オータニ・ショーヘイの右腕

和泉茉樹

オータニ・ショーヘイの右腕

       ◆


 僕がその募集を発見したのは偶然だった。

 SNSで見つけたわけだけど、よくある「高額報酬」とかを謳っているわけではなく、「完全歩合制」となっている。それなのに月にどれくらい稼げるかは示されていない、妙な募集だった。

 仕事内容は「軽作業」だ。勤務地は応相談となっていて、そこは謎だ。

 そんな意味不明な募集の告知の最後に、採用には試験を必要とする旨が明記されていた。

 僕が応募すると決めた理由は、試験のある募集というのが気になった、という一点だけだった。

 どんな試験をするのだろう?

 ともかく応募フォームに名前と電話番号とメールアドレスを入力して送信すると、翌日には案内が来た。都心を少し離れた駅が最寄りの、おそらく雑居ビルで試験とやらをするようだった。

 服装の規定があるだろう、と思っていたけど、特に指示はない。まぁ、軽作業だから背広を着る必要はないのだろうとは思う。仕事中は作業着を着る必要があるのかは気になる。季節は冬になったばかりで、Tシャツにジーンズで済ませられる気はしない。この仕事のために服を用意するのは面倒だ。

 ともかく、試験会場に行くことになる。

 日曜日の昼過ぎで、行ってみると、確かに雑居ビルだったけれど三階分の全フロアが空いているようにしか見えない。試験会場は二階で、地上から見上げてみた時、窓にカーテンもブラインドもなかった。もちろん、ビルにくっついている看板もないし、入り口に入居している事務所などを示すプレートもなかった。

 かなり怪しい。危険かもしれない。

 電話番号とメールアドレスを捨てることになる覚悟を決めながら、僕は階段で二階まで上がった。エレベータなど存在しない。

 階段を上っていくと、ドアが開いているのが見えた。寒さを感じる時期にドアを開け放しておく理由はすぐには見当たらない。室内に暖房はないのだろうか。

 恐る恐る入ってみると、長机がいくつか並び、パイプ椅子がセットされていた。すでに椅子には二人の男性が座っている。どちらも僕と同年輩、大学生くらいに見えた。二人ともが僕を見たけれど、言葉はない。その二人も打ち解けているようでもなかった。

「こんにちは」

 横手からの不意な声にそちらを見ると、背広の男性が立っていて、にこやかに空いている椅子を示した。

「あと五分ほどで試験ですから、どうぞ、お好きな席へ」

 言われるがままに、僕は席に着いて、カバンから筆記用具を出した。

 ふと視線を感じてそちらを見ると、先ほどの背広の男性が笑顔のままこちらを見ている。何か、見咎められるようなことをしただろうか。もし何かあれば、声をかけてくるはずなのにそれがない。

 不気味なものを感じながら、僕が意味もなくシャープペンの芯を調整したりしていると階段の方から足音がして、背広の男性が入ってきた。その男性が扉を閉め、鍵をかけた。小さい音だが、変な威圧感がある。

 後から来た背広の男性がカバンから紙の束を取り出したかと思うと、パイプ椅子に座る僕を含めた三人にそれを配った。それと、サインペンも。

 サインペン?

「それでは制限時間は三十分です。私語は厳禁です。質問もなしです」

 一方的にそう言うと、男性は腕時計をチラッと見て、あっさりと「始めてください」と口にした。

 学生の性か、勢いよく紙の束の表紙をめくっていた。


        ◆


 終了時間になると答案用紙が回収され、背広の二人はあっさりと去って行った。

 試験の結果は後日、メールで通知されるらしい。

 僕も他の二人も部屋を出たが、ドアを施錠することもできないので、思わず視線を交わしてしまった。

 帰り道、僕は試験の内容を思い返して、首を捻るばかりだった。

 試験は簡単といえば簡単だった。

 問題用紙の一枚目が一般教養のようなもので、これは高校生でも余裕で解答できたはずだ。

 問題は二枚目以降だ。

 二枚目以降には、一枚につき二つの図案が描かれていて、答案用紙にはその図案を真似たものを書き込むことになる。

 図案と言っても複雑ではない。

 どうやら英語でのサインらしい。かなり字が崩れているというか、簡略化されているので、なんと書かれているかは判別しづらかった。

 試験の前にサインペンが配られた理由もここで判明した。その図案の模写がサインペンだと自然にできるからだ。

 最初に配られた紙の束は大量の問題用紙だと思っていたけれど、ほとんど全ては白紙のコピー用紙で、つまり、サインペンで何度でも書き損じてもいいように紙が束になっていたのだった。

