第4話 塔のヨクさん
樹里は、冷静になろう、と思った。というか、なった。目が覚めて頭上に見知らぬ茶色い天井があったときは、何事かと思ったが、数秒後には自分が「どこか」に来てしまったのだということを思い出していた。そして、やけに落ち着いて、自分の状況を静かに顧みることができた。
昨日は、少し焦りすぎた。仕方ないか。あんなに大勢の人達に囲まれて、見たことがない土地で、水に濡れて寒かったし、超寒かったし、冷静でいられなくなるのもしょうがないか。それにしても……。
昨日は、本当に色んなことがあった。そもそも私は、病院に居たんだ。千鶴のお見舞いで……。
千鶴のことを思い出したら鳩尾の当たりが苦しくなった。
昨日は、湖にいたときは何故か、パニックになっていたせいもあって、土曜までに帰らなきゃいけないと思っていた。最近はいつも土曜日にバスケと星の勉強をしていたから。でも本当は土曜までに帰れたとしても、今までみたいにバスケと星の勉強はできないのだ。千鶴が目を覚さない限り……。
樹里は、ムクリとベッドの上に起き上がった。
今は慌てても仕方がない。ここに来れたということは、帰る方法もあるはずだ。あのタキ、とかいう女の子も帰りたがっていた。あの子と一緒に帰る方法を探すしか、今はできることが無い……。
樹里が客間を出てリビングと思しき部屋まで行くと、
「お、起きたね」
とシュウが話しかけてきた。
「はい、昨夜はありがとうございました」
昨夜は取り乱したところを落ち着かせてもらって、食事から寝る場所まで用意していただいた。
「いいって、いいって」
シュウは笑って言った。
「ところで、タキ……さんは?」
と樹里が言うと、
「タキでいいよ」
と言ってタキが部屋に入ってきた。
「今日の収穫」
と言ってタキがテーブルの上に置いたのは、大きな肉の塊だった。
「ありがとう。タキは狩人なんだ」
シュウはタキにお礼を言うと、樹里にそう説明した。
「今日は昼の仕事は無しにしてもらった。ところで、ジュリ。これから元の場所へ帰りたいとなれば、行くところがある。ついて来て」
タキは、そう言いながら早速部屋を出てどこかへ行こうとする。シュウが、
「おいおいタキ、朝飯ぐらい食わせてやれよ」
と言ってくれなければ、樹里は腹ペコのまま外に連れ出されていただろう。
昨夜のように見慣れぬ食材の見慣れぬ料理を食べた後、タキに連れられて来たのは、「アパート」から遠く離れたところにある、ぽつんとした小さな塔だった。塔の入り口まで来ると、タキは、
「今から会う人は、一人でいるのが好きでこんなところにいるんだ。変わり者でしょ?」
と言って螺旋階段を登り始めた。
「その人は、ヨクさんと言って、勉強熱心なんだ。だから、いろんなことを知っている。彼も湖から来た来訪者で、一緒に元の世界へ帰る方法を探している。最近忙しくて会ってなかったけれど、何か新しい情報を仕入れているかもしれない。それに、樹里、あなたにもいろいろ聞きたいことがある。どうせならヨクさんと共有しておきたくて、連れてきた」
タキは、階段を上がりながら、そう言った。螺旋階段は長く、上がる間にタキはヨクさんのことをたくさん話してくれた。
ヨクさんは、タキより一年早くこのデザに来た来訪者の男性で、彼曰く元の世界の記憶はほとんど無いらしい。ただ、来た時から数学や物理についての知識が豊富で、デザに来てからもその知識を活用して砂漠の人々を助けてきたので皆から信頼されている。ただ、一人でいることが好きで、あまりたくさんの人といると落ち着かなくなる性分があるので、古くなった塔に一人で暮らしている。研究、とりわけ天文に関する研究が好きな彼だったので、人々は喜んでその展望台のような古い塔をあてがった。
これらの話を聞いて、樹里は何故だかまだ会ったことのないヨクさんを、ちょっと偏屈で博識なおじいさんだと思ってしまった。彼の年齢すら聞いていないのに。
だから、塔の一番上の部屋で、目の前に若い黒髪眼鏡の男性が現れたときには驚いた。樹里よりは年上だけれど、男子と呼んでいいくらいに彼は若い。そして、似ている。
「初めまして」
とはり付けたような笑顔で手を差し出されて、樹里は慌てて右手を差し出した。すると、ヨク、さんは
「うんうん」
と一人納得したように頷いていた。
「何してるの?」
とタキが言わなければ、樹里は、ずっと手を引っ込め忘れていたかもしれない。それぐらい、似ていた。
ハジメに、似ているのだ。小学校時代、ずっと仲良くしていたハジメ。中学時代、理由も思い出せないぐらい些細なことで喧嘩になって会うこともなくなってしまったハジメ。そして、先日、去年に亡くなっていたと知ったあのハジメ。
タキが、この子は昨日デザへ湖から来た、と説明している間、彼は相変わらずうんうんと頷いていた。一方、樹里は石のように固まって、ヨクさんの眼鏡ののった鼻筋やクセのある黒髪をまじまじと見つめていた。
やっぱり、似ている。この鼻筋の独特な感じといい、このクセ毛といい、やっぱり成長したハジメだ。いやいや待て待て、他人の空似ということもあるだろう、と思い、樹里は気を取り直した。しかし、
「名前は何ていうの?」
