第4話 ローゼワルテ伯爵家


 わたしが次に目を覚ますと、信じられないものがベッドの横にいた。

 黒いメッシュが入った赤い髪にピンと立った三角の耳、まだ子どもなのにどこか艶やかさを感じる美貌。

 わたしはパチパチと目を瞬いてから、三回袖で目をこすり、それからモフちゃんのお腹の下に顔を突っ込んで、腹毛の下で両方のほっぺたを思いっきり引っ張った。


(夢? 夢? 寝て起きてもディートハルトがいるってことは、わたしが『アリスフォード戦記』の世界にいるって、本気の本気だったんだ? 痛い……けど、寝ながらほっぺをつねってる可能性もある、か?)


「あっ、あのっ」


 高めの可愛らしい声が遠慮がちにかけられて、わたしの全身に鳥肌が立った。

 しっぽの毛があったら、一気に逆立っていたところだ。


「あの……倒れたから気になって……でも、いきなり自分の部屋にほとんど初対面の人がいたら、嫌よね……じゃなくて、嫌だよね……」


 その弱々しい声に、わたしのちんまりした耳がビン! と立った。

 バサッと毛布を蹴り飛ばしてベッドの上に立ち上がったわたしを、切れ長の目がまん丸になって見ていた。


「ああああ、ディートハルトだぁ……本物なのです……最高か……マジ尊い……尊すぎるのです。産まれてきてくれてありがとう……むしろ産まれてきて良かった……」


 ぽかん、と口を開けている十歳くらいの狐獣人の男の子が、あのディートハルト・ローゼワルテだとなぜだか確信できた。もちろん『アリスフォード戦記』の挿絵だってアニメだって二次元だったし、描かれていたのは成長した二十代後半の姿だった。それなのに、分かる。わたしの全身が叫んでいる。この子は、わたしの大大大好きなディートハルトだと!


「え……え?」


「しゃべってる……生きてる……良かったぁ、生きてる、生きてるのです! ディートハルトが生きてる! 神様ありがとうございます、何でもします、他には何も望みません、本当にありがとう!」


 奇声を発しながらベッドにうずくまり、何度も頭をシーツにこすりつけながら神に祈りを捧げ始めたわたしに、ディートハルトの手が遠慮がちに伸ばされる。

 そこに、わたしは手のひらを突き出してバッと遮った。


「Yes推し! Noタッチ! それがオタクの鉄則なので、触れるだなんてそんな恐れ多いことは勘弁なのです!」


「えっ……いえすお……? 良く分からないけど、触らないから。そうよね……アタシみたいなのに触られるなんてイヤよ……だよね。でも大丈夫? 変な夢でも見た? それとも倒れたときにアタマ打ったりした? 痛くない?」


 気遣ってくれる優しい声とその内容に、わたしはベチンっと手のひらで自分の顔面を思いっきりひっぱたいた。


「イキナリ何するのっ、痛かったでしょう!?」


 思わず素の口調が出るディートハルトの前で、わたしはジンジンする鼻からタラリと垂れた血を寝間着の袖で拭った。

 ディートハルトは何て言っていた?

 アタマがゆだっていたとはいえ、推しの言葉――ましてや不安そうに震える言葉を聞き飛ばすとか、万死に値するぞ自分。

 今のディートハルトはまだ十歳の子どもで、今までとはまったく違う場所に連れてこられて、全然知らない人達の間で、聞いたこともない男の子口調で話さなきゃならなくて、まして先住ネズミ……じゃなかった養子先の一人娘には初対面で倒れられて、触れるのも拒否されて。

 不安にならないわけがないじゃないか。

 なんで言えば良い? なんて伝えれば、わたしがディートハルトを歓迎してるって伝わる?


「わたし、ずっと妹が欲しかったのです!」


 必死に考えすぎた結果、口を飛び出したのは我ながらトンチンカンな言葉だった。

 ディートハルトの大きな耳の先が徐々に下を向き始めた。 


「そう……よね。お兄さんの方が後から出来るなんて、変よね……だもんね……」


 ああああ、ディートハルトが凹んでる。なんとか、なんとかリカバーしないと!


「ちが、ちがうのです。えっと、だから、今日からディータはわたしの妹! 女の子の言葉でしゃべって、女の子の服を着るのです! わたしがおうちと領地を案内して、野いちごのあるとこも教えてあげるし、コケモモのジャムも教えてあげるし、野ウサギのおうちも教えてあげるし、魔獣が出ても守ってあげます!  うん、ネムおねえちゃんがずっとずーっと守ってあげるのです!」


