第2話

 二人が付き合い始めたことは、すぐさま学園中の話題になった。


 とかく話題に飢えている少女たちは、二人の姿を見るたびにヒソヒソと噂話をし、どんな会話をしているのかと妄想に花を咲かせている。

 もちろん、そうならないように関係を隠すことも可能だったのだが、智恵理がそれを望まなかった。

 まるで新しいドレスを自慢するように、彼女はオープンな付き合いを望んだ。

 やけに教室へ通ってきたり、頻繁に昼食に誘われた。向こうの活動が終わるのを待って一緒に下校することもあった。

 普通のカップルがしそうなことを、普通に楽しんでいた。


 それに不満があるわけではない。

 どこまでも普通だけれど、それを知ることで見えるものもある。

 とはいえ、少し拍子抜けしたのはたしかで……。

 

「これが君の知りたかったこと?」


 ある日のカフェテラス。

 すっかり指定席と化した智恵理の向かいで茶を楽しみながら、閑はそう問いかけた。

 カフェデートなんて、別に僕でなくてもいいだろうと。それが視線に滲んでいたのか、智恵理はため息をついた。


「否定されるって、わかってて聞いてますね?」


 智恵理は、手元のミルクティーをつまらなそうにかき混ぜながら、そう答えた。

 気をひくための愚問だという自覚はあった。

 それでも答えてくれるのだから、智恵理も思うところがあるのだろう。


「でも、そうですね。ああいった誘い方をしたにしては、普通すぎるのはたしかです」

「自覚はあるんだね」

「ええ。もちろん、これもまた知りたかったことの一つではありますけれど、そろそろ次に行ってもいいかもしれませんね」

「次?」

「はい」


 ここまで普通のお付き合いをしてきたのだから、その次こそが彼女の求めるものなのだろう。

 けれどなぜだろう、それも彼女の求めるものとズレている気がした。


「ダメですか?」

「いや、構わないけど。なにがしたいんだろうか、とね」

「あら、そんなに変なことを求めるように見えますか?」


 閑の疑問に、智恵理は驚いたような顔をした。けれど、その瞳には楽しそうな気配がある。


「平然とした顔で飛び抜けたことを求めてきても不思議ではないな、と思ってるよ」

「まあひどい……!」


 少しわざとらしく智恵理は拗ねてみせるが、声から嬉しそうなのが丸わかりだった。


「それはそれとしてさ、どうしてこんなにわかりやすくしたの?」

「お嫌でした? それとも、他の活動に迷惑とか?」

「そっちは問題ないよ。純粋な興味」


 そもそも、これくらい注目されるのは初めてではないのだ。

 もともと浮名を流しているだけあって《烏》の仕事に支障のないよう、連絡手段はいくつも確保してある。

 それにその仕事もいまではほとんどない。数少ない仕事を丁寧にこなせばいいだけだ。


 閑の問いに少し考えるような顔をしていた智恵理は、一口ミルクティーを飲むと、瞼を伏せて小さく吐息した。


「私はね、あの子達を安心させたいのです」

「女王を喪って君が前後不覚にでもなっていると?」

「自分たちがそうだったから、あの人もそうだろうって思い込むのは当たり前でしょう?」

「なるほどね。そう思わせた方が楽だもんね」


 だから恋人を作って、私はこんなにも幸せですよ。元気ですよとアピールをしたのだ。

 智恵理にとって妹たちは同じ顔をした他人だが、どうでもいい存在ではないのだろう。

 自分を慕う少女たちを安心させたいという、まっとうな感情が彼女には存在している。


 それは智恵理の優しさなのだろうが、閑には少し窮屈そうにも思えた。

 女王がしたように傲慢に振舞っても少女たちは離れないだろうに。

 けれど、だからこそ、智恵理は閑を求めたのかもしれない。


「まとめ役は大変だね」

「やりたくてやっているわけでもないのですけどね」


 智恵理は小さくため息を吐きながら首を傾げた。


「そうなのかい?」

「ええ、気づいたときには担ぎ上げられてしまって」


 その声には困惑が滲んでいた。


「御輿にするのなら、もっと担ぎやすい子がいるでしょうに」


 本当にそうなのだろうか。

 女王体制下にあって、智恵理はナンバー2の地位についていたと言われている。

 当人の認識はどうあれ、担ぐにはこれほどふさわしいものもないだろう。

