第2話 新しい生き方。

「兄貴?」


 懐かしい声に呼ばれて、目を開ける。

 ツーンとした匂いが鼻を刺激した。


 この匂い、消毒液と薬品か?

 どうやら俺はベッドに横になっているらしい。

 ということは、ここは病院?


 ベッドの脇には目をまん丸に開けた女の子がこっちを見ている。


 記憶にある姿よりも少し大人びているけど間違いない。

 妹の瑞希みずきだ。


「みず、き……」


 喉を震わすと、自分でもびっくりするほどしゃがれた声が出た。

 声帯が錆びついてるみたいだ。


 瑞希は目をパチクリとさせてから、慌ててナースコールを押した。


 生きている。

 俺は、自分の記憶を確かめてみる。


 俺は行永太郎ゆきながたろう。二十四歳。無職。

 深夜、コンビニでタバコを買いに行った帰りにトラックに撥ねられた。

 撥ねられた瞬間のことは覚えてる。間近に迫ったトラックを見て、「あ、俺死んだわ」と思ったこともはっきりと思い出せる。

 しかし、こうして目覚めたのだから生き永らえたらしい。


 あと覚えていることは……そうそう、夢だ。


 異世界転生する夢を見たのだ。

 剣と魔法の世界メルディアに転生し、仲間たちと冒険をする夢。

 チートな能力で無双し、美少女の仲間たちにも慕われるという、都合のいい妄想の塊みたいな夢だけど、妙に生々しい実感があった。

 

 俺が夢で見た異世界には、現実とおなじように差別があり、貧困があり、格差があり、対立があり、戦争があった。

 ほかにも夢とは思えない不条理な状況に何度も出くわした気がする。


 でも所詮、夢は夢だ。

 

 俺は目を閉じる。

 夢のことを考えても仕方ない。

 今はどう生きるかを考えるべきだ。


 ◇◆◇


 どうやら俺は一年間昏睡状態にあったらしい。


 医師からは奇跡の回復だと驚かれ、両親は俺の目覚めを泣いて喜んでくれた。

 後遺症もなく、治療の経過も良好ということで、あっさりと退院が決まり、俺は一年ぶりに実家に帰ってきた。


 俺の部屋は綺麗に掃除されている。最後に部屋を出たときはもっと乱雑だったはずだが、両親が片付けてくれたらしい。


「部屋の掃除。わたしも手伝った。もう子どもじゃないんだから、自分で整理整頓くらいしなよね」


 瑞希が不満そうにぶーたれる。

 

 俺たち兄妹ははっきり言って仲はよくない。妹は俺を舐めきってるし、以前の俺はそういう妹を生意気な女くらいにしか思っていなかった。


 それでも看護師や両親の話によれば、瑞希は毎週、俺の病室に顔を出し、見舞いに来てくれていたらしい。

 家族への情はあるのだろう。

 そういうところは瑞希は昔から律儀だ。

 だいぶ、こいつにも迷惑をかけてしまったことを実感する。

 

「面倒かけて悪かったな。ありがとう」


 素直な気持ちでそう告げると、なぜか瑞希は狼狽えた顔になった。


「どうした?」

「いや。礼を言われるなんて、思わなかったから」


 瑞希は戸惑いながら答える。

 妹の珍しいリアクションを密かに面白がりつつ、俺は自分の部屋を見渡した。


 パソコンに、ドローンカメラ。探索用ザック。部屋の片隅に置かれたロッカーには刀や剣が厳重に保管されている。もちろん本物だ。

 机の上には身分証が置かれていた。


【C級探索者 行永太郎  日本ダンジョン協会発行】


 ダンジョン。

 それは今から三十年近く前、日本全国に突如として出現した謎の迷宮である。

 

