第二話 状況確認をする

 志乃の人生はいつだって引っ越しと転校で構成されていた。父の転勤のおかげで、幼稚園から高校まで同じ土地に留まったためしがない。進学するたびに友人関係がリセットされた。

 その点で言えば二年生の夏休み明けに合わせた今回の転校も、いつものことだと流すことはできる。しかしそれは「転校そのもの」に焦点を絞った場合だ。

 原因を加味すると、どうしても平然として過ごすには心地の悪さが残った。


 父親の不倫、家庭崩壊、離婚。


 まさかドラマでしか聞かないような単語が自分の家庭にぴったり当てはまる日が来ようとは。たしかに父の会社のブラックぶりは不審に思っていたが、父の言っていた「泊まり込みで片づけなければいけない仕事」がまるごと嘘だったなんて、一介の学生でしかない志乃が思い至るはずもない。母から証拠の数々を見せられたときには、三往復ほどして確認したくらいである。

 あんなに静かな母を、志乃は人生で初めて見た。「驚かないで聞いてね。お父さんがよその女の人とこっそり会ってるみたいなの」から始まった不倫証拠お披露目会のときも、志乃に披露したそれらの証拠を父にそっくりそのまま見せて詰め寄ったときも、母はびっくりするくらい静かだった。怒りもせず、悲しみもせず、ただ淡々と話を進めたのである。やらかした父本人より志乃のほうが震えあがったくらいだ。


 お話し合いが終わると、志乃と母はふたりで家を出た。実家を頼り、母方の祖母のもとに身を寄せることになったのである。

 遠方だったので通う高校も変わった。今日はその始業式だった。既存の生徒とはちょっと離れたところから参加し、ホームルームで自己紹介をする。空き時間になるなり、席を囲まれて嵐のような質問を浴びることには慣れっこだ。


 慣れっこだが、今回はやっぱり事情が違った。


 以前暮らしていた土地のことや、転校理由、今住んでいる地域。転入生に対する質問には、このたぐいも混ざっている。答えてもはぐらかしても話を逸らしても、志乃の頭には、離散した家族の姿がちらついてしまう。当たり前だが、あまり気持ちのいいものではなかった。


 雑談と、志乃にはほとんど関係のない宿題の提出のみで構成された授業を終えると、その日は午前中で放課となった。

「最近できたカフェがあるの。お昼ごはん、一緒に食べにいかない?」とは、隣の席の女子生徒とその友人たちの言だ。


「ごめん、家の手伝いしなきゃだから。また今度誘ってくれる?」


 考える間もなく笑顔で躱して、志乃はひとりで帰路につく。乗り気じゃなかったわけではない。ただ本当に、自然と口から出たのが拒否だった。


 家に帰れば、出迎えた祖母から「新しい学校はどうだった?」と聞かれることだろう。仕事から帰ってきた母にも同じことを言われるに違いない。仕事だけが原因ではない、疲労を色濃くにじませた顔で「高校じゃ転校せずに済みそうねって言ってたのにごめんね。しばらくおばあちゃん家にいるから、今度こそ卒業まではいられるわ」とか。すでに一度言われている。


 対して、志乃は。

 志乃は――。


「帰りたくないなぁ」


 答えるのが億劫だと思ってしまった。だって、どんな返事をしたって母の顔色は晴れない。

 だから志乃は、家が見えてきたところで足を止めたのだ。


 視線を巡らせる。幼い頃に何度か遊びに来ただけの見慣れない景色。住宅や施設の合間に点在する田畑と、町を閉じ込めるようにそびえ立つ山々。


 山の半ばに、ぽつりと顔を出す赤い鳥居があった。

 その赤は、鮮やかな色をもって志乃の心を捉えた。


 あんなところに神社がある。志乃はごく自然に進路を変えた。舗装された道路を外れて、土が剥き出しになったあぜ道に入る。麓にたどり着くと、吸い込まれるようにして細い山道に進入した。立ち入り禁止の札はなかった。


 左に折れた山道の終点、枝葉が降り積もった石階段を登った先に、目的の鳥居はあった。間近で見て初めてわかったが、それは遠目に見るほど鮮やかな赤を持ってはいなかった。塗装にはヒビが入り、剥げて黒ずんでいる。

