第2話 柚希
私、
お父さんは見たことがない。お母さんはお金には困っていないようだったけれど、仕事が忙しくて、家に帰ってくる方が珍しかった。
それでもこども園の間はご飯を用意してくれたりお迎えに来てくれたりする年配のお手伝いさんがいたけれど、小学校に入るとその人もいなくなり、『お母さんは忙しいの。もう買い物くらいできるでしょ、ご飯は自分で買って。必要なものがあればそれもここから買って良いから』と生活費だけを渡されるようになった。
今考えると、小学校一年生を捕まえて数十万単位の金渡すとかあり得ないないと思うけれど、当時の私は疑問に思うこともなく、素直にお母さんが言うならそういうものなのだろうと頷いてコンビニに通うようになった。
それでも、なんとなくウチは普通とは違うんだと感じていた。
私はマンションの部屋に戻ることなく、公園のベンチでオムスビを食べ、公園に遊びに来る親子連れを何とはなしに眺めていることが多かった。
「ねぇ、ぼく、どうしたの? もう随分前に日が暮れたわよ? おうちは?」
そんな私に唯一声をかけてくれたのが、近所に住む中学生のお姉さんだった。
買い物帰りに、もう暗い公園のベンチに座って、何するでもなくただぼーっと滑り台を見ている小一を見かけて衝撃を受けたらしい。
家に送る、と言ってくれたお姉さんに、帰りたくないと首を横に振ると、お姉さんは少し悩んでから私を自分の家に招待してくれた。
「アタシね、一回でいいから、『ショウ姉ちゃん!』って呼ばれてみたかったんだよね」
ショウ姉ちゃんはお婆ちゃんと二人暮らしだったけれど、そのお婆ちゃんが最近施設に入ってしまって、実は寂しかったのだと眉を下げて笑った。
ショウ姉ちゃんは女子力というものが高く、それから毎日のように公園にいる私に声をかけ、夕飯をご馳走してくれるようになった。
私は、ショウ姉ちゃんの家で、初めて誰かが自分のためだけに作ってくれた料理を食べた。
そのショウ姉ちゃんが大いにハマっていたのが、『アリスフォード戦記』という小説だった。
「ねね、アリスフォードももちろんイイんだけどねっ、最推しはやっぱりローゼワルテ辺境伯――ディートハルトよねっ、この悪役なのに実は世話好きなとことか……女言葉のイケメンってとこが最強に刺さるのよ……」
小学一年生の私には内容が難しかったけれど、ショウ姉ちゃんは『これは布教だから。ファンの裾野は小さいときから開拓していかねばならんのだよ』とか言いつつ、内容を噛み砕きながら読み聞かせてくれた。
私は自分で教科書以外の本や漫画さえ読むことはなくて、本の何が面白いんだろうと思うような子どもだったけれど、初めて体験した『読み聞かせ』というものが楽しくて、幸せで、ショウ姉ちゃんに会う度にねだっては読んでもらうようになった。
「『アリスフォード戦記』を好きになってくれたのは嬉しいんだけどね、自分で読んだほうが、もっと早く先が読めて面白いと思うわよ?」
ショウ姉ちゃんはそう言って首を傾げていたけれど、私が『アリスフォード戦記』を好きなのは、ショウ姉ちゃんが読み聞かせてくれるからこそだ。
二年生になっても三年生になっても、少しずつ読み聞かせは続き、そのうち私も『アリスフォード戦記』の世界やキャラクターがもっと大好きになった。
キャラクター以外に私が興味をもったのは、『アリスフォード戦記』に度々出てくる虫だった。
例えば蚊に刺されただけで、重い熱病になる。
バッタの大群に襲われて、作物や家まで食い散らかされ、飢餓に苦しむ国が出てくる。
巨大な蟻の巣を利用して砦を壊したりする。
カイガラムシをすり潰して、その赤い色素を口紅にする場面があったりする。
虫の垂らす甘い蜜で、縛られ飢え死にしそうな人がなんとか命をつないだりする。
都会のマンションの高層階で生まれ育った私にとって、虫はほとんど見たこともない生き物で、見慣れた人間や犬猫とは全く違う生き物で、それはまるで異世界ファンタジーに出てくるモンスターのようだった。ショウ姉ちゃん風に言うなら、深く刺さった。