 それに、それが気に入らなかったものたちは、別の御輿を担ぐことに決めたのだから。


「……まあ、それであの子たちが楽になるなら、それもいいのですけど」


 すっと、智恵理の細められた目が閑の肩越しに周囲を眺める。

 自分たちが担ぎ上げたものの苦悩を知らず、はしゃいでいる少女たち。

 その姿を見て、何を考えているのだろう。


「本当は自由になりたい?」

「どうでしょう。多少なりともあの子たちの面倒を見ることで忘れられている側面もあるかもしれませんし」

「一応、女王の卒業に思うことはあるんだね」

「思わない人なんていないでしょう」

「もしかしたらと思って」

「まさか」


 強く否定した智恵理はぶるりと体を震わせた。

 ひどく寒いというふうに身を縮こませて、視線をさまよわせる。


「私はずっと恐れていますよ。理由のわからない好意というのは、恐ろしいものです」


 それはどういうことなのだろう。

 一つの可能性が脳裏に浮かんだ。


「……あの人、何も言わなかったの?」


 はたから見ている限り、女王はその手の事柄をはっきりと言葉にするタイプに見えた。

 なにものにも怖気付かず、己を表現する女。

 だからこそ鮮烈で、人を惹きつけてやまない。

 そんな彼女が、智恵理を引き立てた理由を明らかにしないなんてことあるんだろうか。

 閑の問いに、智恵理は曖昧な笑みを浮かべて首を振る。


「なにも。なにも言いませんでした。お姉さまはいつだって自分勝手に私を呼び出して、ただ眺めていました」

「眺めていた……だけ?」

「はい」

「ええっと、それは裸にして、とか、そういう?」


 閑の脳裏には、大広間に呼び出されて、調度品を愛でるように眺められている智恵理の姿が浮かんでいた。

 女王に媚びるような姿を取る、裸身の少女像だ。

 我ながら、あまりにも奇妙な想像だと思う。

 そんな短絡的な妄想を智恵理の言葉が否定する。


「いいえ。好きに過ごしていいと言われ、ただ眺められました」

「……本当にそれ以外は何も?」

「ええ」

「失礼かもしれないけど、女王ってそういう性癖の人なの……?」


 つい口が滑った。

 世の中には、そういった特殊な行為を好むものがいると聞いたことがある。

 もしかしたら女王もそうなのかと思ったのだが、智恵理はおかしそうに苦笑していた。


「どうでしょう。他の子にはキスやそれ以上のこともしていたと聞いてますけど」


 そうなるとますますわからない。


「それなのに、他の人は君を一番の寵愛を受けたものだと? ううん……よくわからないな」


 ひどく理解しがたい話だ。

 どう考えたって、体を重ねたほうが愛が深く見えるだろう。

 内実、なんの感情を持っていないとしても、傍目にはそう映るものだ。

 そしてだからこそ、《女王国》は激しく争い、蹴落とし合う場であるはずなのに。


「頻度もあったのでしょうが、こういう扱いをされた子は一人もいませんでしたから」

「たしかにそれなら特別扱いってことになるのかもしれないけど……」


 けれど、そこに一番の愛があったと言い切れるのだろうか。

 それは愛ではないと思うものはいなかったのか。


「だから、怖いんです。私はあの人のことがわからない。いいえ、わかっている子なんて、さくらくらいしかいなかったでしょうけど」

「峯島派のトップ、か」


 閑の脳裏に長いポニーテールをした少女が浮かぶ。

 峯島さくら。女王なきあとの《女王国》を二分する大派のリーダー。

 代々お偉方の護衛を輩出してきた、由緒ある家系の出だ。

 とても厳しく育てられたらしい彼女は、風紀委員会にも務めていて、平均よりも小さな身長ながら、一生懸命に不真面目な生徒の指導に走っているのを見かけることがある。


「クラスメイトでしょう?」

「まあそれなりに仲良くはしているよ。運動万能すぎて、紅白戦をするときには敵に回したくない」


 体育の授業でさくらが敵チームに入ったときには誰もがやる気をなくす。

 それくらい彼女は身体能力に恵まれている。


「ふふふ。あなたがそう思うように、お姉さまも思っていたんでしょう。あの子は腕っぷしを見込まれて愛されていました。もしかしたら、今なにをしているのかも連絡を受けているかもしれません」

