『禍淵にて』Case02 -濁- Background Story

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『禍淵にて』Case02 -濁- Background Story

  零和一二年一〇月一七日午後三時


 荒涼とした秋風が吹き抜ける、ここは岩手県盛岡市。観光客向けのホテルが建つ小綺麗な通りを数本抜けて、廃墟同然のビル群が立ち並ぶ古ぼけた通りを、一台の車がとろとろと徐行していく。

 狙い澄ますような鋭い目つきで、その見分けのつかないほど殺風景なビルを運転席の女が瞥見していく。そうしてふと、あまりに控えめで見過ごしてしまいそうな看板にふと目を留め停車した。その看板はビルの地下階にバーがあることを示すものだったが、営業時間の表示はすっかり褪せていて、まるで昼日中ひるひなかから開いていることを恥じているようにも思えた。

 手荷物を小脇に抱えて階段を下りていく。それは特殊な立方体のアタッシュケースで、彼女の仕事には欠かせない物だった。

 店内のカウンターにはくたびれたバーテンが一人。奥の席からは、寂れた店の雰囲気に似つかわしくない賑やかな談笑が聞こえる。その中には彼女が捜していた男の声も混じっており、これ以上なく気が立っている女にはジリジリと耳障りなノイズのように聞こえた。

「いらっしゃいませ」

 バーテンの声を振りきってずかずかと奥のテーブル席へと向かう。手荷物を抱える右手は、無意識の内にこぶしを握ってぐっと力が入る。

「捜したぞ」

「これはこれは、誰かと思えば……随分と早かったじゃないか」

 男は芝居がかった調子で眼鏡をくっと下げ、上から下まで女を眺めた。

 所々にネイビーのカモフラージュ柄が入る程度で、全体的には黒で統一されたミリタリーウェアに身を包んだその女は、今まさに〈仕事〉を終えてきたばかりといった様子で血と汗の臭いが混じり、かなり臭った。その上、色黒の顔に浮かんだ表情は悲愴さを漂わせ、怒りの矛先はこの依頼主の男に向いていた。

「その様子だと、首尾よくやり遂げたようだな。だがねぇ閑季、今はちょいと間が悪い。仕事の話は一時間後にまた事務所でというのはどうかね。君も落ち着いてシャワーでも浴びてきたら」

 男は親し気な話しぶりで彼女におもねったが、実際のところこれは命令だった。

 同席していた数名の男たちが、邪魔臭そうに閑季と呼ばれた女を睨みつける。かぐわしい酒を楽しんでいたところに、血生臭い猟犬が上がり込んできたのだ。気分を害するのも当然と言える。

 だがそれが、今だけは小気味良く感じられた。

「いいや、今すぐあんたと話をつけたい」

 閑季はテーブルに置かれたグラスや料理の皿にもお構いなしで、手荷物のアタッシュケースをガシャンとひろげてその中身を男たちに見せた。

「おい冗談だろ……」

「おい沢木、貴様の犬、狂ってるんじゃないのか」

 相席していた男たちは見るや否や跳び上がると、口々に罵りつつ足早に店を立ち去っていった。

「犬のしつけくらいまともにやっておけ!」

「申し訳ない、本当に。詫びはする」

 依頼主はがっくりと肩を落としたまま、うなだれる以外になかった。

「お気遣いどうも」

 去っていった男の席に座ると、閑季はまだ倒れずに残っていたシャンパンのグラスに手を伸ばして飲み干した。

「やってくれたな、彼らはウチの顧客なんだぞ」

「知ったことか。あたしはもう降りる」

「待てよ、降りるってのは一体」

「あんたの汚れ仕事はもうやらないって言ってる」

 ニヒルに微笑ほほえむ閑季の顔を見、蝿のたかった手土産に目を移す。四〇センチ四方のアタッシュケースに納まっていたのは、彼が依頼した鬼の首だった。市街地に突如出現し、人命を脅かすおそれがあった。都市部では警察の管轄として専属の部隊が解決に当たるが、地方では到底手が回らない。彼のようなグレーな人物にも仕事が入るのはそのためだ。そうして、フィクサーから仕事を斡旋され〈処理〉するのが閑季のような〈猟犬〉の役目。

 だが、討伐目標となるような鬼も大抵の場合、元は人間なのだ。変異して赤くなった皮膚と堅く力強いつのを除けば、そこに浮かんでいるのは激しい感情にさいなまれながらも本人にはどうすることもできず為すがままとなった絶望の表情。変異には一体どれほどの苦痛が伴うものなのか。自分がそうならない間は、知るよしもない。

