カフカの奇跡

緋櫻

第1話

小林こばやしけんは首をぐるりと巡らして、自室の壁や天井を睨み付けた。もしそれが侵入しているのならば、白を基調とした部屋の中では目立つはずなのだが、今のところ見当たらない。

もう一度周囲を確認して、小林は机の上へ視線を戻す。先程まで自分が記入していたノートとスマホがあり、スマホの画面には×がやけに多いLINEの日程調整機能が表示されていた。

もう時刻は午後九時を回っている。エアコンの効いた部屋は、夏休み中の熱帯夜とかくぜつされた快適な空間を保っていた。

机の隅に整然と並んでいる参考書やら単語帳やらが目に入り、まぶたの上から目を擦る。こんなことにもう一時間も使ってしまった。

頼み込まれたとは言え、文化祭のクラス責任者など引き受けるべきじゃなかったのか、と小林は一人溜息を吐いた。責任者になってからというもの、疲れとストレスの蓄積は最高潮を更新し続けている。

皆、クラス企画の内容決めには嬉々として臨み、カジノに決定したときなど一部の男子生徒達から歓声すら上がった。そのくせ、いざ作業を分担しようとすると、途端に「夏期講習が」「補習で忙しくて」とそっぽを向き始める。

仕舞いには横で見ていた担任の教師すら「まあ、受験生だしな」とさじを投げ出した。

「小林も大変だったら、いつでも言うんだぞ」

「はい。頑張ります」

「そうか。無理するなよ」

 担任はなぜか満足げに頷いた。

そう言うしかない。高校生だとてプライドはある。おいそれと助けてくださいと言えるわけない。してやクラスの皆が見ているのだ。「では、その折はよろしくお願いします」とでも言って欲しいのだろうか。

担任がこちらの悩みを理解出来ないように、生徒には見えない教師の難しさもあるのだろう。それにしたって、もう少し分かりそうなもんだけど、と小林は思う。教育のプロがその体たらくはどうなの、と。

