異世界旅は汽車に揺られて

和扇

第一章

第0区間

第1話

「この地図に僕の故郷は……日本はありません」


 年の頃二十五、黒の長髪を首の後ろで縛っている男は静かに首を横に振った。

 視線の先には机に広げられた、彼にとっては全く見慣れない世界地図。ユーラシア大陸のように横に長い大陸が描かれており、やはり見た事も無い国名が沢山書かれている。


 文字は日本語とはまるで違う、しかし何故か男はそれを読む事が出来ていた。その不可思議な現象も含めて、彼は混乱と困惑の中にある。考えが纏まらない、しかし思考はある一つの可能性を導き出そうとしていた。


「異世界……転移」


 ライトノベル、漫画、アニメ。彼の故郷のサブカルチャーにおいて頻出していた要素。日本から何処か別の世界に、多くは中世ヨーロッパ的な世界に。或いは突然、或いは事故で、また或いは召喚され、神から能力を授けられたりする。そんな創作の中だけの架空の現象、それが異世界転移だ。


 自身にそれが降りかかるなるなど信じられない事である。しかしそれを裏付ける証拠がまさに今、彼の目の前にある……いや、居るのだ。


「うぅ~ん、もっと詳しい地図じゃないと書いて無い位に小さな国なのかなぁ」


 はしばみ色、柔らかい黄土色の長い髪。男のいた世界でも染色すれば可能な髪色だ。それを見たからと言って、ここが異世界であるなどとは思わない。しかし彼に対して困り顔を見せている少し年下らしい女性の頭のそれが、今いる場所が明確に異世界である事を示していた。


 耳。

 頭頂部の左右にある、犬の耳。


 いや本人は狼だと言っていた。

 狼の獣人だ、と。


「おかーさーん、ニホンって国知ってる~?」

「ノーラちゃんが知らないなら私が知ってるわけ無いでしょ~」


 活発な女性の声に対して、ふんわり優しいちょっと間延びした返事が返ってくる。板張りの床をトタトタとスリッパの音を鳴らして、柔和な笑顔の女性がキッチンから現れた。


「お茶をどうぞ。なんだか大変そうだけれど、あまり考え込み過ぎないようにね」

「ありがとうございます……」


 ティーカップには紅茶らしき、すこし赤みのある液体が注がれている。湯気が立っているそれを、彼は一口啜った。甘い。自然な甘みとでも言えばいいのだろうか、スッと身体に滲みるような甘さだ。暖かさと優しさを得て、男は少しだけ冷静になる。


「改めて聞きます。その、ノーラさんの頭にある耳は本物、なんですよね?」

「うん、もちろん。取れたりしないよ」


 男に確認されてノーラは自分の耳を引っ張って見せる。コスプレのカチューシャの様にスポリと外れたりはしない、頭と一体化している。当然だ、それは耳なのだから。


「今ある情報だけで考えれば……僕は異世界に来た、のだと思います」

「いせかい……?」


 聞き慣れない単語にノーラも彼女の母親も首を傾げる。当然だ、異世界などという創作物にしか出てこない用語を、異なる世界を認識していない人間に伝えて理解などしてもらえるはずがない。


「自分がいる世界とは別の世界、という事です」

「うぅん?何だかよく分からないけど……お母さん、分かる?」

「私も分からないわねぇ。絵本の中から出てきた、って事かしら?」

「いやそれは違うでしょ。私でもそうじゃないって事は分かるよ」


 的外れな例えに対してノーラが否定を突きつける。母はあらあらと言って少し恥ずかしそうに頬に手を当てた。だが。


「それと似ている、かもしれません」

「えっ、嘘」


 まさかの言葉にノーラが驚く。


「異世界は物語の中にしかないもの、そう思ってました。だから僕の感覚では漫画……絵物語に入り込んだような感じなんです、今」

「ふーむ。分かるよーな、分からないよーな」


 腕を組んで首どころか身体ごと傾けて、狼獣人の彼女は唸る。何となく想像は出来るものの現実として受け止めるのは中々に難しい、当たり前だ。逆も然り、男の方も自分の身がフワフワとしているような、現実感の無い状況が信じられないといった状態なのである。


「そうすると故郷どころか、帰る家も無いし知っている人もいない、という事よね?」

「そう……なりますね……」


 ノーラの母の言葉に途端に寂しさを覚える。何処とも知らない場所でポツンと一人だけになった状態、それを改めて理解した。平和な日本で迷子になっても怖いのだ、それが言葉や文字は分かるとしても何もかもが違う世界となれば身体が震える思いである。


