悪役令嬢のクリスマス・キャロル ~聖夜の亡霊と精霊の加護~

胡蝶乃夢

悪役令嬢のクリスマス・キャロル ~聖夜の亡霊と精霊の加護~

「無駄金なんて一銭も払う気はないよ。買い物しないなら商売の邪魔だ。さっさと帰っとくれ」


 寄付金を募る村の子供たちと教師をつれなく突き放して言うと、子供たちはうるうると目を潤ませて私を見上げる。

 そんな顔をしても無駄だと、そっぽを向いて手で追い払う仕草をすれば、子供たちは頬を膨らませてぷるぷると震え、叫びながら店の外へと飛び出していく。


「ドケチの偏屈ババァー!」

「ごうつくばりの金の亡者ー!」

「銭ゲバ婆なんか嫌いだ、村の嫌われ者ー!」


 おっしゃる通り、私は嫌われ者の銭ゲバ婆、血も涙もない冷酷無比な守銭奴しゅせんどだ。

 どれだけ人に嫌われようがかまいはしない。人は裏切るが、金は裏切らないのだから。

 必死に掻き集めてきた金を、無心されるまま施してやるなんて冗談じゃない。


 しかしながら、けたたましい金切り声には腹が立つものだ。

 子供たちを連れてきた教師にじとりと視線を向け、腹いせに嫌味を言ってやる。


「まぁ、なんて口の悪い子供たちだろうね。教育がなってないったらありゃしない」

「こ、これはとんだ失礼を……子供たちにはよく言って聞かせますので、どうかご容赦を――」


 店に残った教師は引きつった笑顔で冷や汗をかき、なんとか私を宥めようと言い訳を並べ立てている。

 二十代後半くらいのまだ年若い教師は、最近この村へとやってきた男だった。

 のんびりした村人と比較すれば頭の回転も早いらしく、物知りで口達者なことから子供たちに懐かれ、成り行きで教師を任されたのだと言う。


「金にもなりゃしないあんたの身の上話に興味はないよ。金を落とさないなら、さっさと出ていっておくれ。冷やかしはお断りだ」


 けんもほろろに言ってやれば、教師はずいっとこちらに近づいてきて、自分の顔が良いのを把握している表情で微笑んで見せ、私の手を握って懇願してくる。


「キャロルさん、お願いです。少しだけでも、寄付に協力してください。明日は年に一度の聖夜なのですから、子供たちを喜ばせてあげましょう。僕はあなたと皆の仲を取り持ちたいんです。仲良く聖夜を――」

