#08 舘岡薫
桧山の事件は、椿沢綾乃の双子の姉である白川朋乃を主犯、久我沼を共犯として、2人が共謀して復讐と資産強奪を狙って行った犯行として立件され、検察に被疑者死亡で問題なく送検された。
5月のGWに入ったころには、俺たち舘岡班はまた違う事件の捜査に駆り出されていた。
「薫班長、捜査資料と捜査方針計画書っす」
「藤堂! 俺を名前呼びするなと言っただろうがっ! お前は本当に――っ!」
「はいはい、皆さんの分もどうぞー! GWもお仕事頑張りましょー!」
藤堂がいつものごとく、注意を無視して、班員たちの捜査資料と捜査方針計画書をテーブルに置いていく。
「世間は休みだが、俺たち刑事に休みはあってないものだぞ」
「はいはい、分かってます。分かってます。お仕事たのしいー!」
いっこうにクソガキ感が改まらない藤堂にどうやれば効果的な注意ができるかを考えていると、スマホの着信が鳴った。
表示画面は非通知だ。
誰だ? 非通知だし、無視でいいか?
無視して捜査資料に目を通そうとすると、今度はショートメッセージの通知が何度も鳴った。
周囲の視線が気になり、スマホを持つと、廊下に出る。
通知を開くと『桧山真治の事件でお前が犯した罪を知っている』というメッセージが連続して流れる。
「んだよっ、これ。いたずらかよ」
また、スマホの着信音が鳴った。先ほどと同じく非通知だ。
出ないでいると、ショートメッセージが再び連続で届いた。
通知には『電話に出ろ。さもなくば、お前の罪を公開する』と書いてある。
俺の罪だと……。そんなもん、あるわけが……。ないだろ。
心では否定したが、脳裏には桧山の大学の後輩が、捜査本部解散の日に渡してきたUSBのことが浮かんでいた。
三度目のスマホの着信音が鳴った。
あれはなかったことにしてあるし、事件は送検されて終わってる。
今さら『証拠品がまだありました』なんてことは言えない。
スマホの着信は切れることなく鳴り続けている。
廊下を行き交う署員たちの目がこちらに向いていた。
クソがっ! 出てやるよ!
人目に付かない廊下の奥へ移動し、録音モードを起動させ、スマホの着信ボタンを押した。
「はい、舘岡……」
『ようやく出てもらえた』
「誰だ……お前。声を変えてるみたいだが」
機械で合成された声をしており、相手の素性は声からは窺えない。
『こちらの電話に出たということは、罪の意識はあるということですね』
「知るか。しつこい悪戯電話だから、どんな相手か気になったんだ。とりあえず、録音させてもらってるからな。警官のスマホに悪戯電話してタダで済むと思うなよ」
『録音はどうぞご自由に。貴方が不利になるだけですので、一向にかまいませんよ』
電話の主は、録音していると知っても動じる様子はないようだ。
「クソが……」
『もう一度、確認させてもらいますが、電話に出たということは、罪の意識があるということですよね?』
「さあな。電話には出たから切るぞ」
『そうですか。では、どうぞ』
俺が切る前に、電話は向こうから切れた。
何だよ……。あっさりずいぶんあっさりと引き下がったな。
やっぱり悪戯だったのか……。
相手が電話を切ったことで録音モードを解除し、スマホをスリープにする。
まぁ、あれの存在を俺が隠匿してるなんてことは、バレることはない。
渡してきた本人の渋谷だって、刑事の俺が証拠品を受け取ったと思ってるだろうし、証拠品一覧を調べることなんてしないだろうしな。
ただの悪戯電話だ。ただのな。気にするな。
俺は両手で頬を軽く叩くと、気合を入れ直した。
「舘岡さん! 捜査会議が始まるっすよ!」
「ああ、分かってる。すぐに行く」
藤堂に呼ばれ、急いで捜査本部となっている会議室に戻り捜査会議に参加した。
その日の捜査活動を終え、自宅に帰ったのは夜の21時を過ぎていた。
