第2話
私立聖柊学園には、冗談みたいにハイスペックな男子がいた。
私達の一年先輩だ。お金持ちの息子で顔がよくて成績優秀スポーツ万能と、とにかく人気者になる要素をめいっぱい詰め込んだような男。
そのスーパーマンっぷりは他校や中学校にも轟いていて、入学する前から私も評判は耳にしていた。彼とお近づきになりたいがために、聖柊学園を受験するクラスメイトもいた。
学園のアイドル。スター。王子様。とにかく、そういった類の人種。いくら同じ高校とはいえ、有象無象の「平凡な女の子」とは無関係の存在。例えば私みたいな。そう思っていた。
でも、平凡なふりをした特別な女の子は、やっぱりそうはいかなかった。
心春と八王子先輩が初めて会ったのは、入学式の朝だ。
いや、会ったと言うほどのことでもない。わーきゃー言われている横を通り過ぎただけだ。
私と心春が初登校しているとき、校門前で人だかりができていた。
一人の男が、たくさんの新入生に取り囲まれていたのだ。「あたし先輩に会いたくてここ受験したんです」とか、「本当に会えるなんて夢みたい」とか、そういった感じのキャーキャーを四方から浴びせられていた。
男の顔を見た。赤色メッシュを入れた髪に片耳ピアス、健康的な小麦色の肌、そして二次元キャラみたいな端正なルックス。
ああ、あれが噂の。本当にこんな感じなんだな。大変だ。
それが私の、八王子先輩に対する感想だった。ガチ百合の私にとっては、まあそんなものだ。
あとついでに、「この学校、校則ゆっるゆる」とも思った。赤髪にピアスって、なんでもありか。無法地帯かここは。それなりに偏差値高いのに。
それより気になるのは、心春の反応だった。
アイドル並みの男子を前にして、彼女は一体どんなリアクションを示すのか。不安を抱きつつ心春を見ると……怪訝な顔をしていた。
「ちょいと友香。見てよ何あれ。どういう状況?なんの変哲もない通学路で、お祭り騒ぎじゃん。お金でもばらまいてんのかな。」
「は?」
彼女のリアクションに、逆にこちらが意表を突かれた。
「心春もしかして、あの先輩のこと知らないの?『聖柊の八王子』って言ったらちょっとした有名人よ?どれだけ世間の情報に疎いのよ。」
「八王子?……王族の
「違うわよ。」
「んー?」
即座に否定すると、心春は首を傾げた。
「あ、なーるほど。今はまだ一般市民ってーことね。王子候補に選ばれた、八人のうちの一人ってわけねー。了解了解。」
「は?」
「つまり王子の座をめぐって、血沸き肉踊る戦いを繰り広げている真っ最中ってことでしょー?他の七人の王子候補達とさ。七王子とさ。」
「それを言うなら、『血で血を洗う』、ね。『血沸き肉踊る』じゃ、戦いを楽しんじゃってるじゃない。」
「あーそうそう、なんか違うなって言ってて思った。でも全然知らんかったよー。普通の私立高校だと思って受験したけど、まさか血で血を洗う抗争の舞台になってるなんてさ……?なんだかワクワクしてきたよ。」
「だから違うっての。」
そういえば昔、対立する五人の王子に求婚される学園漫画があった。それを心春は思い出したのだろう、きっと。
心春はわりと抜けているので、よく真顔でトンチンカンなことをほざいた。そういうところもかわいかった。
何はともあれ、噂話を好まない心春は、八王子夏生のことをまるで知らなかった。
私がいかに人気者なのかを簡単に説明すると、彼女は「ほへー。」と気の抜けた相槌を打った。
「信じらんねー。そんな設定モリモリの人間、ほんとに存在すんだねー。」
「学園内でバトルする八人の王子、よりは信じやすいと思うけど。」
「そっちの方が突拍子ないぶん、逆に飲み込みやすいっていうかさー。顔も頭も性格もよくてお金持ちって、なんだそりゃ。」
と言って、女子に取り囲まれている八王子先輩を一瞥した。先輩は優しい微笑を浮かべて、登校を妨害する彼女らに愛想を振りまいていた。
「サンキュー、かわいい子猫ちゃん達。ぼくもキミ達に会えて嬉しいよっ!」
「……。」
心春の眉間に、深い皺が寄った。かわいい子猫ちゃんというフレーズがアレだったのだろう。
「……まあとにかく、あんたも聖柊に入ったからには、あの人の顔と名前くらいは覚えときなさいね。」
「はーいはいはい、ひょうきん者の八王子先輩ね。覚えた覚えた。」
「人気者ね。ひょうきん者じゃなくて。」
なんだかこれっぽっちも興味持ってなさそう。
そう思い、私は密かに胸を撫でおろした。
私と心春は結局何事もなく、先輩らの前をするっと通り抜けた。
何もドラマチックなことは起きなかった。心配する必要なんてなかったんだ。高校でも何も変わりはしない。今までと同じだ。
安心した私は、彼女に一歩だけ近づき、体を寄せた。
ふわりと、花の香りがした。
「あれ?シャンプー変えた?」
「お、気付いたー?」