カイガラムシが出て来た場面で、ショウ姉ちゃんに『虫が見てみたい』と言ったら、『うちにいる虫っていったら、台所のGくらいかなぁ』と変な笑いを浮かべたので、さっそく『Gのおうち』というのをコンビニで買ってきて、設置してみた。
翌日、ワクワクしながら『おうち』をのぞいてみたら、大きな虫(例のGらしい)と小さな虫(カマドウマっていうらしい)が入っていて、私は生まれて初めてといっていいほど感動した。
なんでかショウ姉ちゃんは叫んで逃げたけれど。
その虫を飼うのは、ショウ姉ちゃんに泣きながら反対されて叶わなかった。
でも、虫を捕まえるのは楽しい。虫のワナを仕掛けておくと、マンションの部屋に帰ってもそのことばかり考えて、ショウ姉ちゃんの家にいるみたいに楽しいままで、廊下の隅の暗がりもお風呂で目を閉じるのも怖くはなくなった。
私の虫好きの原点は、間違いなくこの『楽しい』という気持ちだった。
ショウ姉ちゃんの家には草ぼうぼうの庭があって、『Gじゃないならまだなんとか』と言うショウ姉ちゃんを無理矢理付き合わせて、よく小さなバッタやテントウムシを追いかけ、捕まえ、蟻や羽虫の観察をした。
本嫌いだった私が虫の図鑑を夢中で見るようになって、ショウ姉ちゃんはドン引きしていた。
私の幸せも楽しいことも全てはショウ姉ちゃんと共にあったけれど、その日々は小学六年生の七月にプツリと終わってしまった。
滅多に帰って来なかった母親から、ある日突然『もうあの人と会ってはいけない』と言い渡されたのだ。
納得出来るはずもない私に、母親は『あの人は良くない人だったの。アンタは騙されていたのよ。悪い夢を見たの。さっさと忘れなさい』と言い放った。
母親に放置された六歳児を、見返りも求めず六年間も世話し続けるお人好しが、悪い人なはずがない。
それなのに、ショウ姉ちゃんは、あの古くて小さい家からフツリといなくなってしまった。
「いつか劇団員になって、『アリスフォード戦記』を2.5次元の舞台でやるのだよ、それが夢なのさ!」
拳を突き上げて語っていたショウ姉ちゃん。出会ったとき中学生だったショウ姉ちゃんは、今は美容師学校に行きながら、夢を叶えるため劇団員を目指していたはずだ。
「まぁたアリの巣見てるの? 確かに『アリスフォード戦記』にもアリは出て来たけど、いい加減飽きないかね? って、それ、アンタが毎年探してた新女王アリってやつじゃない!? こんなに大きいの!? ついに捕まえたんだ! 凄いじゃないの!」
本当は虫嫌いなのに、私が虫を捕まえるとなんだかんだと一緒に喜んでくれたショウ姉ちゃん。
それからショウ姉ちゃんはホームセンターに自転車を飛ばして、『アリ観察キット』というのを買ってきてくれた。透明な平べったい水槽みたいなそれには水色の透明なゼリーが入っていて、アリが巣を作っていくところがよく見えた。『ショウ姉ちゃん天才』と感動した私に、
「ほーっほっほ、遠慮なくあがめなさい!」
と調子に乗って笑っていたのは、つい半月前のことだったのに。
卵を産んで巣を大きくしていく新女王アリのために、キットを何個もつないで大きくした。一緒に、巣の成長が楽しみだね、ってはしゃいでいたのに。
何回か訪ねた後、いくら呼び鈴を押しても出てこないショウ姉ちゃんに焦れて、私はガラスを割って家の中に忍び込み――茫然と立ち尽くした。
そこはただの古い家で、ショウ姉ちゃんがこだわっていたオトナカワイイ服も、キレイメ化粧品も、ショウ姉ちゃんが選んでくれたカッコカワイイ私の服も虫の観察ノートも、女王アリが入ったアリ観察キットも――庭で虫を見ていると、『熱中症予防にはコレよ!』と口を尖らせながらショウ姉ちゃんが牛乳をいれてくれた青いコップさえも、何もなかった。
夢? ショウ姉ちゃんは、ひとりぼっちだった私が産み出した妄想だった?
そんな、そんなはずない。
ショウ姉ちゃん、ショウ姉ちゃん、ショウ姉ちゃん。
悪い人でもいい。騙していてもいい。会いたい、会いたいよ。
ショウ姉ちゃんを探して叫びながら空き家を荒らしていた私は、近所の人に通報されて、警察に捕まった。
「捨てたわよ」
警察から連絡が行き、さすがに迎えに来た母親は、こともなさげに言った。
帰りのタクシーの中、綺麗に塗られた爪を見ながら、軽く眉を寄せて。
「アンタがあの家に置いといたってもの、アイツが全部よこしたんだけどね。気持ち悪いでしょう、あんなの。さっさと忘れて、同じ年の子と大人しくゲームでもしてなさいよ。毎月充分以上の生活費は渡しているんだから、余分な手間をかけさせないでちょうだい。警察の世話になるだなんて会社で何て言われるか――あ、着信入ってたわ――運転手さん、ちょっとかけても良いかしら?」
目の奥がズキズキと熱くなって、涙が盛り上がってきた。
隣で仕事相手と電話しだした母親に気付かれないよう、しゃくりあげそうになる声だけは何とか我慢した。
食いしばった口の横を、涙がほたほたほたほたとこぼれ落ちていった。
私が寂しいとき、同級生なんて誰も構ってくれなかった。
私が心細いとき、当たり前のように側にいてくれたのはショウ姉ちゃんだった。
本当は虫が嫌いなのに、私が興味を持った虫を一緒に調べて、捕まえ方を一緒に考えて、飼い方まで悩んでくれたのはショウ姉ちゃんだけだった。
初めて卵を産んだとき、ショウ姉ちゃんと一緒に跳び上がって喜んだ女王アリ達は捨てられて――死んでしまった。
ショウ姉ちゃんと出会って初めて、私は、自分が寂しくて心細かったのを自覚した。
マンションの自分の部屋が、何で暗く寒く感じるのかも。
自分の部屋では中々寝付けないのに、何でショウ姉ちゃんの家だとスコンと眠れるのかも。
不法侵入した私は、ショウ姉ちゃんの家に近づけなくなってしまった。
相変らず母親の帰ってこない、生活感のないモデルルームのようなマンション、物が少ない自分の部屋のすみっこに膝を立てて座って。
パラリパラリと昆虫の図鑑をめくる。
ショウ姉ちゃんの家の庭でしょっちゅう見ていたから、ところどころに泥汚れや黒い自分の指紋が付いていた。
その図鑑の中から、パラリと一枚、付箋が落ちた。
『ここ! このゾウムシもアリスフォード戦記に出てたのよ! 八巻の79ページ! いい加減、自分でも読んで探してみなさーい』
大きな矢印と、デフォルメされたショウ姉ちゃんの似顔絵が描かれたメモだった。
慌ててその付箋がはさまっていただろうゾウムシのページを開いて……たくさんのゾウムシの写真に、どれがそうだったのか分からなくてほんの少しパニックになり――それから、ショウ姉ちゃんの付箋を握り込んでしまっていたことに気付いて、さらに慌てた。
私はショウ姉ちゃんの家に入り浸っていて、ショウ姉ちゃんの家に自分の物を置かせてもらうことはあっても、ショウ姉ちゃんに関係する物をマンションに持って帰ることはなかったから……この付箋は、確かにショウ姉ちゃんがいたという唯一の証拠だった。
だって、私は、ショウ姉ちゃんの本名すら知らなかった。
いつも当たり前にあの家にいたショウ姉ちゃんがあの家からいなくなってしまえば、私にはショウ姉ちゃんを探す手がかりがなに一つないことに今頃気付いた。
私は付箋のシワを慎重に伸ばしてから、図鑑に挟んだ。
それから、本屋に行って『アリスフォード戦記』を出ている巻全て買い、初めて自分の目で読んだ。
ショウ姉ちゃんの『最推し』だったローゼワルテ辺境伯は、主人公のアリスフォード王女と敵対する悪役で、赤い髪の狐の獣人で、女装が似合う切れ長の目の美人。一方で変に面倒見が良く、ツンデレ気味に主人公のピンチを助けたりする。
改めて自分で読んでみると、ショウ姉ちゃんが憧れて影響を受けたせいか、ローゼワルテ辺境伯の言葉遣いや行動はショウ姉ちゃんそのものだった。
何回も、何回も、繰り返し『アリスフォード戦記』を読み返した。
読めば読むほど、私の頭の中のローゼワルテ辺境伯は、ショウ姉ちゃんの姿で再生され――気付けば私は鼻をすすりながら夢中で本を読んでいた。
ショウ姉ちゃんが付箋を貼ったゾウムシもちゃんと分かった。アブラヤシに付くゾウムシで、繰り返し指で撫でていたせいで、図鑑の写真は色が薄くかすれてしまった。
私は、ショウ姉ちゃんの家に行かなくなった分の時間で、今までろくにやってこなかった勉強を始めることにした。
寂しくて心細かった小学生の私は、ショウ姉ちゃんに救われた。
人と仲良くなるのが苦手な私には、あの頃の自分のような子どもの面倒をみたり助けることは出来ない。けれど、虫の研究をしている大学があるというのを知って、自分の好きな虫を研究して、人の役に立つことまで出来たら――記憶の中のショウ姉ちゃんが少しは褒めてくれる気がする、そう思ったのだ。
勉強して、『アリスフォード戦記』を読んで。
新刊が出たら、もちろん予約して即日買った。
三冊目からは書店を出てそのままショウ姉ちゃんの家へ向かい、こそこそと庭に入り込んで草の隙間の踏み石に座り込んで読んだけれど、近所の人にも警察にも誰も咎められることはなくて――それが、新刊が出たときの私のルーティンになった。
『アリスフォード戦記』の新刊は、私にとって、会えなくなってしまったショウ姉ちゃんから届く、たった一つの
幸せになって。どうか、幸せに。
毎回、そう祈りながら新刊を読んだ。
SNSで『アリスフォード戦記』オタク仲間とも交流するようになった。
ローゼワルテ辺境伯推しは一大派閥になっていて、『アリスフォードと恋人になり救われる』展開支持が多かった。
私が、無事に農学部の学生になり、昆虫学のゼミ生になった三年生の八月。
『アリスフォード戦記』の最終巻が発売された。
完結、というのとは少し違う。
『アリスフォード戦記』の作者が最終刊執筆の途中で亡くなってしまい、書かれていた分だけを出版する、という異例の事態だった。
私は予約していた最新刊を書店で受け取ると、そのままの足でショウ姉ちゃんの家に向かった。
庭は草ぼうぼうで家も外壁が所々落ちて塀のペンキもはげていたけれど、ショウ姉ちゃんの家はその時もまだそこに建っていた。
ゼミに泊まり込んで、二徹で、最凶に虫好きな先生も負けずおとらず虫好きなゼミ生達もようやく手に入ったツノゼミの羽化を夢中で観察し記録をとっていた翌朝のこと――寝不足の頭は鈍く痛んでいたけれど、『アリスフォード戦記』の最終巻を読まずに寝るという選択肢はなかった。
蝉時雨の中、縁側の敷石に腰掛け深呼吸をし、ドキドキする胸に一度手を当ててから、表紙を開いた。
「……うそだ」
ページを半ばまで繰った私は、一瞬茫然としてから、何枚も何枚も乱暴にページをめくり続けた。
けれど、そこにあるのは本来のページ数の半量続く真っ白なページだけ。
作者が健在ならここまで物語が続いたということなんだろう。でも、何もない。
「うそ、うそ、うそ」
ぶわり、と涙が込み上げてきた。ぼたぼた、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。
あの日以来、こんなにも泣いたことなんてなかった。
「っく、うそ、うそだよ、こんなの……」
ディートハルト・ローゼワルテ辺境伯は、死んだ。
それも、全てに絶望し、アリスフォードを殺してから自殺するという、最悪の終わり方で。
涙を袖で拭いながら、何度も何度も読み返して。
私『柚希』の記憶は、そこで終わっている。
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