「くどいよ! 聖夜なんて私には関係ないねっ!!」


 あまりのしつこさに苛立って声を荒げると、店の裏から下働きが出てきて、私の後ろに立ち、教師を見下ろす。

 下働きは熊のように大きな男で強面なこともあり、見下ろされただけでも相当な威圧感があるだろう。案の定、教師はぎょっとした顔をしている。

 口数の少ない下働きが、低く重い声で教師に言う。


「お引き取りください」

「あの――」


 教師はまだ何か言おうとしたが、下働きに睨まれて言葉を詰まらせる。


「っ……は、はい」


 ようやく無駄骨だと理解したようで、教師はすごすごと引き下がり、店から出ていった。

 うるさいのがやっと帰ったと鼻を鳴らしていれば、今度は下働きが思い詰めた表情で話しかけてくる。


「あの、キャロルさん。申し訳ないのですが、どうか給料の前借りをさせていただけないでしょうか? 息子の容態がかんばしくなくて……」


 下働きは病気の息子の薬代を稼ぐため、この店で働いている。

 こんな辺鄙へんぴな村で、まともな稼ぎを得られるのはここくらいしかなく、私はそんな男を薄給でこき使っているのだ。


「そうかい……」


 下働きの仕事ぶりは真面目で堅実。今までに前借りをしたいと言ったことはなかった。

 そんな下働きが特別にということは、息子の容態が相当悪化しているのだろう。

 もしかしたら、その子が聖夜を迎えられるのも、最後になるかもしれない。


「仕方ないね。明日休みたければ、休んでもいいよ」

「いいんですか? できれば、休ませてもらえるとありがたいです」

「わかった。もちろん休んだ分はきっちり給料から引いておくし、薬の代金も払ってもらうからね」


 いつも下働きが買っていく薬と、代金を差し引いた前借り分の給料を袋に詰め、差し出してやる。


「ほら、持っていきな。もう店じまいするよ」

「ありがとうございます。感謝します」


 袋を受け取った下働きは、何度も礼を言いながら帰っていった。

 礼を言われることなど何一つないというのに、律儀な男だ。


 病気が悪化しているということは、いくら薬を与えたところで、気休め程度にしかなっていない。

 根本的な問題を解決しなければ、病魔はきっと治らないだろう。

 だけど、その問題を解決する手立ても今の現状ではないのだから、どうしようもない。


 可哀想な親子の境遇を利用し、私利私欲のために荒稼ぎしているのだから、私はろくな死に方をしないだろうね――。

 そんなことを考えながら店じまいをし、二階の住居へと移動した。


 味気ない質素な食事を胃に流しこみ、寝る身支度を整える。

 それから、薪をくべた暖炉の前でその日の金勘定をするのが私の日課だ。


「まぁ、ぼちぼちといったところか…………ん?」


 いつものように金勘定していると、どこからか何かが聞こえてくる。

 耳を澄ましてみれば、かすかに女の声が聞こえる。聖歌を口遊くちずさんでいるようだ。

 それが何故か、誰もいないはずの奥の部屋から聞こえてくるのだから、背筋が凍る。


 泥棒かもしれないと焦り、急いで金を隠して暖炉にあった火掻き棒を手に取る。

 ゆっくりと扉に近づいていき、震える手でドアノブを握り、思い切って開け放った。


「誰だいっ!」


 その途端、音もなく白いベールを被った女が迫ってきて、私の身体をすり抜けていく。


「ひぃっ!?」


 ヒヤリと冷たいものが身体を素通りしていく感覚に、思わず悲鳴を上げた。

 体感的に理解した。それは人ではない、人ならざる者だ。


『……キャロル……』


 名を呼ばれ、腰を抜かしそうになりながら振り返ると、白いベールの女がこちらを向いて佇んでいた。

 ベールの奥に薄っすらと見える顔には見覚えがある。若い頃の自分の容姿によく似ているのだ。


『これから、あなたの元に三人の精霊が訪れます。それを伝えにきました』


 二十代半ばくらいだろうか、私に似た女は淡々と告げる。


『これが最後の転機です。後悔のない生き方を選んでください』


 死神のたぐいなのだろうか。死期が近いことをわざわざ伝えに来たとでもいうのか。


『キャロル。わたくしはあなたの幸福を何よりも願っています』


 ふと、幼い頃に同じ言葉をささやいてくれた母の面影を思い出す。


「……お母、様?」


 私が呟けば、その人ならざる者は私を見つめ、切なげに微笑んだ。

 そうだった。母は私を見つめ、儚げに微笑む人だったのだ。

 母の面影を思いだそうとすればするほど、その姿は薄れて消えていく。


『どうか、精霊のご加護があらんことを……』

「お母様なのですか? ……待って、待ってください!」


 精霊に祈るその姿を見て、若くして亡くなった母だと確信し、とっさに伸ばした手は虚しく宙を掻くだけで、母の姿は跡形もなく消えて無くなってしまった。


 暖炉で薪がパチパチと燃える小さな音だけが聞こえる。

 何事もなかったような、いつも通りの部屋だ。


 茫然と立ち尽くしていると、扉をノックする音が響く。


 コンコンコンコン。


「お母様っ……!?」


 慌てて扉を開くと、そこにあったのは母の姿ではなく、別の訪問者の姿だった。


「やぁ、君がキャロルだね?」


 扉の向こうにいたのは、不思議な子供だった。

 男とも女ともつかない幼い姿をした、人ならざる者だ。

 背中には透き通った美しい羽が生え、身体が宙に浮いている。


「はい……あなたが、お母様の言っていた精霊?」

「うん、そう。僕は過去を司る一人目の精霊。君が後悔のない生き方を選択できるよう、手伝ってあげる」


 そう言った精霊は柔和に微笑んで見せた。

 幼い顔には似つかわしくない老成した表情に、人知の及ばぬ存在感に、畏怖いふの念すら抱いてしまう。


「さぁ、僕の手を取って、過去の時空を案内してあげる」


 差しだされた小さな手を見つめ、ごくりと唾を飲みこむ。

 人ならざる者にどこかへ連れていかれようとしているのだ。わずかな疑念と不安、恐怖心が湧いてくる。

 しかし、母が伝えに来てくれたのだ。きっと悪いものではないはず。そう信じて、恐る恐る手を伸ばした。


「!?」


 精霊が手を握ると、ふわりと体が浮きあがり、空を飛ぶような浮遊感に包まれる。

 まわりの景色が、時を遡るように目まぐるしく移り変わり、やがて見覚えのある場所へと収束していく。

 降り立った先は、遠い昔の懐かしい風景だった。


「ここは……もしかして、公爵家の庭?」


 忘れかけていた美しい光景。母との思い出の庭園だ。

 花々が咲き誇る庭園の東屋あずまやに、聖歌を口遊む母の後姿を見つけ、思わず駆け寄る。


「お母様!」


 呼びかけても母からの返事はなく、穏やかに歌っているだけだった。

 東屋の柱に手をかけようとすれば、手はすり抜け、何かに触れている感触はない。

 自分の手を見つめ、私が困惑していると、精霊が語る。


「ここは過去の時空だから、干渉することはできないんだ。僕らは見ることしかできないよ」

「そう、ですか……」


 回りこんで母をよく見れば、眠っている幼い私を抱きかかえ、子守唄のように聖歌を口遊んでいた。

 聖夜に歌われることの多い歌だったが、私は母の歌う聖歌が大好きで、よくせがんで歌ってもらっていたのだ。

 歌い終えると、母は決まって私を抱き寄せ、優しく囁いてくれる。


『わたくしの可愛いキャロル。あなたの幸福を何よりも願っています』


 儚くも優しく微笑む母の仕草からは、深い愛情が伝わってくる。

 この頃の私は確かに愛されていた。母の愛に包まれて幸せだったのだ。


 再び母の姿が見られて嬉しく思う。けれど、目の前にしてなんの思いも伝えられないもどかしさに、切なさが込み上げてくる。


 幼い頃の記憶がよみがえると同時に、視界が揺らいで辺りの景色が移り変わっていく。

 そこは母の質素な寝室。危篤きとく状態でとこせる母に、幼い私が縋りついている場面だった。


『……わたくしの可愛いキャロル……どうか精霊のご加護があらんことを……』


 ひどくか細いかすれた声で、母が最後に言い残したのは、そんな言葉だった。


『……おかあさま? ……おかあさまぁ……っ……うわあぁぁぁぁん』


 絶望する幼い私の感情が流れ込んできて、私の目からも涙が伝い落ちていく。


 私が六歳になった頃、身体の弱かった母は持病が悪化し、そのまま亡くなってしまった。

 母の最期を看取ったのは私と数人の使用人だけで、その場に父の姿はなかった。


 視界が揺らぎ、形式的に執り行われた簡素な葬儀の場面へと移り変わる。

 母の墓石の前。幼い私は寄る辺なく、父に縋る思いで呼びかけた。


『おとうさま……』


 私を見下ろすひどく冷たい眼差しを、今でも覚えている。


『はぁ……銀の髪と言えば聞こえはいいが、まるで老人の白髪しらが頭だ。母親に瓜二つだなんて気味が悪い。わたしにはまったく似ずに不出来なのだから、本当に公爵家の血を引いているのかも怪しいものだ……』


 政略的に異国から嫁いできた母は、この国の人とは色彩が異なっていた。

 そして、私は母の色彩のみを引き継いで産まれてきてしまったのだ。


『ごめんなさい……おとうさま』


 視界が揺らぎ、幼い私が寝る間も惜しんで勉学に励んでいる場面に移り変わる。

 幼い頃は、自分が不出来で至らないから、父に認めてもらえないのだと思っていた。

 だから、公爵家の者として恥じない立派な令嬢になれば、きっと父からも認められて、愛してもらえると思い込んでいたのだ。


 父に認められたい、愛してもらいたい、母のように抱きしめて欲しい。

 その一心で、立派な令嬢になれるように取り組んでいた。

 けれど、どんなに良い成績を収めても、認めてもらえることはなかった。


『はぁ……公爵家の者ならそんなことはできて当然だろう。そんな些末なことでいちいちわたしをわずらわせるな……それに引き換え、我が息子はわたしに似てよくできた子だ。まだ幼いながら、わたしを煩わせることなどないのだからな。将来有望な自慢の息子だ』


 腹違いの弟は他愛無いことでも手放しで褒められ、その扱いの違いを見せつけられて、私はようやく出来不出来の問題ではなかったのだと理解したのだ。


 視界が揺らぎ、親族が集まる聖夜の晩餐ばんさんへと場面が移り変わる。

 創造主の誕生と世界の始まりを祝う年に一度の聖夜は、愛する者たちで集まり祝うことが慣例の行事とされていた。

 公爵一家が楽しげに笑い合う声が食堂に響く。


『聖夜、おめでとう。今年の贈り物は、お前達が長年欲しがっていた物を用意したぞ』

『わぁ! 本当に用意してくれたんですね。こんなに嬉しいことはありません。私はお父様の息子に生まれて幸せです!』

『まあ、なんてことでしょう! もう手に入らないと諦めていた貴重な品ですのに、こんなに素晴らしい贈り物は他にありませんわ!』

『そうかそうか、そんなに嬉しいか。苦労して用意した甲斐があったな。ははは』


 離れた場所ではあったが、同じ晩餐の席に着いていた私も、祝いの言葉を口にした。


『聖夜、おめでとうございま、す……』


 私が声を発すれば、場の空気が一瞬にして凍りつき、冷ややかな視線を向けられる。


『お前に用意した物はない。必要があれば家令に言え』


 贈り物を期待したわけでも、何かを強請ねだろうとしたわけでもなかった。

 ただ一緒に聖夜を祝いたかっただけ。それすらも叶わない。


『………………』


 一人で孤独感に苛まれ、苦痛な時間を過ごすだけの夜。

 その頃から、私は聖夜が大嫌いになった。


 視界が揺らぎ、王宮の庭園、王子と二人で茶会をしている場面へと移り変わる。

 公爵令嬢として厳格に育てられた私は、政略的に王子の婚約者として選ばれた。


『僕達の婚約は政治的なものだけど、それでも、僕はお互いに思い合える夫婦になりたいと思っているから……ちょっとした贈り物を作ってみたんだ』


 気恥ずかしげに差しだされたのは、銀細工の髪飾りだった。


『これを、わたくしに?』

『受け取ってもらえたら嬉しい』


 この国には想い人に手作りの髪飾りを贈る風習があり、夫婦円満の象徴でもあった。

 少し歪ではあったが、思いが込められた温かな贈り物が、私は本当に嬉しかったのだ。


『ありがとうございます……一生、大切にします』

『そんな、一生だなんて大げさだよ。あはは……来年はもっと上達するから――』


 太陽のように明るく微笑む彼を、私は心から慕っていた。

 はじまりは政略的なものでも、彼とならきっと温かい未来を築いていける。そう信じていたのだ。


 王族の婚約者になったことで、父からも少しは期待され、彼の隣に立つ王子妃として恥じぬよう、私はさらに勤勉に、意欲的に努めた。

 しかし、令嬢たちからはねたそねひがみの対象とされ、顰蹙ひんしゅくをかってしまう。


『公爵令嬢だからって家格で選ばれただけじゃない。あんな白髪頭、王子妃には相応しくないわ』


 どんなに辛いことがあっても、彼が微笑みかけてくれるだけで、私の心は満たされた――けれど、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。


 精霊に祝福された“聖女”が現れたのだ。


 創造主の化身とも分身ともされる精霊は、人知を超えた力を司る、人ならざる存在。

 そんな精霊に寵愛され、加護を受ける乙女を、人々は聖女と呼んでいた。

 聖女がいるだけで、繁栄がもたらされることから、平民でも王族との婚姻が許されていた。


 視界が揺らぎ、国を挙げて聖女誕生を祝うパーティー会場へと場面が移り変わる。


 彼女が現れた瞬間、会場は息を呑むような静寂に包まれた。

 純白の衣装がふわりと舞い、その姿はまるで天使のようだった。

 透き通るような白い肌に亜麻色の髪をした乙女は、可憐に微笑んだ。


『王子様、またお会いできましたね』

『君はあの時の――』


 精霊に導かれ、彼女は彼と運命的な出会いを果たした。

 二人は瞬く間に惹かれ合い、恋に落ちていく。

 本来ならば二人を祝福し、私は潔く身を引くべきだったのだ。


 だけど、私にはできなかった。


 視界が揺らぎ、聖女である彼女と私が対峙している場面へと移り変わる。


『彼の隣に立つにはどれほどの努力が必要か、あなたにはわからないでしょう……でも、わたくしは努力し続けてきたのです。それが、彼との未来のためだから……』


 愛する彼を失いたくない一心で、悲鳴を上げる思いで訴えた。


『精霊に祝福されるあなたは皆からも愛され、これ以上ないほど多くのものを持っているではありませんか。望めばなんだって手に入るのでしょう……ですが、わたくしには彼しかいないのです! お願いですから、わたくしから彼を奪わないでくださいっ!!』


