異世界転生!ハイパーインフレ王国の再生劇

マイステラー

魔力と通貨の逆転劇

薄暗い天井が揺れるように見えた。気づけば、ハルオは見慣れぬ石造りの部屋で目覚めていた。数秒前まで彼は日本の小さなオフィスでエコノミストとしてデータを睨みながらパソコンに向かっていたはずだ。瞬間的な眠気、あるいは意識の飛躍……それがいつの間にか中世的な石壁に囲まれた空間へとハルオを誘っていた。


「ここは……どこだ?」


声を出すと、耳慣れぬ響きが自分の口から出る。言語は違えど、その意味が自分には自然にわかる。不思議な感覚だった。周囲を見回せば、古風な木製机、ロウソク立て、そして分厚い帳簿らしき書物が積み重なっている。服装を確かめれば、華美ではないが質の良い布地の服、そして胸には小さな徽章が光っている。まるで官吏か何かのようだった。ハルオは鏡を探し、机の片隅に置かれた手鏡を覗き込む。そこには二十代前半ほどの若い男の顔が映っていた。


「これが……異世界転生ってやつか?」


彼は数多くのライトノベルで読んだ展開を思い出して呟いた。しかしこの状況は、ただ突飛なファンタジーではないようだ。ハルオは元々、日本で経済分析官として働いており、為替や金融、マクロ経済政策に詳しかった。今この世界で、自分はどういう立場なのか、何をしなければならないのか――確かに徽章にはアルカディア王国の紋章が刻まれているようで、周囲の書類には貨幣供給量や魔法資源の関税率、公共事業関連費用など、いかにも財務官僚が扱うべき数値が並んでいた。


ノックの音。部屋に入ってきたのは背の高い男だ。濃紺の制服のような衣服を身に着け、額にはうっすら汗が滲んでいる。


「おはようございます、エルヴィン財務官殿。今日の会議にはもうじき王家の顧問官が来られます。例の公共事業資金と通貨発行拡大策について、再度説明を求められそうです。」


エルヴィン。それがこの体の名か。ハルオは頷いた。どうやら自分はアルカディア王国の若い財務官エルヴィンとしてここにいるらしい。日本で身につけた経済知識が、この世界で役立つとしたら、今がその時かもしれない。


アルカディア王国は長きにわたって経済成長が停滞し、ここ半世紀、技術的進歩もほとんどない。特定の貴族や保守的な魔導士団が魔法資源を独占し、国全体に革新が広がらず、停滞を生んでいる。財政は逼迫し、王は公共事業で「何とかなる」と信じているらしいが、既にインフレが高騰し、人々の生活を圧迫していた。ハルオは机上の報告書を読み、目を凝らす。物価指数がこの半年で二倍、いやそれ以上に跳ね上がっている。食料価格上昇は庶民の不満を煽り、また商人たちは不安から資金を外へ逃がそうとしている。


「まずいな……このままではハイパーインフレに陥る。」


日本で学んだ経済知識が脳裏で警鐘を鳴らす。通貨供給増大は短期的な景気浮揚に見えるが、国際的信用を失い、通貨価値が底を打てば、資本逃避は加速するだろう。そういえば隣国Bではかつて同様の問題を起こし、資本が一気に流出して大混乱となったと聞く。A国でも同じことが起きれば、政権は倒れ、社会は崩壊するかもしれない。


会議室へ向かう廊下で、エルヴィンは他の官僚たちと言葉を交わす。彼らは皆、表情が暗い。公共事業をさらに拡大しても、その資金は結局、新興商人たちの思惑や利権争いに飲み込まれ、実際の生産性向上につながっていない。むしろ市場は投機熱に浮かれ、一部の魔法資源価格が狂ったように上昇している。群集心理が「今が買い時だ」と煽り、バブルが膨らむ。しかしバブルはいつかはじける。


会議室には王家側の顧問官が待っていた。顧問官は目にクマを作り、苛立った声で言う。


「なぜ物価は収まらぬ?通貨を増やせば需要が増えて景気が良くなると聞いたが、我が王国は苦しいばかりだ!」


エルヴィンは静かに、しかし明確に説明を始める。


「通貨供給を増やすと一時的な活気は生まれますが、産出力が増えなければ、ただ物価が上がるだけです。魔法資源の独占構造を改めなければ、生産は拡大しません。新たな技術革新と産業基盤の拡充が必要です。」


