第三話 食事をもらう
志乃が起きているのを見とめると、晴時は窮屈そうにな様子で小屋に体を押し込んだ。
文字通りの物置きだから、中で人が長い時間を過ごすことは想定されていない。志乃でも狭いと感じるくらいだから、晴時にとってはその比ではないだろう。上背があるのももちろんだが、彼は相変わらず時代劇に出てくるような武士の格好で、とにかく場所を取りそうなのである。
加えて、晴時は片手にごちゃごちゃと色々なものを持っていた。腕には湯気の立つ鍋を引っかけ、椀と匙をそれぞれふたつずつ器用に指に挟んでいる。
「そろそろ腹が減ったんじゃないか」
晴時は持っていたものを床に下ろした。食欲をそそる香りが空気を満たす。鍋の中で湯気を立てていたのは、米と具をいっしょくたにして煮た雑炊のようだった。どうやら食事を持ってきてくれたらしい。
「ごはん、くれるんですか」
「俺たちは別に、おまえを飢え死にさせたいわけではない」
言うと、彼はおもむろに腰の刀に手をやった。
志乃はぎょっとして後退りする。手足が使えないので、ただもぞもぞと体をうねらせただけに終わった。
「そのままでは食えぬだろう。縄を解いてやる」
晴時は短い方の刀を抜き、志乃の背中に回った。
縛り上げろと言った口で、今度は縄を解くと言う。そして結び目に刃を立てる仕草には迷いがなかった。本当に解いてくれるらしい。そわそわしてしまって、志乃は背中の様子を何度も窺った。
それがよくなかった。晴時がぴくりと片眉を持ち上げた。
「妙な真似はするなよ。逃げ出そうと考えても無駄だからな」
「逃げません。また殴られたくないし」
一発で意識を吹っ飛ばす威力だ。あんなやり方、テレビの中でしか見たことがない。そしてできればもう二度と食らいたくないと思う。あれはフィクションの世界で見ているだけでいい。
「おまえ、名前は」
「ま、松井です。松井志乃」
「志乃、腹は痛まないか」
婦女子の腹を思いきり殴ったことは、さすがに晴時も気にしていたらしい。志乃はおずおずと頷いた。頷いたが、「お腹は大丈夫ですけど、手が痛くて」ともつけ足した。
「縄が少々きつかったようだな。血が滲んでいる。痛むはずだ。あとで膏薬を持ってこよう」
「手当て、してくれるんですか」
「俺たちは別に、おまえを傷つけたいわけではない」
「……さっき」
「あれはおまえが抵抗したからだ」
晴時は一切の躊躇もなく言い切った。志乃と目も合わせずに足の縄へと取りかかる。
そういえば、と気づいた。志乃は自由になった手を頬に伸ばす。傷といえば、血を流すほどに深い切り傷を負ったはずだ。あまりにも違和感がないので忘れていたが……指先ががさがさしたものに触れる。傷があった場所には、紙のようなものが貼ってあった。口を動かすと引きつる。見ることができないのでよくわからないが、大きい絆創膏のようなものだろうか。
ぺたぺたと己の顔を撫で回しているうちに、足も自由になった。ようやく好きに体を動かせるようになり、志乃は肩と足首を回す。しかし、ほぐれた体はすぐに緊張を取り戻した。晴時が目の前で長い方の刀を引き抜いたのである。
「いちいちそう身構えるな。別におまえを斬り捨てたりはしない。俺がお上のお咎めを受けることになる」
彼は慣れた手つきで鞘ごと抜いた刀を脇に置いて、志乃と向かい合うように腰を落ち着けた。取り上げた椀に雑炊を盛り始める。
「それにしても、おまえは本当に妙な格好をしているな。布がやけに薄い上、そんなに肌を露にして……恥ずかしくはないのか」
志乃はここで、ようやく肩の力を抜いた。
「ただのセーラー服ですよ。町を歩いてたらいくらでも見る機会はあるでしょう」