 私に向けられていた彼の微笑みが、彼女に向けられていく。

 それが、怖くて怖くて、耐えられなかった。


『平民の無知なあなたには、王子妃が務まるはずはありません!』


 彼女が憎いわけではない。平民出身という理不尽な言葉を口にする自分が嫌で、情けなくて仕方がなかった。

 それでも、他にどうすることもできず、ことあるごとに平民の身分違いだと主張し、二人を引き離そうとした。

 しかし、そんなことをしても彼を取り戻せるはずはなく、私は無様を晒し、窮地へと追いやられていくことになった。


 視界が揺らぎ、王侯貴族が集まる社交の場で、寄り添う二人に私が断罪されている場面へと移り変わる。


『そんなことをする人だとは思わなかった! 僕は今この場で、君との婚約破棄を宣言する!!』

『……っ……』


 突き刺す彼の冷たい眼差しに射抜かれ、胸が引き裂かれる。

 彼の目を見れば、私への気持ちはもうないのだと、まざまざと痛感した。


『……、……』


 彼に伝えたい想いはたくさんあった。

 だけど、息が詰まり、言葉が何も出てこない。

 いくら弁明したところで、彼は信じてくれないだろう。

 私への想いが少しでもあったなら、事実は違うと気づいてくれたはずだから。


『聖女にしてきた非道な仕打ち、報告されているだけでも数え切れない。決して許されることではない!』


 それが、事実だろうと事実無根だろうと、聖女を妬んだ令嬢になすりつけられた罪だったとしても、もはやどうでもよかった。


 彼が私に微笑みかけてくれることは、もうないのだから。


『聖女を貶めようとする者など、この国には要らない! 出ていってくれ!!』


 胸を突き刺す彼の冷徹な目と言葉に、ただ熱い涙が頬を伝い落ちていく。


 視界が揺らぎ、公爵家邸宅前で私は突き飛ばされ、追い払われている場面へと移り変わる。


『異国の聖女の血統だからと置いてやっていたが……貴様のような恥知らずは公爵家の者ではない! 即刻、立ち去れっ!!』


 当然のことながら、擁護ようごしてもらえるはずもなく、激高する父にも見限られ、公爵家から追い出された。


 いたるところで聖女を貶めようとした白髪頭の悪女だと罵声を浴び、道行く人に石を投げつけられ、国外追放を余儀なくされた私は、当て所もなく彷徨さまようことになったのだ。


 着の身着のまま追い出され、持っていたのは身に着けていた衣装と装飾品、それに王子から贈られた銀の髪飾りだけだった。

 異国へと逃れる途中、公爵令嬢だった証を一つずつ手放していった。

 最後に残った髪飾りすらも、日の糧を得るためには売り払うしかなくなった。


『一生、大切にしたかった……』


 王子との約束も、父への想いも、すべては失われ、もう二度と手に戻ることはない。

 これまでの努力はすべて無に帰し、手元に残ったのはわずかな金だけ――だけど、その金が私を生きながらえさせた。


 悲痛な経験の果てに、私は悟ったのだ。

 どんなに思いを寄せ、懸命に努力しても、人の心は掴めない――だけど、金ならば掴める。

 金を得る努力ならば、決して裏切られることはない。必ず目に見える形で、私の手元に残るのだから。


 遠く離れた異国の地、辺境のこの村へと流れ着いた私は、わずかな金を元手に小さな店をはじめた。

 村人へ読み書き計算を教えて小銭を稼げば、多少は重宝されたのだ。


 それからは、金を集めることに心血を注ぎ、浪費は罪悪だと節制を貫いてきた。

 金の亡者と揶揄される、村一番の嫌われ者となり、誰からも慕われない醜く年を取った老婆になっても――。


 先ほどまで頬を伝っていた涙も、いつしか枯れ果てていた。


「……なんて惨めなんだろうね」


 悲愴な記憶が蘇り、昔の自分の感情が流れ込んできて、ひどい喪失感と失望感を再び味わった。


「思い出したくもなかった。こんな気持ちは……」

「キャロル……」


 心配そうに私を窺う精霊を睨みつけ、苛立たしさに声を荒げて問う。


「何故、こんなものを見せるのです? 忘れていた過去を掘り起こして、どうなるというのですか?」


 感情的に喚く私を精霊はただ静かに見つめて答える。


「そうだね。過ぎ去った過去は変えられない……だけど、未来を変えることはできる」

「未来を変える? こんな老いぼれに未来があるとでも? 笑えない冗談はよしとくれ」


 吐き捨てると、精霊はゆっくりと近づいてきて、柔和に微笑む。


「これは試練だ。君が最後にどんな未来を選択するのか、僕は楽しみにしているよ――」


 私の額に精霊が手をかざすと、身体が落下していくような感覚に襲われる。


 ――ゴーン、ゴーン。


 鐘の鳴る音にハッとし、目を見開いた。

 飛び起きると、そこは寝室のベッドの上だった。

 妙な冷や汗をかき、心臓がどくどくと脈打っている。


「はぁ、はぁ……なんだい、夢か……」


 どうやら私はいつの間にか眠ってしまい、酷い悪夢を見ていたようだ。


 ふと、隣の部屋の扉から、明かりが漏れていることに気づく。

 明かりを消し忘れて寝てしまったのか。蠟燭ろうそくを節約せねばと、慌てて扉を開く。


「おお、やっと来たね。待ちくたびれていたよ、キャロル」

「なっ、あんた誰だい?! 人の家で何をしてるんだい?!!」


 そこにいたのは派手な格好をした見知らぬ女だった。

 女盛おんなざかりと言っていい、婀娜あだっぽい美女だ。

 暖炉の前に置かれた椅子に腰掛け、長い脚を組み替えながら、楽しげに笑っている。


「ふふふ。あたしは現在を司る二人目の精霊さ」

「あんたが……精霊?」


 二人目の精霊ということは、さっきの出来事は夢ではなかったのか。

 それにしても、一人目とは随分と様相の違う精霊だ。

 羽やら何やらが生えている様子はない。美人ではあるが普通の人間に見えた。

 精霊は考え込んでいた私に、にこやかに笑いかけ、両手を広げて見せる。


「もうじきめでたい聖夜だからね、酒にご馳走を用意してみたよ。せっかくだ、大いに楽しもうじゃないか」


 目で示された辺りを見渡せば、酒やご馳走だけではなく、部屋中に聖夜を祝う飾りつけまでされている。

 あまりの変わりように仰天し、大声を出す。


「勝手なことしないどくれ! 聖夜なんて大嫌いだよ! そんなくだらない行事に浮かれて金と時間を費やすなんて、無駄以外のなにものでもないね!!」


 精霊の心馳こころばせだとしても、腹に据えかねるものがある。

 部屋を荒らされた心地で、私は飾りつけを引っぺがしていく。

 そんな私を眺めながら、精霊はつまらなそうに呟いた。


「一度しかない人生じゃないか。わざわざ退屈に過ごすより、楽しく過ごした方がいいだろう?」

「余計なお世話だよ! それに、退屈だなんて私は思っちゃいない。毎日、金をかき集めるのに忙しくて、暇なんて感じている余裕はないんだからね。私はこの生き方で十分満足しているんだ」

「そうかいそうかい。なら、確かめてみようじゃないか。本当にその生き方で、満足なのかどうか――」


 言い切った私に、うんうんと頷いて見せた精霊は、にんまりと意味深な笑みを浮かべ、指を鳴らした。


「!?」


 途端に場所が移り替わり、自宅の部屋にいたはずが、急に屋外に立っていた。

 薄暗い空の下、驚いて辺りを見回せば、そこは見覚えのある一軒家。

 私がこき使っている下働きの家の前だった。


「ここは……下働きの家じゃないか?」

「そうだよ。今の現状をよく知っておくべきだと思ってね。ほら、見てごらん」


 精霊が指差す方に視線を向けると、窓から家の中へ吸い込まれるように、視界が移動する。

 家の中では、床に臥せる病気の息子に、下働きの男とその妻が優しく話しかけている。


「明日は休みをもらったから、一日中、家族みんなで過ごせるぞ」

「聖夜のご馳走ちそう、何か食べたいものはある? お給金たくさんもらったから、なんでも好きなもの言ってごらん」

「わぁ、嬉しいな。僕は家族みんなで過ごせるだけで、すごく幸せだよ。こほ、こほ……それに、もうあまり食べられないし……お父さんとお母さんで、好きなご馳走食べて……」