と言って、ヨクさんがこっちを向いた瞬間、お互いの目がばっちり合った時、樹里は、全身がぞわわっとした。やっぱり彼だ‼︎と体中の神経が共鳴した。真っ黒い、墨を流したような目。でもどこか、面白がっているような目。やっぱり、ハジメだ。
「樹里、林田樹里」
答え方も、まるで喧嘩したハジメに言うみたいに、ぶっきらぼうになってしまった。
「ふぅん」
とヨクさんは言って、またタキの方を向いて、言った。
「記憶があるの?」
「そう。そうなんだ。それで、ヨクさん、聞いてよ。ドヨウが何かわかったんだ」
タキが、昨日あんな落ち込んでたくせに、目を輝かせて今まで見たこともないような笑顔で、ヨクさんにそう言った時、そして、
「へえぇ?」
と、ヨクさんが面白そうにそれに応えた時、樹里はやっと、あぁ、この人はどっちにしろヨクさんだ、と実感した。
「で、何?ドヨウって」
「それがさ、サチャのことなんだって‼︎」
「サチャ?」
「そう!」
「そうか‼︎サチャか‼︎これは大きな一歩だぞ‼︎」
二人が興奮して喜び合っている間、樹里は遠いところにいた。気がした。
そうだよ、ドヨウはサチャだよ。そして、それは特別な日だったんだ。私と千鶴が一週間に一度だけ会う、とても特別な日だったんだ。どんなに頭が悪かろうと、どんなに学校で蔑んだ目で見られようと、土曜日になれば全部どうでも良くなったんだ。あんた達のいう、ただのサチャじゃないんだよ。ドヨウは、土曜日だ。
そんなことを頭の中でぐるぐる思っていたら、猛烈に千鶴に会いたくなり、しゃがみ込みたくなった。
いかん、しっかりしろ。樹里は、心の中で自分に喝を入れると、しゃがみ込みたくなった理由を、物理的環境のせいにすることにした。
つーか、この部屋、椅子一つしか無いのかよ。無いなら、せめてクッションとかさ。つーかこのヨクってやつ、客人を座らせることも知らないのかよ。こっちが遠路はるばる、どんだけ長い階段登ってきたと思ってんだよ。さっきから左右の足の体重移動、何回もしてるけどそろそろ限界なんだよ。何なんだよ。嫌いだ。こんな奴。大嫌いだ。
大嫌いだ、と思った途端、急に涙がこぼれてきた。樹里はハッとして、二人にバレないようにせねば、絶対音を立てないようにせねばと思ったが、目はどんどん熱くなり、肩は震えて、一瞬でバレた。
「どうした?」
先に声をかけたのはタキで、喜んでいたところを急に泣かれたので明らかに慌てていた。そんなタキの声かけがうるさくて、樹里は、しゃがみこんでうずくまって泣いた。
「おやおや」
どこか面白そうな笑みを含んだ言い方でヨクさんが言った。実際、どんな顔をしているかは見えないが、きっと笑っている。
「タキ、お茶淹れてくんない?」
と慣れた口調でタキに言う。樹里の嗚咽は激しくなった。
「困ったなぁ」
とハジメもどき。嘘つけ。本当は困ってないくせに。面白がっているくせに。人に気が利かない、利かせるつもりもなく、それでいて許されているところも、嘘つきなところも、非情そうなところも、全部、全部ハジメに似ている。嫌だ。本当のハジメはここにいないのに。ここで一生泣いてやる。樹里は、だんだん激しく泣き始め、最後にはとうとう大声をあげて泣いていた。
数分後、樹里はもう泣いていなかったが、うずくまってきつい体育座りをしていた。タキが、お茶を持ってきた、と言って側にしゃがみ込むのを肌で感じる。樹里は、お茶を受け取らなかった。
いらん。こんなお茶。不味い。落ち着いてたまるものか。こんなものであやそうったって無駄だ。ガキじゃないんだ。ふざけるな。
樹里は、こんな具合で、世界を呪うような言葉を、頭の中で呟いた。というか、勝手に言葉が頭の中で呟かれた。
「こっち来たばかりだし、記憶もあるし……色々頭の整理が大変なんだよ。彼女も」
うるせぇ、ハジメもどき。あんたに言われてたまるか。嫌いだ。あんたも、この世界も……。
ここまで頭の中が唱えた時、千鶴と会う前の自分がちょうど今のように世界を呪っていたことを思い出した。そして、ますます嫌になった。
「記憶があるからこそ辛いんだよね……。私、そのことをわかってなかった。ごめん。私、親も生まれた国も知らないから、記憶があるあなたを羨ましがってばかりいた……」
タキにそう言われて初めて、樹里の頭の中が一旦、呪いを唱えるのをやめた。顔を上げると、タキが唇を噛んで隣にしゃがみ込んでいた。
「でも、だったら、だからこそ、帰ろう。待ってる人がいるんでしょ?」
タキは、樹里の目を見て言った。待ってる人。樹里は、病室に寝ている千鶴のことを思い出した。
待っている。きっと待っている。千鶴が目を覚ました時、樹里が世界にいないと知ったら、千鶴はどう思うだろう?
どーでもいいと思うよ、と頭の中の小さな声が聞こえた。本当にそうかな?と逆に心の中でつぶやいてみた。私がいなきゃ、誰があの下手くそにバスケを教えるの?
そう思ったら、少しだけ笑えてきた。そうだった、私がコーチだった。それにしても本当に私は情緒不安定だ。ふふっと少し笑ったら、タキも安心したように笑った。
その間、ヨクさんはずっと静かに、鍵のかかった窓から青い空を眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます