乳歯にむしばまれた少女
かいまさや
第1話
カタンコトン、耳をすませば遠くから電車の音が聴こえてくる。それくらい静まった住宅街を通って、わたしとクロは学校へ向かう。その登校路にはさまざまな遊び場がもうけられていて、白線の上を身体の平衡を保ったまま歩いたり、跳び馬のように擬石の連なりを跨いですすんだり…私たちはそれらを楽しむために学校へ向かうのだ。もう辺りに生徒一人も見当たらない頃、始業の鐘と共に二人して校舎に駆け込んで、冷えて固まった上履に履きかえる。冷たい風を顔で受けながら二階まで駆け上がると、長い廊下に私たちの忙しない足音がこだまする。その余韻の残るうちに、私たちは大袈裟に手を振って、また後で!と言葉を交わす。
一度教室に入ればそれ以降、わたしはできるかぎり口をとじて終業まではそのまま。同級生に話しかけられることもあるけど、大体提出物とか委員会の仕事の催促ばかり。
「この小レポートまだ提出してないよね?先生が早く出して、って…」
ほらほら、早速生真面目な学級長さまのお出ましです。内申点が欲しいのか否か、委員会を牽引するのは感心するけど、わたしに楯突こうとは良い度胸だ…と内心では思いつつ、面倒は極力避けたいし、そんなことを面前で言える度胸も、わたしにはなかった。
「あー、後で自分で職員室に行くから」
と、テキトウに言っておこう。学級長は妙な間をおいて、そのまま後退りするように友達の輪の方へ去っていった。わたしは出来るだけ誰とも目の合わぬよう、頬杖をしながら窓の外を眺める。本当にこの一年、クロと教室を隔てることになってしまったのが残念で極まりない。わざわざ短い休み時間に教室を跨いで、毎度毎度ほかのクラスに顔を出すのも、何かと面倒を被りそうで憚られるし億劫だ…。そんなふうに考えながら、退屈な授業中は校庭の参観を日課とする。座席が窓側特等席であったことが幸いしたのだ。利点はもう一つ。このご時世に、空調設備もろくに整備されていない我が校唯一の冬の癒し処である蒸気式暖房が隣接しているのだ。脚元は暑くて敵わないが、廊下側の極寒地区を考慮するとお釣りがすこし多かった程度に思える。今もまた教室の対角線上には、マフラーを巻いて白い息を吐きたらしながらノートをとる委員長の姿が…寒くて手元も悪い中、脱帽に値する態度だ。そして顔を翻せば窓の下、外気温に負けじとボールを打つや追うやの勇ましい男児たちの青春の情景。案外そんな歪んだ優越感を愉しんでいるのかもしれない。おお、さよならホームランか。わたしの目線を通り越して球が宙へと上がった。
昼食休み、わたしとクロは体育館と本校舎をつなぐ連絡路の辺りに腰かけて、家から持ち寄った弁当をひろげる。
「うわ、そっちの唐揚げ旨そ」
わたしが無作法に箸を伸ばすと、クロは弁当箱を遠ざけて顰めっ面をみせた。
「クロのかーちゃん、料理上手いんだもんなあ。うちのはてんでダメ」
「テスが作んなさいよ」
そう、わたしはテスと呼ばれている。と言っても、そう呼ぶのはもうクロしか居ないけど。クロのことをクロと呼ぶのも、もうわたしだけ。その呼称は本名とは全く無縁。そう、これは未だに私たちを蝕むある因縁が関係しているのだ。
まだわたしとクロが小学生の頃、わたしは周りと同じくらいに歯が抜け始めていた。でも何故か左の前歯だけがいつまで経っても抜けなかった。それどころか、舌で押しても云とも寸とも言わず、今の今まで性懲りもなくわたしの口内に小さく居座って、然しわたしの精神に孤高と立ちはだかっているのである。青年期に近づくと、幼きに歯抜けた様なその笑みすら気になりはじめて、ついには公然と大きく口をひらくことも出来なくなり、笑顔も口内の見えぬよう歪に計算された不可解な表情筋が、いつの間にか癖になってしまった。まるで対人恐怖症に罹ったように。いつからか周囲の人々は、無愛想な餓狼をみるような目でわたしをみてくる程になってしまった。
それと時を同じくして、クロもまたわたしと異なる懸案事項を抱えていた。それは唇の左上に佇むホクロの存在である。幼少期はそれをトレードマークにすら思っていたクロだが、高学年にもなり鏡の前で過ごす時間も増えてくると、段々とそのホクロが我が青春を喰らいつくす悪玉のようにすら思えたのだろう。いつかの感染症流行にのっかって、クロは咳の一つもないのにマスクを年中無休で常備するようになった。むしろ風の子扱いだったクロには、少々無理のある策戦ではあったけど…。兎に角、すったもんだの末に近所より離れた高校を選んで進学すると、私たちの秘密を知る者は遂にいなくなり、唯一の理解者としてわたしとクロは共依存な二人三脚を現在まで続けている、といった訳である。
弁当箱をたたんで、いつも通り本日の校庭での打者打率成績に関して議論を交わそうとしていたが、おかしなことにクロは改まってこんなことを言い始めた。
「わたし、整形外科に通おうかなって」
右からみたクロの横顔は、まるで容姿に悩みをもつような感じには思えぬほどに整っていて、その不相応な発言に、わたしは前歯を見せつけるように笑い声をあげた。が、すぐに我に返った。
「それってつまり、ホクロをなくす、ってこと?」
そんな分かりきったことを訊いたのは、多少の動揺のためだった。今まで長らく並走してきたマラソン走者が、急にペースをあげてわたしをおいて行ってしまう、そんな気持ちが湧き上がってきて、わたしの心は妙に騒つきはじめる。
「うん、お母さんがいいよ、って」
そう言うと、何故かクロは少し俯いて申し訳なさそうに唇を噛んだ。わたしは肩がすくんだ。急に冬の寒さに気づいたのか、膝まで震えはじめる。わたしは掌でそれを抑えつけると、
「へへえ、よかったじゃん!これでクロもこのカルマから卒業だね!」
と、無理やり明るく振る舞ってみるが、クロはその後も顔をあげることはなく、その沈黙を裂くように始業の鐘がわたしとクロの間に鳴り響いた。
乳歯にむしばまれた少女 かいまさや @Name9Ji
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