 力なく微笑む息子はひどく瘦せ細り、衰弱している様子だった。

 食事もあまり喉を通らず、ベッドから起きあがることも困難なのだろう。

 息子の身体には、風土病ともいえる黒い痣が無数に散らばっていた。


「そうか……そうだな。だがきっと良くなるから、お前が元気になったら、みんなでご馳走を食べよう」

「そうね。元気になるまで、私たちもご馳走はお預けね。ああ、もう起きてるの辛いでしょう。無理しないで寝ましょうね……」

「うん。こほこほ……おやすみなさい……」

「ゆっくり、おやすみ」


 息子の額に口づけ、寝かしつけて、夫婦は隣の部屋へと移動する。

 子供の前では気丈に振舞っていた妻ももう限界で、静かに涙をこぼし、やるせない憤りを夫にぶつける。


「どうして、どうして、うちの子がこんな辛い目に合わなければいけないの……まだ幼い小さい子なのに、なんの罪もない優しい子なのに……」

「体力のない子供や年寄りは瘴気病に罹りやすい……今は薬でどうにか進行を抑えることしかできないんだ……すまない」

「その薬が高過ぎるよ! あの金の亡者の婆さんが融通を利かせてくれたら、あの子はもっと楽になれるのに!!」

「この村で同じ病に苦しんでいる者は多い。うちだけが融通してもらうわけにはいかないんだ……できることなら、俺だって変わってやりたい」

「だけど、だけど……うっ、うう――」


 心痛な面持ちで泣き崩れる妻を抱きとめる夫もまた、悪化していく子供の容態に静かに涙をこぼしていた。


「………………」


 辺境の地は瘴気が濃い。唯一、人の住めるこの村も、年々瘴気が増しているのだ。

 下働きの子供だけではなく、この村にはそんな者達が何人もいた。


「ここだけじゃない、他も見てみようか」


 精霊が指を鳴らせば、また別の家の前へと場所が移り変わる。


「この村から出ていこう。異国に行けば、瘴気病を治せる方法が見つかるかもしれない」

「こんなに病が進行した状態じゃ、もう動かすことはできないよ。長旅なんてしたら、それこそ命取りだ」

「あの銭ゲバ婆が薬代をむしり取らなければ、この村から出ていく金だって貯められたはずなのに……ちくしょう! ちくしょうっ!」


 瘴気病患者の家族はやり場のない憤りを口にし、私への悪態を吐いて泣き崩れる。

 精霊が指を鳴らすたびに、いくつもの家々に視界が変わり、病に苦しむ人々の辛い現状を見せつけられた。


「もういい……もう、散々だよ! やめとくれ!!」


 また指を鳴らそうとした精霊を、声を荒げて睨みつける。


「こんな、どうしようもない現状を見せつけて、私にどうしろって言うんだい? 罪悪感に苛まれて改心し、恵んでやれとでも言うのかっ?!」


 高価な薬を与え続けたところで、瘴気病が治る保証はどこにもないというのに。

 そんなことすれば、それこそ偽善者だ。自己陶酔とうすいするための欺瞞ぎまんでしかない。


「いやいや。あたしは後悔のない生き方を選択できるよう、手伝いに来てやっただけさ」


 精霊は首を横に振り、肩をすくめて見せた。

 そんな態度に苛立ち、眉根を寄せる。


「何を言っているのかわからないよ……私が金をばら撒いてやったところで、村人の病は治らないんだよ!」


 叫んで訴えると、精霊は私をまっすぐに見据えて語りだす。


「人は弱い、簡単に死んでしまう。死んでしまっては、何もできない。生きているうちに、思い残すことがないように、やっておく必要があるってことさ」


 精霊の様子が何かおかしい。先ほどよりも若々しさがなくなり、年を取っているように見えた。


「それが、他人のためなのか、自分のためなのかは、どちらでもいいことだ。大事なのは今、キャロルが後悔しない選択をするということだ」

「!?」


 やはり、間違いない。精霊の姿が見る間に年を取り、老いているのだ。


「その姿は、いったい……?」

「わかっているだろう、キャロル? 人の命は短い……時間はそうないのだと」


 瞬く間に老女へと姿を変えた精霊は、私の身体――脇腹を指差した。

 それは私が隠していた、誰にも知られていない、黒い痣のある場所だ。


「時計の針は待っちゃくれない……あたしの姿が老いていくように、村人の寿命も、キャロルの寿命も、刻一刻と減っていく……」

「! ……選択とはなんなのです? 後悔しない選択とは、どうしたらいいのですか! 教えてください!!」


 私よりも遥かに年老いた、朽ち果てそうな老女の姿になった精霊は、意味深に微笑んで見せる。


「ああ、もう時間がないね。次の精霊が迎えに来る頃合いだ。キャロル、良い最期を――」


 精霊は指を鳴らした。


 ――チック、タック、チック、タック。


 秒針の音が妙に大きく聞こえ、私は目を開いた。

 気がつけば、そこは暖炉の前。日課の金勘定をしている途中で、机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。


