夏
ユーザー名と電話番号を書いたカードを持参したのは良いが、案外置くというのが難しい。
お店にこのカードを置いておいてくださいと頼むわけにもいかない。
駅に勝手に置いてもすぐに撤去されるだろう。
人通りのない場所に貼り付けることも考えたが、それは本来やってはいけないことだ。
カードを一枚も置けないまま宿に着き、夕食を
その後、近くにあったスナックに入った。
大学を卒業したての若造がスナックに入るのは少々滑稽かもしれない。
けれど、そういう若者におじさまおばさま方は優しいことを僕は知っている。
場所にもよるが、可愛がってもらうことが多い。
歌は歌わないけど、誰かが歌い終わった後にはしっかり拍手をして盛り上げた。
隣に座ったおじさんに今回の旅の目的を話してみた。
インターネットが繋がらなくなってネットの知り合いと話せなくなった。
電話できるようにと自分のユーザー名と電話番号を印刷したカードを持ってきたが置く場所がない。
おじさんは「お金はあるか?」と聞いた。
もちろんお金はない。
ギリギリだ。
正直にそう答えた。
おじさんは「そうか」と少し俯いた。
お金があれば何かあるのかと聞く。
おじさんは新聞の広告に出せば良いと教えてくれた。
なるほど、と一瞬思ったが、ユーザー名と電話番号を広告するのは流石にないと思った。
アイデアは嬉しいけど、それは無理だと答えた。
おじさんは真面目な顔で静かに叱った。
「本当に会いたいのなら、それくらいしなさい」
宿の布団に入った後、おじさんの言葉を考えていた。
おじさんはその後も楽しく話してくれたし、たまには歌も歌ってご機嫌だった。
僕が店を出るときには「頑張れよ」と声もかけてくれた。
でも、どうしてもあの時のおじさんの真剣な顔が忘れられない。
僕は遥々、置き場所のないたくさんのカードを持参して何をしているのだろう。
やっぱり布団は嫌いだ。
全く眠れやしない。
朝ごはんを食べた後、旅館を出ようとしたら昨日のおじさんがいた。
おじさんは驚いた顔で「やぁ」と挨拶をくれた。
今日の予定を聞かれたので正直に「ない」と答えた。
よかったら一緒に観光するかと誘われ二つ返事で了承した。
観光と言われたので、てっきり県外の人かと思ったら地元の人だった。
おそらく、僕が若者だから観光させてあげようという心遣いだろう。
タクシーで移動しながら、有名な場所をいくつか案内してくれた。
お昼にお店に入ってご飯を食べていると、突然「ラジオは聴くか」と聞かれた。
高校生の頃は少しかじっていたが大学生になってすっかり離れていた。
申し訳ないと思いながら正直に伝えると、おじさんは高校生の頃に聴いていたことが嬉しかったようでとびっきりの笑顔になった。
お昼ご飯を食べ終えると、またタクシーに乗った。
見知らぬ人に連れられているのは、本当は危ないのかもしれない。
色々な土地でこうした経験をさせてもらってきたからもう慣れてしまった。
いずれ誘拐にでも遭うのだろうか。
そんなことを考えていると、タクシーはラジオ局に到着した。
おじさんはどうやらラジオ局に勤めているらしい。
パスカードを提示し、中に入ると各所を案内してくれた。
人生で立ち入ったことのない空間に心拍が上がる。
おじさんは「少し待って」と言い、部屋に入った。
その間、スマホを開いてSNSアプリをタップする。
ここまでくると我ながら中毒だと笑ってしまう。
おじさんが戻ってくると
「君の話は面白いからラジオで紹介するよ」
僕はすぐには理解できなかった。
何を紹介するのだろう。
土地の細かな発見をまとめる趣味のことだろうか。
おじさんは続ける。
「ラジオで電話番号を言うわけにはいかないから、君がよく通うお店を伝えよう」
でも、その店にいても僕だとはわからないだろう。
そう伝えると、おじさんはこう答えた。
「本当に会いたいのなら、わかりやすい服を着て毎日通いなさい」
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