第四話 異世界を知る

 島国という点において、日ノ倭国ひのわのくにという場所は日本によく似ていた。神力の由来は、日ノ倭国がまだその名を持っていなかった頃に遡る。そのときの国名はすでに失われて久しい。


「というよりも、意識して亡失させたと言った方が正しいか」

「意識して、ですか」

「ああ。目ぼしい文献は軒並み黒塗りにされている。国名の部分だけ丁寧にな。この世で覚えている者はほとんどいないんじゃないか」


 こうなってはやけくそだ。志乃は前のめりで晴時の話に耳を傾けた。


「なんでまたそんなことを?」


 国名が変わるというのは、元の世界の歴史でも度々あったことだ。王政を敷いている国などが該当する。王朝が変わるたびに国の名前が変わるからだ。呼称だけで言うのであれば、今の日本だって最初は外国から倭と呼ばれていたし、大日本帝国と呼ばれていた時期もあった。あれは自称していたのだったか。とにかく、そういうことがあるのは理解できる。だが、以前の国名をなかったことにする例は聞いたことがなかった。

 歴史の授業に対する志乃の姿勢が不真面目だという話でなければだが。


「日ノ倭国の以前の国……この場では単にと呼称しよう」


 その名が失われる直前、島は混沌に包まれていた。


「その頃の島では、人と妖怪が絶えず殺し合いを続けていた」

「妖怪……が、いるんですか」


「いる。今でこそ宵闇を好む奴らだが、かつては昼夜問わず現れては人を食い殺していたらしい」


 突っ込みたい部分は大いにあったが、既に異世界に転移するなんて非現実的な現象をその身をもって体験している。志乃は黙って続きを促した。


「妖術を操る妖怪とただの人間では、力の差は歴然だ。人が滅ぶのも時間の問題だった」


 そんな折、間宮という名の人間に神託が下りる。


 間宮は神から異能を賜った。それが現在でいう神力しんりきである。

 人間が神力を手に入れたことで、血で血を洗う長い戦いに終止符が打たれ、妖怪たちは夜の闇に閉じ込められた。完全に排除できたわけではないが、少なくとも昼間のうちは、人間は身の危険を心配せずに外を歩くことができるようになったのである。


 それを機に、島は日ノ倭国と名を改めた。

 島の国名には、あまりにも暗くむごい歴史が刻まれてしまったからだ。加えて妖怪との戦いで、時の権力者やそれまで国の護りを担っていた組織も一掃されてしまった。悲劇の上塗りである。

 図らずも、日ノ倭国は名実ともにリスタートを切ることとなったわけだ。


「間宮の神力は、かの者の子孫に今でも受け継がれている」


 神力を継ぐ家は、そのまま間宮家という。彼らのうち、当主だけが神力を手にすることができた。当主は神力を一族の者に分け与え眷属とし、妖怪を払滅する祓守師ふつもりしの組織を運営する。

 こちらが現在の国守の要である。


 志乃は唇を舐めた。口の中がからからに干上がってしまった心地だった。顔色を悪くする志乃の様子を知ってか知らずか、晴時はただ淡々と話を進めた。


「間宮家の当主が没すると、神力は楸の地にある神社へと還り、次期当主が立つまで結界の中で護られる」

「その神社って、ここの神社ですか」

「そうだ」

「もしかして、間宮家ってのには、今は当主がいない?」

「そうだ」

「じゃあ、神力は神社にあるんですね」

「正しくは、今日の昼まではあった、だな」


 志乃はふたたび口を閉ざした。話を聞くためではない。これ以上質問を重ねるのが嫌になったのである。


 手元にあった椀を持ち、鍋に残った雑炊をせっせとかき集めた。

 晴時が自分の椀に盛った雑炊を食み始めたので、これ幸いと志乃も食事を再開した。一杯目と違って、味はほとんどしなかった。ただどろどろしたものが胃の中に落ちていく感覚だけが残る。


「おまえが壊した鏡に、間宮の神力が宿っていた」

「んぐっ」


 むせた。胸を押さえて激しく咳き込んでいると、晴時がやはり淡々と「急いで食べるからだ」と注意する。急いで食べてなんかいない。あんたの不意打ちのせいだ、と志乃は晴時を睨んだ。


「行き場を失った神力は、最も近くにいたおまえを御神体と定めたようだな」


 もう驚かなかった。


「だから私が神力を持ってるんですか」

「そういうことになる」

「……わざとじゃないです」

「故意か否かはもはや問題ではない」


 問題なのは、神力が次の御神体として選んだのが人間だということ。

 晴時はそこで、口の端を持ち上げた。さもおかしそうに笑ったのである。


「次期当主が決まるまでの間、おまえがあくまで御神体として振る舞ってくれるのであれば、俺も悩まずに済むのだがな」

「御神体として振る舞う、ですか」


 具体的にはどうすればいいのだろうか。難しいことをやらされるのでなければ前向きに考えよう。志乃が日ノ倭国とかいうわけのわからない場所に来てしまったのは、間違いなくあの鏡を割ってしまったこと――もっと言えば、神力を宿してしまったことが原因だ。志乃の中から神力がなくなれば、日本に帰ることもできるはずである。


 志乃のやる気を見てとったのか、晴時がふ、と吐息を漏らした。なんだかちょっと馬鹿にするような。彼はいつの間にか空にしていた椀を空いた鍋に入れて、人差し指を立てる。


「神力が次期当主へと移るそのときまで、楸神社の奥でただじっと座っていることだ」

「え、そんなの」


 簡単じゃん、とは言い切れなかった。


「身じろぎも許さぬ。食事も排泄もできぬ。一日か二日では済まないだろう。ひと月か、それ以上か。次期当主が決まるまで、ただモノとしてそこに在れと言われたら、できるか?」

「無理です。その前に死んじゃいます」

「だろうな。俺でも無理だ」


 即身仏になる覚悟でも決めていれば可能なのだろうが、生憎と志乃は普通の女子高生だ。限界以上の飢えに耐えられずに命乞いをするだろう。やっぱり不可能である。というか干からびてしまっては帰ることができない。志乃は苦い顔で、お代わりの雑炊の最後のひと口を飲み下した。


「明朝、おまえを連れて間宮家本邸へ向かう。俺ひとりの手には負えん」


 晴時は志乃の手からも椀と匙を取り上げて、同じように鍋に放り込む。食事が済み、物置小屋から出るつもりのようだった。

 鍋を持った晴時を引き留めるように、志乃も膝を立てる。


「私はどうなるんですか。牢屋に入れられる、とか……」

「さて、どうなるかな。少なくとも次の当主が決まるまでは、本邸に留め置かれることになるだろう」


 晴時は立ち上がって、小屋の扉に手をかけた。志乃は慌てて手を伸ばす。袴の裾を掴んで、待ったをかけた。


「本邸から出られなくなるだけ? 普通に生活できるんですか?」


 志乃が止めたにも関わらず、引き戸は開けられた。

 四角く切り取られた空間の向こうに、日の沈んだ藍色の空が広がる。


「……俺からは何とも言えぬな」


 晴時は腰を落として、志乃の手を払った。濁した言葉が、不吉な予感を抱かせる。


「夜は冷える。あとで必要なものを届けさせよう」


 小屋の中には雑炊の香りと、手を伸ばしたまま呆然とする志乃だけが残された。晴時は縄をかけ直すことを忘れていったようだが、これっぽっちも喜べなかった。

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