第3話
それは初めて口付けを交わしてから、しばらく経った日のことだった。
「ねえ、キスしませんか」
いつものようにカフェテラスで昼食をとっていると、智恵理がふと思いついたようにそう囁いた。
「ここで?」
「それ以外にありますか?」
「いや、予約でもしたいのかなと」
「ああ。そういうのも面白そうですね」
閑がとぼけたように言うと、智恵理はおかしそうに笑った。
たしかに面白いかもしれないが、雰囲気もなにもあったものではない。
「それで、してくれますか?」
「他の子に騒がれるよ」
「別に気にしないでしょう?」
「君は気にした方がいいだろうね」
閑は小さくため息を吐く。
一度口付けをしてから、智恵理は頻繁にキスをねだるようになった。
最初の頃は部屋にいる時だけだったけれど、最近は余裕があると見るや誘ってくるから困る。
「だってしたくなってしまったんですもの」
「可愛いけどダメ。いつもみたいに物陰で妥協してくれないかな」
「手頃なところはありませんし、今から移動したらどのみちアピールするようなものではありませんか?」
「じゃあ我慢して」
求めてくれるのは嬉しいし、出来ることなら応えてあげたい。
けれど、閑は智恵理を見世物にするつもりはなかった。
「他の方はしているのに……」
少しいじけたように智恵理が言う。
たしかに二人の交際は広く知られているし、道端でキスしているカップルがいるのも事実だ。
なら自分たちもと考えるのはおかしくはない。
「よそはよそ、うちはうちだよ。慎みを持ってくれという当たり前の話」
やれやれと閑は肩を落とす。
先生がたも風紀の乱れをお嘆きになるだろう。
いいや、他の生徒にも注意しているのは見たことがないけれど。
そんなことを思っていると、彼女がどこか嬉しそうな笑い声をこぼした。
「そんなに面白いことを言ったかな」
「あなたがそれをいうんだなと思うと、なんだかおかしくて」
「説得力がないことは認めるよ」
たしかに、その慎む内容を売っている閑が言ったところで誰にも響かないだろう。
人は内容よりも、誰が言ったかを気にするものだ。
「こういう時はあなたが嫌だからと、そういってくれればいいのですよ?」
「独占的な言い方だね」
「だって、それ以外ありますか?」
「……まあ、そうだね」
TPOがどうのと言ったところで、結局のところ嫌なのは閑なのだ。
キスをするときの雰囲気や、その時の智恵理の反応を独占したいだけ。
もちろん智恵理の世間体を守りたいという意識はあるけれど、より大きいのは独占欲だろう。
「じゃあ、そういったら納得して引いてくれる?」
「じゃあ、なんて強制されたみたいな言い方は嫌です」
智恵理は拗ねたように口を突き出した。
どう見ても強制しているようなものだと思うのだが、それでも趣がなかったのは認めよう。
「でも、そうですね……代わりに私のお願いを聞いてくれたら、引かないこともないですよ?」
「僕にできることならいいよ」
答えた瞬間、乗せられたと気づいた。
智恵理が意地の悪そうな笑みを浮かべてきたからだ。
どうも悪手ばかり打っている気がする。
とはいえ、そうひどいことを求めてはこないだろうけど……。
「今夜、セックスしましょう」
「……………………なんて?」
また耳がおかしくなったのかと思った。
いくらなんでも、その誘いは唐突にすぎる。
まだキスをして数日しか経っていないのに。
「もう一度言わせたいのですか? そんな、恥ずかしい……」
「恥ずかしいならそんなに堂々と言わないでほしいな」
「それで、本当に聞こえなかったのですか?」
苦笑しながら肩を落とした閑を、智恵理は厳しく追及してくる。
逃げることはできなさそうだ。
閑は無言で首を振った。
「あまりにも急だからね。とぼけたら引いてくれるかと思って」
「意地悪な方」
「反省はしてるよ」
「嘘つき」
「そうだね。……しかし、ひどい交換条件だ」
「そうですか?」
「僕にはそう思えるよ。見世物にならない代わりに、というにはちょっと重い」
「あなたはそういうものも売ってきたのでは?」
直截的なことをいう子だなと思う。
「まあ、そうだけどね」