中年独身のわびしいアパート住まいであるため、待っている人もおらず、食事は外で済ませて帰るのが日課だ。
部屋の前に着くと鍵を取り出す。ドアポストに茶封筒の端が見えた。
取り出してみると、消印も差出人も書かれていない茶封筒だった。宛名は俺になっている。
「なんだこれ? 誰からだ?」
自分宛てであったので、糊付けされている封を破って、中身を取り出していく。
出てきたのは写真の束だった。
写っているのは俺と、渋谷。
例の桧山のUSBを受け取っているところの写真が入っていた。
馬鹿な……あの時、周囲には誰もいなかったはずだ。何でこんな写真が――。
詳しく写真を見ると、ガラスの反射らしきものが写り込んでいるのが見えた。
外から望遠で撮った写真!? あの時、高井戸署の近くの建物から、こっちを狙ってたやつがいたのかよ……。
震える手で1枚ずつ写真を確認していると、ジャケットの内ポケットに入れているスマホから着信音が鳴った。
着信音に慌て、とっさに写真をズボンのポケットの中に突っ込む。
震えが止まらない手で、なんとか内ポケットから取り出したスマホの着信表示は非通知だった。
非通知の着信を見て、すぐに今朝の電話の主だと察する。
通話内容が聞かれないよう、すぐさま部屋の中に入り、今朝と同じく録音モードにして、スマホの通話ボタンを押す。
「は、はい。舘岡」
『写真は気に入ってもらえたようですね』
声は機械音声で誤魔化しているが、喋り方は今朝の電話の主だった。
「お前が撮ったのか?」
『そうですとも言えますし、違いますとも言えますが。とりあえず、貴方の犯した罪を少なくともこちらは知っていると理解してもらえましたね』
機械音声であるはずの相手の声が、やけに不気味に感じられた。
「いったい何が狙いだ」
『何が狙いだと思います?』
「俺は一介の刑事にすぎんぞ。脅しても大した物は得られない」
『例えば、貴方が今抱えてる事件の捜査情報――』
「そんなものを提供するとでも思ってるのか? 俺の立場が終わることに協力――」
『どのみち、その写真が週刊誌にでも出れば、貴方は終わりでしょ。捜査に当たっていた刑事が、関係者から提供された事件の証拠品を隠匿したわけですから。警察の上から下まで蜂の巣を突いたくらいの大騒ぎになりますよ』
「ぐっ!」
電話の主に対し、俺は言い返す言葉を持たなかった。
この写真のデータが向こうにある以上、生殺与奪の権限は握られたと思うしかない。
『まぁ、捜査情報などに興味はありませんので、ご安心ください。貴方と取引したいものは、その写真に写っている桧山の残したUSBです』
桧山の残したUSBだと……。俺を脅してるネタになってる品を出せだと?
「取引になってないぞ」
『取引は明日の0時。都道45号線から奥多摩霊園へ向かう分岐路にあるアメリカキャンプ村の看板の前にてお待ちしてます。よい取引ができることを祈っております。ああ、時間に遅れたら取引不成立で、明日の朝には写真が週刊誌に届くようになっておりますのでお気を付けください』
「おい、待て! 取引にっ!」
『明日の0時までは、あまり時間がありませんよ。では、お待ちしております』
「おい! こっちの話を――」
スマホは向こうが勝手に切ってしまった。
録音モードを切ると、表示された時間を確認する。
21時20分……。奥多摩霊園まで0時までに来いって言ってたな。
すぐさま、ナビのアプリを起動させて、自宅アパートのある新宿区の中落合から奥多摩霊園のルートを検索する。
1時間40分~2時間30分だと!? ギリギリすぎるだろ! クソが!
俺はすぐに机の引き出しにしまっておいた桧山のUSBを取り出し、胸ポケットにしまうと、壁に掛けてある非番の日だけ乗る趣味の車を取る。
頼む、渋滞しないでくれ! 本当に頼む!