「……さっきまでのは、夢? そんなはずは……」


 夢だと思い込むには、あまりにも生々しすぎる。ただの夢だとは思えない。

 それに、次の精霊が迎えに来る時間とも言っていたのだ。

 母は三人の精霊が訪れるとも言っていた。

 なら、次の精霊が最後なのだろう。


 だけど、精霊に見せられたものは、過去も現在も辛く苦しいものだった。

 次の精霊に見せられるものも、辛いものになるかもしれないと思うと体が震え、身構えてしまう。


 間もなくして、扉をノックする音が響く。


 コンコンコンコン。


 不穏な気配を感じつつも、これが最後だと覚悟を決め、震える手で扉を開け放つ。


 そこにあったのは真っ黒い闇だ。

 黒い霧を吐き出す何かが、そこに佇んでいた。

 身の丈は頭二つ分は大きな人の形をした何か。それが黒衣を纏いフードを被っている。


 まるで死神を連想させる不気味な存在感に、恐れおののき冷や汗をかく。


「あなたが……三人目の精霊、ですか?」

「………………」


 わずかに頷いただけで言葉を介さぬ精霊は、私に背を向けてゆっくりと歩きだす。

 扉の外を見れば、いつもの景色が色の無い灰色の世界に見えた。

 精霊が振り返り、私に着いてくるよう促す手振りをし、また歩きだす。

 不可思議なものに恐ろしさを感じるものの、知らねばならないと思う使命感で、精霊の後についていった。


 灰色の村の中を進んでいくと、人影が残像のように動いている。

 すれ違っていく村人たちの目には、精霊や私の姿は映っていないようだ。


 しばらく歩き続け、村のはずれまで来ると、精霊は足を止めた。

 そこは村の端に位置する、小高い丘に設けられた墓地だ。


「墓地……ここに何が?」


 精霊がおもむろに指差す先へ目を向けると、葬儀が執り行われている。

 妙な胸騒ぎを覚え、わずかに集まっていた村人たちの間を抜け、墓標へと近づいていく。


「!!?」


 墓標に刻まれた名前を見た瞬間、力が抜け膝を突いた。

 そこに刻まれていたのは、まぎれもない私の名前だったのだ。


 葬儀に集まっている村人が、棺を前して言葉をこぼす。


「たんまり貯め込んでいた金のせいで、強盗に襲われるなんて、皮肉なものだ……」

「人間、死ぬ時は呆気ないものさ。一突きで簡単に死んじまうんだから……」


 寂れた墓地のさらに端で、私の埋葬は執り行われていた。

 生前に金を持っていた痕跡などはまるで感じられない、極めて簡素な葬儀だ。

 埋葬する人手だけで、故人をいたみ参列する者は誰もおらず、花が手向たむけられることもない。


「とうとう金の亡者の偏屈婆さんも、いなくなっちまったか……ふっ、ふふ」

「そうだとも。あの銭ゲバ婆はもういないんだ……ふふ、あはは」


 村一番の嫌われ者である私が死んでも、涙をこぼしてくれる者がいないのはわかっていた。けれど、私の死を喜び笑みをこぼしている者がいるというのは、心が軋む。


「さぁ、もうあの古い店も要らないだろう。解体してしまおう」


 村人は明るい声で言い、私が長年大事にしてきた店を壊していく。

 老朽化していた小さな店は、あっという間に解体され、私が築き上げてきたものは跡形もなく崩れ去ってしまった。


 目の前の光景に愕然がくぜんとすることしかできず、もはや涙すらも出ない。

 精霊が静かに佇む横で、私はただ虚無感に苛まれ、立ち尽くしていたのだった。


「めぼしいものは取っておいたし、教会に持っていってやろうじゃないか」


 村人の一人がそんなことを言って荷物を抱える。

 ハッとして、村人たちが向かう先へと私は駆けていった。

 息を切らせ駆けていった先、美しい泉の岸辺に、見たことのない真新しい教会が建っている。


「はぁ、はぁ……!」


 近づいていくと、楽しそうな笑い声が聞こえ、子供たちの駆け回る姿が目に映った。

 下働きの息子の姿だ。その身体には黒い痣はもうない。瘴気に蝕まれていた肌は健やかな色を取り戻し、子供らしいふっくらとした頬に明るい笑みを湛えている。


 子供たちや村人たちに囲まれるその中心には、修道服を着た女の後ろ姿があった。


「聖女様、また聖歌聞きたいな、歌って歌って」

「ふふふ。では、歌いましょうか――」


 子供たちにせがまれ、聖女と呼ばれた若い女は、美しい声で聖歌を歌いだす。


 そんな和やかな光景を見て思う。

 たしか、墓地にあった新しい墓は私のものだけだったはずだ。

 ならば、瘴気病によって命を落とした者は誰一人いないのだろうと。


 込み上げてくる感情のままに、呟くようにして言った。


「未来を司る精霊よ、感謝いたします……この未来を見せてくださって……」


 背後に立つ精霊へと振り返り、まっすぐに見据えて決意を告げる。


「私は自分の生き方を変えません。今まで通り貫きます。この選択に後悔はありません」


 自分の未来を選び、私は後悔しないと断言したのだ。


「………………」


 物言わぬ精霊は、呆れるほどに愚かな私の選択を、笑ったような気がした――。



 ◆



 辺境の村の薄暗い路地。人目を忍んで部屋に入る影があった。


「どうするんですか、ボス? 完全に当てが外れてるじゃありませんか……」


 最近、外から来た柄の悪い男たちが数人、密談を交わしていた。

 その中の一人に、あの年若い教師もいた。昼間とは別人のような険しい人相で髪を掻き上げ、舌打ちをする。


「ちっ……さすがは大商会の元締めとでも言うべきか。こんな辺境の村で隠居同然の生活をしているなら、子供で同情でも引けば簡単に落とせると思ったが、つけ入る隙がまるでない。とんだごうつくばりの金の亡者だ」


 教師は歯噛みし、酒瓶ごと酒をあおった。

 一気に飲み干すと、空になった瓶を壁に投げつけ、子分が小さな悲鳴を上げる。


「はぁ、不味い酒だ……酒も女も葉巻も、ろくなもんがねぇ。一時的に身を隠す場所にしたって、もう少しどうにかならねぇのか、なぁ?」


 投げつけられた酒瓶をかろうじて躱した子分は、どぎまぎしながら訴える。


「仕方ないでしょう。ボスは今じゃ指名手配の身なんですから。手配書も出回らないこんな辺境の村でもなきゃ、とっ捕まって縛り首ですよ」

「だからこそ、うってつけの獲物を垂らし込んで、根城にしてやろうとしてたんじゃねぇか。あれがたんまり貯め込んでるのは間違いねぇんだ」


 だらりと椅子に腰かけた親分は、葉巻を出せと仕草で示す。

 子分は慌てて葉巻を取り出して渡し、マッチを擦り火を付ける。


「金持ちや高貴な女をたらし込むのはボスの十八番おはこですからね。でも、こんなところでくすぶっているより、異国に高飛びしてしまった方がいいんじゃありませんか?」


 親分は上を向いて葉巻を吹かし、気だるげに呟く。


「高飛びするにしたって金がなきゃ話にならねぇだろ。その金を搾り取るためにも、婆さんをたらし込まなきゃならねぇってのに、てんでなびかねぇ」

「そんなまどろっこしいことせずに、さっさと婆さんの金かっぱらって、こんな辺鄙な村とはおさらばしちまいましょうよ。帝都にでも逃げれば、酒も女も葉巻も好きなだけ手に入りますよ」

「……ああ、それもそうか。好みでもねぇ婆さん落とすのに躍起やっきになる必要もねぇか。はははっ」


 その場に集まる男たちは目をギラつかせ、不気味な笑みを浮かべた。



 ◆



 ダンダンダンダン! ダンダンダンダン!


「キャロルさん! キャロルさん! ここを開けてください!!」


 皆が寝静まる夜遅く、店の扉を叩く音が響き、私は起こされた。

 騒がしい音と声に苛立ち、扉越しに怒鳴りつける。


「うるさいね! こんな夜更けになんだって言うんだいっ?」

「夜分遅くにすみません! 急患なんです! お願いですから、薬を買わせてください!!」


 その声には聞き覚えがあった。

 昨日、子供たちを連れてきた若い教師の声だ。

 急患だと言われ、医者のところじゃないのを不思議に思いつつも、急いで鍵を開け、扉を開く。


「ああ、お優しいことで。助かりますよ、開けてくださるなんて」


 一歩踏みだし、にっこりと微笑んで見せる教師の後ろには、怪しげな男たちが数人立ち、不気味な笑みを浮かべていた。

 とてもじゃないが、急患を連れてきたようにも、薬が必要なようにも見えない。


「なっ……?!」


 警戒するには遅すぎた。男たちが店の中へと押し入ってくる。


「さぁ、金をだしてもらおうか」


 私にナイフを突きつけ、ギラリとした目で見下ろし、教師――強盗は言ったのだ。

 ついにこの時が来たのかと思い、重たい息を吐き、呟くようにして告げる。


「ふぅ……ここにはもう金なんてないよ」

「またまた、隠しても無駄だ。たんまり貯め込んでいるのはわかっているんだ。大商会の元締め、キャロルさん」

「ほう、そんなことまで知っているのかい。先生は物知りだね。だけど、金の行方までは知らないようだ」


 そう言ってやれば、男は怪訝な表情を浮かべ目をすがめた。

 店の中や部屋の中をぐちゃぐちゃにひっくり返していた強盗一味が、狼狽うろたえて喚く。


「ボス、金が全然見つかりません!」

「こっちもだ。どこを探しても金目の物がまったくない!」

「レジから金庫の中身まで、ものの見事に空ですよ!」

「なんだと?! ……どういうことだ?」


 男がギロリと私を睨みつけ、強盗一味も詰め寄ってくる。


「言っただろう、ここにはもう金はないと。目的に到達する額が貯まったから、金はすべて使い切ったよ。ただそれだけのことさ」

「すべて使い切った、だと……?」


 人の良さそうな教師の顔とはまるで違う、人相の悪い顔を見て、はたと気づく。


「ああ、どこかで見た気がしていたが、その顔は指名手配されている悪党じゃないか。こんなしけた村で悪さしてるより、さっさと逃げた方がいいんじゃないかい? これから、外からの人の出入りも激しくなっていくからね」


 強盗たちは私の言葉に顔を見合わせ、悔しそうに舌打ちする。


「ちっ……金がないんじゃここにはもう用はない。婆さんの言う通り、さっさと出ていくことにしよう」


 私に背を向ける強盗にほっとしたのも束の間――


「!?」


 ――振り返った男の握ったナイフが、私の胸を貫いていた。


「その前に、足取りを辿られても困る。目撃者は始末しておかないとな」

「ごほっ……!」


 ナイフがゆっくりと引き抜かれ、血を吐いてその場に倒れる。

 鋭い痛みが走り、鉄の味がして、視界がくらみ、意識が朦朧とする。


「裏の泉にでも捨てておけ。魚の餌にでもなるだろう――」




 月明かりに照らされる静かな泉。


 ダッパーン!