それとも大人になると、あの程度の心のさえ感じ取れなくなるのか。

ぷ~んという耳の内側に触れるような嫌な羽音に、小林は物思いを中断し、背もたれから身を起こす。蚊だ。

左右や足下に目線をやり、黒くて小さなシルエットを探す。が、どこにも見当たらない。思わず舌打ちが出る。

今度は首筋にこそばゆい感覚が走り、手で軽く払う。不快な羽音が通過したかと思うと、視界の端にごま粒ほどの物体が遠ざかっていくのが映った。

見つけた。こそばゆさを覚えた箇所を触ると、小さな虫刺されが出来ている。気が付いたせいなのか、かゆみが一気に膨れ上がった。

苛立ちが募る。このやるせない感情と痒みのやり場を探して、小林は立ち上がった。

目を凝らすと、ベッドに面した壁に黒い点がくっついている。椅子を引き、気配を殺しながら近づいて、強かに蚊に右手を叩きつける。

すぐさま手を放すが、右手にも壁にも死骸はない。代わりに、また耳の側を微細で不快なあの羽音が、揶揄からかうように通過する。

振り返り、目前の空間を視線で弄る。左下に何かが漂っている気がして、反射的に両手で叩いた。

今度は手応えがあった。手を開くと、一匹の蚊が潰れて死んでいる。腹が破れて赤黒い血が僅かな粘り気を帯びながら、小林の手の平に付着している。

どっと気が抜けて、小林はベッドに腰掛けた。手を伸ばしてティッシュを取り、手の血と死骸を拭う。

蚊は死んだが、刺された首はまだ痒いままだ。当然と言えば当然だが、なぜか小林は理不尽だな、と思ってしまった。

文句を言っても始まらないので、階下のリビングへ降り、痒み止めを探す。

「あんた、何ドタバタしてたのよ」

ソファに腰掛けた母親が首だけをこちらに向けた。テレビでは、何番煎せんじなのか定かではない、既視感のあるバラエティ番組が垂れ流されている。

誰かをなじることでしか生み出されない笑い声を無視し、小林は答える。

「別に。蚊がいたから」

「ちょっと、網戸ちゃんと閉めなさいね。あと、明日も文化祭の準備で学校でしょ、早く寝なさい。夜更かしは記憶力下がるらしいわよ」

余計なお世話、と返す気にもなれず、手早く薬をすると何も言わず自室へと戻った。

机の上のノートに目を通す。出し物に必要な材料や道具などが一通り書き出してある。

「教室で本格的なカジノをやろう」という企画案を実現に運ぶには、内装や設備のための材料が圧倒的に足りない。明日は買い出しに行かなければならないようだ。

一応文化祭のための予算は学校側から支給されるが、正直それで全てを賄いきるのは無理があり、どこかでクラス全員からの寄付が必要なのは明白だった。

これもなるべく低く抑えるべきなのだろう。が、一旦作業を始めないことには予算の目処も立たない。

取り敢えず明日動いてみて、それから判断しよう。夕食を食べ終わってから、余り勉強出来ていない。罪悪感がひしひしと小林の心を蝕む《むしば》。

椅子に座り、少し悩んでから数学IAの参考書を引っ張り出す。前回の復習をするために付箋をたどり、ページを捲る。



翌日の朝、小林は重たいまぶたを擦りながら校門をくぐった。結局昨晩は勉強の途中で猛烈な睡魔に負け、中途半端な復習だけで終わってしまった。学校指定のゴムスリッパに足を押し込んで、二階の教室へ向かう。

教室の後ろのドアを開け、「おはよう」と口にしながら鞄を下ろす。その場にいる面々を見渡して、小林はそこはかとなく不穏な空気を感じ取った。

「おはよう、小林」

一人の男子生徒が近づいて声を掛けてきた。誤魔化しと申し訳なさをい交ぜにした軽薄な半笑いを浮かべている。

男子生徒はここにいない三人のクラスメイトの名前を立て続けに挙げた。

「こいつら全員、家庭? の用事で今日無理になったって、昨日の夜俺に連絡来たんだよ」

「あー、なるほど」

「ごめんけど、そういうことで」

 男子生徒は両手を合わせ、軽く頭を下げた。

やってくれたなあ、と小林は内心で嘆息した。悪い雰囲気になるわけだ。

皆真面目に参加するものと思って来たところに、平気で作業をすっぽかした奴がいると知れば、そりゃ誰だって怒る。

こいつらのたちが悪いところは、こういうことをしておいて、いざ険悪な空気になると、「なんかノリ悪いから参加しない」と言いだすところだ。

これが連鎖すると、仕舞いには誰も作業に参加しなくなる、という可能性もある。それは困る。凄く。

「じゃあ、今日休んだ人達に、今後来れなくなるときはクラスLINEで報告するように言ってもらえる?」

小林はあえて他のクラスメイトにも聞こえるような声量で言った。男子生徒はあからさまに、何で俺が、という表情になる。

「分かったよ。言うだけ言っとく」

面倒くさそうに答えると、男子生徒は自分の友人達の輪に戻っていった。小林は、分かれば良いんだよ分かれば、と心の中で詰る。

と、蚊の羽音が顔の周りを飛び交った。目立たぬように目だけ動かし、蚊本体を探すが見当たらない。クーラーを使っているから、戸締まりはされているはずなのだが。誰かにくっついて入ってきたのだろうか。

 そういえば、と小林は思い出す。昨晩も蚊に刺されたのだった。季節柄仕方ないのかもしれないが、少なくとも良い気分ではない。

気を取り直し、小林は教室の面々を見渡した。予定より人数が減り、皆の空気も悪い。が、取り敢えずやることを一つずつ片付けていかないことには変わらない。小林は、手を打ってクラスの注目を集めた。

