2.七海、解決する


「ちょっと、なんで大蟻さんが襲われてるわけ? 今日はストライキなんでしょ?」


「俺はっ! 出勤、しないと、いけない、からっ! 助けてくださいよおおおお!!」


 アオオビハエトリグモに噛みつかれ「うわあああん」と情けない声を出したのは、七海が走りながら恋しがっていた大蟻だった。足をじたばたさせているが、アオオビハエトリグモは大蟻の後ろからヘッドロックをかけているような姿勢で決して離そうとせず、一般的なアオオビハエトリグモの習性どおり大蟻に少し噛みつき、離し、少し噛みつくという動作を繰り返している。


「い、今助けるから! ……って、アオオビハエトリグモに対抗するのになんでこんな格好なのよ……」


 今の七海は、縁にフリルのついた白いエプロンと丸襟・くるみボタンのアイボリーのブラウス、ふんわり広がるピンクのミニスカートという格好に変わっている。ブレザーのポケットに入れておいたミニ魔法ステッキは振ると大きくなり、現場に応じた格好に変身できる優れモノなのだ。


「ちょっ、ちくちく痛い! 力が抜けていくぅ……! あんた遅いよ! 早くーっ!」


「はぁ!? ストライキのせいで遅くなったんだけど!? ひっど、ひっどーっ! そんなこと言うならもう助けてやら……」


 『売り言葉に買い言葉』として慣用句・ことわざ博物館に陳列されそうな勢いで出していた七海の大声は、どんどん尻すぼみになっていく。


「……いえ、その……、助けて差し上げます……」


 地方公務員はなんと肩身が狭いのだろう、市井の人々や虫々の税金のことを思うと迂闊に脊髄反射でしゃべることもできやしないと、七海は内心で悪態をついた。現在進行形で絶賛加害中のアオオビハエトリグモも、決して傷付けたりしてはいけないのだ。


「は、早くっ、早くーっ! 遅いっつってんだろおおお!?」


「わ、わかってますっ! ああもう、一体どうすれば……!」


 魔法ステッキの大きさは自在に変えることができる。形状は孫の手のようになっておりゴルフボールまで付いているのだが、変身以外では何に使えばいいのかわからない職場の先輩から渡された七海にも、やはり何に使えばいいか、孫の手として使用してもいいのかすらわからない優れモノだ。


「えっと、えっと……、確かアオオビハエトリグモは……うん、わかった、あいつを召喚だ!」


 七海が「ひらけりんご! アブラムシさん来てください! できれば大きめのやつ!」と呪文を唱えると、目の前の空中に無駄にデザインの良いパールホワイトの一口かじられた白いりんごが登場し、その中から一匹のアブラムシが現れた。七海の希望が聞き入れられたようで、大きめの個体だ。


「こんにちは、アブラムシさん。ちょっと背中が凝ってるんじゃないかしら。私、ツボ刺激するの得意なの。やってあげるわね」


「お、なんか呼ばれたと思ったら、そんなことしてもらえるのか? ありがてえ」


 場の空気など読まずのほほんと返事をするアブラムシの背中を少し大きめに変化させた魔法ステッキのゴルフボール部分でとんとんと叩いていると、お尻から甘い香りのする蜜を分泌し始めた。


「気持ちいいなぁ」


「ほんと? よかったぁ。よし、いい感じ……アオオビハエトリグモさん、こっちのほうが甘いわよ」


 もともと無口なのか、黙ったまま七海のほうを振り返ったアオオビハエトリグモにも甘い香りが届いたらしく、七海が履いているピンクうさぎのアニマルスリッパにアブラムシから湧き出たとろとろの液体がもう少しで届きそうというところで、アオオビハエトリグモが蜜をちゅうちゅうと吸い始めた。大蟻は難を逃れ、少々ぐったりしている様子だ。


「ふぅ、危なかった……おばあちゃん、私に虫の豆知識を授けておいてくれてありがとう……。大蟻さん、大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫だけど……出勤できるような元気はない……」


「……そう……。とりあえず職場に連絡しておいたらどうですか? 出勤途中なら労災が下りるでしょう」


「うん、そうするよ。ありがとう」


「もうアオオビハエトリグモなんかに捕まったらだめですよ」


「くっ……、俺だって捕まりたくて捕まったわけじゃ……!」


「そりゃまあ……じゃなくて……えーと、そうですよね、大変でしたね」


 税金、税金、と七海は脳内で連呼する。自分が毎月もらっている給料は税金だ、コンビニスイーツを買うお金も、推し活としてグッズを買うお金も、一人暮らしの部屋の家賃も、狭いワンルームを快適な気温にしてくれる電気代も、と考えると自然と言葉遣いが矯正される。


「じゃ、私は役所に戻ります。元気が出てきたらアブラムシさんの背中を優しくとんとんと叩いてあげてくださいね」


 七海はぐでっとアスファルトに伏している大蟻にそう言うと、さっさと現場をあとにした。


「はぁ、疲れたぁ……。メロンパン食べておいてよかった……」


 それにしてもさっきの彼は無事に試験を受けられただろうかと、大蟻の件が落着した途端に気になってきた。七海は駅に到着してすぐにブレザーのポケットからスマホを取り出し、交換したばかりの連絡先へメッセージを送ることにした。服装は既に元に戻っている。スマホを入れているのは魔法ステッキが入っているほうではなく、もう片方のポケットだ。


『少女という年齢でもありませんが、魔法少女は安西くんがくれたメロンパンのおかげでがんばることができました。ありがとうございました』


 七海がメッセージを送って約三十分ほど経った頃、一穂から返信が届いた。


『そうですか、よかったです。まあ僕は久保さんにお返しをしただけですけどね』


『え? 私は何もしてないよ』


 七海は市役所に帰着してすぐにメッセージを送ると、スマホをポケットに突っ込んだ。

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