 突如として、氷が割れ水が跳ねる音が響き渡った。

 凍てつくほど冷たい水の中へ放り投げられ、私の身体は沈んでいく。

 苦しさに息が漏れ、藻掻くこともできず、離れていく水面みなもと上る泡を眺めながら思う。


 ――間に合って良かった。


 これで良かったのだと、心から安堵した。


 精霊に未来を見せられた後、ありったけの金をかき集め、私は即行動に移した。

 瘴気病を治せるのは強い力を持つ精霊と、その力を借りられる聖女だけだ。

 そして、聖女を呼び寄せるには、最高機関である精霊教会を動かさねばならなかった。

 どんなに情に訴えたところで権力者は動かないが、目が眩むほどの金を積んでやれば人は動く。


 村に教会を建設するには、一国を動かすほどの途方もない資金が必要だったのだ。

 だからこそ、私は商会を育て上げ、各国に支店を広げ、莫大な富を築いてきた。

 大商会の元締めと呼ばれるまでになったのも、すべてはこのためだった。


 村に教会があれば聖女の庇護を受けることができる。精霊の力でしか治せない瘴気病を治すことができる。


 当て所もなく彷徨い続けていた私を、温かく迎え入れてくれたのは、この村だけだった。

 命を救い、癒してくれたこの土地を、優しい村の人々を、私は守りたかったのだ。


 手段を選ばず、村一番の嫌われ者に成り下がっても、かまわなかった。

 どんなに嫌われ憎まれようとも、私の想いは変わらない。

 誰もが見捨てるようなこの土地で、それでも優しく生きる人々を、私は愛していたから。

 この辺境の村を守りたかったのだから。


 強盗に襲われた私は一突きで死に、精霊に見せられた未来の通りになる。

 ならば、私の願いは果たされる。思い残すことは何も無い、後悔のない最期だ。


 ――ただ。

 こんなに美しい泉を、私の血で汚してしまうのは、忍びない気持ちになってしまう。


 ああ、どうか許してください。

 唯一、私を慈しんでくださった、泉の精霊様。

 あなたが守り続けてきた、この土地と人々は救われるのです。

 だから、どうか――。


 そう思いながら、ゆっくりと目を閉ざし、深く暗い泉の底へと沈んでいった。



 ◆



 ――生まれ育った国を追われ、辺境の地まで逃れてきた私は、夜の静寂に包まれる泉のほとりに立っていた。

 公爵令嬢であった証を一つずつ手放し、最後に残った銀の髪飾りまで売り払って、ここまで生きながらえてきた。


「何も無くなってしまった……」


 唯一、人から想われていた証の髪飾りまで手放した時、私は自分の魂までも売り払ってしまったような気がした。


 月光に照らされ、揺れる水面を見つめながら思う。

 そうまでして生きながらえて、なんの意味があるのだろう。

 これまでの努力も、積み重ねてきたものも、全て水泡に帰した。

 この先、どれほど生き続けたところで、待っているのはきっと空虚だけ。


 ただ愛されたかった、ただ認められたかった、ただ必要とされたかった。

 誰か一人だけでも、私を想ってくれる人がいたら――そんな願いは、叶わぬ夢だった。


 絶望していても、星々の光を反して煌めく泉は、この世のものとは思えぬほどに美しい。


「こんな綺麗な場所で終えられたら……素敵かしら……」


 水に足をつけ、冷たさに震えつつも、深みへと歩みを進める。


 水が足首を、膝を、腰を包み込んでいく。

 やがて足が届かなくなり、泳ぎながら更に奥へと進んでいく。

 瞬く星々が水面に映り込み、どちらが夜空か水中か、境界が曖昧になっていく。


 冷たさも感じなくなり、身体から力が抜け、私は深い泉の底へと沈んでいった――。



『……乙女が……世を儚むなど……』



 意識が薄れゆく中、誰かが囁いたような気がした。





 ――ぽた、ぽた、ぽたり。


 水滴の滴る音に気づいて、私は重い瞼を開く。


 そこにいたのは私を抱き上げている老齢の男だった。

 真っ白い髪と髭は長く、顔には年を感じさせる深いしわが刻まれている。

 そして、泉のようにあおく美しいその瞳には、神々しいまでの輝きが宿っていた。


「まだ年若い乙女が自ら命を絶つなど、これほど悲しいことはない……」


 男は揺らめく目を潤ませ、憐れむような眼差しで私を見つめていた。

 水辺に座る男の腕に抱かれた私の身体からは、静かに水が滴り落ちている。


「……わたくし、生きて……?」

「生きているよ……わたしの泉でこんなに憐れな娘を、死なせるわけにはいかない……」

「あなたは……泉の精霊、なのですか?」


 男は鷹揚おうように頷いて見せ、私の顔にかかる濡れた髪をき、穏やかに語りかける。


「その美しく見事な銀の髪はいにしえの巫女の末裔まつえいだろう。一途で清らかな血筋の娘が世を儚むなど、さぞ辛い思いをしてきたのだろうね……話してごらん。この老いぼれにも、何か力になれることがあるかもしれない」

「……わたくし……わたくしは……っ……、……」


 話そうとするけれど、辛い思い出が脳裏を過ぎり、気持ちが張り詰めて言葉に詰まり、上手く話せない。

 何も言えず、惨めに震えるだけの私を、精霊様は優しく抱き寄せ、大きな手で頭を撫でてくれる。


「うんうん、ゆっくりでいいよ。わたしは人よりもだいぶ気が長いからね。無理はしなくていい。少しずつ、ゆっくり話しておくれ」


 誰からもかえりみられることのなかった私を、思いやってくれる言葉に、抱きとめてくれる温もりに、涙が込み上げてきて、せきを切ったように溢れて止まらなくなる。


「……っ……う、うぅ……うあぁぁぁぁ――」


 凍てつきひび割れていた心に温もりが染み、嗚咽を漏らして泣き縋った。

 優しく宥めてくれる精霊様に、私はこれまでの思いの丈を打ち明けたのだ。


「そうか。大変な思いをしてここまできたのだね……」


 精霊様は慈しむように抱擁ほうようし、私の背中を優しく撫で、言葉を続ける。


「よく頑張ったね、キャロル。だが、もう思い詰める必要はないよ」


 そう言って、精霊様は穏やかな眼差しで近くにある村を見やる。


「この土地に住まう人々は皆、行き場を失って辿り着いた者たちだ。だからこそ、互いに支え合い、慎ましくも温かな暮らしを紡いでいる。キャロルのことも、温かく迎え入れてくれるよ――」


 精霊様の仰った通り、その村は他の地域とは違い、髪色で差別されることも、よそ者だからと疎外されることもなかった。

 村の人々は皆、穏やかで優しく面倒見の良い者ばかりで、慣れない慎ましい暮らしも温かみがあった。

 何かできる仕事はと探し、読み書き計算など教養を教えると重宝され、私はすぐに村に馴染んでいったのだ。


 はじめた小さな店の仕事を終え、私は泉へと足繁く通うようになっていた。


「また来てくれたのかい」


 水辺まで駆け寄ると、精霊様は決まって手を伸ばし、私の頭を撫でてくれる。

 嬉しくて笑みをこぼすと、銀の髪を梳いた指先が頬を撫で、精霊様が覗き込んで囁く。


「わたしはキャロルの笑顔が見れて嬉しいよ」


 いつも穏やかに微笑む精霊様は、私の話に耳を傾けてくださる。


「村での暮らしはどうだい?」

「皆さん優しくて、本当によくしていただいています。困ったことがあれば、気兼ねなく頼りなさいと言っていただけました」

「うんうん、この村の者は心根の優しい者たちばかりだからね。少々、大雑把おおざっぱなところはあるが――」


 村のことを語る精霊様の表情は、親が子を想うかのように慈愛に満ちていた。

 きっと、私を救った時のように、精霊様はたくさんの人を救い導いて、途方もなく長い間この土地と人々を見守ってきたのだろう。

 村人たちの暮らしを慈しむように見つめる精霊様の姿に心が温かくなる。


 だけど、日を追うごとにやつれていっている様子が心配だった。


「あの、精霊様……お加減が悪いのでしょうか?」


 精霊様の頬はこけ、皺が深くなり、声はしゃがれていた。

 前にも増し、老いて瘦せ衰えた弱々しい姿になってしまっていたのだ。


「そうだね……わたしは年老いた古い精霊だ。長年この土地に人が住めるよう瘴気を払い続けてきた。そのために力を使い果たしてしまったようだ」


 どこか寂しげな表情で、自らの細く節くれだった手を見つめて呟く。


「もうすぐ、顕現して姿を見せることもできなくなってしまう。わたしは深い眠りに落ち……いずれは消滅してしまうだろうね……」

「!? そんな……わたくしに何かできることはございませんか?!」


 精霊様の身体が薄っすらと透けて見える。


「ありがとう、キャロル。その気持ちがわたしはとても嬉しいよ……だが、人の力でどうにかできるものではないのだ」

「そんな、嫌です! わたくしにも何かできることが、きっとあるはずです! だから、どうか!!」


 叫び縋りつくだけで何もできない、自分の無力さに涙が溢れる。


「数多の精霊に加護を受ける聖女ならば、力を分け与えることもできたかもしれないが、精霊が減ったこの世にそんな聖女はいないだろう……仕方のないことなのだ」

「精霊様……精霊様!」


 精霊様の姿が、月光に溶けるように薄らいでいく。

 それでも、精霊様は慈愛に満ちた微笑みを絶やさない。


「姿が見えずとも、力が続く限りはこの土地を、ここに住まう人々を守っていくよ……キャロルの笑顔も見守っている……」


 透き通る指先が、涙に濡れていた私の頬を撫でる。

 いつもと変わらぬ優しさが、どうしてこんなにも儚いのだろう。


「力が衰えすぎて、祝福の加護を与えてやれないが……わたしは心からキャロルの幸福を願っているよ……」


 涙で滲んだ視界の中、精霊様の微笑みが泡のように消えていく。

 最後の最後まで、私の髪を優しく梳く仕草さえ、何も変わらないのに。

 