「じゃあ、とりあえず今日は家に泊まっていくといいわ」

「え、ですが」

「何処にも行く当てはないんでしょう?」

「……はい」


 ふふ、と笑顔を向けられて男は頷くしか出来ない。遠慮しようとしたものの、右も左も分からない状態で放り出されたら途方に暮れてしまう。厚意に甘えるのが最善であり、それを彼女も理解したうえで提案してくれたのだ。


「じゃあ、お兄ちゃんの部屋ちょっと整えてくるね~」

「ええ、お願い」


 どたどたと足音を鳴らして、ノーラは階段を駆け上がっていった。母親いわく、独り立ちした兄の部屋が空いており、偶然ながらちょうど昨日軽く片づけをしてベッドマットレスを綺麗にした所だったらしい。もしかしたら貴方が来るのを妖精さんが知らせてくれたのかもね、と彼女は笑った。


 それゆえか、ほんの十五分程度でノーラは戻って来た。大きな荷物は端に寄せて、ベッドメイキングをしたそうだ。男は感謝しきりで二人に頭を下げる。ノーラに案内されて、彼は部屋へと入った。


「ふぅ……」


 一人になった男はベッドに腰を下ろして、安堵でも落胆でもない微妙な感情が混じった溜め息を吐く。部屋の端には木箱が積まれている、ノーラの兄の私物か、この家で普段使わない物が詰められているのだろう。場所を取ってはいるが部屋を使うのに邪魔になる程ではない。


 一息ついた後、彼はガラスが嵌められた窓から外を見た。


 舗装された石畳をガラガラと馬車が進み、道行く人々の恰好は整っている。建物は全てが煉瓦造りで三階建て四階建ても多い。日が傾きかけている、あと一時間もすれば夜に入っていくだろう。だが道の脇には鉄製の街灯が立ち並んでおり、おそらくは真っ暗にはならない。電線が無い事から瓦斯灯ガスとうであろうか。


 今いる建物、先程のお茶が注がれたカップ、室内の装飾や造り。歴史の教科書で見た十九世紀終盤から二十世紀初めの産業革命後の英国の様子に近いと感じる、あくまで彼の感覚でしかないが。


 ベッドに仰向けに寝転ぶ。

 彼は目を瞑り、ここに至るまでの事を思い出す。


 男は日本に生きるただの凡人だった。普通に大学を卒業し、普通に就職し、特に目標も夢も無く日々を過ごしていた。仕事はそこまで苛烈でもなく、かといって手を抜けるような環境でもない。週末は家でのんびりするか、唯一目立った趣味であるトレッキングに出かけるくらい。


 土曜日だった今日も近くの低山に山歩きに出掛けていた。今の彼が青のトレッキング用のジャケットを着ていて、荷物がリュックサックに纏められているのはそのためだ。


 山頂までは一本道、よく整備された道で歩きやすい。特に観光地などでは無い事から人は少なく、のんびりと自分のペースで進む事が出来た。しかし山頂まで残り三分の一、といった所で急に霧が辺りを包んだ。何度も歩いた事のある低い山、早朝でもないのに周りが見えない程の霧が出るなど初めてだった。


 歩いていればそのうち晴れるだろう、山頂から景色が見えなかったら嫌だな、そんな事を考えながら彼は歩み続けた。


 霧が晴れる。

 するとそこは、舗装されていない平坦な街道の脇だった。


 驚いて左右を背後を見ても、見慣れたものは何一つない。つい先程まで身体に感じていた山の傾斜は存在せず、突然平地に出たのだ。トレッキングしていたのは町の隣にポツンと一つだけある山、山脈のように他の山と繋がってなどいない。上りながら平地に遭遇する事など有りえないのだ。


 意味の分からない状況に混乱していると、町の外を散策していたノーラに声を掛けられた。彼女の頭にある耳に驚きつつ、支離滅裂になりながらも自身の置かれた状況について話をする。と、彼女は首を傾げながらも困っている事だけは理解してくれたようで町まで同行してくれた。


 警察へ連れて行くという事もノーラは考えたようだ。しかし混乱して大焦りな男をそのまま送り届けるのは不憫と思ったのか、落ち着くまで家で休むように提案してくれたのである。


「ここは何処なんだろう……」


 目を開ける、自分の家ではない知らない天井だ。


「僕は、どうなってしまったんだろう……」


 呟きは寂しく、宙に消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る