても」


 閑の言葉に、智恵理は首を振った。

 違う、怖いのはそれじゃないと。


「あなたなら大丈夫だとわかっているのですけど……」


 きゅっと、智恵理は自分を抱きしめるように腕を掴んだ。


「……もしも、もしも。私があなたの思うような少女でないとしても、あなたは」


 声と体を震わせながら、智恵理が見上げてくる。

 大輪の花に似た眼は涙に濡れて、それほどまでに恐れる何かがあることを示唆していた。


「大丈夫だよ。たとえ君が化け物だとしても、僕は変わらないよ」


 智恵理の目から溢れ出した涙を拭いながら、閑は彼女を抱きしめる。


「だから安心して。本当に嫌なら、今日は会うだけでも構わないから」

「……」


 腕の中の少女は何も答えなかった。

 ただ、しばらく涙を流して震えていた。


「……わかり、ました。あなたなら」


 小さな決意の声が聞こえた。

 それから、とん、と体が押されて智恵理が腕を抜け出した。


「私、待っています。待っていますから」


 そう言って智恵理は儚げな笑みを浮かべた。

 その目尻は赤く、一度離れなければいけないことを拒みたくなるほどに、閑の胸を打った。


「うん、必ずいくよ。待っててね」

 

     ***

 

 一つ、二つ、三つ。

 叩く音で仕掛けを解いて、か細い灯りが照らす空間に出る。


 そこは寮の東西を繋げる秘密の通路。

 どうして今も塞がれていないのかわからない場所。

 昔必要だった理由はわからなくはない。

 けれど、どうして今も必要なのだろう。


 それはいったい誰の為に?


 そんなことを考えながら、智恵理に会う為に前へ進む。

 あるものは便利に使わせてもらうだけだ。


 足音が反響する中、長い長い道を通っていると、自分の物とは違う足音が聞こえた気がした。

 通路の途中には階段がある。他の階で誰か移動していれば聞こえてもおかしくはない。

 だが、それにしては足音が遅かった。

 自分のように、多少は早足の物が大抵なのに。


(まさか、ね)


 ふと思い出すのは、寮の中で神隠しにあったという生徒の話。

 今でも時折、夜中に廊下に現れるという少女の話。

 けれど、それは下手を打った《白烏》の誰かだろうと閑は思っている。

 実際、こんな隠し通路を使って移動していれば、誰かに見られることもあるだろうし、それに気づいたこちらはすぐ隠し通路に戻って消えるからだ。


 だけどもし、それがどの《白烏》でもないのなら……。

 この階段が繋がる先のどこかに、幽霊がいるのだろうか?


(そんなもの、いるはずがない)


 閑は幽霊を信じていない。

 もしそんなものがいれば、まず間違いなく父が被害にあっているからだ。

 あの人はそれだけの恨みを買っている。


 ならこの音は人間の立てる音で。果たしてそれは誰なのだろう?

 誰も知らぬ何者かが寮に隠れ住んでいるとでもいうのか。


(……ま、気のせいか)


 おおかた、家鳴りを勘違いでもしたのだろう。

 くだらない妄想を打ち消して、薄暗い廊下に出る。

 バレないように背後の扉に手をかけたまま周囲をうかがった。


 廊下は静まり返っている。奇妙な気配はない。

 寮監も今はここにはいなさそうだ。

 