「もしそうなら、彼女は苦労しているだろうね」


 女王は学園卒業の日に、この世界から姿を消した。

 進学するはずだった大学にも、親元にも帰らず、今もその消息はつかめていないという。


「……まあ、君はその事に興味がないみたいだけど」

「知ったところで私は動けませんから。死んでいないのならいずれ自分から出てくるでしょう」

「君を呼び出した時みたいに?」

「ええ。あの人はそういう人なので」

「なるほどね……」


 智恵理にとって、女王は災害のようなものなのだろう。

 一方的に好かれ、地位を与えられ、それ相応の振る舞いを強要する暴君。


 しかし、そんな女が一体どうして眺めるだけという行動をしたのだろう。


「……これは、ちょっとした疑問なんだけど。君は、女王が眺めにくることを質問したことはあったの?」

「一度だけ。けれど、その答えはよくわからないものでした」


 智恵理は少し思い出すようにしながら言葉を続けた。


『ふとした瞬間に地平線を見れば、そこには太陽か月がつきまとっているでしょう? それと同じことよ』


 自分はそういうものなのだから気にするな、ということなのだろうか。

 たとえがずいぶんと傲慢なものだと思うが……。


「でも、そこまでわかりにくい言葉ではないよね?」

「たしかに言葉だけならお姉さまらしくもありました。けれど、あの時のお姉さまは、ひどく嫌そうな顔をしていたのです」

「嫌……?」

「はい。倦んでいると言ってもいいかもしれません。なにか、自分の思うままにならないものについて話す時のような……お姉さまにそんなものがあるとは思えませんけど」


 智恵理の言葉になにか糸口が見えたような気がした。

 もしその推理が正しければ、たとえたのは自分ではなく……。


(でも、そうだとしても、それがどうしてそんな顔に……)


