模試

十坂真黑

模試

 宮部尚樹が教室に着くと、既に二、三人の姿があった。いつもは大体、尚樹が一番乗りなので珍しい。おそらく今日が塾の模試だからだろう。誘惑の多い家より集中できる塾の方が、勉強に身が入るのは皆同じだ。

 

 席に着くとまず腹ごしらえに、コンビニで買っておいたサンドイッチにはむっとかぶりついた。

 と、それを見計らっていたかのようなタイミングで「よっ」と背後から肩を叩かれ、むせた。

 振り返る。


 くたびれた灰色のパーカー。髪はツーブロックに刈上げている。顎の下にはうっすらニキビ跡。

「武春」口の中を空にし、尚樹は友人の姿を認めた。

「何喰ってんの?」

「カツサンド」

 武春が噴出した。「ただ模試にゲン担ぎかよ」

「ほっとけ」尚樹は残りのパンを口に押し込んだ。

 武春は尚樹の隣に座り、椅子の上に立膝をついた。教室の座席は二人掛けになっている。

「今日の模試の試験監督、みか姉なんだよなー。あの顔を二時間ぶっ続けで拝めるとか天国かよ」

「いや、問題解けよ」

 自習をしていた別の生徒がこちらを睨んだので、尚樹は慌てて声を潜めた。「お前塾に何しに来てるんだよ」

「そんなん決まってんじゃん、みか姉に会うためだよ」

 武春はつまらないことを聞くな、という顔をしている。


 みか姉こと新垣美架は、尚樹が所属するY塾の受験対策クラスを受け持っていた。

 いわゆる大学生アルバイトだが、男女問わず人気があった。授業が面白いことはもちろん、面倒見がよく、勉強や恋愛面など粘り強く相談に乗ってくれた。自然と生徒達から「みか姉」と呼ばれるようになっていた。

 彼女は整った顔立ちをしてた。化粧は薄かったが、肌は透き通るように白かった。気取ったところがなく、授業中にふと見せる笑顔が可愛らしい。

「ってか訊いたか? みか姉彼氏と別れたらしいぜ」

 武春が興奮したように唾を飛ばす。

「どーでもいいから」武春の雑談には付き合わず、食事を終えた尚樹は参考書を睨む。


 時間がたつにつれ、だんだん教室内の席が埋まってくる。

「今日模試だっけ? やべ全然勉強してねえ」

 吉田という男子が欠伸漏らしながら教室に入ってくる。

 に気付き、尚樹は口ごもった。

 ちらりと武春の方を見る。あれ、そうだよな? とアイコンタクトで会話をする。武春は頷いた。どうやら彼も気付いたようだ。

 ごほんと咳払いをした後、「吉田くん」と、尚樹は件の生徒に呼び掛けた。

「何?」

「ええと……ある特定の部分の通気性が良すぎるというか」

 我ながら回りくどかったな、と直後に思った。

「ん? なんだよ」

 案の定、吉田は怪訝な表情で首を傾げる。

「吉田! 社会の窓全開!」

 尚樹の気遣いを掃いて捨てるように、武春はドストレートに指摘した。

 すると突然、吉田はわあああ! と頭を抱え、

「チャック開いてんの誰にもばれなければ第一志望受かるっちゅー俺のジンクスがあ!!」

「なんだそりゃ」

「みんなゲン担ぎかよ。実力で戦おうって気はないのかねー?」

 と、武春が袋の底にたまったポテチの屑を喉に流し込んだ時だった。


 がらっと後方の引き戸が開く。「おはよう」

 彼女が現れた瞬間、教室内の温度が少し上がったような気がする。

「みか姉ー!」と最前列の席に座る女子が手を振った。美架は優しく笑いかけると、手を振り返した。

「みんな、元気そうだね。じゃあそろそろ自分の席についてー」

 その言葉で、素直に数人が席を移動した。武春も「じゃ」と片手を上げ、右端の列の二列目の席に着いた。通常授業の時は座席は自由だが、模試などの試験の際だけは指定された座席に座ることになっている。


