第3話 星と太陽

 林田樹里がどういうわけかデザという砂漠で発見される前、彼女の時間感覚で言うところの一ヶ月前、彼女は風間千鶴に出会った。

 それから週に一度、夕方ごろに二人でバスケの練習をするようになった。その頃だった。樹里の目に生気が宿り始めた、と、彼女の周囲の者が囁き始めたのは。それ以前、彼女の目は陰で「死んだ魚の目」と呼ばれていた。

 死んだ魚がどのようにして正気を取り戻したのか、樹里の周囲の人々、とりわけクラスメイト達は、いぶかった。彼女はクラスのヒエラルキーでいうところの(そんなものがあるとすればの話だが)、圧倒的に「底辺」にいたのだ。いや、それ以下だったもしれない。

 さて、死んだ魚当人は、他人がそんなことを思っているとは露知らず、呑気に女子小学生相手に遊んでいた。女子小学生千鶴は、バスケこそ下手なものの賢く、星についてとても詳しかった。樹里は、毎週バスケをした日の夜、千鶴の門限が許すまでの間、千鶴と一緒に空を眺めて星について教わった。

 樹里にとって、星について学ぶことは特別なことだった。ただ知識を詰め込むのとは違う、何か神秘的なことに繋がっている、というふうに感じていた。

 ある日、樹里は千鶴とバスケットコートに寝そべり、空を見上げながら、言った。

「宇宙を知ることってすなわち哲学でもあるよね」

「哲学……?」

 千鶴は不思議そうに言った。

「あぁ……、哲学の意味っていまいちよくわからないよね。あたしも今よくわからないまま使ってる。ごめん」

と樹里は謝ると、言った。

「あたしが、星について知りたいって思ったのって、本当は成績だけが目当てじゃないんだ」

「えっ?成績目当てじゃないんですか?相当悪いって言ってませんでしたっけ?樹里さん」

と、千鶴は驚いた様子で樹里を見た。

「まあ、悪いのは事実なんだけどさ。それ以前に、私に昔、友人っていうか、そうとしか呼びようのないポジションの人がいたんだけど、その人が、星好きだったんだよね、そのせいで、割と昔から星見るの好きだったんだけど……


 千鶴は、何か大事なことを樹里さんは言おうとしているな、と、なんとなく悟った。饒舌な時の樹里は、元気にはしゃいだりするより、本気で何か語りたがっているということを、千鶴はもう知っていた。

「そいつとはさ、もう長いこと会ってないんだけど、こないだ、そいつが一年前に死んでたって知ったんだよね。千鶴と初めて会った日のちょっと前に。それでさ、死んだ人は星になるって、よく言うじゃん?、それ信じてたわけじゃないけど、あの日の夜、星、見てた」

「そうだったんですか……」

 千鶴は、そうとしか言えなかった。他に、何と言えただろう?

「死んだ人の行方がさ、ちょっとでも、科学的にわかればいいと思ったんだ。そりゃさ、土に還るってことは知ってる。でも、魂というのかな、内面とか、中身はどこへ行くのかなとか、思うじゃん。死んだからって、虚空に吸われて、おしまい?そんなの、悲しすぎる……」

 千鶴は、唇を噛み締めた。自分は、この人の悲しみを、どれだけ理解できるだろう?

「でもさ、日常は変わらないんだよね。そりゃそうだよね。私にとっては、死んだこと以前に、会わなくなったことに意味があったんだ」

 樹里さんがそう言ったので、千鶴は、

「その人と喧嘩したんですか?」

と聞いた。

「まあね」

「でも、まだその友人さんのこと、好きなんですね」

「まあ」

 それから、しばしの沈黙の後、千鶴は言った。

「人は死んだら星になる、の意味って、多分宇宙に浮かぶってことじゃないですよ」

「え」

 樹里さんはそう言った後、

「ああ、土に還るから地球になる、ていう解釈もあるよね」

と言ったので、

「いや、そうじゃなくて」

と千鶴は言った。千鶴は、一呼吸置くと、

「多分その星はあなたの中にあって、ずっと輝き続けるんです」

と言った。

「うわっ、クサいこと、言うなぁ。自分が今何言ってるかわかってる?」

 樹里は、耐えられなくなったとみえて、顔をしかめ、でもニヤつきながら、ガバリと起き上がりながらそう言った。

「だってそうでしょう。その人の存在が消えたら、きっとあなたの世界は暗闇に近づく。あ、『存在が消える』って、『死ぬ』って言う意味じゃないですよ」

 真剣に千鶴が言うものだから、樹里さんも真面目に、

「……うん」

と頷いた。

「でもってですね……」

 千鶴は続けた。

「心の中の太陽っていう存在は、きっと他にあると思うんですよ。それは誰よりもあなたのことをわかっていて、あなたの側にいる。で、あなたのいく道を照らす光になったくれるんです」