 よし、と通路に続く扉を閉めて、そっと廊下を移動する。

 そうして通いなれた彼女の部屋へと辿り着き、決めておいた回数だけ扉をノックした。


「……本当に来た」


 驚いた顔で扉を開けた智恵理に微笑みながら部屋に滑り込む。

 これでようやく一安心だった。


「来れるものなのですね」

「やり方がわかっていれば、ね」

「私にも教えてくれますか?」

「考えておくよ。あそこはあんまり誰かを通したい場所じゃない」

「わかりました」


 けれど、いつかは教えることになるのだろう。

 あの通路はあまりにも便利だから。


 そんなことを考えながら息を落ち着かせた閑は、智恵理の格好を改めて見た。

 常夜灯の薄明かりの中、彼女が着ているのは、薄水色をした襟の広いシャツとズボンのツーピースタイプのパジャマ。

 ろくな装飾もないシンプルなそれは、とても庶民的でなんだか少し意外だった。


「パジャマ、シンプルだけど可愛いね。とても似合ってる」

「ありがとうございます。閑のも可愛いですよ」


 対する閑のものは脱ぎやすいワンピースタイプだ。

 襟や袖、胸元にレースがあしらわれてふんわりとした雰囲気のそれは、普段の閑の雰囲気からはかけ離れたものだ。


「そういうのも着るんですね」

「実はこういう服の方が趣味なんだ。意外かな?」

「いいえ。可愛らしくていいと思います」

「ありがとう」


 二人してパジャマを褒めながら、ベッドの近くへ移動した。

 先に腰を下ろすよう促された閑が淵に座ると、智恵理はその前に立って自分のパジャマに手をかけた。


「あなたに一つ隠していたことがあります」

「それは僕が知っておかないといけないこと?」

「はい。いえ、隠していたところでもうすぐ分かることですけど……先に説明しておきたくて」


 傷か何かあるんだろうか。

 そう疑問を浮かべた閑に見せつけるようにして智恵理がシャツを脱いだ。


 薄明かりの中、はらりと放られたシャツと肌着が重なる音がする。

 それから彼女は長いその髪をかき分けると、くるりと背中を向いた。


「これを、どう、思いますか?」


 そこにあったのは、縦横に走る傷跡だった。


 閑にだって似たような傷跡はいくつかある。

 子供の頃にはしゃぎすぎた結果、残ってしまった傷だ。

 だけど、智恵理のそれはあまりにも大きく、多すぎた。


「……それが、君が怖がってたこと?」


 智恵理は答えなかった。

 閑は、昼間の怯えた姿を思い出す。けれど、あの怯え方と目の前の傷跡がうまく繋がらなかった。

 閑は見せられたものをどう受け止めていいか考えながら口を開く。


「訊いてもいい?」

「はい」


 傷を晒したままの智恵理が頷く。


「それは教育係に?」

「一部はそうですね。でも、大半は母がつけたものです」

「それは……今のお母さん?」


 智恵理が息を吞む気配がした。

 どうして知っているんだろうという気配が滲んでいる。


「ほら、うちは商売柄、いろんな話を耳にするから」

「ああ、なるほど……」


 白鷺の現当主が何回か離婚しているというのは有名な話だった。

 それは娘を守るためだったのかもしれない。


「一番大きな……ええと、指さなくてもわかります?」

「大丈夫だよ」

「助かります。変な姿勢になるので。で、ええと……それが、たしか産みの母がつけたものだったと思います」

「……そうなんだ」

「はい。なんでも、悪いものを遠ざけるためだとか。そんな奇妙な文化があるような家の出ではなかったと思うのですけどね。母にはありませんでしたし」


 智恵理はなんでもないことのように言う。

 まるで他人事のように。彼女にとっては、この傷自体はどうでもいいのだろう。


 なら、何を恐れていたのだろうか?

 かき分けていた髪を下ろし、傷跡を隠した智恵理が閑の隣に腰を下ろした。

 薄明りの中、存在を確かめるように腕にしがみついてくる。


「閑はそういう経験ってありますか?」

「んー、まあうちは厳しかったから、勉強中によそ見をすると手を打たれたりはしたかな。傷が残るようにはしなかったみたいだね。傷があると、選択肢が狭まるから」

「ああ、そういう考え方もあるんですね」

「どこもそうじゃないかな。だから、君はある意味特殊なのかもね」

「なるほど……」


 閑の言葉に、智恵理は深く感心すると、楽しそうに笑った。


「でも、初めてです」

「なにが?」

「閑みたいな反応をしてくれた人。みんな、何か可哀想なものを見るような目になるんですよね。こんなのただの跡なのに。だから、見せるのが不安だったんです。あなたも変わってしまうんじゃないかって」


