第3話 アリスフォード戦記

「おバカすぎる……」


 天井に手を伸ばして、さっきまでの『夢』で見ていたよりも小さな手の甲を見つめる。

 なんだか頭が重くてズキズキと痛む。

 『田鷺柚希』は、たぶんアリスフォード戦記の最終巻を片手に、熱中症で死んだ。

 寝不足で朝食もぬき、帽子も被らず八月の蒸し暑い外に座り込んでいたのだ。

 ショウ姉ちゃんがあそこに住んでいた頃なら、絶許案件だ。

 っていうか、私の死体は誰かが見つけてくれたのだろうか。勝手に入り込んだ人間が庭で死んで腐っているとか、嫌がらせ以外の何ものでもない。

 ショウ姉ちゃんの目に映る最後の『私』が腐乱死体とか、最悪すぎる。死んでも死にきれない。


「そのお姉ちゃん、ユズキがいなくなって、きっと泣いたのです」


 そうかな。

 腐乱死体になった私を見たら、『Gのおうち』を見た時みたいに叫んで逃げちゃうんじゃ。


「わたしだったら泣くのです。仲いい子が死んじゃったら」


 仲いい……そうか、『私』とショウ姉ちゃんは仲が良かったんだ……

 噛みしめるようにそう思ってから、『私』は『私』に寄り添ってくれる幼い声に気付いた。

 あなたは、だれ?


「わたしは、ネリームーア・ローゼワルテ」


 ローゼワルテ……ローゼワルテ? ローゼワルテって……

 まさか。

 頭が、ひときわ強くズキンと痛んだ。

 私はそのまま再び意識を失った。


 ◇◇◇


 次に目が覚めたとき、『わたし』と『私』は重なり、ゆるやかに融合していた。

 『田鷺柚希』だった『私』は、どうやら『ネリームーア・ローゼワルテ』として転生したらしい。

 それも、あのローゼワルテ辺境伯こと、ディートハルト・ローゼワルテの義妹として。


『紹介するね、ネリームーア。これからネリームーアの家族になってくれる、ディートハルトだよ』


 意識を失う前の『父さま』の言葉を思い出す。

 

 伯爵令嬢とは名ばかりの、荒野を跳び回る野生幼児だった『わたし』は、義理の兄として紹介されたディートハルトを見て前世の記憶を取り戻した。


「ディートハルト・ローゼワルテと家族とか……最高かよ。しかも原作にほとんど描かれてなかった子ども時代……」


 四歳のネリームーアと二十一歳の田鷺柚希の人格が融合したけれど、生きてきた年齢の差か、田鷺柚希の成分が微妙に多い気がする。もちろん今世でもわたしはディートハルト推しだ。

 四歳のネリームーアだって、ずっと一緒にいてくれる家族は大歓迎だ。

 大好きな父さまは忙しくて中々領地に帰って来ないし、体が弱くて王都にいなきゃいけない母さまとはほとんど会ったこともない。幼馴染みともいえる家臣の子ども達は何人かいるけれど、やっぱり家族とは微妙に違う。兄弟、できれば妹が欲しいと、ずっと父さまにねだってきた。

   

 嬉しさを噛みしめながら一人毛布を抱えて足をばたつかせていると、猫の『もふちゃん』がのしっのしっとやって来て布団にぼすっと飛び乗ってきた。大きな茶白の長毛種にザリザリとほっぺたを舐められて、わたしはふと我に返った。


「あれ? でも、ディートハルト……『ローゼワルテ辺境伯』にいたのは最愛の姉だけで、妹がいるってのは聞いたことない?」


 『アリスフォード戦記』は、その名の通り、アリスフォードが主役の戦記物だ。

 家族を殺され、国を滅ぼされ、自身も命を狙われ続ける王女・アリスフォードが、男装し第二王子を名乗り、友好国や商人ギルドの信用を勝ち得て、自国を取り戻し復興させようとする物語。

