第3話

 俺達は電車の中で鯖寿司のように押しに押されて流されて、漂着した場所は入ってきたのと反対側のドアの横だった。これは好都合だ。二方向が壁になっているので秋月さんを防御しやすい。彼女を隅に立たせ、向かい合って通せんぼするように立っていれば良いのだ。

 が、満員電車の圧というやつは俺が想定していたよりかなり強かった。無理もない。何十人、下手すれば百人以上の人間がこの車両に詰まっている。凄まじい力が俺の背中に掛かっている。


 当然、俺は掴んでいる2つのポールを握りつぶす勢いで強く握っていなければならず、それによって体力の消耗は蓋の開いたペットボトルを逆さまにしたくらい早かった。

 しかしこの子を守らなければ、という告白されたことで芽生えた使命感と、良いところを見せたい下心の、左右、いや上下ツインエンジンが俺の体を支えているのである。

「武岡くん、息が荒いよ」

「だ、大丈夫だよ、これくらい……」

「無理しちゃ駄目。ちょっと待ってて」

 秋月さんはカバンから何かを探っている。何だ、ハンカチで俺の汗を拭こうとしてくれているのだろうか。それとも飴とかくれるのかな。

 しかしそこは秋月さん。俺の想像をいともたやすく超えてくる。

 俺は彼女がカバンから取り出し、俺の口元に持ってきた物に目を疑った。


 ……。

 カラカラ音を立てて、ゆっくり回転する4つの羽。風車である。赤い風車が俺の吐く息と共にカラカラ回っているのである。

「……何やってるの?」

「ピッチピチの男子高校生が息を荒くして目の前にいるのに、私はどうしてこんなに無力なのだろう」

「え? 何?」

「だから私は探した。男子高校生の息を有効活用出来る方法。そして見つけた、こんな私にも出来ること」

「さっきから貧しい子どもたちに募金を訴えるCMみてえな言い回しやめろ」

「つまりこれはSDGsなんだよ。分かるよね」

「分かんねえよ」



 当然ながら風車は俺の呼吸に合わせてずーっと回り続けている。

 こっちは体力の消耗が激しいというのに、目の前でこんなことをされたら気が散り散りになりそうだ。

「あ、あのさ秋月さん。申し訳ないんだけどちょっとそれ止めてくれない?」

「今なら黄色い風車もあるよ」

「いや色の問題じゃない味噌ラーメンもあるよみたいな言い方やめろ」 

「そう」

 秋月さんはさっさと風車を片付けると、今度は眼鏡ケースほどの金属を取り出した。

「それは」

 俺が正しく認識するよりも前に、秋月さんはそれを俺の口にくっつけた。

 何やってるの! と俺は発声しようとした。しかし俺の口から飛び出したのは

 ぷぁあああ!

 という間抜けな音だった。これはハーモニカの音色。


 そう、秋月さんは俺の口とハーモニカを口づけさせやがったのである。

「ぱああああああ!(ちょっと、これ外して!)」

「ぱああああああああ!!(いやこれうるさいし迷惑だって!!)」

「武岡くん、電車内で楽器の演奏するなんて常識ないの?」

「んぱあああああああああああああああ!!!!」

 お前が吹かせてるんだろがっ!! 人が動けないのを良いことに好き勝手しやがって!

 俺が不可抗力ながらもハーモニカの音色を響かせたことで、車両内の全ての目が俺に集まった。

 みんな! こんな俺のハーモニカを聞いてくれるためにすし詰めになるまで集まってくれてありがとおおお!

 などとアホな冗談が過ぎったのは一瞬で、敵意むき出しの視線の多さに俺は縮み上がりそうだった。

 まずい、このままだと普通に怒られる! 

 少しキツイけど、鼻呼吸に切り替えて耐え難きを耐え忍ぶしかない。俺が鼻呼吸に切り替えたことで、直ぐにハーモニカの音はやんだ。もう演奏会はお開きだ。残念だったな秋月さん。


 得意げに彼女の方を見た俺は凍りついた。

 彼女の手に握られている、先程カバンから取り出したそれが、再び俺をいたぶるためのお品書きだとすぐに分かったからだ。

 彼女が持っているのは「鼻」であった。よくドン・●ホーテの店に置かれているようなパーティーグッズで、仮装するための衣装の一つだ。止めろ! それは! それだけは……!