「知らぬ」
質問したのはそっちだろうが、と言い返しそうになるほど素っ気なかった。愛想がないというか失礼というかなんというか、本当に調子が狂う。
ほら、と差し出された椀を、ひったくるように受け取った。
匙が真ん中まで埋まるほどに、雑炊がたっぷりとよそってある。煮込まれた米は淡く色づき、かき回すとよい匂いが立ち昇った。味噌の香りだろうか。胸いっぱいに吸い込むと、端に居座っていた苛立ちが解けていく。
ぐう、と腹が鳴った。
志乃はとっさに空いた手で胃のあたりを押さえる。じわじわと首に上ってくる熱を感じながら、晴時を窺った。志乃の腹の虫ははっきり耳に届いていただろうに、彼の表情は微塵も揺らいでいない。
「まだあるから、足りなかったらお代わりしていい」
「……あ、ありがとうございます」
余計に羞恥がつのる。志乃は体を回転させて、わざと晴時から顔を背けた。
すくった雑炊を口に含む。
汁を吸って膨らんだ柔らかい米に、思いのほか甘い味噌。しゃくしゃくした食感から染み出すわずかな苦みは山菜か。舌の上でほろりと溶けたのは肉だ。特別ではないが、寒くなってくる今の時期、しっとりと体に沁みる味だった。
狭い小屋の中に、かつんと椀を打つ匙と、雑炊を嚥下する音だけが響く。
「食事が終わったら、足にはもう一度縄をかける。いいな」
沈黙の中で投げられた呟きは、志乃の胸をひやりと撫でた。食事で上がった体温を奪われた心地だった。なんだ、やっぱり縛るのか。
「私を縛って監禁することは罪にならないんですか」
「不満か」
「当たり前です!」
志乃が本来入ってはいけない場所に入ってしまったことは認めよう。外から鍵がかかっていたのだからこれは間違いない……入ったときには鍵なんかかかっていなかったというのはひとまず置いておいて。とにかく、だからこっぴどく叱られたり警察を呼ばれたりするのならまだ理解できる。
いくらなんでも、縛り上げて監禁はないだろう。立派な犯罪だ。
それに、と晴時の傍らに置かれた刀を見る。
短い方の――脇差が縄を切ったところを見ると、あの打刀も正真正銘の本物だろう。銃刀法違反というやつではないのか。服装いい、時代錯誤もいいところだ。やっぱりやばい宗教じゃないのか。
それとも。
それとも、志乃がおかしいのだろうか。
志乃が入ったのはぼろ神社だった。
だというのに、砕けた鏡を確認したとき――そうだ、あのとき、祭壇の上は綺麗に整えられ、お供え物が置かれていた。破片が散った床だって、雨漏りの跡も腐った部分もなくて、毎日のように掃き清められているかのような状態だった。入り口の格子扉は傾いていて簡単に侵入できたはずなのに、晴時は鍵を開けて入ってきた。
もしかすると、今この場でおかしいのは志乃で、ここは志乃が生まれた現代日本なんかではなくて――。
ふと胸に湧き上がってきた予感を振り払うように、志乃は空になった椀を勢いよく床に置いた。かんっ、と小気味いい音が鳴る。
晴時が顔を上げた。自身の椀に、雑炊のお代わりをよそう格好のままで静止している。
「あの! 私、いつになったら家に帰れるんですか」
「帰れると思っているのか?」
苗色の瞳が志乃を射抜いた。
舌の上で転がしていた言葉が行き場を失う。膨らんでいた不満が、空気が抜けた風船のように明後日の方向へ飛んでいってしまった。
「その奇妙な着物。この
「そ、れは……だって、私は近所の山からあの神社に入って……だから、山を下れば町に着くはずで……」
「本当に?」
晴時の目に揺らぎはなかった。逸らすことは許されなかった。ただ志乃の胸の内で、嫌な予感だけが増幅していく。
「たしかめてもいい」