 たしかに、この学園に通うような子なら、大抵は心配するだろうと思う。

 閑だって、純粋な友人に見せられたなら多少は心配したかもしれない。


 けれど、この関係はビジネスで、求められないことには足を踏み入れないのがマナーだ。

 だから閑はその傷跡を見ても、眉を動かさないでいられた。


「でも、あなたは違った。人の瑕疵を見つけたとも喜ばず、虐待を受けたかわいそうな人扱いもしない、フラットな反応をしてくれた。だから、嬉しいんです」


 甘えるように智恵理が閑の手に指を絡めてくる。


「私が愛がわからないのは、これのせいなのかと時折思うことがあります。親に傷つけられるというのは、それだけ深い傷だとものの本にはあります。たしかに、母は私に傷跡を残しました。けれど、この傷以外に、あの人が私に手を上げたことは一度もなかったのです」


 智恵理の母がよくわかなかった。

 悪いものを遠ざけるといいつつも、自分にはその跡がない事実は何を意味しているのだろう?

 智恵理の中に本当は何を見たのだろうか。


「覚えている限り、あの人は誠実に私を愛していました。だからきっと、この傷はたしかに母の愛なのです。けれど、これを見た人は誰もが眉をひそめ、そうだとは認めてくれません。父は、母のしたことを認めることができず、二度と顔を見せないように言いました。傷を見たことのある友人は、母を否定します。けれど、あの子たちだって、傷が残っていないだけで、手を上げられたことはあるのですから、いったい、私と何が違うんでしょう。どうしてあの子たちは愛を知り、私はわからないのか。愛とはいったい、なんなのでしょうか?」


 切実な問いかけだった。


 愛の形は千差万別だと世間は言う。

 けれども、人々に受け入れられる愛の形が、その実わずかしかないのも事実だった。


 閑はそういう話をたくさん聞いてきたし、《白烏》の経験で体験もしてきた。

 彼女を買った少女たちは、皆、己の愛の形に苦しんでいた。


 そして今、目の前の少女もまた苦しんでいる。

 その形がわからなくて、見えなくて、怯えている。


「君はそれを知りたいんだよね」

「はい。知りたくて、つい逸ってしまう私を、閑は懸命に引き止めてくれました。一歩一歩、段階を踏ませて先に進んでくれました。本当は、それに応えることだって出来たでしょうにね。だから……」


 智恵理は一度言葉を切ると、何度も呼吸をした。

 まるで一世一代の告白を前にしたように、緊張で繋いだ手が冷えていくのを感じる。

 それを促すことは簡単だった。

 

 一言、手を引いてあげればいい。

 

 いくらでも薄っぺらい言葉を並び立てて、よくある形の愛を見せてあげてもいい。

 けれど、それでは意味がない。智恵理の求めるものには届かない。


 だから閑はただ待った。

 待って、待って、自分なりの言葉を見つけた智恵理は、ゆっくりと口を開いた。


「私を愛してくれますか?」


 出てきたのはありふれた言葉だった。

 だけれども、そうは感じさせないたくさんの感情が滲んでいた。


 閑はゆっくりと頷く。

 複雑な感情の入り混じる、マーブル模様の告白を、大切に咀嚼する。


「……もちろん」


 閑を見上げながら瞳を震わせる智恵理を抱きしめて、優しくキスをした。

 そうして二人は、宵の中に互いの香りを撒きながら共に眠った。


 新しい一歩を踏み出した智恵理の寝顔は、とても清々しいもので。

 去り際、閑はその額に口付けを落としていった。

 

   ***

 

 その日の朝は、とても澄み切った晴れの日だった。


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」


 寮から学び舎へと伸びる並木道には、お淑やかな挨拶が飛び交っている。

 スカートの裾が翻らないように、ゆったりとした歩幅で歩く彼女たちは、判で押したような口調で友人たちに朝の挨拶を告げている。


「ごきげんよう、安芸さん」

「ああ、おはよう」


 話しかけてきた名前も知らない誰かに少し低い声色で答えながら、閑も和を乱さないように歩く。

 胸元に薔薇のバッジをつけていたから、おそらく女王国所属の娘だったのだろう。

 元々学内で知らない相手に話しかけられることはあったが、最近は数が増えた。

 それは智恵理と付き合い始めたからなのだろう。


(智恵理、いるかな)