 大きく目を見開いてしばらく固まったディートハルトが、それから目を細め、口元に手を当てて、ふんわりと笑った。


「ディータって言った? アタシをそう呼んでくれるの? 女の子の口調のままでも、女の子の服を着ててもいいって、そう言ったの? ネムお姉ちゃん?」


 初めて見る柔らかな表情に釘付けになっていたわたしは、夢中でコクコクと頷いた。

 笑ってくれた。ディートハルトが、あのディートハルトが。挿絵で繰り返し見た、作り込まれた艶やかで黒い悪役の微笑みじゃなくて、ふわっと、心からの自然な笑顔で。

 カメラ、カメラが欲しい。目に録画機能はないですか。

 ゲーム版でこの笑顔のスチルがあったら、全財産つぎ込んでも悔いはない。

 それと、ネムって呼んでくれたのも嬉しい。ずっとずーっと、いくら言っても、父さまも幼馴染みたちも呼んでくれなかったのに。

 わたしは、元々撃ち抜かれていた心臓をさらに特大級の砲弾で撃ち抜かれ、たちまち白旗を上げ悶絶した。


「くぅぅっ、尊いのです! 笑顔最っ高! 最っ高にかわいい、キレイ過ぎるのです! ゼッタイに、ゼッタイにわたしが守りますから! ずーっとです!」


「守ってくれるの? こんなに小さいのに。嬉しいけど、アタシだってネムを守りたいわ」


「小さくはないのです! お姉ちゃんですから!」


 ベッドの上でピョンピョン跳びはねるわたしに、ディートハルト――ディータはクスクスと笑った。それだけでわたしはもう空に舞い上がるほど嬉しくて、思いっきり跳び上がると空中で反転し、天井の灯りにしっぽをからめてクルクルと回った。


「すごいわねぇ、便利ね、そのしっぽ」


「そうでしょう!? でもディータのフカフカのしっぽも大好き! すごいかわいいのです!」


 全力で褒めると、ディートハルト――ディータは自分の狐しっぽを抱きしめ、ほんの少し頬を赤らめた。


(くぅっ、殺す気かよっ、殺人級のかわいさなんですけどっ!?)


 ああもう、前世の推しだとかそういうのがなくても、わたしはディータが大好きだ。絶対の絶対に、愛した人を殺した上、絶望の中で自殺するなんて、そんな未来を迎えさせてたまるものか。

 ディータはわたしが救う。わたしが助ける。

 空中で両方の拳を握りしめたとき、下のほうから声がした。


「やあ、ずいぶんと楽しそうだね、ネリームーア」


「父さま!」


 わたしは父さまに向かって両手を広げ、ピョンと飛び降りた。

 危なげなく受け止めてくれた父さまは、カワウソの獣人で、ちょっと小柄で、カッコイイというよりはどこか愛嬌のある顔をしている。しゃべり方も穏やかで、いつもニコニコしていて、領民を大切にしていて怒っているところなんて見たこともない。だけど実はかなり強くて腹黒なところもあって、魔獣の棲む領地ではとっても頼りになる、皆の憧れの領主様だ。


「ディートハルトとはうまくやれそうかい? もしネリームーアが嫌がるなら、ちょっと若すぎるけどディートハルトには僕の補佐をしてもらおうと思っていたんだ」


「そんなのダメなのです! 父さまのお仕事のお手伝いなんてしてたら、ディータはここに帰ってこられないのです! ディータはわたしの妹になったのです! ずーっと一緒にいるのです!」


「妹? ディータ?」


 ただでさえ丸い目をさらに丸くして、父さまはわたしとディータとを見比べた。


「ネリームーアの妹になったのかい、ディートハルト? 君が嫌じゃないなら、僕は何も言わないけれど」


「アタシ……僕のことを、お姉ちゃんとして守ってくれるそうですよ。頼もしい跡取り君ですね、伯爵」


「そうとも、ネリームーアはこの荒野の星だからね。ネリームーアのことをよろしく頼むよ。それと、少しずつでいいから、僕のことも父さまって呼んでくれると嬉しいな」


 父さまはわたしを左肩に移すと、空いた右腕でディートハルトを抱き上げ、くるくると回った。


「僕たちはこれから家族なんだからね。お互い支え合いながら、みんなでこのローゼワルテを守っていこう」


 父さまの腕の中でキャハハハッと笑い合った後、わたしはピョンと飛び降りると、早速ディータの手を取って領地案内へと繰り出した。


 ローゼワルテに仕えてくれている家人達やその子ども達にディータを紹介して回り、食堂や医務室、リネン室や地下の食料貯蔵庫まで見て回ってから、荒野にも行った。

子ども達しか知らない秘密基地に魔獣の巣をこっそりのぞける高台、キジやカモといった美味しい獲物のいる狩り場まで。四歳のわたしが行けるところは全部案内した。荒野で生まれ育った野生幼児に引っ張り回されて、都会育ちのディータはクタクタになっていたけれど、笑っていたから良しとした。

 ただ――わたし的に大ショックだったのは、ディータは今まで虫を見たことがほとんどなくて、初めて見たクロハトンボに悲鳴を上げてしっぽを逆立て、腰を抜かしたことだった。


(大丈夫かなー? わたしと一緒に暮らして)


 手のひらにモフモフの黒い毛虫を載せて観察していたわたしは、タラリと冷汗を流した。


 

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