第6話 八歳になったネリームーア

「くっ、ひっく、うくっ……」


 泣いたらダメだと分かっているのに、後から後から涙がこぼれ落ちる。声を殺して、膝を抱えて、部屋の隅にうずくまって。

 だって、わたしは、わたしは……。


「ネム……泣きたいときには思いっきり泣いていいのよ。大丈夫、アタシがいるわ。ねぇ、覚えておいて? アタシは何があってもネムの味方よ、いつだって側にいるわ」


 声を押し殺そうとするわたしの横に、ディータが座って寄り添ってくれた。

 涙と鼻水でグチャグチャの顔を濡らした手ぬぐいで拭いてくれて、その後は黙って背中に手を当ててくれた。

 ディータの体温が、背中から染みこんでくる。


 わたし――八歳になったネリームーアは、生まれて初めて王都に来ていた。

 元々体が弱かったお母さまがいよいよ今年の夏は越せないかもしれないということで、わたしに会いたがっていると父さまが迎えに来たのだ。

 お母さまは王都邸、わたしは領邸。産まれてすぐに離れてしまったから、わたしにはお母さまの記憶がなかった。それでも季節ごとに手作りのプレゼントが届き、お母さまがわたしを大切に想ってくれているのが良く分かって、わたしはお母さまのことが大好きだった。

 だからわたしは、お母さまに会えるのを、それはそれは楽しみにしていたのだ。


『ああ、よく来てくれたわね、ネリームーア。覚えていないでしょうけれど、わたくしが貴女の母よ。また会えるのをずっと楽しみにしていたの。元気そうで良かった。ミルトにもらった絵姿よりずっと可愛いわ。会えて本当に良かった』


 お母さまは、優しくて、キレイで、笑うとどこか少女のようにかわいくて、わたしを歓迎してくれて、天使様とか天女様っていうのが本当にいたら、きっとこんな人なんだろうなと思うほど素敵な人だった。

 色が白いを通り越して少し青白いほどで、ベッドに積まれたクッションに寄りかかっていて、細くて、儚くて、人形のようで。父さまに甲斐甲斐しく世話をされると、ふわっと柔らかに微笑んで。

 淡い金髪と青い目の、牛の獣人だった。


 わたしは、オレンジがかった茶髪に、焦げ茶色の目のカヤネズミの獣人だ。

 父さまは、茶色い髪に焦げ茶色の目のカワウソの獣人。


 わたしは知っている。カワウソと牛の間に、カヤネズミの獣人は産まれない。必ず親のどちらかの種族が産まれるはずだ。

 

 固まったのは一瞬だけ。お母さまの前でははにかんで笑って、『わたしも会いたかった!』と精一杯はしゃいでみせたから、お母さまも父さまも、きっと気付いていない。

 お母さまの部屋で夕ご飯を一緒に食べて、お風呂に入って。『ネリームーアの部屋だよ』と案内された部屋で一人になった途端、わたしは崩れ落ちた。

 誰にもバレないように、布団をかぶって、部屋の隅に這っていって。声を押し殺しているところに、かすかなノックと共にディータが来た。ディータには、なぜだか分かってしまっていた。わたしがいつもと違うこと。わたしの心が、バラバラになってしまいそうだって。


「わたっ、わたし……お母さまのっ、子どもじゃ、なかっ……た、んだ」


 後から後から、涙がこぼれ落ちる。

 『柚希』が『ネム』と融合して四年、久しぶりに『柚希』と『ネム』が分裂しかかっている。

『ネム』はディータはもちろん、父さまやローゼワルテ領のみんなが大好きだった。だからこそ、本当のローゼワルテの子どもじゃなかったことがショックで悲しくて仕方がない。


「ネム、それは……っ」


 何かを言いかけて、ディータが口をつぐむ。


 そんな砕けてしまいそうな心の片隅で、『柚希』が一人納得している。

 『アリスフォード戦記』の中で、ローゼワルテ家の当主はディートハルトだった。ネリームーアではなかったのだ。

 けれど本来ならそれはおかしい。 

 養子になったもののディートハルトはあくまで現当主ミルトの甥で、女児とはいえ継承権は当主の実子であるネリームーアのほうが上だ。

 その矛盾を、わたしは『先に死んじゃったのかな』『どこかからお嫁にもらいたいって言われて、断れなかったのかな』と漠然と推測していた。

 でも、ネリームーアがミルトの実子ではなく、養子だったら。たとえば、体の弱いお母さまが子どもを産めないからと、遠縁の親戚とかからもらってきた子どもだったなら。

 血のつながりの薄い養子より、実の甥に伯爵家を継がせたいと思うのは当然だ。

 きっと、ディートハルトが現われるまで、父さまもお母さまもネリームーアに伯爵家を継がせるつもりだったんだろうと思う。

 なぜなら、シータがローゼワルテ家に連絡してくるまで、本当の本当にローゼワルテ家はディートハルトの存在を知らなかったからだ。

 レガリア伯母様は、公爵家を追い出された後、『夫のマーベリックが死んだとは信じられないから、冒険者になって探す旅に出る』とローゼワルテ家に手紙を送り、消息不明となった。

 魔獣が出るローゼワルテ伯爵領の人間は強い。レガリア伯母様は、今のローゼワルテ伯爵家の中で一番強い父さまを鍛えた人だそうで、とてもとても強かった。だから貴族夫人から冒険者になると言われても、誰も疑問をもたなかったらしい。