 ただひとつ確かな事実は、鬼になったのは彼女の父親であったということだけだ。

「なるほどな……平静を装ってはいるが、そのじつかなり参っている訳か」

 閑季の顔から笑みが消える

「君の父親とは、同郷だし古い知り合いだ。彼は口数こそ少ないが立派な男だった。秋田じゃ名の知れた叉鬼マタギとして、生涯で仕留めた熊の頭数は優に百を越えたとか。銃で狙う相手が違うにせよ、君もその才能を受け継いでいたな」

「……これで終わりよ」

 重い口を開いてそれだけ言った。

「そうだな。親父さんの首は討伐した証明として行政に回収され、手続きが済み次第君の口座に報酬が振り込まれることになる。どう無駄遣いしても半年は楽に暮らせる額だ。だが引き渡した後でどれだけ金を積んでも、親父さんの首が返ってくることはない。奴らにとっちゃ存在自体が都合の悪い代物しろものだからな。どう処分されてるのかは私も知らない」

 男は黙り込んで閑季を見た。彼女の方では元より何も話すつもりはなく、この沈黙も沢木の作戦の内であることをよく理解していた。

「なぁ閑季、考えてもみてくれよ。これで終わりなのか?本当に?ちと寂しくはないか、君には随分稼がせてやったのに」

「こっちのセリフだ。……構わないはずだろ。あんたとあたしの間に貸し借りはない」

「そうかも知れない。我々の力関係は常に対等でイーブンだった。だがねぇ……私の心情としてはどうしても気が咎めるのだよ」

 自分を引き止めるためにどんな詭弁きべんろうするつもりかと、彼女は身構えた。

「これでは親父さんが浮かばれない」

 男の言葉は思いも依らないものだった。

「考えてもみろ。実の娘に討ち取られた挙句僅かな金と引き換えに他人の手に首を明け渡されるんだ。先祖代々の墓にも納められることもなく、な」

「元はと言えば……」

 閑季の両手が怒りにわなわなと震える。男の口から発せられた綺麗事は、到底許容できるものではなかった。

「元はと言えばあんたのせいだろうが!」

 激昂した閑季は立ち上がって今にも目の前の男に掴みかからん勢いだった。だが当の本人は気迫に満ちた彼女に、まるで興奮した牛をなだめるかのような手振りを見せただけで意に介す様子もない。

「そうかもな、あぁそうかも知れない。認めるよ。だがそれがどうした?自分の責任ではない、他にどうすることもできなかった。それで何の慰めになる。今となっては全て手遅れだと思っているんだろう。だがそうじゃないんだ、まだできることはある。ひとつだけな。この稼業から足を洗うと言うなら、自分の手で落とし前をつけたまえ」

「要するに、父さんの首を返してくれると?」

 テーブルに置いたアタッシュケースを自分の手元に引き戻そうと彼女が手をかけると、男はすっと両手を伸ばし箱を取り押さえた。

「タダという訳にはいかない」

 それ見たことかと、閑季は立ったまま男を見下ろして睨みつけつつ腕組みした。

「私の心情としては、君に贈呈してやりたい。だが相手は行政だ。ごまかしの効く相手じゃない。約束を反故にしては今後の事業に差し支える──ここはプロらしく、ひとつ取引といこう。ある人物から引き受けた仕事で、簡単だが重要なのがある。報酬は君が受け取る予定の四倍。これなら親父さんの首を買い取っても採算が合う」

 閑季が首を横に振らないことを確認すると、沢木は話を続けた。

「とある新興しんこうのカルト教団が怪異を狩る武器を所持しているらしい。分不相応な貴重品は取り上げるべきだ。君にはそれを無傷で持ち出して欲しい」

「依頼人は誰なんだ」

「明かせない。君ほど信頼の置ける相手であってもね。だがまぁ確かに──君の信条にそぐわない人物であることは確かだ。今までは君を尊重して、公正な仕事だけを斡旋あっせんしてきた。だがこいつは、下手を打てば君の経歴に傷がつく。その上でよく考えて見て欲しい、だがあまり時間はないぞ」

 閑季は、途中からほとんど男の話を聞いていなかった。既に聞き飽きていた。それでも今まで付き合ってやっていたのは、自分の腕に自信がありしっぺ返しを食うようなヘマはしないと信じていたからだった。だがそれも単なる過信に過ぎないと知った。