けれど、何事にも段階というものがある。
カラダだけを求めるなら応えるのは簡単だけれど、智恵理の求めているものはそんなインスタントなものではない。
ゆっくりと一歩一歩育むものだ。
「僕が気を回しすぎなのかな」
「あ……まさか、私の世間体を守るために、と?」
閑のつぶやきに、智恵理は合点がいったような顔をした。
まさか本当に閑が嫌なだけだと思っていたのだろうか。
なら、あとは閑の気持ちだけなのかもしれない。
「多少はその気持ちもあるよ。でも、君はそこに価値を見出していないんだったね」
「えっ、閑さっ……」
開き直ってみれば、簡単な選択だった。
にこりと笑みを浮かべている智恵理を抱き寄せ、強引に唇を奪った。
ざわりと周囲の空気が色めき立つのを感じるけれど、どうでもよかった。
閑がわざとらしく音を立てるように唇を吸うと、智恵理は強く体を押して、拒絶を伝えてくる。
「ん、んん……ちょ、ちょっと!」
「なに? 君が望んだことだよ」
「そう、ですけど……その、思った以上に」
「恥ずかしい?」
「…………はい」
「なら反省して」
「…………はい」
想像以上に恥ずかしかったのか、真っ赤になった智恵理は周囲をうかがっている。
一瞬ざわついた女王国の少女たちは、必死に視線をそらして見なかったフリをした。
「ところで、閑さんって初めて呼んでくれたね」
「……つい、咄嗟に。不快、でした?」
「ううん。嬉しいよ。でも、そうだね、さんはいらないかな」
「わかりました。では、あなたも」
「そうだね、智恵理」
「……し、閑?」
さらりと告げた閑。
恥ずかしそうに、つっかえながら応えた智恵理。
「君は変なところで恥ずかしがるんだね」
あんなに大胆なことを散々口にしてきたくせに。
「私にも恥じらいくらいはあります」
「そういう子は急にセックスしようだなんて言わない」
「だって興味があったんですもの」
「女同士のに?」
「ええ。男性とのものは、色々頭に入れられていますけど」
「なるほどね」
それにしたって突然すぎた。
「頼めば、してくれるのでしょう?」
「まだ大人のキスすらしてないのに、一足飛びだよ。まあ、おいおいね」
「プランがあるんですか?」
「プランというか、下準備かな。色々、あの寮には仕掛けがあるしね」
「仕掛け?」
よくわからないという顔の智恵理に、閑は曖昧に微笑む。
「その時が来たらわかるよ。百聞は何とやらだ」
「つまり説明が面倒くさいのですね?」
「そうとも言うかな」
「わかりました。楽しみにしておきます。ええと、そちらはそちらとして……その」
またしたくなってしまったのだろうか。
ちらちらと智恵理の視線が唇のあたりをさまよっている。
「もう少し雰囲気のいい物陰があったらね」
「わかりました。探しておくことにしましょう。たしかに、あられもない姿を見せびらかすのは、あまりに品がありませんし」
「部屋に限定して、とか言わないんだね…」
「言って欲しかったですか?」
「そっちの方が早く済むんじゃないかな?」
「……目先の欲に囚われていました。そうですよね、当たり前の話でした」
「君は変なところでバカだね」
「よく言われます。お姉さまは妙なところで抜けていて、だから目を離せないと」
だからこそ、派閥の長に担ぎ上げられたのだろう。
個人として完結している存在を担ぐことは難しい。
そういう意味で《女王国》はあまりにも特殊だ。
「愛されてるね」
「そうなのでしょうか?」
「世間一般ではそういうだろうね」
「なるほど……。これが」
智恵理はパチパチと目を瞬かせながら周りを見渡した。
妹たちと目が合うたびに手を振っている彼女はどこか幸せそうだった。
「暗に馬鹿にされているのかと思っていました」
手を振っている智恵理が唐突に言った。
抜けている、というのが罵倒に思えたのだろうか。
「そういう意味を含めてるなら直接言わないでしょ」
「婉曲な悪口を解するかというゲームかもしれませんし、なんから告げ口というのもあるではないですか」
「あー……まあ、そうだけどね。君はそれで人を贔屓しないんじゃないの?」