顧問官は不満げに眉をひそめた。王国は既得権益者たちに配慮し、抜本的な改革をためらっている。だが、このままでは緩やかに崩壊していくだけだ。


会議後、エルヴィンは新興商人階層のリーダーであるマグナスとの面会を取りつけた。マグナスは背が低く、だが機敏な目つきをした男だ。彼はアルカディア王国に新たな商機を求めて頭角を現したが、今の不安定な市場で利益を上げるのは至難だ。


「エルヴィン殿、このままでは我々商人も厳しい。そろそろ外に資本を逃がす仲間が増えておる。だが、我々としてはできれば国内でビジネスを続けたい。何とか安定した政策が打てないのか?」


エルヴィンは内心で考える。彼ら商人は魔法資源を流通させ、新技術を導入することで国に活力をもたらせる潜在力がある。だが、財政が混乱し通貨が信頼を失えば、商人たちもやがて出て行ってしまう。


「マグナスさん、あなた方が市場信頼を維持するには、政府への改革圧力が必要です。現行の公共事業と無謀な通貨増発をやめ、むしろ魔法資源の独占緩和や技術導入の助成を求めてはどうか。税制を見直せば、より公正な競争環境が生まれるはずだ。」


マグナスは口元に手をやり、考え込む。彼は仲間たちに働きかけることを約束したが、情勢がさらに悪化すれば、彼らは国を見限るだろう。


その日の午後、エルヴィンは国際仲介人を務める女性、シルヴィアとの面談にも臨んだ。シルヴィアは各国を行き来し、交易協定や貸付契約などでA国を支援しているが、最近は取引相手国がA国通貨の暴落を恐れ、新たな融資を渋っている。


「エルヴィン、海外の商会はA国に対し、以前ほどの信用を置いていないわ。ハイパーインフレが本格化したら、彼らは債権など紙切れ扱いしてくる。王国にとっては致命的よ。」


エルヴィンは苦渋に満ちた顔で答える。


「わかっている。だから今、構造改革を王家に進言している。だが、王家は短期的な景気刺激策を止めたがらない。」


シルヴィアは溜め息をつく。


「もしこのまま王国が資金不足に陥れば、周辺国はA国を足元を見る。君は日本にいた頃――いや、この世界にはないが、もし前世で培った知識を活かせるなら、財政再建の道筋を示せるのでは?」


エルヴィンはどきりとした。シルヴィアはもちろん彼が転生者であることは知らない。ただ「前世の知識」などと言ったのは比喩かもしれない。だが自分は本当に異世界から来た。日本で学んだことをここで応用しなければならない。


エルヴィンは考える。インフレを抑えるには通貨増発を止め、長期的な信頼回復が必要だ。そのためには生産基盤の改革、魔法資源の流通正常化が重要だ。独占的特権を緩和し、イノベーションを誘発する環境を作る必要がある。だが、既得権益を守る保守派貴族と王家の短期志向が障壁となる。


数日後、アルカディア王国では通貨がさらに不安定になり、庶民はパニックに陥った。パンや干し肉の価格は昨日の倍だ。露天商は「今のうちに売り抜けろ」とばかりに買い占め客が殺到し、魔法資源バブルも過熱する。一方、新興商人の一部はひそかに隣国へ資金を移し始めている。


エルヴィンは首都の市場へ足を運んだ。異世界だが、人々は同じ人間。混乱の中で怯える老女、怒鳴る男、涙を浮かべる子供たち。インフレが実生活にどれだけの苦痛をもたらすか、彼は身をもって知った。日本でなら中央銀行の独立性や財政規律が語られるが、この世界でその概念を定着させるのは容易でない。


だが、何もしなければ、ハイパーインフレという地獄を味わうことになる。エルヴィンは王家への直訴を決意する。


王の謁見の間。豪奢な装飾に取り囲まれた玉座に、王はやや苛立ちながら座っている。周囲の貴族たちは耳をそばだてているが、彼らは魔法資源利権に固執し、新たな秩序を恐れている。


エルヴィンは頭を下げ、静かに話し始めた。


「陛下、このまま通貨を乱発し公共事業に費やせば、国の信用は地に落ち、食糧すら買えない地獄が訪れるでしょう。我々には選択肢があります。通貨増発を制限し、財政赤字を徐々に縮小すること。そして魔法資源独占を緩和し、新興商人たちを活用し、産業を多様化することです。」