 モンスターが跋扈するこの超常の空間に、探索者と呼ばれる多くの民間人が出入りするようになって久しい。


 特にここ十年ほどはダンジョン配信をメインに活動する配信者たちが人気を博すようになり、彼らに続けとばかりに多くの底辺配信者たちも生まれ、散っていった。

 俺もそんな底辺配信者の一人だった。


「瑞希は今もダンジョン探索してるのか?」

「うん。こないだA級にあがった」

「まじで!? もうプロじゃん」

「そんなんじゃない。大学卒業したら就職するつもりだし。ダンジョン攻略は学生の間までの趣味で終わらせるつもり」

「そっか。瑞希、もう大学生なんだよな……」


 時間は誰にでも平等に流れる。

 瑞希は将来を見据え、着実に前進している。


 俺はどうだろうか。

 部屋の隅で埃をかぶっている姿見を覗くと、そこには人相の悪い二十代無職の姿が映っていた。


 以前の俺はとにかくバズりたくて仕方なかった。

 みんなからちやほやされたかった。

 周りから羨まれるような『何者か』になりたかった。


 しかし中身のない何者を目指したところで、それが何になるというのか。


 異世界メルディアのことを思い返す。

 昏睡中に見た異世界転生の夢は、そういう意味でとても示唆的だった。


 容赦ない現実が渦巻く異世界にて、俺は奴隷同然の扱いを受けて育った。

 しかし、俺にあるチートなスキルとチートなステータスが発覚した途端、周囲は俺を英雄と持ち上げ、勝手に魔王討伐の使命を押し付けていった。

 そしてありとあらゆる面倒ごとに俺は巻き込まれ――最後には仲間同士の修羅場も招いてしまった。


 修羅場。

 詳細は忘れたが、俺が原因で修羅場ったのは覚えている。


 魔王を倒した救世主とも言われたけど、結局俺は何も手にできなかった。


 身に余る力を得たところで、最後に残るものなど何もない。

 やはり人間、堅実に生きるのが一番なのだ。


 それが、目覚めてから俺が得た結論である。


「これから就職先を探すよ」


 ごく当たり前の発言のつもりだったのに、瑞希は心底驚いたような顔になった。


「兄貴、探索者辞めるの?」

「趣味でなら続けたいけど。でも、それで飯を食っていくのはやめる」

「何それ。どういう心境の変化?」

「みんなに迷惑をかけたから、借りを返したいだけ」


 一年間の治療費はどれくらいかかったのだろう。

 かなりの負担になっていたはずだ。

 まずは俺にかかった治療費を両親に返す。

 それからお金を貯めて、実家を出て行く。

 当面はそれを目標に頑張るつもりでいる。


「父さんも母さんも迷惑なんて思ってないだろうけど」


 瑞希は何かを確認するみたいに、じーっと俺の顔を見つめる。

 それから、片手でスマホをしばらくいじりだすと、「ん」とスマホの画面を掲げた。


「調布市にあるダンジョンギルドで職員募集だって。学歴、職歴問わず。探索経験者を優遇、らしいよ」

「ダンジョンギルド?」


 ギルドはダンジョンごとに設けられた探索者たちのための集会所である。

 管轄区域内のダンジョンの情報を集め、モンスター出現情報や階層マップ、ダンジョンの危険度などを発信し続ける一方で、ダンジョンに立ち入る探索者たちの受付も行っている。


 いうなれば登山におけるビジターセンター、ダイビングにおけるダイビングショップのようなもの、とよく言われる。

 登山もダイビングもしたことないから、いまいちピンとは来てないけど。


 うちは神奈川よりだが、調布は小田急線と京王線を乗り換えていけば、そこまで遠くはない。

 調べてみたらドアトゥドアでだいたい一時間だった。


「ここのギルドは評判もいいし、変な噂も聞かないから、良いと思う」


 俺は募集要項を確認する。

 ギルドの名前は『カーバンクル・ホーム』というらしい。

 給料は月二十五万。契約社員からスタートだが、勤務成績次第では正社員への昇格もある。賞与あり。土日祝が休みではなく、四勤二休。交代で深夜出勤することもある。探索免許はC級以上を優遇。


「確かによさそうだな」


 ギルドなら、他の仕事と違い、業務内容の想像もなんとなくつく。

 仕事の流れも、大変さも。

 

 そもそも今の自分は仕事を選んでいられる立場ではない。

 

「すぐ履歴書を用意しないとな。あとは美容院で髪を切って……スーツも必要か?」

「父さんのを借りれば? そんなに体型も変わらないでしょ」

「ああ、そうだな」

「兄貴」


 瑞希が真剣な眼差しでこっちを見る。

 俺を嫌ってるはずの妹は揶揄するでも小馬鹿にするでもなく、真面目な顔で言った。


「頑張れ」

「おう」

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