「なぁ閑季、聞いているのか?君は凄いヤツだよ。まさに鬼神の如き活躍だった。今回の件はまぁ……残念な結末に終わったが、まだできることがある。最後に親孝行して、人間に戻れ」

「何を言い出すかと思えば、いつも通りの身勝手な詭弁。人の恨みを買ってばかりいて、自分が嫌にならないのか」

「引き受けないつもりか」

「引き受けるさ。だがまぁ……」

 父親の首が入ったケースを沢木の腕からむんずと奪い取ると、背を向けて扉へと歩いていった。

「今回ばかりは、報酬は先払いだ」

「おいおいおい!冗談のつもりか?それだけは許さないぞ。……それを置け、取引の話は無しだ」

 男は怒りをあらわにしたが、どうもそれは虚勢であるらしかった。その表情にはかすかだが確かに怯えが見て取れた。

「父さんの弔いを終えたら出立しゅったつする。あたしが戻るまでに、せいぜい死ぬ気で話をつけてきな」

 男が歯噛みするのを小気味良く感じながら、閑季は部屋を後にした。









  零和一二年一〇月一九日午前一〇時


 二日が経った。仏壇に供えた真新しい位牌に手を合わせると、閑季は黒いタンクトップにカーゴパンツという出で立ちで〈仕事〉の道具一式をくすんだワーゲン ゴルフに運び込んでいく。荷造りはすぐに終わり、予定通り実家を後にした。


 時刻は午前一一時過ぎ。オフロード仕様のゴルフ カントリーがうなりを上げて故郷の廃村を抜け、秋口の荒れ野を突っ走る。

 目標の施設は青森県の宇曽利山湖のほとりにあるらしかった。実家の北秋田市からは東北自動車道を使っても四時間はかかる。気長なドライブだ。

 あの後すぐに、沢木から例の教団に関する情報が送られてきた。周辺の見取り図から教団成立の経緯、主要な構成員の個人情報までもが詳細に網羅されていた。

 どうやら奴は観念したらしい。長い間気に食わなかったあの男の鼻を最後に明かしてやれたのは気分が良かった。今頃は報復の手立てを練っているだろうが、それへの対処は後回しだ。まずはケチがつかないように務めを果たさねばならない。


 事前情報を眺める限り、教団にはさほど不審な点は見当たらなかった。別段どうということもない。怪異・妖怪と呼びならわされる存在が日常的に観測されるようになって以降、国内で急速に数を増やした中小の新興宗教団体のひとつのようだ。

 いて変わったところを挙げるとするなら、理念として掲げている〈人・妖・神の和合〉というスローガンが、長年怪異と対峙たいじすることで生計を立ててきた閑季の目には正気を疑うものとして映った、という程度。だがそんなことは彼女でなくとも大抵の人にとってそうであるはずだ。

 どんなお題目を掲げようとも、この手の組織は例外なく違法な銃火器の密売を、その活動の主たる収入源としており、存在する限りその地域の犯罪の温床であり続ける。

 だがそれゆえに、侮れない相手でもあるのだ。こちらの侵入が発覚すれば、蜂の巣を突っついたような厳戒態勢に入り、その時点で任務は続行不可能。死を覚悟する以外にできることはなくなる。

 隠密行動を得意としている彼女ではあったが、それは飽くまで怪異との一対一の長期戦に限ってのこと。無数の武装した人間を相手に建物丸ごとの鎮圧など、本来であれば彼女に扱える範疇はんちゅうを逸脱していた。

 だがそれに関しては、沢木から送られてきた書類によれば対策は既に織り込み済みのようだった。

 馴染みのガソリンスタンドにゴルフを停めると、閑季はその隣に停車していたワンボックスバンを一瞥いちべつして車を降りた。

 クリーニング業者のロゴが車体にプリントされた白いバンの後部ドアを開けると、運転席から軽薄な男の声がした。

「やぁどうも。おたくがそうなのかい、沢木の言ってた叉鬼マタギってのは」

 構わず、ゴルフに載せていた自分のガンケースとトランクを積み込んでいく。

「随分大荷物だな。手伝おうか?」

 積み終えると、店から出て来ていた店主の老人にゴルフの鍵を預け、バンの助手席に乗り込んだ。

「いやーしかしまさか女だったとはね。ほら、あんたはどうか知らないけど、マタギって普通聞くと無口で険しい顔つきのむさ苦しいおっさんってイメージだからさ。長いドライブになるし、俺にとっちゃラッキーだったよ。おたく名前は?」