王は眉間に皺を寄せる。


「だが、公共事業を止めれば、当面の失業対策はどうする?国民の不満が高まるぞ。」


エルヴィンは答える。


「短期的には痛みが伴います。しかし、貴族が独占する魔力石を公正な市場に流通させれば、新規の工房や小規模商人が生まれ、雇用も生み出せます。隣国Bの失敗例から学ばねばなりません。今、国際仲介人シルヴィアを通じて、改革後の融資条件を緩和してもらう交渉も可能です。新興商人のマグナス氏は投資継続に前向きです、ただし改革が必要だと。」


周囲がざわつく。王は内心で逡巡しているだろう。


この世界には「魔力調整法」という法典があり、魔力石や魔導金属の流通には厳しい規制がある。それは既得権益層が長年維持してきた構造だった。この障壁を崩すには相当な政治的コストが必要だが、やらねば国が滅ぶ。


王は重々しく頷いた。


「よかろう。エルヴィン、汝に暫定的な全権を与え、金融と魔力流通改革に手を付けさせる。ただし、結果が出ねば汝も責任を負うぞ。」


エルヴィンは頭を下げる。異世界転生者として、ここで日本での知識を活かし、この世界で改革を進めるしかない。


数週間が経過。エルヴィンは新興商人階層の協力を取り付け、魔法資源の取引ルールを緩和、同時に通貨増発を一時停止させる政策を実施した。国内には苦渋が走り、特に公共事業依存だった労働者の一部には失業が出た。しかし、エルヴィンは食糧生産を安定させる農業指導や、低利子融資を伴う新興商人支援策、そして海外融資条件の再交渉により、一歩ずつ国際的信用を取り戻していく。


群集心理によるパニック売りは徐々に鎮まり、魔法資源バブルも落ち着きを見せる。価格が安定すれば、新規参入する職人たちが増え、手工業から一歩進んだ生産体制を整える余地が生まれる。国際仲介人のシルヴィアは諸外国との対話を深め、A国の改革努力を伝え、譲歩を引き出している。


新興商人のマグナスは、改革後の市場で地道に利益を上げ始める。急激なバブルではなく、緩やかな売買と信用創造が進む。こうした循環の中で、国民は最初こそ不満を抱いたが、しだいに「物価が安定してきた」と感じ始める。主食のパンの価格は少しずつ安定し、日々の生活を立て直す余裕が生まれる。


とはいえ、未来は確定ではない。この改革が実を結ぶには時間がかかり、抵抗勢力はまだ息を潜めている。もし政治的な揺り戻しや、再びの短期的誘惑に王が屈すれば、ハイパーインフレの破壊力が再来するかもしれない。


エルヴィン――ハルオは、宮廷の小さな窓から、朝日に染まる街並みを見下ろした。焼け焦げた屋根瓦の上に新しい日々が降り注ぐように、国にも新たな風が流れ始めている。この世界の経済は、不安定な通貨価値と魔法資源独占によって長らく滞留していた。しかし、彼がもたらした改革の芽は、小さくとも確実に育ち始めた。


異世界転生としては珍しい展開だった。チート魔法で一発逆転するわけでなく、地味な制度改革と信用回復という地道な道のり。だが、それこそがこの世界を動かす本物の魔法なのかもしれない。資本は恐れを乗り越え、正しいルールがあれば再びこの土地に根を下ろす。技術革新が停滞していた国には、ここから先、工房単位の地味な工夫が積み重なり、小規模なイノベーションが連鎖するだろう。


この世界の通貨は、無制限な魔力によって生み出されるものではない。人々の信用と制度、そして地道な努力がその価値を支える。ハルオはエルヴィンとして生き、経済官僚としての使命を果たし続ける決意を固める。


やがて数年後、このアルカディア王国が緩やかながらも安定的な成長軌道に戻り、隣国Bとの関係改善や新たな交易ルートの開拓が進めば、人々は「あれは通貨がほとんど燃え尽きようとしていた時代があった」と振り返るだろう。そして、その陰には、異世界から来た若き財務官がいたことを知る者は少ないかもしれない。それでも、確かな足取りで進む世界経済の歯車は、彼が油を差し、錆びついた構造を動かしたその意義を、やがて歴史の中に刻み付けるはずだ。

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