電気を消し、部屋を施錠すると、車の停めてある駐車場に駆け出した。
電話の主に指示された奥多摩霊園に入る分岐点にある看板の前に着くと、車を路肩に停めた。
時刻は23時55分。ギリギリ間に合った。
指定された場所は、国道に並走するように作られている都道であることと、深夜という時間帯ということもあり、交通量はかなり少ない。
「こいつのせいで、えらいことに巻き込まれちまったな……。クソ、あの時、渋谷から受け取るんじゃなかったぜ」
胸の内ポケットから出した桧山真治の残したUSBを見て、ため息を吐く。
これを渋谷から受け取った時には、すでに被疑者白川朋乃が死亡で送検されていたこともあり、追加の捜査は許される空気ではなかった。
中身のデータは桧山が書いたと思われる『椿』という小説だ。
椿沢という因習村の話だが、登場人物に椿沢姉妹のことを想起させる部分がいくつか見受けられた。
これを桧山がWEB小説投稿サイトに公開したことで、『椿沢綾乃』とトラブルになったと容易に想像できる代物だった。
ただ、この情報がないままでも、検察に送られた書類や証拠品によって、捜査が適切に行われたことを検察官がチェックし終えている。
そして、桧山真治を殺した犯人は、死亡している白川朋乃と確定し、本人死亡のため刑事裁判はせず、不起訴処分として処理された。
だから、俺はこれを表に出すことをためらってたんだ。
提出したところで、事件の結果が変わるわけでもないことが分かりきっている。
逆に提出してしまうと、捜査にあたった者たちへ、処罰が下る可能性もある。
特に渋谷から、これを受け取っていた俺には厳しい処罰が下るはずだ。
証拠品の隠匿がバレたら、捜査一課から配置換えは確実。
良くて降格のうえ、交番勤務か、運転免許センター送り。
悪いと懲戒免職処分かもしれない。
高卒で警察官になり27年。
警察の仕事しかしてこなかった俺が、警察組織から追い出されたら、年齢的なこともあり、まともな就職口は見つけられないだろう。
多少の蓄えはあるが、今の生活を維持できるとは思えない。
そんな職を失う恐怖からか、足が勝手に貧乏ゆすりを始めていた。
それにしても、電話の主は誰だ……。一方的に電話をかけてくるし、いつも向こうが勝手に切る。
こちらに主導権を取らせないためだろうが、妙に交渉に手慣れた様子があったな。
それと電話の主は、俺が桧山に関する証拠品を隠匿している事実を知ってる。
桧山がUSBを残していたのを知ってるのは、俺と渋谷だけのはずだ……。
だが、あんな気弱で調子がいいだけのやつが、警察官である俺を脅すような度胸があるとは思えない。
俺を脅してる電話の主は別の誰かだと思うが――渋谷の関係者だろうか。
あいつが俺に証拠品を持ってくる前に誰かに桧山のUSBの存在を喋って、そいつが望遠カメラで写真を撮って、俺を脅してるという可能性もあるな。
とりあえず、ここに現れたやつを取り押さえて、どこから桧山のUSBの情報を手に入れたか、口を割らせるしかない。
多少、荒っぽくはなるかもしれないが、警察組織の信頼と俺の地位を守るためでもあるし、仕方ない。
今から現れるであろう電話の主に対する行動を決めた時、スマホの着信音がなる。
表示は非通知であるが、時間的に俺を脅している電話の主であることは間違いなかった。
「はい、舘岡」
『到着されたようですね。つまり、取引には応じてくれるということですよね?』
機械音声で誤魔化された声が、スマホから聞こえてくる。
年齢、性別はやはり分からないし、なまりもない。正体不明の相手だ。
「取引? 脅しの間違いだろ?」
スマホで犯人と喋りながらも、車内の運転席から周囲に人影がないかを視線で探る。
深夜0時も過ぎているため、奥多摩霊園に来る者はなく、地元民も出歩く時間ではないため、人っ子一人いない。
『取引ですよ。私は貴方の持つそれを手に入れられて、貴方はそれのおかげで自分の地位を守れる。ギブ&テイクが成り立つでしょう?』
「物は言いようだな。まぁ、いい。とりあえず、姿を現してくれないと取引はできないぞ」
周囲に視線を巡らせているが、誰も姿を現さないままだった。
『車で行ってますから、もう少しで到着しますよ。慌てず、そこで停車して待っててください』
対向車線に、車のヘッドライトの明かりが見えた。
ようやくお出ましか……。どんなやつか面を拝ませてもらうとしよう。
ヘッドライトの明かりはハイビームのようで、眩しさから目が眩むのを防ぐように右手でライトを遮った。
『もう着きますよ』
近づいてきている車は減速する気配を見せず、ドンドンと速度を上げてくるように見えた。
「おいおい! 止まれ! 止まれって!」
電話の主に制止するよう促したが、ガシャンというものすごい衝撃が俺を襲う。
身体を運転席のシートに叩きつけられ、ハンドルや助手席のエアバッグは爆ぜる。
衝突の衝撃で変形したボディーやハンドルが身体に押し付けられ、金属片が刺さり、皮膚が裂け、内臓が傷つき、骨が砕ける感触がした。
「くっ、ううぅ、足が挟まってやがる。身体も挟まれ自由に動かせねぇ。クソ」
血が流れ出す感覚と、身体中から発せられる痛みで、意識が飛びそうになる。
飛びそうな意識の中、停車していた俺の車に飛び込んできた対向車の運転手にチラリと視線を向けた。
開いたエアバッグが血で真っ赤に染まってやがる……。
声もしないし、動いてる気配もないし、あっちは即死かよ。クソがよっ! なんだってんだっ! 取引する気じゃなかったのかよっ!