 喋りながら、男は目的地に向かってバンを走らせ始めた。社内は既に煙草たばこの臭いが充満している。

 笹川と名乗ったその男は金髪で、服装こそ既に業者の制服を着込んでいるものの、見るからにチャラい男だった。何の信条も信念も持たない、この業界にはよくいる手合い。だが迷信に惑わされないという点では、この仕事を続ける上で不可欠の素質は備えていると言える。

「ふーんなるほど、おっさんってとこ以外は当たってたみたいだな。まぁ良いや。さっき積み込んでた荷物、あれには何が入ってるんだ?いくら叉鬼マタギったって、まさか火縄銃じゃないだろ?変装して入らなきゃならないからな、そんな長いのはさすがに無理だぜ」

 べらべらと喋り続ける男に、溜め息混じりに答えてやる閑季。

「持ち込む訳ないだろう。念の為に積んでおくだけだ。あんたには関係ない」

「おいおい、火縄銃ってのは認めちゃうワケ?熊が相手ならともかくさ、そんなのでかなう相手だと思ってる?銃にもTPOってあると思うんだよね」

「計画通りに事が運べば、必要になることはない」

「まぁね。だがおたくは、プロとして万一に備えた訳だ。しかし、完全武装の狂信者に果たして銃が一丁あったところで通用するかね」

「あんたの方こそ、そのナリでプロのつもりか」

「おいおい勘弁してくれよ。自慢じゃないけど俺は腕利きよ?敵を油断させるのも戦法の内。相棒が騙されてるようじゃ幸先さいさき悪いぜ」

「あいつの手が回ってる人間は信用しない」

「おカタいねぇ……まぁ良いよ、閑季ちゃんは計画通りに動いてくれれば。背中は俺がしっかり守るからさ──後ろにあんたの制服がある。寝てても良いけど、早めに着替えといてくれよ」

 誰が寝るものか、と胸中で悪態をきながら後部座席に手を伸ばす。タンクトップの上から制服を着込んで、ふっと溜め息を吐く。

 最初の直感通り、やはりこの男は信用ならない。名乗ってもいないのにこちらの名前を知っていた。この任務に関して沢木から別の命令を受け取っているのは明らかだ。内容も大体想像がつく。

 とは言え、この計画の単独遂行が不可能であるのも事実ではあった。それに関しては笹川も同意見だろう。

 任務の成功後、より早く脱出ルートを確保した者だけが生き残る。これはそういうゲームなのだ。



 時刻は一五時半。侵入は拍子抜けするほどあっさりと成功した。クリーニング業者にふんした閑季と笹川を疑う者はいなかった……と言うより、警備員の影すらなかった。

リネン類を回収するための台車に爆薬を満載して、二人は施設に入り込んだ。

 顔を見られないよう帽子を目深まぶかにかぶりながらも、目だけはしきりに天井の辺りに這わせていく。監視カメラの位置に事前情報との食い違いがないか慎重に確認しつつ、目的の〈武器〉の在り処を探した。


 沢木の用意した計画はこうだった。

 確保した〈武器〉を持ち出して隠密に脱出できるのが理想。但し途中で敵に正体が発覚した場合の保険として、捜索と同時に主要な柱二〇ヶ所にリモート起爆式の爆薬を取りつけていく。それで施設にいる全員を人質として脅せる有力な交渉材料を手にする算段だ。

 手荒ではあるが、それだけの用意をしなければ生きて帰れる相手ではないのだった。


 施設内部では、この建物のどこかで大勢の信徒が  どきょう経しているらしく、気の滅入るような音声おんじょうかすかに響いていた。しかも内奥ないおうへ進むほどにその声は大きくなっていくのだった。

「気味わりぃけど、儀式か何かやってんのかね。いずれにせよ警備もいなくてラッキーだったな」

「いや、何かがおかしい……警備がゼロなんて有り得ない──おい、これ……」

 エレベーターに乗り込んですぐに、閑季があるものを指差した。

 沢木が用意した地図はこの施設がごく一般的な地上六階建てのビルであることを示していた。しかしエレベーターの操作盤にはB1からB3のボタンが当たり前のように存在している。

 爆薬の半数は既に設置し終えた。目的の物とおぼしき品を探し始めるべき時間だったが、それは地上と地下のどちらに隠されているのか。二人の意見は言葉を交わすまでもなく一致していた。

 笹川は無言のまま、閑季の指差したB3を押した──が、カードの認証を要求されて弾かれた。B2も同様。B1を押すと、今度は弾かれずにエレベーターはゆっくり下へ下へと向かっていった。