 智恵理はいつも派閥の者たちに守られるように団子になって登校しているから、遠目からでも簡単にわかる。


 ……いた。少し先に、ゆっくりと道を歩く一団がいる。


 少しスカートを膨らませるくらいに歩みを早めて、その集団へ近づいていく。

 すると、護衛のように周囲に目を光らせていた少女の一人が閑に気がついた。

 途端、わっと波紋が広がるようにヒソヒソ声が湧き上がった。


 親切心のお節介。中枢にいるだろう智恵理に閑の到着を伝える声。敬愛する姉の恋人を見た歓声。


 その海の中、人波を越えた先にいた智恵理がこちらを振り向く。

 相変わらず綺麗な目をしているな。


 そんな感想を抱いた閑をよそに、彼女を認識した智恵理は、恥ずかしがるように目をそらして、前を向くなり歩みを早くしてしまった。

 そんな姉の姿を見た妹たちは、二人の間に何かあったことを悟り、嘆いたり喜んだりしている。


 一方、当の閑はといえば、その真っ当なリアクションに呆気にとられてしまった。


「え、なにそれ」


 ……君、そんなキャラだったかい?


 智恵理はズレた子だが、本人曰く羞恥心はある。

 勢いに任せて大きなことを言えば、あとで恥ずかしがる。

 だけど、初めての会話をした日から、彼女は大抵の人が恥ずかしがることを真顔で告げてきたし、そのことを追及しても目をそらしたりはしなかった。


 それが、目をそらした。

 しかも、顔を赤くしたようにも見えた。

 

 これではまるで、普通の女の子のようだ。

 いいや、いいや、彼女も普通の女の子のなのだけども。


 呆然とした閑をよそに、智恵理たちは通学路を進んでいく。

 

 残された閑は1人寂しく登校する羽目になった。

 久しぶりの一人ぼっちは、何か大切なものが欠けたような気がしていた。

 

     ***

 