 奥に向かって伸びた石畳も同様だった。今しがた上ってきた階段のように割れ、隙間からは雑草が伸び放題。あちこちが隆起している。周囲に撒かれていただろう玉砂利はすっかりさらわれて、土が剥き出しだった。最奥に鎮座している建物も似たようなものだ。屋根は腐り落ち、堆積した落ち葉なのか木材なのかわからない有様である。


 寂れた小さな神社だった。


 それでも志乃は足を止めなかった。鳥居をくぐる。足取りがいやに軽い。導かれるように参道を進んで、当然のごとく本殿を目指した。三本足の賽銭箱を避け、ちぎれかけた鈴尾を払う。わずかに鳴った鈴の音を頭に受け、蝶番がいかれて傾いた格子戸を押し開ける。


 あった、と思った。


 落ち葉や木片や、その他さまざまなものが散乱した本殿の中で、それはひときわ輝いて存在感を放っていた。


 銀色の面が、穴の空いた天井から差し込む光を反射する。縁のない輪郭は、綺麗な円を描いている。

 祭壇に納められた神鏡だった。


 台座も鏡も、まるでつい最近まで手入れがされていたかのような真新しさだった。うらぶれた神社の中にあるとは思えない。わずかに胸が高鳴るのを感じて、志乃は本殿の中に体を押し込んだ。床板が大きくしなって、嫌な音を立てる。

 スクールバックが肩からすべり落ちた。志乃は祭壇の前に立ちつくす。


 腕を持ち上げた。そうすることが当然だというように、ごく自然な動作で、鎮座する神鏡に手を伸ばす。


(なんで私、こんなことしてるんだっけ)


 我に返ったときには遅かった。ひんやりとした鏡が、志乃の指先から体温を吸い取っていた。


 鏡面に亀裂が入る。

 隙間から光があふれ、甲高い音とともに弾けた。


 飛び散った鏡の破片が頬を掠める。ああ、それで怪我をしたのか、とようやく思い至った。これだけ勢いよく飛んでくれば、それは深く傷つきもするだろう。

 じくじくと血を流す血管の脈を感じながら、志乃は目を閉じた。


   ◇ ◇ ◇


 志乃は夢を見ていたらしい。

 おかげで神鏡が木っ端微塵になるまでの出来事をすっかり思い出せた。少々嫌な家庭の事情もひっくるめて。


 まぶたを持ち上げて真っ先に映ったのは、粗末な板張りの天井だった。床は土が剥き出しのようで、背中にひんやりとした硬い感触が伝わってくる。

 起き上がろうとした志乃は、体を芋虫のようにうごめかせた。手足ががっちり固定されている。縄目が肌に食い込んでいる気がした。そっと手に力を込めると、手首が悲鳴を上げる。神社で栗髪の青年にやられたときよりも、ずっと固く拘束されていた。

 志乃が逃げ出そうとしたからなのだろう。逃げなければ縄は緩いままだったし、腹に一撃をもらって気絶することもなかった。が、それでいいのか。志乃はごろんと寝返りをうった。


 積み上げられた薪が目に入る。その他、古びた鍋や名前もわからないような農具たち。志乃が転がっているのは、物置小屋のようだ。ところどころ板壁が歪んでいる。かなり年季が入っていた。


 おとなしく従ったとして、婦女子を縛り上げて狭い物置に放りこむような連中だ。まともとは思えない。開き直るわけではないが、不法侵入とか器物破損とか、普通はまず親に連絡を入れるべきじゃないか。こんなやり方は絶対に間違っている。


 擦れる手首の痛みに耐えながらもどうにか体育座りの体勢を取った志乃は、足首を固定する縄をつぶさに観察した。解くことができれば、自力でここから抜け出せる。

 がたり、と引き戸が動いたのはそのときだ。志乃は顔を上げた。

 橙色を帯びた細い光が顔を照らす。志乃が眩しさに目を細めたのと同時に、差し込んできた夕日は遮られた。


「起きているか」


 ひとつに結んだ紫苑の髪がきらきらと輝きながら肩を流れ、胸元に落ちる。端正な顔立ちを台無しにするしかめ面に、志乃は心の中で毒づいた。


(不機嫌なのはこっちだっての)


 小屋に入ってきたのは、晴時だった。

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