「……ダメだ、時間がかかり過ぎる 」

 地下1階へ向かうエレベーターの中で、笹川はぽつりと言った。

「あんまり悠長にもやってられねぇ……なぁ、ここはひとつ手分けしないか?」

 彼の提案に閑季はそれ来た、と思った。ここで出し抜くつもりなのだろう。まさに正念場しょうねんば。ここで相手に優位を譲れば生きて帰れる見込みは限りなく薄くなる。

 閑季は浅く息を吸って笹川の言葉を待った。

「地下に続く通路があるとしたら、まずはエレベーターだが……カード無しじゃ地下1階より下には降りられない。なぁ、あんたが宝探しする間に俺が残りの爆薬を」

「爆薬をどうこうするのはあたしがやる。地下に行くのはあんたがやれ」

「信用されてないねぇ……どっちにしたって俺たち、一蓮托生なんだぜ?しくじればここのイカレた信者共と生き埋め、かと言って例の品を持ち帰らずに逃げたところで沢木の手下に脳天撃ち抜かれておしまい。……なぁ、ここに来ることになった理由をよぉ〜く思い出してみろよ。俺の知ったことじゃねぇけど、あんたが望んで来たんだろ?あんたの疑心暗鬼に巻き込まれるつもりはないぜ」

 笹川は苛立ちを露わにしたが、その身振りすら閑季の目には芝居めいて見えた。

「あたしは行かない」

 風雪に晒された岩のような険しさで、閑季は笹川を睨んだ。その表情に気圧けおされたのか、あるいはどんな説得も彼女には無駄だと悟ったのか、笹川は不承不承ふしょうぶしょうながらに首を縦に振った。

「分あったよ、でもひとつ貸しだからな!覚えとけよ……ったく」

 ポーン、と軽やかな音色を立てて、エレベーターは地下一階に着き、扉が開く。

 台車の底に隠していた拳銃を取り出して扉をくぐった笹川が、思い出したように閑季を呼び止める。

「だったらせめて、起爆装置は俺が持ってねえと」

「いや、これもあたしが預かっておく」

「鬼かテメェは!」

 笹川が怒鳴るのも無理はない。

 激しく口論し、握った拳銃の銃口を閑季に向けもしたが、爆薬を盾にしつつ台車の陰に下がった彼女相手には為す術もなかった。

〈全く、来るんじゃなかった……。分かってるんだろうな、俺が戻るまでは〉

隠し持っていたトランシーバーに接続された無線イヤホンへ、笹川の声が雑音混じりに届けられた。

「脱出するのはあんたと合流してから。これはあんたが裏切らないために持っておくだけだ」

蛇女へびおんなめ……〉

 笹川が諦めて進んでいくのを見届けると、閑季も行動を開始した。台車を、笹川の分と合わせて二台を女性用の個室トイレに無理矢理押し込み、爆薬と拳銃、それに警棒を携えて外へ出た。

 当然、個室の錠を締め上から這い出ることになったが、誰にも見咎められることはなかった。不気味と言えるほど人の気配がない。

 閑季は取り決め通り爆薬の設置には向かわず、読経の声がする方へと歩みを進めた。

 どことなく、触れてははならないものに接近している感覚がこの施設に着いた時からあった。この合唱の正体を見定めるのが何より先決であるように、彼女には感じられた。

 長い通路を抜けた先に広がっていたのは、高さ三〇メートルはあろうかという大空間だった。幅二×四メートルのコンクリートの柱が規則的に林立する様は壮観で、この場所が取るに足らない小教団の資金で建造できるとは到底思えない。明らかに政府関係のものだ。

 どうやら野生の勘は的中していたようだった。これは沢木の罠だ。問題は、奴がどこまで知っていて彼女を送り込んだのか。

 既に、任務を放棄し全力で逃げの一手を打つべき時機だったが、しかしまだ、最大のアドバンテージを失ってはいない。

 爆薬のリモートスイッチの所在を確かめ、トランシーバーを送信に切り替える。

「おい、状況は」

 ややあってから、笹川の声が返ってきた。

〈やっぱり妙だぜ、誰もいやしねぇ。とりあえず事務室を漁ってるが……なぁ、ここはもうとっくに放棄されてるんじゃないのか?〉

「そんなはずはない。お経が聞こえるし」

〈お経?〉

 広大な空間にあって、経を唱える声はいよいよ響き渡っていた。そうして進み続けて、ようやく黒黒と重なり合った人影らしきものが目に入った。


 その光景は全く異様だった。コンクリートの床は引き剥がされたかのように途切れていて、光の差さない広大な空隙くうげきに朽ちかけた鉄骨の梁が無数に渡されていた。その、直径数百メートルを下らない巨大なうろは底知れない暗闇をたたえていた。