 その敵であり、国を滅ぼし乗っ取り、王族を皆殺しにしようと謀る稀代の梟雄が――ディートハルト・ローゼワルテ辺境伯なのだ。


 ディートハルトは、公爵家の嫡男マーベリックに嫁いだローゼワルテ伯爵令嬢レガリアの息子で、王位継承権十位以内の高貴な血を持ちながら、花街、遊廓で女として育つ。


 なぜならば――

 レガリアが嫁いで四年目、年下の夫であるマーベリックが父公爵と共に領地で海難事故に遭い、行方不明になってしまったからだ。現公爵の生死も不明であるのに、公爵家は分家だった叔父が我が物顔で切り回し、まだ子のいなかったレガリアは婚姻自体をなかったものとして実家に戻るよう告げられた。

 ちょうどその頃、レガリアはお腹に命が宿っていることに気付く。

 その子は、公爵家の正統な嫡子だった。

 公爵と夫の事故が本当は事故ではなく、叔父の陰謀だと確信していたレガリアは、確実に命を狙われるだろう腹の子を守るため、叔父の言葉に従うふりをして公爵家を出る。 

 しかしレガリアの実家は伯爵家。公爵家に太刀打ち出来るはずもなし、伯爵家に戻って子を産んだことが知られれば家を継いだばかりの弟ごと潰される。

 気が強く、巻き込むことを承知で実家に戻ることを良しとしなかったレガリアは――王都にありながら一種の自治を認められた治外法権、貴族の権威届かぬ花街に身を売るという奇策に出た。

 そこでレガリアは、四年ほど前に『好きな人と駆け落ちします。お許しください』と書き残していなくなった、かつて最も信頼していた侍女かつ親友のシエラと再会する。愛した男に裏切られ、花街に売られたシエラは、遊女となりながらも愛した男との娘を育てていた。

 レガリアは烈火のごとく憤り、泣きながらシエラを抱きしめ、そしてシエラの娘シータを我が子のように可愛がった。

 苦界とも言われる花街にありながら、シエラやシータと過ごす日々は、公爵家の権力闘争にさらされてきたレガリアにとって不思議なほど穏やかで愛しい時間だった。

 けれど公爵家はレガリアを忘れてはくれなかった。

 数ヶ月が経ち、もうすぐ臨月という頃、シータが息を切らせて嬉しそうにレガリアの部屋に飛び込んできた。


『レガリアさま! これ、これ、マーベリックさまからのお手紙です! 生きてたんです! 近いうちに、必ずおむかえに来るって……!』


 言葉を失い、口元を覆ったレガリアの目に、涙がにじむ。

 震える手で封を切ったその白い指先が、プツリと切れた。

 ぬめぬめとした何かが塗られたカミソリと、白紙の手紙。

 ただの傷ではない、指先から手の甲へと広がっていくしびれ。紫色に変色しゆく傷口。

 レガリアは、瞬時に全てを悟った。

 そして――毒が赤子に到達するその前にと。レガリアは自ら小刀で腹を割き、赤子と自分をつなぐへその緒を断ち切って――そのまま倒れ、力尽きた。

 後に残されたのは、弱々しく泣く小さな男の赤ん坊と、血の海の中にへたり込んだ四歳のシータだけ……


 壮絶な誕生を果たしたディートハルトは、シエラとシータ親子によって、シータの妹、ディータと偽って育てられた。

 花街で育てるため、何より公爵家の目をくらませるためだった。

 ディータの育ての母となったシエラには、一つの特技があった。王都でも希少な治癒魔法の使い手で、刃傷沙汰の絶えない花街では随分と重宝され、遊女稼業の傍ら寝る間を惜しんであちこちへ駆けつけ、けが人を癒やしては治療費を受け取った。

 なぜなら――


『男の子、ましてレガリア様が命をかけて産んだお子を、遊女にするわけにはいかない』


 それがシエラの口癖だった。

 遊廓で産まれた子は、遊廓の子。産まれながらに自身の養育費という借金を背負っている。遊廓を出るには、他から売られてきた遊女以上の莫大な金が必要だった。ましてディータには、客を取ることなく亡くなってしまったレガリアの借金までもが積み重なっている。

 無理がたたってシエラが倒れると、その使命はディータとたった四つしか違わないシータへと引き継がれた。


 そして、ディータが十歳になった頃。

 これ以上ディータの性別を偽り続けるのは難しいだろうとシータは判断した。

 ディータが育った遊廓の楼主は、レガリアによく似た美貌のディータを遊廓を背負って立つ花形の高位遊女にすべく、惜しみない教養と金を注いでいた。もし楼主にディータが男だとバレれば、楼主は、『ディートハルト』を最も金になる相手に――公爵家に売ろうとするだろう。