お代わりを盛ったきり手をつけていない椀を置き、晴時は立ち上がった。細く開いていた扉を開け放つ。藍と橙が混ざった景色が広がった。志乃を振り返った彼が顎で外を示す。
自分の目で見るがいい、と。
志乃は恐る恐る腰を上げた。お化け屋敷に入るときだってもう少し堂々としているだろうという及び腰だった。晴時の横から、日が沈もうとしている外を眺める。
扉の外には茅葺き屋根の屋敷が建っていた。屋敷といっても、普通の一軒家よりは多少立派だが、という程度のものだ。志乃がいる物置小屋は、その屋敷の敷地内に建てられているらしい。
志乃は一歩踏み出して、屋敷の庭先へと出た。
庭は外に向かって解放されていた。どこまでが敷地なのかを示すため、申し訳程度に生垣が植えてあるだけだ。庭の前には幅の広い道が横たわっている。平らにならされてはいるが、舗装はされていなかった。道の脇ではすすきがたなびいている。その向こうに、見渡す限りの田畑。そのすき間を埋めるように、茅葺きの屋根がぽつりぽつりと点在した。視界を遮るものは一切なく、遠くの山々がよく見える。
小さな里だ。
ところどころ、人の姿も見受けられた。志乃のように洋服を着ている者はひとりとしていない。着流しのようだったり、股引のようなものを下に履いていたりとバリエーションはあったが、誰も彼もが共通して着物を身につけていた。
高いフェンスに囲まれた高校も、広い駐車場を携えたコンビニも、賑々しい駅周辺の建物群も、ひしめき合う住宅も、覚えたての通学路も、会社帰りのサラリーマンも、同じ学校の生徒たちも。
何ひとつ、そこにはなかった。
在るのは見覚えのない村だけ。
志乃は捨てられた子犬の気分で、扉に寄りかかる晴時を見上げた。彼は改めて「どうだ」と問うたりはしなかった。ただ、より無情な現実を突きつけてきただけだった。
「どちらにしろ、おまえが帰ることは許されない。おまえは神力を手にしてしまった」
「しん……何?」
「御神体を壊しただろう」
晴時は懐から手ぬぐいを取り出した。何かを包むように丸められている。彼が慎重に手ぬぐいの端を開くと、夕日を反射してきらめく欠片が姿を現した。
砕け散った神鏡のなれの果てである。
「おまえが勝手に本殿に忍び込んだことに関しては不問に処す。そのような些末な罪にかかずらっている場合ではないからだ」
手ぬぐいを元のとおり畳んで、晴時は鏡の破片を仕舞い直した。
「おまえを不当に捕まえて、俺が罪に問われるだろうと言ったな。答えてやろう」
志乃の腕を引く。
導かれるまま、志乃は小屋の中に逆戻りした。ここで振り払って駆け出してしまえば、逃げ切れたかもしれない。が、そこまで思考が至らなかった。まるい瞳は未だに扉の外に向けられている。何度も瞬きをして、見えるものをたしかめるのに必死だった。
「この場において、罪人はおまえだ」
物置小屋に差し込む夕日が細くなっていく。
志乃の目の前で、引き戸がぱたりと閉じられた。それでもまだ、志乃のまぶたの裏には村の景色が焼きついていた。
「おまえは
晴時が傍から離れ、座った気配がした。
志乃は深く息を吸う。吸って吸って、吸って。
ここは志乃が越してきた町ではない。
日本ですらない。
志乃は肺に溜めた空気を一気に吐き出した。もの言わぬ木の扉から視線を剥がして、振り返る。
「シンリキって、何ですか」
そう尋ねるほか、道は残されていなかった。
「……神力とは、文字通り神から賜った力。自然現象を操る異能のことだ」
そして晴時の話は始まった。
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