「えーと、前回皆に持ち寄ってもらった材料では、完成まで色々足りないです。ので、今からここで内装の作成をする人と、材料の買い出しに行く人に分けたいと思います」

買い出し、という単語に小林以外の全員が顔をしかめた。空調の効いた教室を出て、炎天下で買い物に行くのを、喜ぶ奴なんていないことは分かっている。

小林はかねてより目を付けていた手先の不器用そうな男女一人ずつに、買い出し係を指名し、何を買うかの指示を出した。

「小林君は、何するの」

買い出しを命じられた女子生徒が、日焼け止めを腕に塗りながら質問した。日差しの下に私を放り出す奴が、教室で涼むなんて許さない、といった様子だ。

「僕も買い出しだよ」

小林はにこやかな笑顔を保ちながら答えた。お前がいちゃもん付けてくることも織り込み済みだよ、と口には出さずに付け加える。

なら仕方ない、と言わんばかりの憮然ぶぜんとした表情で彼女が出発したのを見送って、小林も鞄を持ち上げる。近くのホームセンターで幾つかつくろわなきゃいけないものがある。

と、何かの音が耳に付いた。気のせいかとも思ったが、やっぱり聞こえる。

 また、蚊の羽音だ。クラスメイトの声に紛れているが、それでいて確かな不快感を与える程度には大きな音だ。辺りを見ても蚊の姿は見つけられない。

小林は首を傾げて、教室を出た。ドアを閉めると羽音は聞こえなくなった。



暑くて発汗するのは、上がった体温を下げるための正常な反応、らしい。小林はホームセンターへの坂道を自転車で上っていた。寝不足の疲労と日差しが厳しく、どうでもいいことを考えないとやっていけない。

なら、なぜ汗をかくのはこんなにも気持ち悪いのか。制服が肌にべたつく。ハンドタオルで拭えど、切れ目なく汗が噴き出す。正常な反応なら、もう少し過ごしやすいものであって欲しい。

どうにかホームセンターにたどり着き、駐輪場に自転車を停める。ホームセンターの二重ドアを通り抜けると、そこはクーラーの効いた心地よい店内で、小林はようやく肩の力を抜く。

店内は閑散としていた。平日のお昼前という時間帯のせいなのか、はたまたこの店の集客能力の問題なのか、それとも両方なのか。店員も暇そうに通路のあちこちを行ったり来たりしているだけだ。

買い物かごを手に取り、店内を巡る。買わなければならないものはリスト化してあるので、大して迷うことなく買い物を済ませていく。

最後にプラスチック同士を接着するボンドをかごに入れ、レジへ向かった。レジには店員がおらず、「不在の場合は鳴らしてください」と書かれた呼び出しベルが置かれている。

指示通りベルを鳴らすと、チーンという安っぽい音が響いた。やがてさっきまでそこらを彷徨うろついていた店員が、さして急ぐ様子もなくレジに入る。

店員は五十ほどの中肉中背の男性だった。しようひげが目立つうだつの上がらない風体をしている。店員は決まり切った台詞を言いながら商品をレジに通していたが、小林の制服姿をちらりと見て、口を開いた。

「君さ、これ、何の買い物なんだい?」

「あ、文化祭の準備の奴です」

「ああ、そうか。文化祭かあ」

店員は合点がいったというように、笑いながら頷いた。上下の前歯が何本か抜けている。

「そうかい。じゃあ」

 実に喜ばしそうに店員は言った。

「今が一番楽しいね」

「そう、なんですかね」

「そりゃそうだよ」

店員は当たり前だと言わんばかりに、唾を飛ばした。

「何でも、完成した後より、作ってる途中の方が楽しいもんさ。何だってそうだよ」

「はあ」

「まあ、君もそのうち分かるようになるよ」

小林はこういう大人が嫌いだ。小林はどこか得意げに笑う歯の抜けた中年男を眺めた。

いい年しておきながらホームセンターの店員をやっているあたり、この男の過去に誇れる瞬間は数えるほどしかなさそうだ。己の失敗に人生の経験という免罪符を貼り、先輩面する大人。こんならくしやぜんとした男に、己の何が分かるというのか。

突然、蚊の羽音が小林の耳のすぐ近くで鳴った。驚いたが、努めて顔色や仕草に出さないようにしながら、小林は軽く耳付近を手で払う。

しかし、妙だった。羽音が止まない。どれだけ手を動かしても、蚊がどこかに行く気配がしない。あの不自然に上ずったわずらわしい羽音は、ずっと小林と店員の会話に割り込み続けてきた。会話に全く集中出来ない。