 そうすればディータは確実に殺されてしまう。

 シータはレガリアの実家であるローゼワルテ伯爵家の協力を仰ぎ、母と自身の稼いだ全財産を差し出し、ディートハルト――遊女見習いのディータを、ローゼワルテ伯爵家に身請けしてもらうことに成功したのだ。


 そこからは、『アリスフォード戦記』ではあまり詳しくは語られていなかった。

 作者はこれから書くつもりだったのかもしれないけれど、その前に絶筆してしまった。


 オタクの間で指摘されていたのは、ディータことディートハルトは公爵家に見つかることなく伯爵家の養子になれたけれど、義姉のシータは遊女のままじゃないか、救われなさ過ぎる、ローゼワルテ伯爵家はなんでシータを助けなかったんだ、という点だった。


 うん。

 ネリームーア・ローゼワルテとなった今なら、理由が良く分かる。

 とにかく、この家は貧乏なのだ。

 わたしが寝ているのも、着ているのも、令嬢なんて毛ほども思えない装飾も刺繍も全くない普通のもので、それでも多分、この家で一番上等なものだ。

 ご飯だって、貴族の家と聞いてよく想像するような白い長いテーブルに銀食器、なんてものでは当然なくて、学食のような食堂に、ムキムキの庭師達とかに混ざってお盆を持って並ぶ。主菜の他のおかずは二品まで。甘い物が欲しくなると、家人の子ども達と一緒に野いちごを摘んだりコケモモを採りに行ったりする。最近では肉が足りなければ獲物を狩ればいいじゃない、方式にまで移行しつつある。

 

 そんなわけで当主の甥っ子であるはずのディートハルト一人を身請けする金もなく、シータ親子が命を削って稼いだ金に頼らざるを得なかった。 


 伯爵家がなんでそんなに貧乏なんだ、と柚希としての私は思うけれど、四歳のネリームーアにはよく分からない。領地が荒野なのと関係あるのかもしれない。

 ひょっとしたら、レガリアが身を売ったお金も、伯爵家に送られていたのかもしれない。


 とにもかくにも、ディートハルトにとって義姉シータは恩人であり、最愛の人だった。

 そのシータは、その後、治癒魔法を使いすぎてアレルギーを発症したり遊女特有の病気にかかったりと紆余曲折あるものの、ディートハルトの実家とは別の公爵家に身請けされる。

 遊女が公爵家嫡男の妻になるなんて、戯曲になるほどの玉の輿だ。

 義姉が幸せになるなら、と身を焼く想いに蓋をしてディートハルトは身を引くけれど……

 公爵家がディートハルトの姉を身内としたのは、彼女にしかない、とある特殊能力が目当てだった。

 義姉はその能力を王家や公爵家に利用され尽くし、ボロボロになり、挙げ句の果てに、何とか逃げ出そうとしたところを口封じに惨殺されてしまう。

 最愛の姉の、原形を留めない遺体を抱き、ディートハルトの心は闇に落ちる。

 そうして、姉を利用し殺した王家と公爵家を抹殺すべく、王都に魔物の大暴走スタンピードを引き起こし、国を滅ぼすのだ。


 この世の全てを憎んだディートハルトだったけれど、唯一、公爵家に嫁いだ姉の親友であり一番の理解者だったアリスフォード王女を殺すことだけはためらった。

 そうして僅かな部下と共に逃げ延びたアリスフォード王女の動向を探る内、図らずも助けるはめになり、そのまま偶発的な交流が続く。


 一番印象深いのは、砂漠の部族に捕らわれたお互いの部下を助けるため、男装の王女であるアリスフォードが踊り子の少女に変装し、女装の悪役であるディートハルトが踊り子の青年に変装し、共に族長の宴で舞いを披露し潜入する――前の練習場面だ。

 地元の少女にカイガラムシから採れる紅を教えてもらい、蚕の野生種から採ったベールをまとって、月明かりの下で舞う二人きりの場面。

 多くのオタク達は、それを読んで、アリスフォードとディートハルトが結ばれるラストを妄想した。


 けれどあの最終巻。

 アリスフォード王女に心を許しかけていたディートハルトは、国家機密の要を握る姉が他国に亡命するのを防ぐため、最終的な抹殺の判断をくだしたのが……アリスフォード王女本人だと知ってしまう。