 美架が横切った瞬間、尚樹の鼻先をふわっと柑橘系の爽やかな香りがくすぐった。 

 尚樹は手の中でころころと消しゴムを転がす。

 美架はホワイトボードの前に立つと、教室中をゆっくりと見回した。

「共通テストまであと三か月。ここからが追い込み時だよ! と言いつつ、私大学はいる時共通テスト受けてないんだけどね。推薦だったから」


 えー、ずるー、など教室のあちこちから文句が聞こえる。もちろん、本心から不平を述べている者はいない。

「推薦組だって楽じゃないんだよ? 一年の時から勝負は始まってるからね。内申点上げるために三年間ずっと猫被ってやりたくもない委員会に参加したりボランティアやってみたり……あ、今のはオフレコね。ちなみにボランティアは今も続けてるよ」


 おどけた発言にくすくすと笑いが聞こえた。模試を前に緊張した生徒たちの表情が、少しずつほぐれていく。

「図書館で点字打ったり読み聞かせやってるんだっけ」

「そーそー。よく覚えてるなあ山下くん。言ったの最初の自己紹介の時だよね?」

 発言した武春は尚樹の方を振り返ると得意げに親指を立てる。なんだ、その顔は。


「受験科目にみか姉入ってれば絶対受かる自信あるのに」

 武春の発言に、教室が笑いに包まれた。

 美架は笑みを浮かべながら、ちらりと壁時計を確認する。

「雑談はやめやめ。答案くばりまーす」



 三週間後、模試の結果が出た。尚樹はぎりぎりB判定だった。が、親には「ランクを一つ下げたらどうか」と打診された。間違っても一浪なんてされたら困るからだろう。

「別に平気だって。まだ二か月あるし」尚樹は気丈に振るまったが、

「だってお前、最近成績下がってるじゃないか。無理しないで、入れるところで良いよ」

 心配性な親を安心させるためにも、尚樹は一層受験勉強に取り組む羽目になった。


「なんでやめちゃったんだよみか姉……」

 教室に入って来た武春が、来るなり机に突っ伏している。このところいつもそうだ。


 美架は先日の模試からしばらくして、突如塾講師のバイトをやめてしまった。

 武春のように彼女の不在を嘆く男子生徒は多く、噂では美架がいなくなった後、クラスの半分の男子生徒の偏差値が平均3下がったとか、いないとか。

「仕方ないだろ、就活なんだから」

「みか姉いねえんじゃ来る意味ねえよー」

 その日、何度も武春の口からため息が零れた。


 それから少しして、武春は本当に塾をやめた。

「あいつ、まじか」「失恋で人生を棒に振ったな」「あほだ」

 しばらく今教室内では武春を揶揄する声が収まらなかったが、一週間もすればそう言った声は聞かれなくなった。受験まで残り一ヵ月を切っていた。皆、他人にかまっている場合ではないと気づいたのだ。


 武春が塾に来なくなってからも、尚樹は黙々と勉強を続けた。


 彼が無事第一志望の大学に合格し、半年が経った頃。

 喧しい雑踏の中で耳に引っかかるものを感じ、尚樹は足を止めた。

「もしかして、宮部くん?」

 転がる鈴のような澄んだ声。

 驚きとともに振り返ると、案の定そこには新垣美架が立っていた。


 彼女の姿を見るのは約半年ぶりだ。

 記憶の中とは違い、髪は淡いブラウンに染められ、ゆるく巻いている。薄桃色の毛の長いニット、ボトムスはスキニーなジーンズ。塾講師時代は講師はカジュアルなスーツが義務付けられていたため、私服を見るのは初めてだった。 


「新垣先生」

 思わず当時の呼び方で返した尚樹に、「今はもうセンセイじゃないよー」と、予想通り彼女はふわっとした笑みを零した。

「ごめんね、あの時はいきなり辞めちゃって。びっくりしたでしょ」

「はい。寂しがってましたよ、みんな」この言い方ではまるで自分は含まれていないみたいだ、と思いながら答える。


「そうだよね。みんなに別れの挨拶もできなかったし。……そうだ宮部くん、今から時間ある?」

「まあ、少しなら」腕時計を確認しながら答える。友人との約束があるが、まだ時間には余裕があった。

「うち、すぐ近くなんだ。ちょっとお茶しない?」


 美架は尚樹を連れてチェーンのコーヒーショップに入った。

 部屋に招かれるのかと勘違いし赤面した尚樹をよそに、「十分で戻るから待ってて!」と言い残し、彼女は急ぎ足で店を出た。


 十分をややオーバーし戻って来た美架は、鞄から細長い紙を取り出す。

 その用紙を目にしたとたん、一年前の忌まわしい記憶が蘇って来た。

「マークシートですか?」

「そう。あたしが最後に受けもった模試のやつ」


 よく見ると記入済みのようだった。尚樹の名が書かれている。

 どうしてそんなものを持っているのかと尋ねると、「辞めるとき、荷物に交じってたんだよね」と苦笑を零した。そういえばあの模試のときだけマークシートが返却されなかったことを思い出した。