おかしい。これだけはっきり聞こえているのに、蚊そのものは一度も小林の前を通らない。手に蚊が触れる手応えすらない。

何より、異常なほど不快だった。この音の元凶を今すぐ叩き潰したい。その衝動が小林の中で跳ね上がる。

そうこうしている間に、合計金額が客側のモニターに表示された。お札を渡すと、レジトレーに小銭が乗って返ってくる。ところが、羽音で気が散っていたのか、お釣りを小林は取り損ね、盛大に床へぶちまけてしまった。

小銭特有の金属音がレジ周りに鳴り響く。十円玉が円を描きながら、転がっていく。小林の顔は火がついたかのように熱くなった。慌てて腰をかがめ拾い集める。

店員が心配そうにこちらを覗き込んだ。

「君、大丈夫かい?」

次の瞬間、羽音が二つに増えた。小林は思わず自分の周囲を確かめた。しかし、蚊の姿はない。

まるで、二匹の蚊が土星の輪のように、小林の顔の周りを絶えず回り続けているようだ。壊れたCDよろしく同じ羽音がループし続けている。

しかしその感覚に反して、二匹どころか一匹だって視界に収められていない。蚊は、どこにもいない。

羽音が、不快感を止め処なく助長する。

黙らせなきゃ、終わらせなきゃ。小林は焦る。

小銭を集め終えると、小林は商品の入ったレジ袋を引っ手繰るように受け取って走りだした。店員がまた何か声を掛けてきたが、反応する余裕はない。

店の自動扉がのろのろと開くのがもどかしい。どうにか店の外に出た途端、羽音は止んだ。それでも小林は走り続け、ホームセンターの駐輪場にたどり着いた。

自分の自転車にすがり付くようにして立つ。

あれは、何なのだ。蚊の羽音が今も耳に残るようで、両耳を思わず拭う。

酷く不自然なことに、あの羽音はイヤホンから聞こえる音のように、耳のごく近くで鳴っている、そんな感覚があった。

とにかく、帰ろう。自転車のかごに買ったものを入れ、スタンドを上げる。日光で熱くなったサドルにまたがって、重いペダルをゆっくりと押し込んだ。


 学校の駐輪場に小林は自転車を停め、校舎に向かって歩きだした。さっきのことは忘れよう。昨日よく眠れなかったせいか、もしくはストレスだ。もしかして俗に言う幻聴という奴かもしれない。

校舎に入り階段を上がる。今日は帰ったら、受験勉強を一旦休んでよく寝よう。一回病院にも行った方がいいかもしれない。

教室のドアを開ける。と、教室の中心で人だかりが出来ている。その真ん中にいるのは、小林が選出した買い出し要員の男子生徒の方だ。どうやら周りの生徒から、何か問い詰められているようだ。

「どうしたの」

「お、小林。三須みすがさ、なんか違う奴買ってきたみたいで」

「え」

買い出し要員の男子こと三須は、小林の顔を黒縁眼鏡の奥から申し訳なさそうに窺っている。極端に痩せた細身の猫背を更に曲げ、小さく「ごめんね」と呟いた。

「三須君、何を買い間違えたの」

小林の問いかけに三須は背筋を丸くするばかりで、答えようとしない。痺れを切らした女子生徒が代わりに口を開く。

「方眼の厚紙を買ってこなきゃいけないのを、無地の厚紙にしたんだって」

誰かが大きめのビニール袋を小林に渡した。中身を見ると、確かにまっさらな十数枚の厚紙が収まっているのが分かる。

「違うんだ!」

突然三須が話しだした。皆がそちらへ再び注目する。三須は両手で制服の端をぎゅっと掴み、唇を震わせている。

「僕も、方眼の厚紙を買わなきゃいけないのは分かってて。でも、こっちの無地の奴の方が安い値段で、質もいいって店員さんも言ってて。折角皆で作るものなんだから、素材もいい奴の方がいいって思って」