 この図案の模写がなかなか難しく、正確に写し取れば正解なのだろうけれど、僕の感覚では何が正解かははっきりしない。元の図案が走り書きのようなものなので、再現性は低いように見えた。

 ともかく、三十分のほとんどをサインペンでのお絵描きに費やしてしまった。

 こんな試験をして、何になるのやら。

 この妙な試験のことは三日もすれば忘れていた。大学の講義もあったし、試験期間も近かったからだ。大学の試験もサインペンでの殴り書きで済めばいいのだが、そんなことはありえない。

 連絡が来たのは、半月後だった。

 簡潔なメールには、仕事に関して説明するので、という前置きの後、今度は都心のビルへ来るようにという内容が添えられていた。背広で来るように、ともある。

 採用されたのだろうか。その辺については書かれていない。

 日付に関しては問題なかった。ちょうど講義のない暇な日だった。

 成人式以来、就職活動まで待機していた背広を身にまとって、僕は指定された場所へ向かった。

 今度はまともなビルで、七階建ての全てのフロアに何かしらが入ってる。僕が来るように指定されたフロアも、玄関のパネルでは「ユニバーサル・トレーディング」となっている。妙な社名だが、妙な社名など世の中にごまんとあるだろう。

 今度はエレベータで上がり、フロアに出てみると、事務スペースが広がっていて、数人の女性がパソコンに何かを入力していた。それを見て、そうか、今日は平日か、と思い出した。

 女性の一人が僕に気づいて、話をするとすぐに応接用のスペースに連れて行かれた。

「マネージャーはすぐに参りますので」

 そんな言葉を残して女性は見えなくなり、僕はしばらくソファで落ち着かない時間を過ごした。

「やあやあ、どうも」

 急な声と同時に中年男性が姿を見せたのに驚いたのは、足音も気配もまったくしなかったからだ。驚きすぎて立ち上がるのを忘れてしまった。そんな僕を気にした様子もなく、向かいのソファに腰をおろすと、男性が僕の名前を確認してから、名乗った。

「マネージャーの筒井です。きみには、大谷翔平の右腕になって欲しいんだ」

「オータニ、ショーヘイ……」

 僕が首を傾げるのに、筒井が明らかに怪訝そうな顔をした。

「知らないのか? 大谷翔平?」

「どなたですか? タレントですか?」

「野球選手だよ」

「ああ、プロ野球選手ですか」

「知らないのか? 本当に? 来シーズンから、ドジャースでプレイするってニュースになっているだろう」

「ドジャース? それってセ・リーグですか? パ・リーグですか?」

「日本じゃない。メジャーリーグだよ。ロサンゼルスの球団だ」

 はあ、としか僕は言わなかった。筒井は唖然としているようだった。

「僕がその」話を進める役回りでもないはずだけど、僕は言った。「メジャーリーガーのオータニ・ショーヘイの右腕って、秘書か何かにしてもらえるんですか? 野球選手の秘書ってどんな仕事ですか? あの、英語は得意じゃないんですが」

 いつの間にか筒井がものすごい顔になっていたが、彼は怒りに支配されなかったようだ。

「秘書じゃない。大谷は今、右腕が使えないんだ。手術をして、リハビリ中だ」

「使えない? 使えない右腕の代わりって、代わりに投げろ、ってことじゃないですよね」

 うむ、というように筒井が強張った顔のまま頷いた。

「きみには、大谷の代わりに、大谷のサインを書いてもらう」

「サイン? 僕、オータニのサインなんて」

 そこまで言って、やっと理解が追いついた。

 筒井が机の上に置いていたファイルを開くと数枚の紙が出てきた。筒井が一枚を示す。

「これが本物の大谷翔平のサインだ」

 そして、と他の二枚の紙を示す。

「これはどちらも、きみが大谷翔平のサインを模写したものだ。よくできている」

 確かにその二枚は、例の試験で僕が書き殴った模写に見えた。模写というか、まさにそれっぽく殴り書きにしたのだけど。

「きみには大谷の怪我が治るまでの間、サインを代筆してもらう。さほどの量じゃないし、これは大谷も承認している正式な依頼であり、仕事だ。当然、球団も承知している。何もおかしなところはない」