 閑季は直観した。地表の建物は、このおぞましい洞を覆い隠す蓋だったのだ。この空間を構築する鉄骨の一本、コンクリートの一滴に至る全てが、人智を超越した異物を封じるべく途方もない犠牲の果てに建設された。それほどの建造物が忘れ去られているとは、竣工から一体どれだけの年月が経っているのか。しのばずにはいられない。

「だとしたら、こいつらは……」

 爆破か、それに類する粗雑な方法で穿うがたれた断崖の中央に逆さになった竹籠が置かれ、それを取り囲むようにして半円状に広がった人間の群れ。数百もの人々が皆一様にこうべを垂れ、聞いたこともない経典を暗唱している。

 閑季は最早姿を隠していなかった。その必要がなかった。そこに集まっていた彼らの顔はいずれも重篤なケロイドによってただれており、眼球はおろか他のどの部位も見つけ出せない程に溶け合ってしまっていた。そうして眼窩がんかの辺りに固いこぶのような隆起があり、先端が無様に尖ってそれが角のような様相を呈しているのだ。

 かおを失った人間たちの口はただ唱えるためだけにあり、耳は自分たちの発する音声おんじょうろうされていた。誰も場違いな部外者を意に介する様子もない。


 ──この建物を爆破してはいけない


「笹川、計画は中止だ。今すぐ──」

 狂気から逃れるようにトランシーバーに向かって叫んだ閑季は、しかしそれ以上言葉を続けることができなかった。彼女の焦燥とは無関係に、眼前では冒涜的な儀式が進行していた。

 みすぼらしい衣服に身を包んだ八人の男女が、竹槍を携えて歩み出る。いずれもケロイドに冒されて、槍を杖代わりにしなければ前後も分からない様子だ。

 だがそれでも準備が整い、中央の竹籠を取り囲んだ。そうして彼らは何の合図もなく一斉に籠に向かって竹槍を突き刺した。閑季が息を呑んだのは、その刹那に竹籠の中から血飛沫ちしぶきが飛び散ったからだった。

 突き刺さったままの竹槍の穂先がじんわりと赤く染まっていく。悲鳴こそ聞こえないが、あの竹籠に入っているのは人間だ──閑季はなぜかそう確信した。

 次に彼らは、各々おのおのの竹槍をぐっと掲げて天高く籠を持ち上げた。竹籠の口からは、一対の子供の足がだらりと、力なく青白く垂れた。その間もぼとりぼとりとバケツを引っくり返したかのように鮮血が流れ続ける。

 あの子はもう助からない、と閑季は悟った。八本もの竹槍が貫通し、血を失い過ぎた。全てが手遅れ。今更何をしようと取り返しがつかない。だがそれでも、醜く卑劣な狂信者共への怒りはいや増すばかり。閑季は既に、取り出した拳銃の安全装置セーフティを解除し、引き金に指をかけていた。

 はやる呼吸を落ち着かせつつ、閑季はゆっくりとグロックを構えて狙いを定めた。

 僅かな瞬間に狙い澄まし、竹籠を掲げていた男女の内三人の頭を吹き飛ばした。

 にわかに轟いた銃声がすっかり暗闇に吸い込まれると、その後に彼女を襲ったのは恐るべき静寂だった。読経は止み、狂信者共の殺気に満ちた視線が一斉に彼女に向けられる。それは竹籠にかかりきっていた残りの五人も例外ではなかった。竹槍をそろりと降ろして籠を元の位置に安置すると、その槍の矛先を閑季に向けた。

 狂気に満ちた悲鳴と共に、信徒たちが閑季に襲いかかる。透かさず拳銃と警棒で応戦するが、あまりにも分の悪い勝負だった。銃を恐れる様子もなく絶えずたかり続ける異常者共をさばくなど、誰にとっても不可能なこと。

 閑季は気の触れるような混乱に呑み込まれる中でトランシーバーのスイッチが入っているかも確認できないまま、一心に助けを求めて叫び続けた。

 その声が聞こえているのかいないのか、笹川からの応答があった。だがその声は、どこか勝ち誇っているかのようだった。

〈なぁ、俺まだおたくに名前を聞いてなかったはずだよな〉

「笹川ッ……助、け……」

 首をめられながら何とか言葉をしぼり出す。

〈なぁ、あんた知ってて気づかないフリしてただろ。油断してついヘマをやらかすのが俺の悪い癖だ。あんたがそれに気付かない訳がない。何か算段があったのか?……まぁ今となってはどうでも良い。あんたが意外とお人好しで命拾いしたよ〉