「いや、だからさ」

朝、友人が欠席することを小林に伝えてきた男子生徒が、捻じ込むように口を挟んだ。人差し指で三須の薄い胸板を軽く突く。三須は更に縮こまる。

「お前がどう思ったかはどうでもよくて。何で小林の言う通りに出来ないんだって話なの。あと皆がどうとか抜かしてるけどさ、そういうのを有り難迷惑って言うんだぜ」

そうだそうだ、と周りのクラスメイトが沸いた。男子生徒は得意げに笑っている。

小林はくだらないな、と内心で毒づいた。これはただのリンチだ。皆、不毛な作業に時間を割いた腹いせに、三須の些細な失態をあげつらって楽しんでいるだけだ。見苦しい言い訳をする三須も三須だが、寄ってたかって言葉でもって袋叩きにする程でもない。

「あとさ、お前この無地の厚紙、自腹切れよ」

「え、でも」

三須が顔を上げて抗弁する。

「買ったものは経費で落とすって」

「知るかよ。お前の独り善がりで買ったもんだろ。黙って払うのが誠意なんだよ」

じーばーら、じーばーら。教室の皆がはやし立てている。参加していないのは、真ん中で口をもごもごさせている三須と一歩離れたところから見ている小林だけだ。

「なあ、小林もそう思うだろ」

欠席連絡男子生徒に意見を求められる。小林は鼻で息を吐き、答えた。

「皆の気持ちも分かるけど、今後別の買い出しで間違える人が出てくるかもしれない。そうなったとき、前例がないと経費で落としにくくなる。それに三須君も悪気があったわけじゃない。そうでしょ?」

三須は顔を輝かせて頷いた。対照的に他のクラスメイトは若干白けた顔をしている。三須の泣き顔でうつぷんを晴らしたかったのが、よく分かる。

小林は下ろしかけていた鞄の中に無地の厚紙を入れ、背負い直した。

「じゃあ、僕は方眼の厚紙を買い直してくるね。三須君、もしかしたら返品出来るかもだから、レシート渡してくれる?」

三須ははっとした様子でポケットを探り、乱雑な折り目の付いたレシートを取りだした。なぜか一瞬逡巡しゅんじゅんした表情を浮かべ、小林に手渡す。

小林はおざなりに礼を言い、他の生徒へ向き直った。

「皆は進められる作業をやっておいてもらえると助かるんだけど、いいかな?」

クラスメイト達はてんでバラバラに返事をしてそれぞれの作業に戻っていく。その様子を見届けて、小林は教室を後にした。

廊下に出てすぐに、自分が出てきたばかりのドアが開く音がした。何事かと振り返ると、そこには三須が立っていた。

「小林君、さっきはありがとう」

「いやいや、気にしないで」

三須は口をもごもごと動かし、何かを察して欲しそうに小林を見た。そのどこか他人任せな面構えに、小林は内心眉をひそめる。

やがて三須はやや引きつった笑みとともに口を開いた。

「あの、お詫びに僕も、買い出しに付いていくよ。ほら、二人の方が色々、楽だからさ」

意外な申し出に小林は、少々驚くのと同時に、脳の片隅に焦げ付くような苛立ちを感じた。

楽とは何なのだ。厚紙すらまともに買えない奴が一体何の助けになるというのか。気まずさ故に教室に留まりたくない気持ちも分かるが、あたかも自分がサポートしてあげるかのような言い回しをしてみせた三須を、小林は思わず睨み付けてしまった。