「今日は随分と上の空だったな」


 午前の授業も一区切り。

 午後は受けないからと寮へ帰るクラスメイトもいる中で、閑に話しかけてきたのは黒峰さくらだった。

 元々会話を交わす程度には仲がいいが、敵対派閥の長と付き合っているだけあって、今話しかけられるのには少し裏を感じてしまう。


「さくら……今日は登校日だったのか」

「ああ、生憎とね。朝の興味深いやりとりもバッチリ見せてもらった」


 智恵理に目をそらされた件だろう。

 さくらは今まで見たことがないような嬉しそうな顔をしている。

 やはり敵対派閥だけあってか、スキャンダラスな出来事は嬉しいのだろうか。


「いやはや、あの子があんな顔をするとはね」

「君だって、見たことがない顔をしているよ」

「な、なに……!?」


 閑の指摘に、さくらはコンパクトを取り出して自分の顔を改める。

 そんなことをしなくても口角が上がっていることくらいわかるだろうに……。


 よほど予想外だったのか、鏡の中の自分の顔をしばらく揉み回していた。


「ふ、ふむ……まあ、私としても智恵理のことは気になっていてな」


 その行為も満足したのか、ようやく口を開いたさくらに閑は疑問を覚えた。

 さくらは女王に絶対の忠誠を誓った女だ。

 派閥を作ったのも、その長となったのも、女王が何かしら彼女に言いつけを残したからだと言われているほどだった。


 けれど、今の彼女のそれは敵対者に対するような声音ではなかった。強制された者の言い方でもなかった。

 まるで親しい友人を見守っているかのような、優しい声色。


「……お姉さまに言われたんじゃなくて、かい?」


 閑がつい口にしてしまった言葉に、さくらはひどく心外そうな顔をした。


「君は私をロボットか何かだと思っているのか?」

「いや、すまない。だけど昔はなにかにつけてそう言ってたじゃないか」

「う、まあ、そうだが……案外とみんなそう思っているのか?」


 声をひそめて訊ねてきた内容に、閑は苦笑してしまった。


「僕ほどには思ってないと思うけど、規則をガチガチに守らせてくる杓子定規な子だなとは思われてるんじゃないかな」

「う、むう……そうなのか」


 さくらは閑の感想がひどくショックだったようで、しばらく無言になってしまった。

 正直いたたまれない気分なので、話の続きを促すことにした。


「ええと、それで、君は智恵理が気になってるって話だけど」

「ああ、うん! すまない、話の途中だったな」


 おほん、と咳払いをしてさくらは話を再開した。


「たしかにあの子は主の特別だ。会うことができない間のことをよろしく頼まれてもいる。だが、その以前に、智恵理は私の同輩なんだ」

「……理屈はわかるけど。敵対してるんじゃないのかい?」

「ああ、外からはそう見えるのか。別に私たちは血で血を拭う争いをしているわけではないよ。関係にも何か変化があったわけでもない」


 足の引っ張り合いを是としていたソサエティだから、てっきり後継者争いはそういう醜いものなのだと思っていた。

 だが案外とトップ同士は仲がいいらしい。


「しかし妹たちが小競り合いをしているのはたしかだ。実にくすぐったい気分だし、喧嘩沙汰にはならないように目を光らせている」

「色々と面倒を背負ってるわけだ」

「後処理とはそういうものだよ」


 まるで《女王国》は既に無くなったかのような言い方だった。

 どうにも謎の多いソサエティだ。


「ともかくね、私たちは付き合いが長いんだ。その私から見て、あの子は危うい。主もおそらくは同意見だろう」

「だから、今日のを見て安心したって?」

「そうだ。あんな顔もできるのかと」

「恥じらい顔くらい、見せたことあるんじゃないのかい」


 智恵理にだって羞恥心があるのだ。

 何かやらかして、目をそらして逃げ出したことくらいあるだろう。


「恥じらい? ふむ……なるほど」


 だが、どうやら閑の言葉は的外れだったらしい。

 眉を持ち上げたさくらが浅く笑った。


「あれが君にはそう見えたのか」

「どういう意味?」

「あれは……いや、私が語ることではないな」


 いうなり、さくらは小さな便箋を取り出した。


「済まない、実は頼まれごとがあったんだ」

「それが本命?」

「そう。ついでに少し話をしてみたかったんだよ。あの子が見出した女とね」

「別に、普段から話はしてるだろ」

「はは、まあそうだけど。少し気持ちを変えるだけで見え方は変わるのだ。……さて、あまり引き止めると後が怖いな。早めにそれを読んでいくと良い。ではな」


 言うだけ言って満足げな顔をしたさくらは去っていった。


 まったくなんだったのだろう?

 親友の恋人を冷やかしにでもきたかのようだった。

 いいや、向こうからすれば、正しくそういう気分だったのだろうが……。


「まったく……」


 奇妙なことの続く日だ。

 そう思いながら便箋を開いて……。

 

 閑は、撃ち出されるように教室を飛び出していった。

 

     ***

 

「はぁ……はぁ……」


 全力疾走したのはいつぶりだったろう。

 激しく息を乱しながら、閑はいつも智恵理と昼食を取っている中庭にたどり着いた。

 午後の授業が近づいているからか、人の姿はほとんどなくて。


 ぼうっと座っている智恵理を見つけるのに、そう時間はかからなかった。


 けれど、サンドイッチを包んだ布を膝に乗せて庭を眺めている彼女は、誰かを待っているようには見えなくて。

 まるで、もうとっくにやりたいことは終わって、立ち去る前のような。

 ふっと風に飛ばされるように消えてしまいそうな雰囲気をしていて。


「智恵理!」


 わっと胸の中に恐ろしさが芽生えた閑は、つい声を荒げていた。


 声に、弾かれるように智恵理が振り向く。

 閑に気づいた彼女に笑みが咲いた。彼女は軽やかな足取りで目の前にやってくる。


「来てくれてありがとう、閑。その……今朝はごめんなさい。改めて顔を合わせると、なんて言えばいいのかしら、ええと……そう、胸。胸がいっぱいになってしまって、どうしていいか……」


 朝の非礼を詫びつつ、その理由を述べる智恵理は閑の顔を見ようとしなかった。

 がんばって顔を見ないようにしているかのように、視線を合わせてしまいそうになるたび、胸元へと目を向けていた。


「だから、その……あなたのことがどう、とか、昨日のことが悪かったとか、そういうことではないの。ええ。あれはとても良い気分だったし、素直に感謝しているの」


 よくよく見れば、智恵理の頬は微かに赤みを帯びている。

 閑の声を聞いただけでも胸が騒ぎ出してしまうのだ。


 智恵理がそんな愛らしい反応を見せる一方で、閑の心中は穏やかではなかった。

 どうして自分はあんな声をあげたのか。その理由がわからなかったからだ。


 もしもここで間に合わなかったとしても、また改めて連絡を取れば良いだけだ。

 智恵理はこんなことで仕事を打ち切るような人間ではない。

 それは、今、たっぷりと言葉を費やして謝罪を述べていることからも明らかだ。


 だから、あの時声をかけなくても、何かを失うことはなかった。

 何も。何一つとして。


 それなのに……自分はいったい、何を恐れたのだろう?