 ここまで千鶴が言うと、樹里さんは、はぁ〜と長いため息をついた。千鶴が樹里さんの方をうかがうと、樹里さんは

「いないよ、そんな存在……」

と呟いた。

「ム。……樹里さん、鏡、持つと良いですよ」

と千鶴は言った。

「……私今、そんなに仏頂面だった?」

「そう言う意味じゃなくて‼︎」

 千鶴はこの日、この高校生は相当馬鹿だ、成績悪いのも頷ける、一生一人で溜息ついてろ、と思ったのだった。


 そんな話をしたからなのだろうか。

 千鶴が事故に遭った。

 その日千鶴が約束の時間になってもバスケットコートに現れなかったので、いい加減家に帰ったその夜に見たニュースで、小学生一人が暴走したトラックに轢かれたと報じられているのを、樹里は見た。

 その小学生が千鶴だとわかったのは、千鶴の母親からおくればせながらの連絡が来たからだった。樹里と千鶴は、千鶴がスマホも携帯電話も持っていないので、連絡手段が無かった。千鶴の母親が、千鶴から聞いた「はやしだじゅり」という名前だけを頼りに、樹里の元まで連絡を送ってくれなければ、樹里は千鶴が事故に遭ったことを知ることは無かったのかもしれない。

 樹里が病室に入ったとき、千鶴は意識不明の重体だった。

 千鶴の母親は、言った。

「樹里さんが一緒にバスケの練習してくれるようになってから、あの子、変わったんです。明るくなったというか、よく笑うようになったんです。樹里さんがお見舞いに来てくれて、千鶴も、喜んでいると思います。本当に、ありがとう……」

 樹里は、耐えられなかった。

 お見舞いが終わった後、病院から出て、普段なら行かないような方向へ足を伸ばした。何でこんなところに来てるんだろう、不謹慎だ、と思いながら歩くそこは、飲み屋街だった。

 千鶴の母親の言葉が耳の奥でわんわん響く。

——あの子、変わったんです。

——本当に、ありがとう

 どっちが。変えていただいたのはどっちだ。お礼を言うべきはどっちだ。

 またお得意の口下手を発揮して、お母様にほとんど何も言えなかった。でもそのことが辛いんじゃないことはわかっている。本当に辛いのは、千鶴の目が覚めないからだ。わかっている、わかっている……。

 なんで、私の出会った大切な人に限ってこうなってしまうんだろう?

 樹里は、ぼんやりと道を歩いていた。そこは、アーケードのある小さな商店街のような道だった。道の奥に、不思議な模様のついた扉がある。高校に入学して初めてこの辺りをうろついたときから、ずっと気になっていた扉だ。

 お金、いくらあったっけ。いいや。入ってみよう。そこで少し飲もう。家には帰りたくないし、かといってバスケットコートにも行きたくない。ていうか、もはやあそこに行くのは怖い。

 バスケットコートのことを考えていたら、最後に千鶴に会ったときに言われた言葉が思い出された。

——心の中の太陽っていう存在は、きっと他にあると思うんですよ。

 うん、そうだね。そう思うよ。その言葉の意味は本当はわかっていた。

——それは誰よりもあなたのことをわかっていて、あなたの側にいる。で、あなたの行く道を照らしてくれるんです。

 知ってる。わかっている。でも無理だ。心の太陽がどうやっても道を照らせない夜が人生にはある。

 樹里は、ぼんやりとした手つきで、その不思議な模様のついた扉に近づき、そのドアノブを回した。

 それからだった。意識が遠のき、目の前が暗くなった。

 

 樹里は、気づいたら湖の岸に打ち上げられていて、見たこともない衣装を着た人々に囲まれていた。

 こうして、林田樹里は、砂漠デザへと来てしまったのだった。

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