視線の意図を察したのか、していないのか、三須は赤べこのようにぺこぺこと頭を動かしながら、小林の方へ歩いてくる。

正直鬱うつとうしいが、どうせ断っても何かと理由をのたまって付いてくるのだろう。そう判断した小林は特に取り合わずに階段へ向かった。

無言の肯定と受け止めたのか、案の定三須の足音は小林を追ってくる。

「小林君って、凄いよね。忙しいなかで文化祭のクラスリーダーやっててさ。あんな風に自分の意見をはっきり言えるし、僕のことも助けてくれたしさ」

三須のおべっかを聞き流していた小林は、その声に紛れた別の音に気が付いた。

何かが、聞こえる。

小林は鼻にしわを寄せた。

「僕、要領悪いし、鈍臭いけど、小林君みたいに人のためを思って行動すれば、いつか報われると思って頑張ってるんだ」

間違いない。羽音だ。まただ。ホームセンターでの出来事が思い出される。

それも一匹じゃない。三、四匹の蚊の羽音が、両耳のすぐ側で聞こえる。

「頭も良いよね、小林君。この前の模試だってAとかB判定ばっかりだったんでしょ。いいよなあ、僕、ずーっとCかDだもの」

三須に悟られないように、素知らぬふりで階段を降りる。幻聴。これは幻聴だ。幻聴。幻聴。幻聴。

「僕勉強も凄く苦手でさ、中学三年間必死に勉強して、周りからもガリ勉って言われてたけど、それで授業に付いていくのがやっとだったんだ」

段々と羽音が大きくなる。いや、違う。大きくなっているんじゃない。増えている。

小林の足は踊り場で、完全に止まってしまった。両目を硬く閉じる。

羽音が増えるに従って、増幅する不快感。

無数の蚊が、小林の周りを取り巻く。

渦巻く羽音が、吹き荒れる嵐のように響く。

「どうにかこの高校に進学出来たけど、結局こっちでもどうにか皆に付いてこれてるって感じ。そう考えると小林君はやっぱり凄いな。ここ第二志望だから、楽勝で受かったんだっけ?」

あれ、小林君どうしたの? という三須の声を最後に、小林には羽音以外何も聞こえなくなった。

おびただしい数の蚊が這い寄る。小林の耳の中に入り込み、羽音を直に伝えてくる。

うねり、押し寄せる膨大な音。あの甲高い羽音は幾重にも連なり、さながら怪物の絶叫となって小林にぶつかる。

言い様のない不快感を小林は覚えていた。抗いがたい、己の内面から湧き出る、底無しの煩わしさ。

それに突き動かされ、小林は思いきり叫んだ。


「五月蠅いっ!!」


ぴたりと、羽音が消えた。

三須の声も聞こえない。

小林は薄ら目を開けた。蚊の大群など、どこにもいない。

詰めていた息を吐き出し、それはそうか、と安堵する。何度も考えた通り、あれは幻聴なのだ。もしくは、夏の暑さと寝不足が生んだ、妙にリアルな白昼夢。

 三須の方へ振り返る。急な大声にさぞや驚いていることだろう。

しかし、三須の姿はなかった。踊り場だけでなく、階段下にも上にもいない。

ただ、小林の目の前には、一匹の蚊がいた。

その蚊は、まるで動揺しているように右へ左へフラフラと飛び、小林の周りを二周ほどした。

羽音は小林のかんに障った。五月蠅いなとも思った。

顔の前に飛んできた蚊を、小林は何のためらいもなく、両手で力強く叩いた。

小さな何かに触れた感覚があり、小林は手を開いた。

蚊はまだ死んでいなかった。手の平の皺に運良くはまったようで、羽根はもげ、頭部は半分崩れているが、足を弱々しく動かしていていた。

藻掻いたことで、瀕死の蚊は廊下の上に落ちた。白っぽいリノリウムの床で、黒く小さな羽虫は、無様に死の淵で喘いでいた。

小林は右足を上げた。ゴムスリッパを蚊の真上で止める。蚊は無事な足を揃えて摺り合わせるように動かした。

まるで、殺さないでくれ、と懇願しているように。

小林はスリッパで蚊を踏み潰した。それは実に自然で、ありふれた動作だった。

余りにも小さすぎたからなのか、特に感触はなかった。足を上げる。わいしような羽虫は千切れ、無残にもバラバラになっている。潰れた腹部から出たものなのか、人の血とおぼしき液体が清潔な床に付着していた。

小林はスリッパで蚊の死骸がある場所を擦る。いとも簡単に生命がそこにあった証はかき消えた。

辺りを見渡す。三須はどこかに行ってしまったようだ。

小林は肩をすくめて、階段を降りていった。



 小林は自宅のドアを開けた。午後6時を回っているが、夏の日は長く、空はまだほんのりとした橙色を残している。二階にいるのか、階段から「おかえりー」という母親の声が聞こえてきた。

今朝、三須と踊り場ではぐれてから、結局それっきりになってしまった。小林は最初、自分の大声に三須は驚いて、教室に帰ったとばかり思っていた。

しかし、返品を済ませ方眼の厚紙を買って教室に戻ると、こちらはこちらで「三須がいないぞ」とちょっとした騒ぎになっていた。どうやら三須が小林の後を追って、教室を抜け出したことを知らないようだ。