「……やっぱり、怒っていますか?」


 声を掛けられて、はっと我に返った。


 思考に没頭しすぎて、智恵理のことが意識から抜け落ちていた。

 目の前の彼女は不安そうな目で閑の胸元を見つめている。


「ううん、怒ってないよ。そういうことはよくあるから」

「そうなのですか? 私が変なのではなくて?」

「うん」

「よかった……じゃあ、どうしてなんだかぼうっとしていたのです? 意地悪ですか?」


 まさか自己分析をしていて智恵理のことを忘れていたとは言えない。

 だからここは彼女が敷いてくれたレールに乗ろうと、閑は気持ちを切り替えた。


「よくわかったね。君があまりにも可愛いから」


 いつもなら「軽口を」とすぐに反論がくるような言葉だ。

 けれど、今日はうまく噛み合わないらしい。


「そ、そんな、そんなことを言われたら、困り……ます」


 智恵理は耳まで真っ赤にして俯いてしまった。

 その姿はとてつもなく愛らしいけれど、このままでは埒があかない。


「ごめんね。色々と初めての経験で戸惑っているところに意地悪をするべきじゃなかった」

「それは別にいいのですが……私こそごめんなさい。やりにくいですよね」


 なぜだかお互いに謝ってしまって。

 ふと、笑い出す。


「じゃあお互い様ってことで、いいかな」

「はい」


 まだ顔は赤いし、視線は合わないけれど。

 もう黙り込んでしまうことはなさそうだった。


「パン、いただいてもいいかな?」

「どうぞ。私は先にいただいてしまったので。無駄にならなくてよかった」

「間に合ってよかったよ。……それにしても、どうしてさくらに頼んだの」

「以前それなりに仲がいいと言っていたでしょう? 他の子に頼んでもよかったのですけど、見ず知らずの子に手紙を渡されるよりは信用できるかな、と」


 実際こうして駆けつけられたのだから、その人選は正しかった。


「なるほどね。でも、二人は敵対してると思ってたから驚いたよ」

「そういう噂はよく耳にしますね。実際、妹たちの中には向こうの子たちと争っている子もいると聞きます。けれど、私たちは今も友人ですよ。それに、あの子はそんな嫌がらせはしません。とても誠実で、真っ直ぐな子。だからこそ、お姉さまに見出されたのですから」