 ディートハルトもまた、レガリア伯母様の血を濃く継いで、将来は大国を滅ぼすラスボス級の強さになるはずだ。


 

 ローゼワルテ伯爵家の血を誰より濃くひくディートハルトが現われた以上、『ネリームーア』は……


「わたしは、いらない子だったんだ……」


「そっ、そんなことないわ。アタシも、伯爵だって奥さまだって、みんなネムのこと大好きよ。ネムが必要なの。この家でアタシに最初の居場所をくれたのはネムよ。妹にしてくれる、って。本当に、本当に嬉しかったの」


 八歳の『ネム』が唇を噛み、両手で口を押さえる。

 幼い心でも、一生懸命なぐさめてくれるディータに、言ってはいけないことなのは分かっていた。でも、頑張って口を閉じていないと、凶暴な言葉が飛び出しそうになってしまうのだ。

 『ディータがうちに来たから、わたしは父さま達の一番じゃなくなっちゃったんだ! ディータなんか来なきゃ良かった! ディータなんていなくなっちゃえばいいのに!』と。

 ディータが大好きなのに。傷つけたくなんてないのに。

 ぐるぐるぐるぐる、色んな思いが胸の中を回る。

 必死で口を押さえて、布団に涙を吸わせて。

 傷ついているのに、誰も傷つけたくなくて。

 考えて、考えて、考えて。

 そうか、と思った。

 これは、良いニュースなんだ。

 悲しむ必要なんてない。だって……


――わたしがいらない子なら、わたしがいなくなっても、きっと誰も困らない。悲しまない。安心して、シータの身代わりになって死ねる。わたしの好きな人達を守れる。


 そうだ。

 この四年、わたしは本当に役立たずだった。

 転生チートもなければ、知識チートもない。

わたしにあるのは虫の知識だけ。転生モノで定番の、異世界産の美味しい料理やお菓子も作れなければ、化粧品や石けんの作り方も知らなければ、特殊な職業知識もない。

 『柚希』の記憶が戻ったときに決意した、『何かシータの代わりになる特殊能力を開発して』というのもまだ出来てないし、『知識チートでお金儲けしてシータを助ける』も全然で、たまたまペイジおじさんのトンチンカンな試練が虫がらみだったっていうウルトララッキーに救われた。

 あんなラッキーは、もう二度とないだろう。

 チートがないなら、自分で努力して身につけるしかない。


 そうだ。そうだった。

 ローゼワルテの皆が優しくて、ディータと過ごす毎日が楽しくて、忘れそうになっていた。


――モブ以下のわたしなら、シータの身代わりになって死んでも、きっと誰も闇落ちなんてしない。だからどうか、みんなみんな、幸せになって。


 それが、わたしの願いだったはず。

 

「ネム? 寝たの?」


 ジクジクする心臓を、両手でそっと押さえる。

 大丈夫、大丈夫。

 明日からは、きっと昨日と同じ『ネム』でいられる。

 悲しいコトなんて、何もなかった。わたしがこの家の本当の子どもじゃないことは、わたしが大好きなみんなにとって、きっと幸せなことだから。


 シータは今、遊女を辞めて王都の薬師の元で見習いとして修行している。せっかく遊女じゃなくなったんだから、ローゼワルテ伯爵家に来てディータと一緒に暮らしたら良いと思ったけれど、シータ自身が頑として頷かなかったそうだ。

 ローゼワルテの血縁でもない元遊女が姉だと名乗って伯爵家に入るなんて、ディータの将来に影を差す、と言って。

 『アリスフォード戦記』のシータは治癒魔法アレルギーを発症したことを周りに告げないまま遊女として過ごし、何度も免疫暴走を引き起こしながらも何とか乗り越え、その後、『遊女病』と呼ばれる不治の病に罹る。

 けれどシータはその不治の病から生還する。治癒魔法アレルギーを発症してなお治癒魔法を使い続けたせいか、『治癒魔法では治せない病を治せる能力』を得ていたのだ。

 それを聞きつけた公爵家に引き取られ、利用され……『治癒魔法では治せない病を治せる能力』は『治癒魔法では治せない病を自在に広められる能力』へと変えられてしまう。


 シータの転機は、今から二年後。

 遊女でなくなったシータは、無二の能力に目覚めないかもしれない。でも、物語の強制力で目覚めるかもしれない。楽観して何もしないわけにはいかない。

 だって、きっとわたしは、そのためにこの世界に生まれてきたから。

 シータの身代わりになって、ディートハルトを救うために。

 二年後……

 それまでに、役立たずなわたしが、シータの代わりになれるよう頑張るから。 

 だからお願い、今日だけは。


「ディータ、大好き」


 涙の残る顔でふにゃりと笑って、寝ぼけたふりでディータにすり寄る。

 ディータは赤ん坊にするようにヨシヨシとわたしの頭を撫で、抱き上げてくれた。

 そのまま抱っこして部屋の隅からベッドに運んでくれたディータは、布団をかけた後もずっとわたしの背中をさすってくれていた。

 ディータの手は、とても温かい。

 わたしは、寝間着の胸元をギュッと握って自分自身に言い聞かせる。

 ジクジクする鼓動は、きっと気のせい。

 大丈夫、大丈夫。きっとわたしは頑張れる。

 だって、わたしは今、とっても……シアワセだから。 

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