 一方的に筒井が話していくので、僕は黙っているしかなかった。

「こちらが依頼した時に作業場に来てもらってもいいし、きみの住まいに荷物を送って家で作業してから、製品を郵送してもらってもいい。どうする?」

「あ、いえ、いきなりそう言われても」

「この仕事は大谷のためなんだ。世界の大谷のだ」

 世界の、と言われても知ったことではないのだが……。

「大谷と直接、話してみるかい?」

「え? オータニって人がここにいるんですか?」

 まさか、と筒井が笑う。

「テレビ電話だよ。時差もあるが、出てくれるだろう」

 筒井がなんでもないように言うので、僕は思わず頼んでしまった。

 席を離れた筒井がタブレットを持って戻ってきて、何かのアプリを立ち上げてから十分ほど待つと、相手から応答があった。筒井が画面を操作したかと思うと、そこに男性が映し出された。肩から上しかないが、画像は鮮明だ。

「こんにちは、大谷です」

 声もハキハキしているし、笑顔が人懐っこい。

 僕が黙っていると、筒井が横から話し始めた。

「大谷さん、こちらの彼があなたに代わってサインを代筆することになる方です」

 画面の中のオータニが僕を見ると、わずかに頭を下げた。

「よろしくお願いします。右肘にあまり負担をかけたくなくて」

 僕は画面を凝視して、頷くしかできなかった。

 筒井とオータニは手術がどうこうとか、アメリカの気候がどうこうとか、そんな話をしていたけれど、僕は別のことを考えていた。

 彼がオータニ・ショーヘイか。

 なるほど、人に好かれそうではある。

 そんな要素が野球の結果にどれくらい影響するかは不明だけれど。

 筒井の冗談に、オータニが身振りで答える。口元を隠しているが、笑いが堪えきれないようだ。筒井も笑っている。

 ふむ。親しげなことだ。


       ◆


 僕は最初、作業場に週に一度、顔を出して仕事をした。

 サインを書くものは多岐にわたる。ユニフォームから始まり、キャップやバットにサインすることもあれば、どういう関係があるのかわからないビール瓶にサインすることもあった。

 僕のサインの出来栄えを判断する誰かがついているかと思ったが、そんな役目の人間はいなかった。作業場にいるのはどこからか運ばれてきた荷物を開封し、僕の元へ届け、僕がサインしたものを回収し、梱包し直し、積み上げていく、そんな作業をする無口な男性たちだけだ。

 彼らが名乗ろうとしないので僕も名乗らなかったけれど、彼らはほとんど声を発さない。そのために異様な雰囲気が作業場にはあった。

 季節は冬真っ只中で、野球についてよく知らない僕でもそろそろ試合が始まる時期を見据えるのではないか、と思われた。オータニ・ショーヘイの右腕の状態は知らないけれど、自分でサインが書けない状況のままなのか。それとも、彼の右腕の負担を減らすために、僕がいつまでもオータニ・ショーヘイのサインの書き手を務めるのだろうか。

 社会的に許されない、詐欺行為だが、公式の依頼の、公式の仕事なら許されるのかもしれない。いや、やっぱり許されないか。

 そんなことを考えている頃に、筒井が作業場に顔を見せた。

「大谷がきみをアメリカに招待したいと言っているんだが、パスポートを持っているかな」

「パスポートは、高校の修学旅行でシンガポールに行くときに取りましたけど、えっと、アメリカですか?」

「そう。まだキャンプ中だけど、特別に大谷がきみに会うそうだ」

 本当だろうか。オータニ・ショーヘイに生で会える?