 ディートハルトは、自身の唯一の救いであったはずのアリスフォードを殺し――凄絶な笑みを浮かべた。

『これでようやく、一番憎い人間を殺すことが出来るわ』と。

 そうして自身の首に刃を突き立て――ただひとこと、『……姉さん』とつぶやいて事切れるのだ。


 確かに。確かに、『アリスフォード戦記』考察サイトでも、ディートハルトがアリスフォード王女と結ばれ救われるのは難しいのではないかと常々言われていた。

 何故なら、ディートハルトは殺しすぎている。

 姉を利用し殺した人間だけでなく、ただの伯爵家の子息が格上の公爵・王族を殺すため、多くの罪なき民をスタンピードに巻き込み死に追いやった。

 半ば他国の傀儡となりつつも国の東半分を統治する僭主となり、自分に従わぬ者は容赦なく処刑した。

 その一方で王家の直系たるアリスフォード王女を影ながら助ける振る舞いは、国中のヘイトを自分に集め団結させ反体制派を大きく育て、いずれそれを率いたアリスフォード王女に殺され譲位するつもりなのではないかと――おそらく姉が殺されるまでディートハルトとアリスフォード王女は密かな恋人関係で、ディートハルトは復讐の傍ら自身の命をアリスフォード王女のために最も有効に消費しようと考えているのではないかと――いわゆるディートハルトの『価値ある死』ルートが最有力だという結論になっていた。 


 それでも、『私』はディートハルトに生きて幸せになって欲しかった。

 復讐なんて捨てて、国もアリスフォード王女も捨てて、ただおしゃれして、くだらないことで怒って、笑って、虫に悲鳴を上げて、拾った子どもの世話をしたりして。

 劇的な人生が似合う稀代の悪役、ディートハルトの平凡で幸せな未来なんて、おそらく『私』の他には誰も望んでいなかっただろう。けれど。


 どうか、どうか、幸せになって。

 幸せになって欲しかったのに。


「あれ?」


 前世の想いに意識を引っ張られていたわたしは、無意識に撫でていたモフちゃんの腹毛に顔を埋め、ふとつぶやいた。

 

「今って……ディートハルトは十歳で……まだ『アリスフォード戦記』が始まってない時間軸ってことだよね? シータも生きてるし、ディートハルトも闇落ちしてない。ひょっとして、まだ取り返しがきくんじゃ……?」


 そうか。そうだ。

 わたしってばなんてナイスなタイミングに記憶を取り戻したのか。

 わたしはこれから、幸運にも『アリスフォード戦記』が始まる前のディートハルトの側にいられる。なにかディートハルトのために出来ることがあるかもしれない。たとえ原作に名前も出ない、モブ以下の存在だとしても……


「いやむしろ、モブ以下、ディートハルトの人生にほとんど関わらないわたしなら、シータの人生の身代わりになっても、誰も気にしない……?」


 それはとても良い考えに思えた。

 わたしがシータの代わりに、何か特殊能力――今は特に思いつかないけど――を開発して、公爵家に嫁にもらわれて、利用されて殺されればいいんだ!

 そうすればシータは殺されず、ディートハルトは闇落ちして王都を滅ぼしたりせず、ネリームーアの大好きなこの伯爵家の人達も誰も死ぬことにならない!

 ついでに、異世界転生ものの定番の、前世の知識を生かしての何かのお金儲け――今はまだ特に思いつかないけど――をして、シータが見習いから本物の遊女になる前にシータを買い戻して、ディートハルトと一緒に暮らせるようにしてあげよう!

 そうしたら、ディートハルトも幸せ、シータも幸せ、王都の人達も幸せ、皆が助かってネリームーアも幸せだ。

 わたしは興奮して足をばたつかせ、モフちゃんの腹に顔をグリグリと押しつけた。気持ちよく寝ているところを起こされたモフちゃんは嫌そうに鼻にシワを寄せ、くあぁぁっとあくびをすると反対を向いてしまった。

 でもそんなの、上機嫌なわたしにはへでもない。


「ふふっ、モブ以下万歳、この世界に転生出来て本当に良かった……神様ありがとう」


 わたしは幸せな気持ちでモフちゃんの背中に顔を押しつけ、再び眠りに落ちた。


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