第2話
夕食の準備が出来たと階下から声を掛けられ、男は階段を下りる。ふわりと良い香りが漂ってくる、昼食を早めに済ませていた彼の腹がぐぅと鳴った。
「お、大丈夫?」
「おかげさまで少し落ち着きました」
ノーラに尋ねられて男は頭を掻きつつ笑う。食卓には既に料理が並べられており、彼女と母親が椅子に掛けていた。父親はいない、何故だろうか。そう考えているとノーラが答えを口に出してくれる。
「お父さん、昔っから本当に働き者だよねぇ」
「夕食くらいは一緒に食べたいのだけれど、でも仕方ないわよね~。というか今日は泊まり込みらしいわ」
「うわ、そりゃ凄い」
「私も働いてはいるけれど家計を支えてるのはお父さん。頭が上がらないわね~」
どうやら死別などではないようで安心だ。いや、そうなると別の心配がある。
「あの」
「あ、夕食遠慮しないで食べてね。というか残されると困っちゃう」
「ああ、ありがとうございます。えっとそうじゃなくて……」
椅子に掛けた男の言葉に二人は首を傾げる。
「あの、男性がいない家に僕がいて良いんでしょうか。その……悪い事をするかも、とは思わないのかな、と」
「あー、なるほど。え、悪い事する気なの?」
「いやいや!そんなわけ無いですよ!?」
「あはは、だよね~。する気ならそんな事言わないもん」
揶揄われたと分かり、彼は少し恥ずかしそうに苦笑い。意地悪ノーラを母親が注意して、彼女はごめんなさーいと笑いながら頭を掻いた。
「魔力が少ない
「ノーラちゃんはとーっても強いのよ?魔物だってパンチ一発で倒しちゃう!」
「いや、流石にそこまで強くはないよ……?」
大げさすぎる母親の自慢にノーラは流石に謙虚になった。
「ま、魔力?魔物……?」
「え、もしかして」
「僕のいた世界には、どっちも無いです」
「わっ、そうなんだ。世界が違うと普通に有る物も無いだなぁ、不思議」
どちらも相手の常識が不思議で仕方ない。世界の違いは常識の違いでもあるようだ。
「まあそういう事で、何かしようとしても無駄なのさっ」
「なるほど、なら安心ですね」
「うんうん、安心したまえ!……ん?なんか変じゃない?」
胸を張るノーラ。しかしよく考えてみれば彼女がこの状況で守るべきは母親と自分であり、安心するべきは母親。万が一があれば倒すべき対象は目の前の男なのだ。両者とも言ってから気付いて、噴き出した。
「うふふ、何だか二人は気が合いそうね」
そんな様子を見て母親はクスクスと笑う。
「と、とにかく、今日は家に泊まって大丈夫だから」
「ありがとうございます」
深く深く男は頭を下げる。
突然異世界に訪れて最初の食事は、とてもとても、暖かかった。
「元の世界に帰る方法は有るんでしょうか」
食後、出されたお茶を啜りながら男は呟いた。
「私は魔法の方は詳しくないなぁ」
「ノーラちゃんと同じく、お母さんも分からないわねぇ」
母娘揃ってお茶を飲み、うーんと悩む。残念ながら友人知人に魔法に詳しい者もいない。そもそもこの町は王国の中でも比較的田舎に位置する町だ。大学もあるにはあるが農業に関する研究が中心の学校、異世界だの転移だのの魔法に明るい者がいるとは思えない。
「とりあえず難しい事は明日に回して、今日はぐっすり寝る!一晩休めば気持ちも色々整理出来るだろうし、私達も何か解決策が浮かぶかもしれないし!」
「……そうですね」
ノーラの言葉を肯定して、彼はカップの中に僅かに残った茶を
彼女の兄の着替えを借りて、シャワーを済ませた男はベッドに腰掛ける。
この世界の建築技術は二十世紀初頭といった所だが、コンロや水回りなどは日本と遜色ない水準である。魔石、という火や水を生み出してくれる石があるからだ、とノーラは得意げに語っていた。その言葉を裏付けるようにすっかり暗くなった街を街灯が、電気でもガスでもなく魔石の光が照らしている。電気とはまた違う、明るいながらも何処か蝋燭の火のような安らぎがある、男はそんな気がした。
その光を見ていると少しだけ、ほんの少しだけだが安心する。午後九時過ぎ。日本ならば自宅でテレビでも見ている時間だが、この世界ではもう町は眠りに付こうとしている。いつでも忙しない現代社会とは異なり、どこかゆったりとした時間の流れ方を感じた。
「……」
シャッとカーテンを閉める。振り返った男が見るのは自宅の寝室ではなく知らない部屋だ。壁は煉瓦造り、床と天井は板張り。この世界は日本と同じく室内では靴を脱ぐ風習らしく、それゆえに彼はスリッパを履いていた。僅かでも共通点がある、それだけで少しだけ安心できる。
男は意味も無く室内を歩く。家具はベッドだけ、着ていた衣服はハンガーで壁に掛けられており、彼のリュックサックはその脇に置かれている。服とリュックサック、そしてその中身だけが元の世界との繋がりだ。
リュックサックを開いてみる。
トレッキング中に異世界転移したため、中にあるのは水筒や携帯食料、キャンプ用の
他にも色々と入れていたが、持ち物が何か別の物に変化したりはしていない。
男は安心する。
「あっ」
トサッとリュックサックから中身が一つ転げ落ちた。折り畳み式の財布だ。当然中に入っているのは日本の紙幣と貨幣、そして運転免許証にこの世界では絶対に使えないクレジットカードである。
「え?」
拾い上げてみて気付いた、紙幣が違う。日本円の千円でも五千円でも一万円でもない、近頃見かけない二千円とも異なる。数字は一万だが、描かれているのは見た事も無い人物の顔だった。硬貨も変わっている、十円や百円と似た色味ではあるが意匠がまるで違う。
「これは、どういう……?」
意味が分からない、勝手に両替でもされたのだろうか、いやそんなはずがない。この世界に無い国の通貨を、誰がどうやって為替レートを弾き出して変換できるというのか。そもそも転移してから今までリュックサックは誰にも触らせていない、中の財布の更に中の紙幣貨幣だけを入れ替えるなど不可能だ。
「神様でも、いるっていうのか」
ドスンとベッドに腰を下ろす。男は右手を額に付け、俯いて唸った。
いわゆる異世界モノと呼ばれる創作物では、転移転生の際に神と出会って色々話をされたりする場面が多く描かれている。彼はその邂逅を経験していないが、神が何かをしたとでも考えないと説明が付かない。少なくとも彼のシャワー中にノーラたちがコッソリ部屋に入ってお金を入れ替えた、という荒唐無稽な悪戯を考えるよりは生産的だろう。
「……はぁ、止めよう」
深く考えれば考える程、意味不明である事と何故自分がこんな状況になっているのかという疑問が浮かんでくる。どうにもできない、現状では解決もその糸口すらも掴めないのだから一旦思考の端に追いやった方が正解だ。
「寝るか」
教わった通りに壁のスイッチを押して照明を消し、身体をベッドに横たえる。カーテンの隙間から僅かに漏れる魔石灯の光が映る天井を眺めながら、彼は異世界で眠りに落ちていった。
自宅のベッドで目覚める事を心の中で願いながら。
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