「精霊様……っ……!」


 取り残された私は、声を上げて泣き崩れた。

 姿が無くなってはじめて、愛する存在を失ったのだと気づいたのだ。


 泣きしきる涙が泉に落ちて波紋を広げていく。

 すると、水面から立ち上がる風が私の背中を撫でた。

 それはまるで、精霊様の温かい手のようで――『泣かないでおくれ』そう囁いているようだった。


 姿は見えなくとも、確かにそこにある温もりを感じ、私は涙を拭う。


「精霊様が救ってくださったこの命……これからは、精霊様が愛したこの土地と人々のために生きていきます。ですから、どうか、わたくしのことを、ずっと見守っていてください……」


 星空の下、美しく煌めく泉に誓いを立て、私は生きたのだ――。



 ◆



 まだ暗い夜明け前だと言うのに、村人が慌ただしく何かを探している。

 村から去ろうとしていた強盗たちも、そんな村人たちに行く手を阻まれた。


「おっと、こんな夜更けに大勢集まって、皆さんどうされたんですか?」


 強盗の親分は身なりを整え、人の良さそうな教師の仮面を被り直す。

 店の下働きの男が前に出てきて、焦った様子で説明する。


「キャロルさんを探している。俺のところに重要書類が送りつけられてきて、何かあったのかもしれないと店を見にいったら、荒らされていたんだ。それに血の跡まで残っていた……」

「それは心配ですね。僕も探すのを手伝いましょう」


 心配そうに言った教師の衣服に、わずかに飛び散る血の跡を見つけ、下働きの男の表情が険しくなる。


「お前が……やったのか?」


 下働きの男は呟き、恐ろしい形相で教師へと詰め寄っていく。

 熊のような大男に近づかれて後ずさる教師は、慌てて言い訳する。


「ちょ、ちょっと待ってください、誤解ですよ! これはその、魚をさばいた時に飛んだ血で……」

「今の季節にそんな血が飛び散るほどの大物は獲れない。ここじゃ、流通は干物や燻製が主で生物なまものは扱わないんだ……よそ者は知らないだろうがな」


 周りにいた村人たちの目の色も変わる。


「あ……ああ、そうだった! 鳥か兎だったかも。パサついて魚みたいな味だったもので……なんにしても、僕では――」


 ズドンッ!


 教師が言い訳しつつ、そろりと通り抜けようとしたところで、猟銃を持っていた狩人が教師の横にあった木を撃ち抜いた。


「ひいぃっ!」


 悲鳴を上げた教師は腰を抜かして尻もちをつく。


「この村で狩人はワシだけだ。獲物を売ってやった覚えはないぞ」


 そう言いながら次の弾丸を詰め、狩人はガチャリと教師に狙いを定める。

 教師が両手を上げて怯えていると、子分たちが寄り集まっていく。


「ボ、ボス! 囲まれて逃げ道がないですよ!?」


 村人たちは周りを取り囲み、険しい表情で強盗たちに詰め寄っていく。


「キャロルさんを、どこにやったんだ?」


 強盗たちは屈強な農夫に取り押さえられ、農具が振り下ろされる。


「ギャァァァァァァ!!」


 夜の静寂を裂き、断末魔がこだました。




 半殺し状態で縛り上げられた強盗と、下働きの男から事の顛末てんまつを聞き、村人たちは悲しみに打ちひしがれる。


「実現できるかわからないから、確約されるまでは黙っていろと言われていたんだが、キャロルさんは瘴気病の者を救うために、この村に教会を建てようとしていたんだ……そのために必死に金を貯めていたのに、強盗に襲われるなんて……」


 やるせない思いに表情を歪ませ、下働きの男は告げる。


「俺のところに送られてきた重要書類、これはこの村に教会が建設されることを確約したものだ」

「そんな……それじゃ、あたしたちはそんな婆さんに酷いことを言ってたってことなの……」

「金の亡者なんて散々悪しざまに言っていたのに……それなのに、救おうとしてくれていたのか……」


 村人たちは強く胸を打たれ、深い後悔に苛まれて涙をこぼす。

 おのずと泉の畔へと集まり、村人たちは精霊に祈った。


「精霊様、どうかお願いです。キャロルさんを助けてください」

「お願いします、精霊様。今一度、キャロルさんを帰してください」

「キャロルさんにもう一度会わせて。謝らせて、お礼を言わせてください」


 村人たちは一心に願い、星空の光を反して煌めく泉へと祈り続けたのだった。



 ◆



 冷たい水底に沈んでいき、何も感じなくなっていたはずなのに、不思議な温かさを感じた。


「……キャロル……」


 どこか聞き覚えのある優しい声に名を呼ばれ、私はゆっくりと目を開く。


 そこには私を腕に抱きかかえている、見たこともないような美しい男がいた。

 夜の水面を思わせる艶やかな長い黒髪と、光を反して煌めく泉のような碧い瞳。


 目が合うと柔らかく微笑んでくれる。その表情と神々しい瞳に、私は見覚えがあった。


「……精霊様?」


 前にお会いした時の姿とは違う、若々しい姿ではあったけれど、泉の精霊様だとわかった。


「キャロルの献身が三人の精霊の心を動かし、わたしは力を取り戻すことができた。これで大切にしていた土地も人々も救うことができる。ありがとう、キャロル」


 年々瘴気が増し、精霊様が消滅するかもしれないと、ずっと不安だった。

 だけど、愛しい精霊様が元気な姿でわたしの目の前に現れてくれた。

 また微笑みかけてくれた。それだけで胸がいっぱいになる。


「はい……精霊様のお力になれて嬉しいです」


 泉の水がキラキラと輝いていて、私はハッとして血の気が引く。


「あの、精霊様……」

「なんだい?」

「泉の水を血で汚してしまって、申し訳ございません……」

「なんだ、そんなことか。気にしなくていいよ」


 謝罪すれば、精霊様は笑って許してくれた。


「わたしも謝らねばならないことがあるのだが……許して欲しい」

「精霊様が?」


 精霊様が謝ることなんてあるのだろうかと、首を傾げてしまう。


「キャロルの傷を治すのに、力の加減を間違えて……若返らせてしまった」

「え……?」


 水面に映る自分の姿を見て驚愕する。


「えぇっ!?」


 何十年も昔の、精霊様と出会った頃くらいの、若い娘の姿になっていたのだ。


「キャロルともっと共にありたいと思ったせいか、欲目がでてしまったかもしれない……すまない」


 不安そうに私の顔を覗き込んで伺う、碧く澄んだ瞳に見つめられ、精霊様のお顔の近さに胸が高鳴ってしまう。


「許してくれるだろうか?」


 心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなってきて、年甲斐もなく恥ずかしくて、しどろもどろになりつつ頷く。


「はっ……はい……」


 精霊様は安心したように満面の笑みを浮かべるもので、余計に胸がキュンキュンして苦しい。


「ふふふ。キャロルは本当に可愛いらしい乙女だ」

「か、可愛いくなんて……こんな婆に、恥ずかしいっ……」


 肉体の年齢に感情まで振り回されているのか、どうしていいのかわからず、恥ずかし過ぎて両手で顔を覆う。

 精霊様はそんな私の手をやんわりと取って、煌めく美しい瞳で見つめる。


「わたしの力が弱まり深い眠りに落ちていた間、さぞ大変な思いをしてきたことだろう……わたしが慈しんできた土地と人々を守り続けてくれたキャロルを、わたしがどれほど愛おしく想っているか、わかるだろうか」