 筒井は一方的にスケジュールを伝えて、オータニのたっての希望だと言った。

 結局、僕はそれを受け入れて、大学の春休みの三日間、アメリカに行くことになった。急展開についていけないけれど、それよりも三日でアメリカ旅行とは、強行軍にもほどがある。

 その辺は筒井が同行するらしいので、彼に任せるしかない。僕は日常会話程度の英語もできないので、一人では何もできない。

 あっという間にその日は来て、僕は飛行機に乗ってアメリカに向かった。全て筒井が手続きしたので、どうも格安航空会社の路線らしかったけど、詳細はわからない。アメリカに着いても、英語がちんぷんかんぷんなので、そこが何空港か判然としない。

 筒井に連れられて荷物を引きずって空港を出て、タクシーに乗り、どこかのホテルに着いた時にはすでに周囲は日が完全に落ちて真っ暗だった。街の明かりがもっと派手でも良さそうだが、それもなかった。

「明日の朝、四時にラウンジで会おう」

 筒井はそう言って僕にルームキーを渡して、エレベータに消えた。

 僕は念のためにラウンジの様子を確認して、ホテルマンに胡乱な目で見られているのを意識しながら一人でエレベータに乗った。誰かが案内してくれるようでもない。目的の階で降り、短い廊下を進んで、自分の部屋に入った。

 簡単に表現すれば、日本のビジネスホテルをより簡略化したような部屋だった。夕食を食べていないが、筒井はどうしたのだろう。部屋の机の上の置かれた冊子を見ると、ルームサービスがあるようだけど、頼み方がわからない。筒井に聞こうにも筒井の個人的な連絡先は知らないままだし、内線の使い方も不明だ。まさか会社に国際電話をかけて筒井と連絡を取るわけにもいかない。

 仕方なく空腹のまま風呂に入ってからさっさとベッドに横になった。

 翌朝は空腹で目が覚めて、無事に約束の時間にラウンジに降りられた。筒井は普段通りに「では、行くとしようか」と先に立って歩き出した。この時は筒井も朝食を途中の屋台のようなところで買ったので、僕も朝ごはんにありつけた。いかにもアメリカらしいホットドッグだったけれど、やたら辛かった。それでも空腹が満たされるのはありがたい。

 タクシーで移動して、昼前には球場らしいところに着いた。大勢の人がいて、先へ進むのも難しい。僕は数え切れないほどの人がオータニ・ショーヘイのユニフォームのレプリカを着ているのを見た。そのうちの何枚からはサインが書かれていたが、手書きではなくプリントだ。

 客の多くは球場の中をネット越しに凝視している。筒井がそこへ割り込み、巨漢に押し返されたりしたが、それでも場所を確保し、僕にグラウンドの方を指で示した。

「あれが大谷翔平だ」

 僕もそちらを見たけれど、かなり距離があるのではっきりしない。身長が高く、腕や腿のあたりはパンパンに張っているのでユニフォームがきつそうだった。遠目でも黒髪だとわかったけれど、肌は少し日焼けしているだろうか。日本ではまだ春にもなっていないのに、アメリカはだいぶ暖かいし、日差しも強い。

 じっとその走塁の練習を繰り返す選手を見たものの、彼はこちらに気づくわけもなかった。

 筒井が僕の腕を引いて人混みを離れ、食事にしようと言ってくれた。正直、朝のホットドッグでは物足りなかったので、めちゃくちゃ嬉しかった。

 連れて行かれた先はキッチンカーが並ぶエリアで、何が食べたいかと聞いてくれたので、タコスのようなものを頼んだ。

「あの、二つ買ってもらっていいですか?」

 勇気を出してそう付け加える僕に筒井は大笑いして、三つでもいいぞ、と冗談を飛ばしてきたので、僕は本気で「じゃあ、三種類お願いします」と頼んだ。

 タコス三つを僕が平らげる間、筒井はハンバーガーを食べ、不意に時計を見ると「時間だ」と言った。

「約束があるとはいえ、大谷は忙しい。さあ、行くぞ」

 どこへ行くかと思えば、球場の建物の中に入るらしい。警備員が当然のように筒井の前に立ちふさがったが、筒井が書類を取り出して話し始めると、警備員の表情が和らいだ。警備員が時計を確認して、それからどこかとトランシーバーで連絡を取り始めた。