「笹川、聞け……ッ、この施設は要石かなめいし、爆破したら、とんでもないことに、ッ……計画は中止……」

 ずっと考えていた。笹川がどこで裏切るのか。ここで裏切るのなら、考えられる可能性はひとつだけ──

 閑季は持てる力の全てを振り絞って狂信者共を払いのけ、たすきにかけていた爆薬全てを巨大な洞に向かって投げ上げた。

〈残念だ、多少はな〉

 瞬間、凄まじい爆風が辺りにいた全員を襲った。投げた爆薬は時間が足りず、空中で爆発した。痩せこけて力の弱い狂信者共は残らず吹き飛ばされ、無数の鉄の破片が容赦なく貫通する。閑季もまた例外ではなかった。二メートル近く飛ばされて、そこで踏ん張るのがやっとだった。

 両耳の鼓膜が破れ、意識が朦朧とする中で彼女が最後に見たものは、おおよそ現実とは思えない光景だった。

 安置されていた竹籠から、血まみれの少年が這い出した。何事なにごともないかのようにすっくと立ち上がった。不気味な猿のおもてをまとい、致命傷などものともしていない。それに気付いた信者たちが爆風から起き上がりそろりそろりと歩み寄っていく。

 少年が襲われる、そう思ったのもつかの間、群がった醜い者共は予想もできない行動に出た。

 少年に取りすがる者、手を合わせ念仏を唱える者、様々いたがそのいずれもが少年に救いを求めて泣き叫んでいた。

その姿は哀れで、まるで慈悲を願って如来に縋る悪鬼羅刹あっきらせつの如くだった。

 少年がその者たちに触れるだけで、彼らはたちまち不浄な黒い塵となって霧散していく。とめどなく押し寄せる信者たちは、我先にと押し合いし合い少年に縋りつくのだった。

 これが果たして奇蹟なのか、救済なのか。部外者には判断のしようもなかった。

 やっとの思いで仰向あおむけになった閑季の視界には何も映らなかった、激しい地響きと共に、地上階が爆破されたことによる損傷で自重を支えられなくなった巨大なコンクリート塊が崩落し今まさに、彼女目がけて迫り来る、それ以外には。



 いちじるしい眩しさに身体を背けるようにして、閑季は目を覚ました。地下にいたはずなのに、日光を浴びていることの不可解さに気づくまでに数分を要した。

 鼓膜の破裂によって平衡感覚を失った彼女では、うつ伏せになるのがやっとだった。タールのような何か粘度の高い液体に浸されている不快感から逃れようと、匍匐ほふく前進で大きな瓦礫に登った。そうしてよろよろと身体を起こして尚、閑季は自分が未だ夢を見ているような心持ちがしていた。

 静謐せいひつですらあった地下空間は辺り一面瓦礫の山と化し、その上に黒々とした血がべったりと撒き散らされ、所々で水溜まりを形作っていた。また大小の瓦礫に混じって骨も散乱している。それらはひとつひとつが身の丈を超える程大きく、およそ人間のものとは似ても似つかない、いて言えば鯨類げいるいのそれに近い。そうして見上げてみれば、崩落した建物の隙間からよく晴れた空が見えた。雲ひとつなく平和で、全く別世界のようだ。辺りはさながら地獄の様相を呈していたが、実際のそれと異なり蜘蛛の糸を垂らしてくれる釈尊が地上のどこにもいないという点において、より救いがないと言えた。

 憔悴しょうすいしながらも少しずつ正気を取り戻しつつあった閑季は、巨大な骨と黒い血の本来の持ち主についておおよその見当がついていた。

 彼女は再びうつ伏せになって、断崖へと前進していった。ついさっきまで儀式が行われていたその場所に、青白い人影を見たからだった。


「動くな」

 その男の声は、鼓膜を損傷した閑季の耳には届かなかったが、同時に彼女の後頭部に当てられた冷んやりとした硬い感触が彼女の動きを止めた。その正体をゆっくりと仰ぎ見てみれば、そこにいたのは笹川だった。既に清掃員の制服ではない。黒いコンバットシャツにカーゴパンツという〈仕事〉のための服装だ。いくらか軽傷を負っており、その表情には半日程度の短い付き合いでは見たこともない程怒りが滲んでいるが、その視線は深傷ふかでを負った閑季でなく、断崖に一人残った生存者に注がれていた。