 恥ずかしいのに、愛おしげに見つめる眼差しから目が離せなくなる。


「愛しいキャロルへ、わたしからの加護を贈らせて欲しい」

「私などに……加護を与えてくださるのですか?」

「他でもない、キャロルだからだ。わたしの聖女になっておくれ」


 精霊様が私を聖女として選んでくれた。

 それが、これ以上ないほどに嬉しい。


「はい」


 私の返事と共に、水面に映る星々が瞬きを増していく。

 やがて淡い光が私たちを包み込み、精霊様の碧い瞳が神々しく輝いた。


『夜空の星々よ、清き水面よ、この誓いを見届けよ』


 精霊様の声が響くたび、光の波紋が揺らめき、幾重にも広がっていく。


『汝を愛し、汝を守り、汝と共にあらん。我が唯一の聖女と定め、永遠とわの祝福を捧げん』


 誓いの言葉と共に、精霊様は私の額にそっと口づけた。

 全身を包み込む温かな光は、精霊様からの永遠の愛と祝福の証。

 しばらくして光が収束していき、見えない力に守られていると感じる。


 星々が見守る聖夜。私は愛する泉の精霊様から加護を贈られ、聖女となったのだ。


「さて、加護を与えたことだし、そろそろあの村に帰してあげようか」


 唐突な精霊様の言葉に戸惑ってしまう。


「あの……私なんかが、あの村に帰ってもいいのでしょうか……私は村一番の嫌われ者で……」

「皆が帰りを待っているよ。キャロルを帰してくれと、ずっと祈っているからね。わたしが独り占めしているのは、少々忍びないのだ」


 不安を拭えないでいる私に、精霊様は穏やかに微笑んで囁く。


「心配しなくても大丈夫。その目で確かめておいで」



 ◆



 精霊様に手を引かれて水面を歩き、朝焼けの霧を抜けていく。


「さぁ、皆が待っているよ」


 送り出されて、薄氷の張る泉のほとりに立ち、私は不安な気持ちを抱えたまま、村人たちの前へと出ていった。


「………………」


 突然、姿を現した私を見て、村人たちは驚きの表情を浮かべている。

 若返り姿が変わってしまったのだから、誰も私だとはわからないだろう。そうと思っていた。


「……その姿は、この村に来た頃の年若いキャロルさんじゃないか……本当に、キャロルさんなのか?」


 私の姿に目を見開いていた年嵩としかさの男が、震える声で問いかけてきたのだ。

 気づいてもらえた。だけど、受け入れてもらえる自信はなくて、困ったように苦笑いしてしまう。


「ごうつくばりで偏屈な女だけど、まだこの村にいてもいいかい?」


 村人たちは息を詰め、震えながら目を潤ませて言った。


「そんなの……もちろん、もちろんじゃないか……ここはあんたの村だ! あんたの帰ってくる場所だ!!」


 そう叫びながら駆け寄り、皆が私をひしと抱きしめ、ぼろぼろと涙をこぼす。


「帰ってきてくれて、本当に良かった! キャロルさんを帰してくれて、ありがとう、精霊様!!」

「ごめんね、キャロルさん。知らないからって酷いこと言って……でも、ありがとう。本当にありがとう」

「キャロルさんが頑張ってくれたおかげで、この村は救われるんだ。こんなに喜しいことはないよ。ありがとうね」


 私が帰ってきたことを泣いて喜んでくれる村人たちの姿に、胸がいっぱいになり、心が温かくなる。

 抱きつく腕にそっと手を添え、涙を堪えながら、震える声で小さく呟く。


「こちらこそ……ありがとう」


 上手い愛し方も愛され方もわからなかった不器用な私を、こうして受け入れてくれる。優しい村の人々が、やはりどうしようもなく愛おしいと思う。



 ◆



 村に戻ると、強盗たちが見事にボコボコにされ、縛り上げられていた。


「さて、こいつらをどうしたものか。キャロルさんが報復したいなら、是が非でもないが」

「ああ、そいつらなら指名手配されている悪党だから、憲兵に突き出せば報奨金がもらえるよ。高貴な女を散々食い物にしてきたようだし、相当に惨たらしい刑が待っているだろうね」


 それを聞いて、強盗の男は青褪めて震えだし、必死な形相で私に救いを求めて喚く。


「お、お嬢さん……そこの美しいお嬢さん! 誤解だよ、人違いなんだ! 僕は善良な男で、そんな指名手配されるような男じゃない!!」

「まあ、往生際の悪いこと。このナイフで胸を一突きにしたくせに」


 男から取り上げてあった、私の血が付いたナイフを手に取る。


「それは――」


 ザシュッ!


「ひっ!?」


 男の顔の横、縛りつけられている柱にナイフを突き立ててやれば、髪束がいくらかこぼれ落ち、男は息を呑んだ。


「うるさい口を閉じないと、次は胸を一突きにするよ? ……ふふふ」


 救いの手などないと微笑んでやれば、男は白目を剥いて卒倒した。

 私は鼻を鳴らし、腰に手を当ててこれからのことを考える。


「あとは、商会の元締めの婆さんをどうするかだけど、若返ったなんて言っても誰も信じないだろうし、信じられても大騒ぎになって面倒そうだ……そのまま死んじまったことにした方が良さそうだね」

「死んだことにするって、今まで築いてきたものは……キャロルさんはそれでいいのか?」

「目的は達成したからね。元締めを続ける理由も、金儲けをする必要もなくなったんだ。金の亡者の銭ゲバ婆は強盗に胸を一突きにされて、死んじまったんだよ。それでいいね」


 私の思い切った発言に、村人たちは目を丸くする。


「これからは、精霊様から加護を与えられた聖女キャロルとして、この村で暮らしてまいります」


 祈りを捧げるように手を組み、私は神妙な面持ちで告げた。

 村人たちは顔を見合わせ、戸惑いつつも噴きだして笑う。


「精霊様もこの変わりようには吃驚びっくりだろうけどね。ふふふ」

「間違いなく、キャロルさんはこの村を救った聖女様だ。ははは」

「守銭奴の婆さんが聖女様に生まれ変わるなんてね。あははは」


 明るく笑う村人たちの表情に安堵し、私はこの村で聖女としてやっていくと決心した。


「根回しもしないといけないから、色々と忙しくなるね。あんたも手伝っとくれ」


 下働きの男の方を見て言えば、あまり表情を変えることのなかった顔に笑みを浮かべ、頷いてくれる。


「はい。任せてください、キャロルさん」

「もちろん、あたしたちも手伝うよ」

「何かできそうなことがあれば言ってくれ」


 この村の聖女として教会に認められるよう、皆が協力してくれたのだった。



 ◆



 泉の岸辺にある教会は、いつも人が集まる場所になった。


「聖女様、聖女様。ボクね、聖女様が歌う聖歌、大好きなんだ」

「アタシも、聖女様の聖歌聞いてると、幸せな気持ちになるの」

「ふふふ、ありがとう。わたくしも聖歌が大好きですよ。せっかくですから、皆で覚えて歌いましょうね」


 可愛い村の子供たちを抱きしめ、温かい陽だまりで聖歌を教える。

 少し前までは想像もできなかった、穏やかで幸せな時間が流れていく。


「キャロルさん、聖女の立ち振る舞いもだいぶ板についてきたんじゃないですか?」


 表向きは、異国からやってきてこの地に居ついた聖女と言うことになっている。


「なんだい――おほん。なんですか、それではわたくしが聖女らしくないようではありませんか。わたくしは正真正銘、泉の精霊様から加護を受ける聖女ですよ」


 それっぽく令嬢の言葉使いに戻してはいるが、たまに婆っぽい口調が出てしまうのはご愛嬌というものだ。


「ははは、確かにそうですね。精霊様から寵愛される聖女キャロルさんのおかげで、ここら一帯の瘴気が晴れ、病に罹っていた者たちも完治しました。皆、元気に動き回れるようになりましたよ」

「そうですか……もう病に憂うことはないのですね。精霊へ多大な感謝をせねばなりませんね」


 私は跪いて、精霊たちに感謝し、祈りを捧げる。

 聖夜に私を導いてくれた三人の精霊へ、再び生きる機会を与えてくれた泉の精霊様へ。

 そして、最後まで私の幸福を願い続けてくれた愛しい母へ。



 ◆



 夜のとばりが下りれば、私の足はひとりでに泉へとおもむく。

 早く会いたいと急く気持ちが、そうさせてしまうのだ。


 澄んだ水面を覗き込んでいると、私の名を呼ぶ優しい声が聞こえてくる。


「キャロル」


 水面に姿を現した精霊様は穏やかに微笑み、いつものように両手を差し伸べてくれる。


「精霊様」


 私は嬉しくなって駆け寄り、精霊様の腕の中に飛び込んでいく。

 楽しそうに笑う精霊様に抱きすくめられ、膝の上に抱きかかえられる。

 そして、泉のように煌めく美しい瞳が私を愛おしげに見つめ、甘く囁くのだ。


「わたしの愛しい聖女キャロル。今宵もその歌声を聴かせておくれ」

「はい。精霊様――」


 幾千夜いくちよを越えて、永遠に続くような幸せな夜。

 私は溢れんばかりの想いを歌にして、精霊様へと捧げる。

 星々の瞬きを映す夜の泉に、波紋を広げるように私の歌声が響き渡っていく――。




 世界の最果てにある小さな村。そこには、古の時代から人々を見守る偉大な精霊と、それは美しい銀髪の聖女がいるという。

 精霊と聖女が守護する辺境の地は、瘴気に侵されることもなく、病に苦しむ者も飢える者もいない。豊かな恵みを与えられ、誰もが穏やかに暮らせる、楽園のような場所なのだそうだ。


 そこにある泉からは、いつも美しい歌声が響いてくる。

 慈しみと愛に満ちたその調べは、精霊と聖女が永遠の愛を誓い合った証。

 祝福に包まれるその村で、今もなお二人の物語は幸せに満ちた新しい章を紡いでいる――――。

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悪役令嬢のクリスマス・キャロル ~聖夜の亡霊と精霊の加護~ 胡蝶乃夢 @33himawari

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