新たな知恵
津波の危機から一週間が過ぎた下田の港は、静かな復興の息吹に包まれていた。
機巧堤防の地下室では、一郎とプチャーチンが古い図面を広げていた。その傍らでは、ロシアの技師たちが熱心にスケッチを取っている。彼らの手元には、蒸気機関の詳細な設計図も置かれていた。
「これほどの精密な機構を」プチャーチンは感嘆の声を上げた。「しかも、百年以上も前に」
「父上」一郎は宗弘の方を振り返った。「なぜ、これほどの技術が隠されていたのでしょう」
宗弘は、古い歯車を手に取りながら答えた。
「時代が、まだ受け入れる準備ができていなかったのだ」その声は静かだが、力強い。「しかし今は違う。新しい知恵と出会う時が来た」
お由が、新しい設計図を広げた。そこには、蒸気機関と和時計の機構を組み合わせた、革新的な制御システムが描かれている。
「見てください」彼女は目を輝かせながら説明する。「からくりの精密さと、蒸気の力。両者の長所を活かせば」
「ああ」プチャーチンが頷く。「君たちの技術には、我々にない繊細さがある。特に、この振動感知の仕組みは素晴らしい」
地震の後、機巧堤防の予知能力は多くの人々の注目を集めていた。その精度の高さは、ロシアの技術者たちをも驚かせた。
「しかし、課題もある」源兵衛が指摘する。「動力の安定性が」
「そこで、このような改良を」
プチャーチンは、新しい図面を取り出した。そこには、蒸気機関の動力を複数の予備系統に分配する仕組みが描かれている。
「なるほど」宗弘の目が輝いた。「これなら、一つの系統が止まっても」
「ええ」プチャーチンは嬉しそうに頷いた。「そして、この制御方式も」
技術者たちの会話は、次第に熱を帯びていく。言葉の壁を越えて、図面と身振りで意思を通わせながら、新しいアイデアが次々と生まれていった。
「父上」一郎は宗弘に向かって言った。「これが、あなたの望んでいた未来なのですね」
「いや」宗弘は穏やかに微笑んだ。「これは、先人たちが夢見ていた未来だ。我々は、ただその橋渡しをしているに過ぎない」
その時、お由が新しい発見を告げた。
「この図面を見てください。寛政年間の設計者たちも、既に蒸気の利用を構想していたんです」
古い図面の隅には、確かに蒸気を用いた動力装置の素描が記されていた。それは、まるで現代に向けたメッセージのようだった。
「先人の夢が」プチャーチンは感慨深げに言った。「今、ここで実現しようとしている」
地下室では、新たな設計図が次々と描き加えられていく。そこには、東西の知恵が溶け合い、新しい可能性が芽生えていた。
「これが完成すれば」お由の声には、確かな希望が滲んでいた。「この町は、より強くなれる」
一郎は黙って頷いた。技術の融合は、単なる機構の改良だけではない。それは、人々の心をも繋ぐ架け橋となっていた。
外では、ディアナ号の汽笛が響いた。それは今や、脅威の象徴ではなく、新しい時代の音として、静かに港町に溶け込んでいたのだった。
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