3.七海、思い出す
「久保、おまえ……なんてことしてくれたんだ!」
「えっ、な、なんてことって……?」
「大蟻様からクレームが入ってるぞ!」
「な、なんでー! さっき華麗に解決したはずなのに! アブラムシさんだって気持ちいいって……」
市役所の担当課に戻った七海を待ち構えていたのは、課長の叱責だった。怒っている課長のこめかみの青筋を直立不動の姿勢で凝視する七海の頭の半分は、人間は本当に怒ると青筋が立つんだなぁという的はずれな考えで占められている。
「おまえに言われたとおり、大蟻様がアブラムシ様の背中をとんとん叩いたらまた食われそうになったって泣いてたんだぞ!」
「えー! それ私のせいですか!?」
「しかもあの大蟻様、大蟻運び屋コーポレーションの重役だって……」
「……何それ……うそでしょ……?」
上司の前だというのに、七海は自席のオフィスチェアにすとんと腰掛けた。脱力してしまい、立っていられそうになかったからだ。
「そんなの知らなかった……。確かに背中叩いてくださいとは言ったけど、普通ちょっとやったら逃げるでしょ……」
「……いや、おまえの言うこともわかるんだけどな、あのな、そういう問題じゃないんだ。虫様たちが納めている税金だっておまえの給料になって」
「わかってますぅ! うわあああもおおお!」
「……運が悪かったと思って……。アブラムシ様を呼んだのはいい判断だったと思うし、俺だって本当はこんなこと言いたくないんだよ……。ま、ちょっと休憩してこい。見なかったことにしてやるから」
「はい……ありがとうございます……」
七海は課長にぺこりと頭を下げると、トイレに向かった。北向きの寒々とした女子トイレの一番奥の個室に入り、スマホを取り出す。
「本当は優しいんだよね、課長……」
ぽつりと漏らした小さな声は、ひんやりとした空気に溶けていく。ふぅ、と一つため息をついてからスマホを立ち上げると、一穂からの返信メッセージが入っていた。
『やっぱり覚えていないんですね。寂しいな』
ということは以前会ったことがあるのかと七海は思い出してみようとするが、あまり頭が働かない。考えてばかりでも仕方ないと、とりあえず返信メッセージを打ち込む。
『覚えていない……? 私、何かしちゃった? だとしたらごめん』
『僕が中二のときでもう三年も前だから、忘れても仕方ないのかも。模試の会場に久保さんがいて、親切にしてもらったんですよ』
三年前、模試の会場、とくれば七海が大学生のときにバイトで試験監督をしたときのことだとわかる。しかし『親切にしてもらった』という部分を思い出せない。どうしても何かが邪魔をして、記憶を引っ張り出すことができないでいる。
『ごめん、思い出せそうで思い出せないんだ。それより試験は? スマホいじってていいの?』
『久保さんのおかげで緊張が解けて問題も早く解けたので、今は廊下にいるんです。久保さん、お仕事は?』
『優秀なんだね! 私は帰って早々課長に叱られてトイレにこもってるよ……』
初めてメッセージのやり取りをすることになった年下の男子高校生に愚痴を言うのは良くないと思いつつも、スマホを操作する手が止まらない。
『大変でしたね。僕、魔法少女に興味があるので、お話聞きたいです。今日帰りに会いませんか?』
きゅっ、と胸が音を立てた気がした。過去にも『帰りに会いませんか』という台詞を聞いたような気がして、考え込む。
――三年前、模試の会場、季節は秋だったはず、なのにやけに寒い日で……
「……あー、思い出した……あの日か……」
七海が最初に思い出した光景は、模試の会場として使われていた大学の薄暗い廊下だ。初めての試験監督のバイトで右も左もわからないというのに、ベテランの先輩バイトが意地悪な男で七海は叱られてばかりいたのだ。
「確かあのとき、回答用紙で指切っちゃって落ち込んだんだよなぁ」
初バイトで右往左往し泣きそうになりながらも何とか気持ちを前向きにしてがんばっていた七海を落ち込ませたのは、左手の人差し指の腹を紙の縁で切ってしまったことだった。きっかけは些細なことだったが、そのときの七海は自分の左手をじっと見つめたまま動けなくなってしまったのだ。まるで自分の心が落ちないよう繋ぎ止めていた最後の糸も切れてしまったかのように。
「でも、親切にしてくれた、って……あっ、わかった」
駅で会ったときの一穂と同じように、七海もその日は緊張して昼食を取れないでいた。外の空気を吸おうと建物を出たところで、ベンチに一人で座っている中学生男子を見つけた。気になった七海はしばらく後ろから彼を見ていたのだが、寒風が吹いているというのに、彼はずっと下を向いたまま動かなかった。
『風邪引いちゃいますよ。よければこれ、食べてください。チョコチップ入りメロンパン、おいしいですよ』
『……え?』
『頭使うと甘いもの食べたくなりませんか? 午後もがんばらないといけないですよね』
『あ、は、はい』
そんな感じの会話を交わした気がすると、七海はトイレの個室にこもったまま、流れ出る記憶を噛みしめる。
――そうだ、私は忘れたかったんだ、あの最悪の日を。だからあの日のことは考えないようにしていた。でも、彼が見せてくれた笑顔がとてもかわいくて、「帰りに会えませんか」なんて言ってくれて――
七海は彼の笑顔を、その日唯一の良い記憶として、薄い膜の向こうにそっとしまい込んだのだった。
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