少なくとも、閑の眼に映る智恵理という少女は感情で人を測らない。
彼女はもっと機械的に物事を見つめている。
「はい。なので、よくわからないことをするものなのだなと思っていました」
「お姉さま、とやらはそういうのを推奨してたわけ?」
「してはいなかったと思いますけど、してきたら笑って褒美を与えている人でしたね」
「怖い人だ」
それは人を蹴落としたりするのが横行するわけだ。
なるほど、たしかにそういうシステムが先代に存在していれば、妹たちがそれを引き継いでいると考えるのは当然だろう。
「たまに、告げ口をした本人を追放したりとかもあって、本当によくわからない人です」
「なるほどね……それは恐ろしい。近づかなくて正解だったよ」
「私たち担当の方からそういう話は聞かなかったんですか?」
「うちは所属者同士でも仕事相手の話は絶対こぼさないことになってるからね」
「閑のならわかりますけど……《烏》のですら?」
「そうだよ。なにを買ったか、なにを求めたかなんてその個人に深く関係することだからね。まあ、表向き扱ってる商品で、卒業した後までネタにできるようなものなんてないけど」
とはいえ、秘密を前提にした取引を他人にこぼすかどうかというのは、今後の評価に大きく響く。
口は災いの元、だ。
「そういうものなんですね」
「ま、うちに入るようなのは元々商売やってる子が多いしね」
「あなたも?」
「うん。うちはそんなに大手じゃないけど」
「そうなんですか……うちは、そういう特色みたいなものはあまりないですね」
「あの人に惹かれるかどうかだもんね」
四大ソサエティと呼ばれる《女王国》《烏》《工房》《ご奉仕委員会》にはそれぞれわかりやすくメンバーに特徴がある。
無論全員が全員それに当てはまるわけではないが、参加への取っ掛かりとして、ある種の傾向があるのはたしかだろう。
そう考えている閑の言葉を、智恵理は真っ向から否定した。
「いいえ、全員が全員お姉さまを慕っていたわけではありませんよ?」
「そうなの?」
「ええ。私以外にも、それなりの数、友達に付き合ってという子はいました」
改めて言われてみると、たしかにあれだけの大所帯だ。打算的に参加したものもいるかもしれない。
そういうところも含め、《女王国》は特殊なソサエティなのだろう。
「君はそういう子の受け皿になってるわけ?」
「どうでしょう。さくらのところよりは多いかもしれませんけど、お姉さまが卒業してから他所へ行った子も相当数いるはずですし、様子見をしている子たちもいるはずですから」
「ああそうか……なるほどね……」
「ふふ、真剣そうな顔。気になるなら調べてきましょうか?」
「いや、別にいいよ。ただの世間話だから」
「そうですか? 何かお返しできるかな、と思ったのですけど」
「もらってばかりは嫌だって?」
「ええ。溜め込むと、後で返しきれなくなりそうですし」
「面白いことを言うね……」
まだそんなことを言われるほど、なにかをしたわけじゃない。
けれど、そうしたいと言うなら尊重すべきだ。
「じゃあ、そうだな。君は料理は出来る?」
「得意と言えるほどではありませんが、先生にお褒めいただいて、成績に優が付く程度には」
それは得意と言えるんじゃないだろうか。
「なら安心かな」
「どういうことです?」
「恋人らしいことをしてもらおうかな、ってね」
智恵理は終始ピンとこない顔をしていた。
***
約束を取り付けた翌日。
二人はいつものカフェテラスではなく中庭に来ていた。
植えられた大樹を囲むようにベンチの置かれたそこに人影は少なく、穏やかな雰囲気に包まれている。
誰の目にもとまる場所でありながら、利用者の少ない穴場だ。
《女王国》の子達には智恵理の方から言い含めたらしく、お姉さまに逆らって出歯亀にきている不躾な子もいない。
そんな落ち着いた空気の中、二人はベンチに腰掛けると智恵理が持ってきた包みを開いた。
「ほんとうに、ほんとうにこんなもので良いんですか?」
「昨日も言ったろう? だからこそ、だよ」
どこか満足げな顔の閑に対し、智恵理はひどく怪訝そうな顔をしている。