 少し僕と筒井が待っていると、背広の男性が出てきて、やはり筒井と何事かを話して、身振りで中へ入るように示した。僕は何かトラブルかと思っていたので、ホッとして筒井の後についていった。

 やけに長い通路を抜けた先の狭い部屋に入ると、青と白のユニフォーム姿の男性が待っていた。

 顔を見た時、僕は驚きに打たれた。

 大谷翔平だ。

 本物だ。

「いつもありがとう、大谷さん」

 そんなことを言いながら筒井が歩み寄っていき、大谷と握手をした。大谷は「応援ありがとうございます」と答えながら、満面の笑みだ。

「何も心配はいりません。彼があなたの力になってくれます」

 握手したまま、筒井が僕の方を振り返った。大谷は僕にも笑顔を向け、「ありがとうございます」と言っている。

 筒井が大谷の手を離したので、次は僕が握手をする番になったが、さすがに緊張した。

 大谷翔平の手は想像よりも大きく、分厚かった。そして力強い。一流の野球選手の手はこういうものか、と感慨深かった。

 僕が何も言えないでいる間、大谷も黙っていた。

 そこへ短い英語が聞こえ、見ると、部屋の隅に控えている球団職員が筒井に何か話しかけている。どうやら大谷は次の用事があるらしい。

 僕は大谷の手を離して、どうも、などと言って頭を下げるしかなかった。

 部屋を出て、通路を歩く外国人とすれ違いつつ、あれが大谷翔平か、ということを僕はひたすら考えていた。

 外に出ると筒井が早口に「飛行機まであまり時間がないぞ。急ぐとしよう」と言うと小走りになったので、僕の一時の夢はあっさりと覚めた。

 大慌てでまた飛行機の乗り、夕食の機内食を堪能して、眠っているうちに機内アナウンスがあり、もう日本が近いようだった。筒井は何をしているだろうと隣のシートを見ると、筒井は完全に眠りこけていた。