「僕はもう、教室にいると思ってたよ」

「じゃあ、あいつバックレたんだな」

したり顔で欠席連絡男子生徒は頷いた。小林は、正直三須にそこまで度胸があるとは思えなかったが、他に上手い説明があるわけでもなく、苦笑いでお茶を濁す。

まあ、あんな小心者のことはどうでもいい。玄関を上がり、キッチンへ向かう。冷蔵庫から麦茶を取りだし、コップに注いで一気に飲み干した。冷たさが喉を伝って全身に広がる。

三須とはぐれてから、蚊の羽音はしなくなった。何が原因かも分からないが、消えさえしてくれれば、それでいい。

コップをシンクに置き、冷蔵庫へ麦茶を仕舞う。少し休憩したら、英単語の復習でもしよう。そんなことを考えながら、小林は自室へ引き上げようとした。

「賢太、ちょっと話がある」

父親がリビングに現れた。皺のよったスーツ姿で、ネクタイを緩めながら小太りな身体をソファに預ける。

いつもなら残業だ飲み会だといって帰りの遅い父親が、この時間に在宅していることに小林は少し驚いた。が、その手に以前受けた模試の成績表が握られているのを見て、一気に憂鬱になる。

「お前、なんだこの模試は」

「なにって、別に文句もないでしょ。良い点数なんだし」

事実、かなり出来は良かった。判定結果にはAやBのアルファベットが並んでいる。

「違う。志望校のことだ。何で第一志望のところにこんな私立大学を書いてるんだ」

「そこにいきたいからに、決まってるじゃん」

「いきたいから?」

小林が続ける言葉を遮って、父親は矢継ぎ早に質問を投げつけた。

「なら聞くが、お前はこの大学に入ってその先の人生をどうするつもりなんだ? 何を学ぶんだ? どこに就職するんだ? 結婚はどうするんだ?」

「別に、そこまでは考えてないけど」

「ほらな」

鬼の首を取ったように、父親は小林の返答を鼻で笑った。

「お前は無計画なんだ」

まるで自分はそうではなかったかのような、独善的な口ぶりが小林の耳を不愉快で染める。

「実感が湧かないかもしれないが、大学進学で人生が決まるんだ。それをなんだ、『いきたいから』? そんな理由なら国立にいった方が絶対にいい。就職にも強いし、何より学歴は一生ものじゃないか」

端から話し合う気などない、こちらを説き伏せる圧力を持った語気は、どこか大人げなさも帯びていて、小林は侮蔑と惨めさを同時に感じていた。

顎周りの贅肉を震わせる父親を小林は改めて見つめる。地方の名もない私立大学を出て、五十手前になってもめぼしい昇進も出来ない、残業でくたびれた中年は、押しも押されぬ負け組一等賞だ。

そもそも、父親が小林の進学先に拘るのも、外聞を気にしてのことでしかない。以前も両親が弁護士になった従兄を話題にしており、その声色に滲む羨望に嫌悪したことを小林は思い出す。鷹を生みたがるトンビほど醜いものはない。

「お前はいつもそうだ」

父親は自分の語調に興奮し始めたのか、小林を指さし捲し立て始めた。

「自分の人生好きにさせろ、みたいに言うけどな。こっちは未熟なお前の手助けをしてやってるんだ。少しは親の言うことをありがたく聞いてみたらどうだ」

「ちょっとお父さん」

母親が二階から騒ぎを聞きつけたようで、降りてきた。二人の間に割って入る。

「大きな声出しすぎよ。もっと抑えて」

小林の方を母親は向いた。

「あんたも大概よ。いつも急に黙りこくって。何か思うところがあれば言ってかないと、いつか大変なことになるよ」

小林は、どう大変になるのだ、と顔をしかめた。その表情を父親が見咎め、なおも何か言っている。が、小林は大して聞いていない。

両親の声を、小林は心底不快に思った。

煩わしいとも思った。

どこからか、蚊の羽音がした。

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