 よりによって、なんであの時のマークシートを。脇の下に汗がにじむのを感じる。

 あの時のマークシートは、尚樹にとって特別な物だった。


 ――もしかして、に気付いたから、今日自分に声を掛けたんじゃ?

 そうだとすれば、にも納得がいく……。

 とめどなく、思考が流れていく。


「返そうとは思ってたんだけど、忙しくなっちゃって……そのままずるずると」

「そうだったんですか」跳ねる心臓を押さえつけて、なんとか返事をする。

 本当は美架に飛びついてでもその一枚の紙きれを奪い取りたい。そんな尚樹をよそに、彼女は用紙に目を落とすと、

「……あ、マークミス発見。ここ、択一式なのに最後の方解答ダブっちゃってるよ。時間なくて見直ししなかったな~?」


 その瞬間、尚樹の全身から力が抜けていった。

 口元に親しみやすい笑みを浮かべ、美架は尚樹を見る。

「これ、もらっていいですか?」

「うん。もちろん」

 差し出されたマークシートを、尚樹は皺が寄るほど強く握りしめた。

「ま、用はこれだけなんだけど」

 美架は注文したキャラメルマキアートを舐めるように飲んだ。

 

「あの時……先生はどうして笑ったんですか?」

 用紙を確保できた安堵感からか、尚樹は自分でも意外な質問をした。

「え?」

 美架はカップを手にしままま尚樹を見ている。

 何を言っているのか分からないようだ。

「この模試が終わってマークシートを回収してるとき、先生、笑いましたよね。ふふっ、て」


 半年前のことだが、今でもはっきりと覚えている。模試が終わり美架が全員分のマークシートを集め終えた時。用紙を数えていた彼女は確かに笑った。それも微笑むというより、思わず吹き出した、といった感じで。

 が、ずっと尚樹の心に引っかかっていたのだ。


「……ああ。あったね、そんなこと」


 笑う赤ちゃんを見た時のように、自然とほころびた笑み。


「宮部君は武春くんと仲良かったよね」

 突然、懐かしい名前が飛び出した。

 武春が塾を辞めた後は互いに連絡を取り合う機会もなく、自然と縁は切れていた。

「武春? はい、当時は」


 じゃあいいか、と呟き、美架は再び鞄を探った。


 笑いを必死にかみ殺しながら、美架は取り出した別のマークシートを尚樹に見せた。


 あの模試は五択ある選択肢の中から正解の一択を選ぶ択一式問題だった。

 問題用紙には質問と共に1から5までの解答が用意され、マークシートの方に正解だと思う数字のみを塗りつぶす。選択式であるので、記述式と違って奇抜な解答など、しようがない。


 ところが武春のマークシートは、一問目から異彩を放っていた。

 一問につき複数の解答が塗り潰されている箇所もある。中には五択全て選択されている問題まであった。

 その結果、マークシートには、大きな黒い文字が浮かび上がっていた。


 ●●●●● 

    ●   

   ●●

 ●   ●

  ● 

 ●●●●●

   ●

 ●●●●●

    ●


『スキ』と。

 塗りつぶした部分を点に見立て、文字を描いていたのだ。


「……なんですかこれは」

「笑うでしょ。私も笑った」


 思い出しても可笑しいのか、美架はふふふ、と目元を拭っている。


「おかげで秋にE判定よ、E判定。模試とはいえ貴重な受験時期使ってこの子何バカなことやってんだろーって思ったら、なんかキュンときちゃって」

「はあ」


「前々から面白い子だなーとは思ってたんだけどね。まさか年下に撃ち抜かれるとは」


 妙に艶のある言い方だなと疑問に思い、その瞬間全てが繋がった。

「……もしかして、先生が塾辞めたのって」

 尚樹が問うと、美架は首肯した。

「そう。これをきっかけに私、武春くんと付き合い始めたの。それが塾側に見つかっちゃったんだよね。アルバイトとはいえ曲がりなりにも講師と生徒の恋愛関係はコンプラ的にまずいって言われて」 