 本当の意味で寵愛していたのだとしたら、どうして倦んだ顔をしたのか。


「訳がわかりませんよね。私もずっとそう。あの人のことは、何もわからない」


 不安げにそう呟く智恵理の目は、ふらふらと救いを求めるようにさまよっていて。

 思わず閑は立ち上がり、彼女の傍らに膝をつく。

 ざわり、辺りの空気が色めき立った気がしたけど、どうでもよかった。


 閑は手を伸ばし、凍えるように握り込まれた彼女の手を温めるように包み込みながら言葉をかける。


「わかろうとしなくていいんじゃないかな。いや、わかったところで恐ろしさは変わらないだろう。だけど、これからは僕がいるから。その恐怖を払えるように隣にいるよ」

「情熱的な言葉ですね」


 くすくすと智恵理が堪え切れなかったように笑いだした。

 それがとてつもなく嬉しく感じられた。


「少し勢いに任せすぎた自覚はあるよ」

「私が頼んだ初めての時からそうだったでしょう」

「そうだね。そうかも」


 ふふふ、ふふふと嬉しそうな笑い声が増えていく。


「でも、こんなふうに振舞ってくれるだなんて思いませんでしたけど」

「後輩君たちは安心してくれるかな?」

「十分でしょう」


 生暖かな視線が集まっているのを感じる。口々に嬉しそうに噂話をする声が聞こえる。

 それが少し恥ずかしく思えてきた閑に、智恵理は聞き逃してしまいそうなほどの声で囁いた。


「ねえ、私、してみたいことがあるのです」

「いいよ、何がしたい」

「少し、はしたないこと。お願い、できますか?」


 それから彼女は小さな小さな声でつぶやく。


『キスがしてみたいのです』


 微かに頬を朱に染めた智恵理を見上げ、閑は恭しく騎士のようにその手に口づける。


「喜んで」

「楽しみにしていますね」


   ***


 カフェテラスで約束をしてから、数日後。


 いつものように一緒に下校した閑は、智恵理の部屋に招かれていた。

 初めてのキスをするならば雰囲気が大切だろうと場所を考えていた閑に、智恵理の方から提案してきたのだ。

 付き合っているならば、お部屋に呼び合うのも当たり前でしょう?と。

 これ幸いと便乗したのだが……。


「どうぞ」

「……ここが?」


 閑の部屋からちょうど正反対の位置にあるそこに入った瞬間、思わず疑問の言葉を口にしていた。

 しまった、と思った時には智恵理が振り向いて不思議そうな顔をしている。


「なにかおかしいですか?」

「おかしくはないけど……」


 そう言葉を濁そうとして、智恵理があまりにも素朴な目をしていることに気がつく。

 これを誤魔化すのは心苦しかった。


 たしかにおかしくはない。おかしくはないのだが……。


「いいや、そうだね。あまりにも味気なさすぎて驚いたんだ」

「味気ない、ですか?」

「うん。みんな基本的に家から持ってきたものとかで飾っているだろう?」


 原状回復さえすればどう扱ってもよいと学則に定められてるのをいいことに、寮の部屋を大胆に改造する子は多い。

 もちろん中にはそれを選ばない子たちもいる。

 その場合だって家から持ち込んだものや、入学後に買い揃えた物品で部屋を飾っているのがほとんどだ。


 けれど、智恵理の部屋にはほとんど物がなかった。

 初めて寮の内見に訪れた時の姿を保った部屋。

 唯一違うのは、几帳面に並べられた教材くらいだろうか。

 使い込まれた様子の窺えるそれは、彼女が真面目に学生をやっていることを示している。

 単なる飾りに成り果てている子もいるというのに。


「ああ……あまり物を所有する気にならなくて」


 苦笑しながらの言葉には、どこか薄暗い気配が滲んでいる。

 まるで、そうしたところで意味がないというような……そんな雰囲気。


「君なら贈り物とかあるんじゃないの」

「そういうものは、ここではなくて集会所の方に置いてあります。ここに女王国関係のものは入れないようにしていますから」

「そうなんだ」

 どうしてそんなことを、と疑問に思っていると、智恵理が補足してくれる。


「どうしても贈り物を見ると、その人を思い出してしまうでしょう?」

「ああ、なるほど。たしかにそうだね」


 だからこそ、閑も贈られたものの管理には気を使っている。

 そもそもあまり部屋に人を招かないようにはしているけれど、仕事相手を入れなくてはならない時に目に入らないよう、しっかりとしまってある。


「人から離れられる空間というのを大切にしたいのです」

「だからなにも置かない?」

「別になにもないわけじゃないですよ。例えばその椅子は、お姉さまが持ち込んだものですし」


 そう言って智恵理が指したのは、なんてことはないウィンザーチェアだった。

 寮で暮らしていれば飽きるほど見る、備え付けの椅子。

 たぶんきっと、どこかで使われなくなったものでも持ち込んだのだろう。

 あれだけの人々から慕われ、時に貢がれた女王が持ち込んだにしては、あまりにも古びていて質素だった。


「……他には?」


 閑の問いに、智恵理はたっぷりと時間をかけて考える。


「……考えてみるとそれくらいでしょうか」


 つまり、指摘されるまで考えることすらしなかったということだ。


 それはやはり、この学園に通う少女にしてはおかしすぎる気がした。

 ここに通う少女は潤沢な愛と贈り物に囲まれて生きてきた者たちだ。

 だからこそ、部屋には物が溢れ、時に禁止されたものを欲しがるし、人に何かを贈ることをためらわない。


 なのに智恵理にはそれがなかった。

 厳しく育てられたさくらのような、自身を律しているのとは違う。そもそもそれが自身と関わりがないような感覚。

 愛を知りたがることといい、彼女はとても特殊な育ちをしたようだ。


 けれども、そこに触れるのは踏み込み過ぎている。