指摘すると、嬉しそうに笑った。それこそ春の花のような笑顔だった。
「お母さんに頼んで、ちっとお高いやつにしてもらったんよ。今日から高校生なわけだしさー?」
「そっか。」
「じゃー気付いたところで、いつものやってよ、友香。いつものチェック。」
「え……。いや、あれはもう、やらなくていいんじゃない?」
心春のお願いを、私は視線をそらして断った。
長年やってきた「いつものチェック」は、もうやりたくなかった。なぜなら、我慢が聞かなくなりそうだから。
「えー?いいじゃんかよ、ケチ。」
心春が表情を曇らせ、私をにらんだ。
「だ、だって……。この時点でいい匂いってわかってるんだから、チェックする意味ないじゃない?」
「や、チェックは建前でさー。あれやると、友香すごい誉めてくれるじゃん。自然にぽろっと、『思わず本音出ました』みたいな感じで。それが気分いいんだよねー。ね、やってよー。だめ?」
「し、仕方ないな……。じゃあこれが、最後の一回だからね?」
押し切られる形で、私は頷いた。
本当のことを言えば、私だってやりたかった。理性と道徳心が、その気持ちを押さえていただけだった。
ドキドキしながら、私は彼女の真後ろに立った。息を吐けば、うなじに吹きかかりそうな距離だ。
「じゃ、やるわね……?」
長い黒髪を、ゆっくり指ですくった。
そしてそれを、自分の鼻先にそっと近付けた。
(ああ、素敵……。)
甘やかな花の香りと、心春自身の髪の匂い。
その二つが混じり合い、私の鼻腔を優しく通り抜けていった。
シャンプーを変えた日の、髪の匂い確認。これが「いつものチェック」だった。子供の頃から何度もやっていることだった。
10才くらいのときに彼女は一度、父親のシャンプーを使ったことがあった。気付いた私が「おじさん臭するからやめなさい」と注意した。それが始まりだった。
だから彼女は、きっと何も疑問に感じていなかった。
きっと微塵たりとも気付いていなかった。高校生になった私が、髪の匂いで、淫らな気持ちになっていようだなんて。
「どうよー?いい感じっしょー?」
自慢げに心春が聞いた。
「うん、いい……。すごくいい、最高……。はあぁ……。」
うっとりと答えながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。
吸い込んだ心春の匂いが、体の中に満ちていく……それはとても刺激的な感覚だった。私の体内に、心春が満ちていくようだった。
最低なことをしている自覚はあった。心春が何も知らないのをいいことに、友情を隠れ蓑にして、自分のいやらしい欲望を満たしている。最悪だ。私は最悪の親友だ。自分の業を呪いながら、私は髪をクンクンし続けた。スーハ―スーハ―やり続けた。
(ごめんね心春、ごめんなさい……。でも……。)
最悪だと自覚していても、やめられなかった。あとで強烈な自己嫌悪に陥るのはわかっているのに。
罪悪感と官能が分かちがたく混交し、目もくらむようだった。夢心地だった。
たまらなかった。
「この匂いを嗅いだら、みんな虜になっちゃうわ。どんどん素敵になっていくわね、心春……。」
「くふふっ。」
不意に心春が、くすぐったそうに笑った。
「あのさ、友香……。今、ふと思ったんだけど……。」
「ん、なぁに……?」
「あたし高校でカレシ作るとしたら、ちゃーんと褒めてくれる男にするよ。友香みたいなさ?」
「そう……。うん、そうね……。」
心春は、私の気持ちにこれっぽっちも気付いていない。
私はそれを別に、つらいとも悲しいとも思っていない。
でもときどき、ぎゅっと胸が苦しくなった。
「まーでも、とーぶんその予定はないし?それまでは今まで通り、うんと友香に褒めてもらうかんねー?よろしくー。」
「なによそれ、ばか……。」
心春が振り向いて、「話のオチをつけました」みたいにニカッと笑った。カレシうんぬんは、どうやら軽いジョークのようだった。
その笑顔に、私は心の底からホッとした。泣きそうになるくらいに。
こうして私は、高校初日の朝から、心春との友情を堪能した。
中学のときと変わらない日常が続いていく、そんな気配に安心していた。
そうだ、心春の青春に恋なんていらない。親友の私がいるのだから。私との友情、ただそれだけを、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも大事にしていればいい。
大丈夫。高校でも変わらない。ずっと変わらない。現に「聖柊の八王子」だって、私達のあいだに入り込めなかったじゃないか。
そんなことを思っていた。
そう。
私は、油断していたのだ。
気をつけて、15才のキスは切なくて甘い 味田 ノリオ @ajioka
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