       ◆


 日本に戻って、僕は作業場ではなく、自分の部屋に荷物を送ってもらうことにした。

 おおよその仕事の手順はわかってきたし、一人暮らしの部屋で仕事をした方が効率は良さそうだった。

 家に荷物が届き、僕はさまざまなものにサインペンを走らせ、そして元の箱に梱包し直して運送業者に引き渡した。

 仕事を継続して、三週間目だった。

 昼過ぎにインターホンが鳴り、僕は玄関のドアを開けた。

 背広をきっちりと着た男性が二人立っていて、二人ともがこちらに手帳のようなものをチラッと見せてきた。

「警察のものです。お話を聞きたいことがあるのですが」

 僕は頷いて、ため息を吐いた。

「警視庁の林警部補と話したいのですけど」

 こちらからそう言うと、二人組は眉をひそめた。

「何を言っているのか知らないが、署の方で話を聞きたいのです。同行を」

 僕はもう一度、頷いてから、自分の服装を示した。

「部屋着のままいかないとダメですか?」

 刑事が僕の腕を掴んで、玄関から引っ張り出した。

 まぁ、こうなるだろうとは、予想していた。


       ◆


 僕はテレビでもよく映る警視庁の建物に久しぶりに踏み込むことになった。

 僕を連行しようとした二人組とは地下駐車場で別れることになった。車を降りたところで、中年の背広の男性が待ち構えていて、二人を追っ払った形だった。

 その男性の先導で僕は小さな取り調べ室へ連れて行かれ、椅子に腰掛けた。ここでやっと手錠を外してもらえた。部屋にはすでに記録係の婦警が控えていた。

 向かいの席に座った林警部補がため息を吐いた。

「まあ、うまく騙したな。アメリカまで行くとは思わなかった」

「もっと楽しい旅行を想定していたんですけど、思ったよりも貧乏旅行でした」

「それで、本物の大谷翔平はどうだった?」

「びっくりしましたね。本物はオーラが違います」

 そんな会話をしていると婦警が忍笑いをしている。

 大谷翔平のサインの捏造は様々なところで、様々な集団が犯している犯罪だ。

 僕がその犯罪に関わったのは偶然だが、なかなか手の込んだ偽装、いや、凝り過ぎた偽装だったと言える。

 最初、ビデオ通話で大谷翔平らしい人物が出てきた時、やや困惑した。あまりにも大谷翔平に見えたからだ。

 あの画像が作り物だとわかったのは、映像に映る人物がふとした身振りで映像に手首を映したからだった。正確には、そこに腕時計があったからだ。

 腕時計は一流の選手が身につけていてもおかしくない高級腕時計、オメガの製品のようだったが、いくつかの点でおかしかった。

 一つは針が示す時間が不自然で、八時過ぎを示していた。日本との時差をとっさに計算しなくても、画像の人物は朝の八時のようでもなかったし、夜の八時にいきなりテレビ電話を求められていきなり相手をするほど暇なものだろうか。しかも短い会話ではなく、筒井と長々と喋っていた。

 もう一つの違和感はそもそも、プライベートなはずの時間のビデオ通話でわざわざ腕時計をつけるか、という疑問だ。朝の八時にいきなり通話を求められて、もしかしたら出先だったのかもしれないが、そうでないならわざわざ腕時計をつけたことになる。夜ならまだありそうなものだが、ビデオ通話の相手はだいぶ寛いでいた。僕だったら家に帰ったらすぐに腕時計は外す。まぁ、庶民とは違って家が広すぎて腕時計がないと時間が咄嗟にわからない、という可能性はあったが。

 ともかく、あのビデオ通話でこれが手の込んだ詐欺だと確信が持てた。映像も音声も作り物なのだ。今の人工知能はある程度の会話も平然とこなす。

 あとはどれくらい僕を騙すか、様子を見ていたけれど、本物の大谷翔平と対面させるとは思わなかった。

 林警部補が唸る。

「ファンとの対面イベントも利用するとは、豪勢なことだ」

 対面イベントという表現に僕も笑いそうになる。

 あれは球団が正式に設定した、大谷翔平とファンの握手会のようなものだった。筒井は僕が勘付いていないと思っていたようだけど、どこからどう見てもあれはプライベートな会見ではなかった。そもそも会話もおかしかった。

「ま、最初の勧誘の乱暴さと比べれば、必死の演出でしたね。僕と一緒に試験を受けた二人はどうしていますか?」

 ああ、と腕組みした林警部補は天を仰いだ。

「二人とも、必死に偽のサイン入りグッズを量産していた。今頃、所轄のお世話になっているよ」

「あらら。あんな誘いに乗っちゃったんですか」

「お前だって、潜入捜査員じゃなければ、今頃、同じ立場だったはずだぞ」

「僕はそこまで馬鹿じゃありません。断りますよ」

 どうだかね、と林警部補は僕を疑っているようだった。

 僕が時折、ネットの中から面白そうな求人を見つけ出すのはアルバイトの一つだった。

 今の所、警視庁でのみ試験的に運用されている、潜入捜査活動の一環である。

 あからさまな不自然な勧誘は公式の捜査員が当たるが、僕や、恐らく他に何人もいるだろうイレギュラーな捜査員は、解釈が難しい勧誘や募集に踏み込んでいく。

 今回の件は実に間が抜けていて楽だったけれど、場合によっては非常に危険なことになるし、展開次第では警視庁の支援や援護を受けられないこともある。

 報酬は大きくても、楽ではないし、安全でもない。

「じゃあ、林さん、今回の件の最後のレポートは週末には提出します」

 僕が立ち上がろうとすると、林警部補は視線だけをこちらに向けて、低い声で言う。

「お前、大谷翔平のサインを濫用するなよ。ややこしいことになる」

「それはご心配なく」

 僕はちょっと笑っていた。

「本物の大谷翔平のサインと、僕の書いたオータニ・ショーヘイのサインは違います。見分けがつくような工夫はしてありますよ」

 林警部補は、鼻を鳴らした。

「でもお前、やろうと思えば、本物通りの大谷翔平のサイン、書けるだろ?」

 今度ばかりは僕も肩をすくめるしかない。

「本気になれば、誰でもできることです。僕はやらないでおきますよ」

 取り調べ室のドアが閉まる前に、林警部補が盛大なため息を吐くのが聞こえた。



(了)

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オータニ・ショーヘイの右腕 和泉茉樹 @idumimaki

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