 口を封じられて喋るに喋れない俺は目で訴える。

「そんな目で訴えられたら私も意見を変えざるを得ない」

 俺はうんうん頷く。

「うるさいけどハーモニカ吹いてもいいよ」

 そうじゃねえ!


 俺の吐息でちょっとハーモニカが鳴るのと、デカ鼻が装備されたのはほぼ同時だった。

 ぴゅるぴゅる! ぴゅるぴゅる! 俺の鼻からぴゅるぴゅるぴゅるぴゅる! カラフルな巻紙が8時20分の方向にぴゅるぴゅる繰り出されてはシュパッ! と戻っていく。

「武岡くん……」

 秋月さんが興味深そうに俺の顔を覗き込む。

「似合ってるよ」

 はっ倒すぞ!!!


 と言ったつもりが鼻からぴゅるぴゅる! 口からプアアアアアアアアアアアア! 

 あああああああああ!!!!

 何をやってるんだ俺は! 何で俺は満員電車でこんな忘年会で披露するレベルの一発ギャグやらないといけないんだ! これもう一種のパワハラだろ! 労基に駆け込んだら労災認定されねえかなあ!

 というか一応守ってる立場の俺にこの対応は無いんじゃないか秋月さん!

 目で訴えてみるが、彼女は既に興味を失ったようにスマホをいじっている。クソっ!


 こうなったらもうどうしようもない。どうせ秋月さんにしか俺の顔は見えていないのだから、ぴゅるぴゅるしながら降りる駅を待つ他無い。既に俺の腕は限界を迎えていて、次秋月さんから何かされたらもう崩壊間違いなしであった。


 俺が極めて冷静にぴゅるぴゅるしていると、秋月さんが俺の顔の前にスマホの画面を突き出した。男の顔が映し出された画面……。

 これ俺の顔じゃん!

 気付いたのと同時に、画面の俺の鼻から勢いよく飛び出すぴゅるぴゅる。


 んぷあっ!

 というハーモニカの甲高い音を響かせながら俺の腕は力を失い、前のめりに倒れそうになった俺の顔は極めて柔らかい何かに当たって止まった。た、助かった。この柔らかい物が無かったら秋月さんにぶつかっていたところだ。


 手探りで、ようやく車両の壁に手を付き、顔を上げる。

「おはよう」

 目前に秋月さんの顔があった。それこそ、キスの距離である。

 サッと血の気が引く。この瞬間自分の顎が乗っているものが何か気付いた。そう、おっぱいである。俺はおっぱいに乗って、いや顔を埋めておっぱい、落ち着け俺、おっぱいおっぱい


「ご、ごめん秋月さん! 決してわざとじゃないんだ!」

 幸い口からハーモニカは外れていたため喋れたのだが、相変わらず鼻からはぴゅるぴゅるしたままである。

「これ、痴漢だよね」

 ぴゅるっ……!

「ちょちょちょちょちょ! 待って! ちゃんと謝るから許して!」


 その瞬間、それまでの体全体を押されているのとは違う、極めて異質な感覚が俺の尻を襲った。決して便意とかではない。

 ん? この感覚、何かに挟まれてる。いや、掴まれてる……。

 痴漢!?


 意識した瞬間、俺の尻をまさぐる手が全体を撫でるような動きに変わった。

「ひぃっ!」

 痴漢された女性は怖くて声を出せない、というのはよく耳にする話だが、その伝聞は自分がされてみて確証に変わる。俺は一応柔道の経験者だが、あまりの気持ち悪さに声が出せず、顔を引き攣らせた。ただ鼻からはぴゅるぴゅるシュパッとし続けている。

 俺の顔が青いのに気付いたか、秋月さんが再び覗き込んできた。

「どうしたの? 鼻から何か出てるよ」

「それはお前のせいじゃ!」

「あと顔色が悪い」


 やはり秋月さんからも分かるらしい。どうする、言うか? いや、言うべきだ。一人で抱え込むべきじゃない。

「じ、実は今、お尻を触られてるみたいなんだ」

「あ、それ触ってるの私」

 お前かあっっっっっ!!!! 

 すると秋月さんは人差し指を立て、「シーッ」のポーズで俺にウインクした。

「これで貸し借りなしだね」

 圧倒的に俺のほうがやられまくってるはずなのに、言いたいことも沢山あったはずなのに、彼女のその顔を見てると全部どうでも良くなってしまう俺は馬鹿なのだろうか。

 相変わらず鼻ぴゅるは止まらない。

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