「信頼してるね」

「まあ、長い付き合いですから」


 似たようなことをさくらの方も言っていたな、と閑は思い出した。


「そういう相手、羨ましいな」

「あなたにだって、クラスやソサエティの中に長い付き合いの子くらいいるでしょう?」

「んー、僕自身の性格もあるけど、この仕事をやってる関係上、深入りしないようにしてるからなあ。商売の方は独立独歩だし、なんなら商売敵まであるしね」

「融通し合うとかはしないのですか?」

「商売の方はないかな。こっちの方は売りにしてるキャラクターがあるからそういうこともするけど、互いに語り合うような仲じゃないしね」


 他の白烏がどういうキャラクターで仕事をしているかまでは知っていても、どういう人間かまでは知らないのだ。

 互いの素性は探るべからず。それが、古くからの掟。


「ソサエティごとに違うものですね」

「ま、うちは特殊な方だしね。あんまり寄り合い意識がないのかも」

「なるほど……ではずっと、あなたは一人で?」

「姉さんが卒業してからはそうなのかな。かな子とは……ああ、僕が面倒を見た後輩いもうとね。仕事は教えたけど、そういう仲じゃないしね」


 この道に引きずりこんだ姉は相談もしてくる人だったけれど、自分はそういう付き合い方ができなかった。

 かな子が頼りないからというわけではなく、閑の性格の問題なのだ。


「じゃあ、本当に一人も?」

「今はいないんじゃないかな」

「……それは少し、寂しくありませんか?」


 智恵理の問いに、閑は少し考えてから答えた。


「そうだね、たまに思うよ」


 そういう相手がいてくれたなら楽だろうと。


「でも、いなくてもなんとかなってきたから」


 今更得たところで、それをうまく活用できないだろう。

 そういう性格が出来上がっている。


「あなたは、愛を売っているのに寂しい人なのですね」

「……だから切り売りできるのかもね」


 愛をあふれるほど持っているからではない。

 持っていないからこそ、その紛い物を売り捌ける。

 痛いほどにその価値を知っているから。


 閑の言葉に、智恵理は考え込むように黙ってしまった。

 ただほんの少し閑に寄り添うように、その体を近づけて。

 

     ***

 

「ご馳走さま、今日も美味しかったよ」


 閑はたっぷりと時間をかけて智恵理のお手製サンドイッチを平らげた。


 もう午後の授業には間に合わないが、問題はない。

 そもそもこの学園で授業に出席するのは、ただの生真面目アピールでしかないのだから。


「智恵理はこの後どうする? 僕はこの時間になってしまったし、さっさと帰って自習でもと思っているんだけど」

「私はこの後、妹たちとお茶会がありますから」

「そっか」

「二人して早退して、というのも楽しそうですけどね。あの子たちも私に会うのも楽しみにしていますから」


 独り者と派閥の長ではまとわりつくものにも違いがある。

 わかっていたはずのことを提示されて、なぜだか閑は感傷的な気分になった。


「じゃ、また今夜寮で」

「はい。また……」


 閑がベンチから立ち上がると、智恵理は座ったまま見送ってくれる。

 可愛らしい、いつも見る微笑み。

 けれど、その目の中にはためらいのような色が沈んでいる。


 それを見なかったことにするのは簡単だった。

 踏み込まないように目を瞑るのは簡単だった。


 だけど、その色に引きずられるように、心に寂しさが生まれてしまったから。

 閑は我知らず、振っていた手を取ってしまう。


「どうして」


 智恵理に浮かぶ疑問の顔。

 自分でも、どうしてそんなことをしたのかわからないまま、閑は彼女と視線を合わせた。

 頬も耳も、赤くなることはない。

 代わりに溢れたのは閑と同じ寂しさの色。


「ねえ、君が良ければ、お茶会が終わる頃に戻ってきてもいいかな」

「……わざわざ迎えにきて下さるんですか?」

「うん。迷惑かな」


 閑の甘えるような言葉に、握った手に指を絡ませるようにしながら、智恵理は嬉しそうな顔をした。


「あなたがいいのなら。でも、きっと遅くなってしまいますよ」

「別に構わないよ。君と少しでも長くいたいんだ」

「なら、このまま残ってくださればいいのに」


 智恵理の浅い笑みに、閑も合わせて微笑む。


「それが一番楽なんだろうね。ただ……」

「時間がもったいない?」

「それもあるかもね。でも、そうだね。きっと恥ずかしいんだよ」

「どうして?」

「急に君といたくなったからなんて、前言を翻すのは僕らしくない」

「でも、私は今、あなたが見えたような気がして、嬉しいですよ」

「可愛いことを言うんだね」

「可愛いのはあなただと思いますよ」


 ふふり、二つの笑い声がする。


「ねえ、閑。もう少し顔を近づけてくれますか」

「いいよ」


 何をされるかはわかっていたけれど、言われるがまま閑は顔を近づける。

 す、と背伸びをするように智恵理が顔を近づけて、頬から、ちゅ、と鳴き声のような音がした。


「終わったら寮に連絡を入れますから」

「直接呼んでくれてもいいんだよ」

「それは、あの子たちの前ではまだ」

「恥ずかしい?」

「はい。それに騒がしくなりますから」

「わかった。待ってるね」

「はい」


 約束を改めて、また二人は別れる。

 今度の見送りには、満たされた雰囲気だけがあった。

 

 それから数時間して、智恵理を迎えに行った閑は、散々に囃し立てられる羽目になった。

 智恵理とほとんど会話はできなかったけれど、不快な時間ではなかった。

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