「今日は何から何までイレギュラー続きだ。俺の仕事は簡単に終わるはずだったんだ……この女を不潔なネズミ共と心中させる、事故に見せかけて証拠は全部瓦礫の下。そのはずだった。だが蓋を開けてみればこの有り様だ。ここは何なんだ?くだらないカルト教団の施設じゃねェことくらい俺でも分かる……そんでこの大穴。恐山おそれざんの怪神が閉じ込められてたのはここなんだな?あいつが穴から顔を出しただけで四方三〇キロは草木が枯れる不毛の地になった。速攻で全国ニュースで流れたぜ。この時点で俺は過去最大級のやらかしでクビ確定、この〈襲撃〉の首謀者の濡れぎぬを着せられ晴れて指名手配犯の仲間入りを果たした訳だが……正直もうどうでもいい。それより、お前だ」

 長いサイレンサーを取り付けたM4ライフルの銃口が閑季の後頭部を離れ、断崖にしゃがみ込んでいた猿面の少年に向けられた。

「お前なんだろ、神を殺したのは」

 少年はおもむろに立ち上がると、口の周りに付着した怪神の血液を服の袖でぬぐった。

「不測の事態に対処するのも仕事の内だが、これは良くない……こんなことはあっちゃいけねェ」

 隙のないフォームでライフルを構えると、笹川はふらふらと揺れるように歩く少年の頭に照準を合わせた。

「なぁ、お前は何なんだ。人間なのか?教えてくれよ。俺はお前を恐れるべきなのか?」

 ライフルの安全装置セーフティは閑季に銃口を向けていた時点で既に切ってあった。笹川は全神経を集中させ、いつでも引き金を引ける状態を維持し続けた。形勢は優位、あの小さな頭が胴から離れ瓦礫の上を転がり落ちる様が容易に想像できる──その瞬間まで、彼は確かにそう思っていた。だが不意に、


「畏れろ」


 彼の耳許みみもとで声がささやいた。ふっと気がれるもすぐに態勢を立て直す。が、猿面の少年は眼前に迫りその手を笹川に伸ばしていた。目を離した隙を突いたほんの一瞬の出来事。

 少年の不浄な手が彼の顔に触れる。石竹せきちく色の激しい炎がたちまち全身を包む。笹川は阿鼻叫喚、はたいてももがいても弱まることのない業火ごうかに完全な狂気に陥って、踊るように辺りを転げ回った。


 一部始終を目撃した閑季にとって、その光景はより奇妙に映った。

 笹川の牽制けんせいを意にも介さずふらふらと近づいていく少年に対して、彼はなぜか引き金を引こうとはしなかった。

 そうしてついに目と鼻の先までやって来たというのに、彼の目は少年を正しく捉えていなかった。金縛りに遭ったかのように不自然に硬直し、その散大した瞳孔はどこか虚空を見つめていた。

 少年がはらりと手を触れた瞬間に炎に包まれ、笹川は激しく燃焼していった。そうしてしばらく悶え苦しみ、やがて炎の勢いが収まるとそこにあったのは真っ黒に炭化した亡骸なきがらひとつ。


 自分のすぐそばに横たわったその男の顔は苦痛によって醜くゆがみ、生前の面影おもかげをどこにも見い出すことはできなかった。

 そんなものを間近で見て尚、何の感慨も起きない自分の心境を、閑季は静かに観察した。運命を受け入れた、というのとも違う。ただひたすらに、自分の命運さえも他人事のように感じていた、ただそれだけのことだった。


 だからこそ近寄ってきた少年が差し伸べた手を、易々やすやすと取ったのだ。


 真意は不明だった。触れるもの全てを灰燼かいじんに帰した少年の表情は猿面に隠されて想像さえも難しい。彼女を哀れんでいたのか、無様な姿を見てほくそ笑んでいたのか、はたまた単なる気まぐれか。

 ただ閑季にとって重要だったのは、そんな彼の手を取ったこと、それだけだった。

 その骨ばった小さな手に触れても、他の者たちのように火を帯びることはなかった。それはただ温かい手だった。

 閑季は立ち上がった。ただそれだけで、不思議とゆるされた気がしたのだった。


 こうして二人は、禍淵を後にした──

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『禍淵にて』Case02 -濁- Background Story @WUiHA_ACRYlYRiC

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