 今は、まだ。


「そっか……ところで、この部屋にはそれと君のものしか椅子がないってことは、僕はそれを使ってもいいの?」

「ええ、構いませんよ」


 嫌がられるかと思っての問いに、智恵理は平然と答えた。

 怖いのは本人だけで、使っていたものにはなんの思い入れもないのだろう。

 椅子を元の場所へ返さないのも、あったほうが便利だからというだけなのかもしれない。


「あ、でも、こういう時は一緒にベッドに腰掛けたりするものですか?」


 考える閑をよそに、打って変わって、どこか嬉しそうに智恵理はいう。

 それは彼女が求めるもののカケラだ。


「そうだね。肩を寄せ合って本を読んだりとか、後ろから抱くようにしたりとかよくやったよ」

「なるほど……それ、お願いできますか?」

「もちろん。どっちがいい?」

「そうですね。オススメはどちらですか」


 なかなか難しい問題だった。


「君が他人の体温が嫌いじゃないなら抱くかな。まだ夏前だから、暑苦しくもないしね」

「ああ、そういうのもあるんですね」

「暑い中であえてっていうのも味があるけどね」

「では、夏になったら横並びにしましょう」


 さあ、と請われるがまま智恵理のベッドに腰を下ろした。

 少し硬いマットレスの上、シーツを歪ませながら腰の位置を調整する。


「いいよ」


 そうして足の間に作った空間に、そろりと智絵里が入ってくる。

 柔らかなクセ毛とシャボンの香りが鼻をくすぐった。

 不思議と汗の匂いはしなかった。

 もしかすると、閑もそうしたように軽く汗を流してから部屋に招いたのかもしれない。


「抱くよ」

「はい」


 一つ、声をかけてから智恵理を抱きしめる。

 閑より少しだけ小さなその体は、まるで血が通っていないように冷たかった。

 自然体な口調からはわからないけれど、実は緊張しているのだろうか?


「たしかに夏にこれをするのはあまり嬉しくはないでしょうね」

「だろう?」

「空調を効かせた部屋で、というなら別だと思いますが」

「ああ……それは冬にアイスを食べるみたいな?」

「はい」

「それは考えたことがなかったな。なるほど、それは趣深いかもしれない」

「もちろん、ニオイや汗が気にならない前提ですけど」


 恋仲であっても、いいや、恋仲だからこそ、そこを強く気にする者は多い。

 誰だって、好きな相手には最高の自分で会いたいものだ。


「君は?」

「まだわかりません。あなたのニオイは不快ではないですけど」

「僕もそうだよ」


 すんすんと智恵理の髪に鼻先を埋めてニオイを吸い込む。

 シャボンの中に混じるかすかな彼女の香り。それはとても薄く、注意深く意識を向けなければ気づけない。


「くすぐったいです」

「すまない。やりすぎたかな」

「こういうものならば、別に」

「どうかな。ここまではあまりしないんじゃないかな」

「なるほど。少し、変態的ですか?」

「たぶんね」


 おどけたように言う閑に、智恵理は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ……へんなひと」

「君に言われたくはないかな」

「そうですね。そんな人にドキドキさせてほしいなんて思っている私も、きっとへんです」


 それが二人を繋ぐ関係だとしても、ちょっぴり特殊。


「ねぇ、少し顔を前に出してくれますか」

「頬を寄せる感じかな」

「ええ」


 すり、と髪を頬に擦るようにして顔の位置を深くする。

 横目に智恵理の鼻先が見えるくらいの位置。

 そこへ至ると、急に彼女が振り向く。

 何かを求めるような瞳が、キュッと細められた瞼に遮られて。

 

 ――唇が、触れる。

 

 その感触に浸る余韻もなく、気づけば目を開いた彼女が淡く微笑んでいる。


「どうですか」


 囁き声。

 閑は混乱しながら、それが胸を高鳴らせようとする彼女の強引なやり方だと理解した。


「カタチから入るタイプかな、君は」

「今更な問いではありませんか」


 たしかにそうだ。混乱しすぎている。


「というか、どうですか、は僕の言葉じゃないかな」

「……それも、そうですね」


 するり、衣擦れの音がして。

 腕の中の智恵理が体ごと閑を向く。


「ドキドキできた?」

「少しだけ。でも、それは恥ずかしいせいかもしれません」

「誰も見てないのに?」

「見られなくても恥ずかしいと思うことはありますよ」

「それもそうだね」


 それから二人は何度も重ねるだけの口づけをした。

 答えを求めるように、智恵理は閑の手を胸に当てて、その鼓動の大きさを伝えてくる。

 

 とくん、とくん。

 冷ややかな肌の下、生命を刻む時計の音は、唇を触れさせるたびに高くなる。

 

「どう、ですか?」

「すごくドキドキしてるよ」

 は、は、と熱を持った息を吐く智恵理の頬は真っ赤に染まっている。

 そんな彼女がたまらなく愛おしく思えて、閑は囁きながらキスをした。

「可愛いよ、智恵理」

「や……ん……。恥ずかしいです……」

 

 これはまだ愛ではない。

 ただの真似事でしかない。

 けれど、それでも、空っぽの少女は何かを得たみたいだった。

 

「またお願いしますね?」


 部屋を退出する間際、ぞくりとするくらいに妖艶な笑みを浮かべた智恵理は、唇に指を当てながらそう告げた。

 満足はしてもらえたらしい。


 閑はといえば、何か妙な高鳴りを感じていた。

 智恵理に当てられたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、次はどうしようかと考えていた。

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