包みから出てきたのは、三角形に切り揃えられたサンドイッチだ。
「うーん、楽しみだな。智恵理のお手製サンドイッチ」
「……いつも頼む方が美味しいと思いますけど。具材だって、あちらの方が豪華ですし」
智恵理が作ってきたのは、タマゴサンドにハムとレタスのサンドイッチ。実にシンプルなメニューだ。
調理実習以外ではほとんど料理をしないから、切り口は雑で大きさがバラバラだし、調味料の具合だって完璧じゃない。
彼女が言うように、普段食事をしているカフェテラスなら、完璧なカットをされたBLTサンドや、豪華な食材を使ったクラブハウスサンドをアフタヌーンティー付きで味わえるだろう。
味という一点では、そもそもお話にならないのだ。
「うん、味だけならそうかもしれないね」
だからここで評価したいのは、全く別のもの。
閑は大きな口を開いて、まずはタマゴサンドを口にする。
パンのサイドから溢れそうになるタマゴペーストを指先で拭いながら、楽しそうに味わっていた。
「うん……美味しい。ありがとう。それにね、これはそういうものじゃないんだ」
「手作りだからこそ価値がある、ということですか?」
「厳密にはその手間かな。自作の贈り物は言うまでもないけど、既製品だって、誰かからもらうということで別の価値がつく」
「ああ……付加価値、ですか?」
「そう。これだって、味だけなら君のいうようにカフェのモノの方が上かもしれない。でも、これは君がメニューを考えて、僕のために調理をしたという見えないものが掛け合わされている」
そういうと、閑はもう一口サンドイッチを食べた。溢れ出たタマゴが頬についたのにも気づかないくらい味に満足しているらしい。
そんな閑に対して、智恵理は納得がいかないという様子だった。
「よくわかりません。いいえ、概念はわかります。でも」
「納得はいかない?」
「はい。食べるなら、美味しいほうがいいものではないですか?」
「十分美味しいけど」
「ありがとうございます。って、揚げ足を取らないで。そうじゃなくて……」
「ごめんごめん、わかるよ。ただそれは、なにを重視するかって話じゃないかな」
「私は味だけを求めている、と?」
「それはちょっと違うかな」
好きな相手をもてなすことを考えたとき、味というのはたしかに重要な要素だろう。
そしてそれは、プロに頼めば一定レベルのものを用意することができる。
自分がよほど料理上手でない限り、それに勝つのは難しいだろう。
「智恵理はさ、僕のためにサンドイッチを用意してる時、なにを考えてた?」
「それは……ええと、今みたいなことですけど」
「味が良ければいい。……本当にそれだけ?」
閑の問いに、智恵理は少し考えた。
「それは、その……少し劣るかもしれませんけど、満足してくれたらなあって考えましたよ」
「それならさ、なんでずっと比較してるの?」
閑の言葉に智恵理は黙り込んでしまう。
閑が美味しいと感想を述べた時点で目標はクリアしているのだ。
こんなことで嘘をつく人でないこともわかっている。
けれども、それを素直に信じられない。
私のサンドイッチなんかで、本当に満足してくれたんだろうかと怯えている。
「君はまだ愛にまつわる諸々を知らないし、その受け止めかたがわからない」
「だから味を引き出して、延々と受け止めないようにしている、と?」
「かもしれないね。実際のところがどうなのかは、智恵理が自分と向き合って理解するところだよ。それは、僕にはわからないから」
だけどね、と閑は言葉を続けながら智恵理の手を取った。
「今、君が作ってくれたサンドイッチが美味しいって思ったのは、本当のことだから。信じてほしいな」
「……はい」
なだめるような言い方に、智恵理もようやく頷く。
そうして気持ちが落ち着くと、閑がとても面白い顔をしていることに気がついた。
智恵理は一瞬考えてから呟いて顔を近づける。
「閑、少し動かないで」
「え、何?」
急に顔を近づけてきた智恵理に、閑は驚きを隠せない。
つい先日、こういうことはしないよう言い含めたばかりなのに。
そんなことを考えてうろたえている隙に、智恵理はその頬についたタマゴを舐めとった。