 確かに生徒と講師の恋愛はあまり良い評判は生まないだろう。美架は表向き就活の為という理由でやめさせられ、それに反発し、その後武春も塾をやめたのだろうか。

「知りませんでした……あいつもそんなこと、微塵も言わなかったし」

「彼も受験生だったし、教え子と講師っていうのが外聞が良くなかったから、しばらく内緒にしておこうって、武春君とは話してたから」

 あの武春がそんな重大なことを周囲に一切隠していたとは。その点にまず驚いた。それどころか彼女が辞めたことを嘆く演技まで。彼の性格からして、美架と付き合うことになったその日には、声を大にして言いふらしていそうだ。


「今はね、無事に武春くんも大学生になったし、堂々と恋人できてる」

「おめでとうございます」

 ちなみに、武春は直前で第一志望を変更、無事美架と同じ大学に入学を果たしたという。名前を聞くと、武春が元々狙っていたよりも偏差値は十高い大学だった。

「みんなに挨拶もできなかったし、もやもやしたままだったからさ。ようやくすっきりした」

 かつての塾のマドンナはそう言うと、幸せそうに笑った。


 その晩帰宅した尚樹は、久しぶりに勉強机に座った。

 大学生になってからは、情けないが定期試験前にしか座ることがない。

 引き出しを開けると、古い紙の臭いがした。

 

 引き出しの中に乱雑に押し込まれたノートや書籍をのけ、目当ての一冊を取り出す。

 タイトルは『点字の教科書』……ほとんど触っていないため、新品に等しい。

 ぺらぺらと捲ってみると、自然と点字五十音表のページが開いた。以前何度も開いたため、跡が付いていたようだ。

 点字の本を片手に、今日、美架に渡された模試のマークシートに尚樹は目を落とす。

 最後の六問の解答。

 マークシートは以下のように塗りつぶされている。

●●

 ●

 ●

 ●

 

「みか姉、気付いてないみたいでよかった」

 そう独り言つ。


 美架はマークミスだと言ったがミスではなかった。これこそが尚樹が描きたかったメッセージだった。

 マークシート方式の解答用紙は回答を機械で読み取るため、人間が採点をすることはない。そのため解答後のマークシートが人目に触れることは、基本的にない。だが、試験監督者は別だ。

 特に美架は、回収時に生徒たちの解答を一通り確認するということを、尚樹は知っていた。さすがに得点につながるミスを指摘してくれることはなかったが、回収後に「名前書き忘れてるよ」とこっそり耳打ちされ、訂正させてもらったこともある。

 最後の六問は、そんな彼女に向けたメッセージだったのだ。


 黒く塗りつぶした箇所を点字として読んでみるとと、「すき」という二文字が出来上がる。

 こんなメッセージを仕込んだせいで、この時の模試はB判定ギリギリになり親を無駄に心配させてしまった。

「馬鹿だな。こんなんじゃ伝わるわけないじゃないか」

 尚樹は笑った。過去の自分の青さに。


 奇しくも、発想自体は武春と同じだった。ただ、彼の方がずいぶん直接的だった。

 これでも、勇気を振り絞ったのだ。


 美架は当時、多くの男子の憧れの存在だった。 

 そして、尚樹もそんな美架に淡い好意を抱いたうちの一人だった。


 美架は高校時代から図書館ボランティアとして活動しており、点訳もしていると言っていた。美架だけに伝わるメッセージとして、点字を選んだ。わざわざ点字の本まで購入して。


  てっきり、あの時彼女はこのメッセージに気付いたのだと思った。だから笑ったのだと。だがそれは尚樹の早とちりだったようだ。

  彼女はこの答案に込めたメッセージには気づかなかった。

  ならばずっと、気付かないでいてくれた方が良い。

 尚樹はマークシートをばらばらに破りゴミ箱に捨てると、心に爽やかな風が吹き込んでくるのを感じた。

 

 受験期の忘れ物を、ようやく回収できたような気がした。




 


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