「ついてましたよ?」
「……普通に言ってくれたらいいのに」
驚いたようにため息をつく閑を見ながら、智恵理は舐めとったタマゴを味わうように飲み込む。
「ん、美味しい」
「でしょ?」
「はい。なにか、こだわり過ぎていたのかもしれないですね」
ふふふ、と笑う智恵理からは余計な力が抜けたように思えた。
「あのね、閑。私はそういう特別とか、色々なことがわからないんです。どうしてなのかはなんとなくわかってますけれど、まだ話せません」
「そっか……」
「けれど、話すつもりはあります。だから、少しだけ待っていてくれますか?」
「……わかった」
閑が頷くと、智恵理は嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「教えてくださいね、色々なことを」
そう言いながら智恵理はふわりと、かすかに頬を染めながら微笑む。
その笑顔のあまりの可愛らしさに、閑はつい目をそらしてしまう。
今まで色々な女性と付き合ってきたけれど、こんな風に胸をときめかされたのは初めてのことだった。
「それにしても、ふふふ、なんだか少し恥ずかしくなってきました。自分からこういうことをしたんだなって……胸がドキドキとして、面白いです」
「だったら口で言ってくれたらよかったのに」
「だって、時折してる人たちがいるじゃないですか。私もしてみたかったんです。ダメ、でしたか?」
智恵理にはきっと、そういうしてみたいことがたくさんあるんだろう。
「ううん、いいんだよ。君の好奇心に付き合うのも、僕の役目だからね」
「そんなふうに言わないで。まるで義務感でやってるみたいじゃないですか」
なら驚かせないでほしい、と閑は考えたけれど口にはしなかった。
代わりに小さく息を吐いた。振り回される未来が見えてしまって、耐えきれずにこぼれた吐息だった。
「もう、ごめんなさいったら。でも、あなたは驚くけれど、恥ずかしがってはくれないのですね」
「まあ、慣れたからね」
「それだけしたんですか?」
「そうだよ。公衆の面前でするのも、されるのも、飽きるくらいやった。僕の悪評、知ってるでしょ」
「恥知らず?」
「なんで疑問形が?」
「だって、あなたはきちんと恥を知ってる人でしょう? だから、私にやめなさいっていつも言う。きっと、それはその人に求められたからしていたのでしょう? 私のように、言っても聞かなかった……ううん、まだ幼くて、あなたは言えなかっただけ、でしょうか?」
当時は女王も健在で、こちらになど目もくれてなかっただろうに、ほんの少し話を聞いただけで、その頃の閑の状況を当ててしまうのだから、大したものだ。
「当たり。あの人は、そういう人だったからね」
独占欲が強くて、気性が荒くて、そのくせ卒業する頃には憑き物が落ちたように閑を捨てた人。
あれはあれで貴重な体験だったのだが、おかげで今も悪評が付いて回っている。
「大変でしたね。……でもね、私は知りたいの。だから、今のままでは……恥を知ることすらしていないままではダメなの」
「……そっか。まあそれはそれとして、人前でするのはダメだよ」
「もう、どうして?」
「僕が嫌だから」
閑の言葉に、智恵理は顔を赤くした。
「私の受け売りじゃないですか!」
「ははは。でもね、恥ずかしがれるっていうのは大切だよ。そこは、最後の一線だから」
智恵理はよくわからないという顔をした。
「それすらも捨てた時に、人は人ではなくなるんだよ。欲しいもののためなら、文字通りなんでもする畜生になるんだ」
「……実家にいた頃に、見たことが?」
「さあ、どうだったかな」
はぐらかす閑に、智恵理は少し考え込む。
「忠告、意識しておくことにします。それはそれとして、したくなったらいいますので」
「譲らないねえ」
「少しワガママになることにしたんです」
「これは厄介そうだ」
おどける閑に、智恵理は笑う。
真似事の関係とは思えない穏やかな時間が過ぎていく。
何も知らなかった少女は、確実に変わっていっていた。
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