クソ、傷がヤバい。このままだと、俺も……。
「救急車……」
事故の際、車内に飛んでったであろうスマホを必死にまだかろうじて動く右手で探し回る。
「クソ、どこだ……うぅ」
傷の痛みに耐えながら、スマホを探していると、歩道側からコツコツと人が歩いて来る音が聞こえた。
人だ! 助かった! 通報してもらわないと!
自由の利かない身体をなんとか動かし、バックミラーを見るが、割れてヒビの入ったミラーには誰も映っていない。
それでも足音は近づいてきた。
後部座席から、助手席に足音が来たかと思うと、車体を軽くノックされた。
「大変そうですね。事故ですか?」
声は田舎の山奥に似つかわしくない若い女のものだ。
「ああ、事故だ。すまないが救急車を頼む。うぅ、足が挟まってるし、いろんなところが折れてるようだ。うぅ」
「お相手の方は亡くなってるみたいですね。ご高齢のようだし、センターラインはみ出してるから、認知症の方かしら。不運でしたね」
「停車中に反対車線から突っ込まれてな。このざまだ。悪いが俺もけっこうな怪我をしてる。救急車を呼んでくれ。早めに頼む」
息を吸うだけでも激痛が走る状態の中、声をかけてくれた女性のいる助手席に顔を向けた。
キャップ帽にマスク……。夜にサングラスとか怪しすぎるだろ……。服装も女性らしくない男物のパーカーだ。
刑事の勘が、目の前にいる女に気を付けろと囁いてくるのを感じた。
「残念ですけど、ご期待には沿えません。舘岡薫さんには、ここで事故死してもらう予定なので」
女の表情からは分からないが、言葉のニュアンスからこちらを嘲ってる様子が窺えた。
「何を言って――」
「言葉通りですよ。まずはこっちの用事を終わらせてもらいますね」
助手席側にいた女は飛び上がると、大破したボンネットを足場にして、運転席側にくる。
事故の衝撃で変形したドアから、ゴム製の手袋をした手で、割れたガラスを丁寧に払い除け、身体を入れると俺の足元で探し物を始めた。
「何をしてるんだ。は、はやく救急車……」
流れていく血によって、服がどんどんと濡れていく感触に、死への恐怖が高まっていく。
「ありました。これは回収させてもらいますね」
足元から顔を出した女は、俺のスマホを手にしている。
「た、たのむ、それで通報を」
「申し訳ありません。それはできないんです。では、次は――」
手にしたスマホを自らのポケットに入れた女は、俺の服の内ポケットをまさぐり始めた。
「あった。あった。これも回収です。ようやく手に出来ました。こんなものが存在しなきゃ、
女は俺の言葉を無視するように、桧山真治が残した例の『椿』という小説のデータが入ったUSBを手にすると、自分のズボンのポケットに入れる。
「それ返せ……。それは重要な証拠品だ……俺は刑事だぞ。窃盗の現行犯で――」
「はいはい、どうぞ。どうぞ。どうせ死にかけているので、ご自由に。ああ、通報できませんねぇ。ザンネン。それにこれ、貴方が隠匿した証拠品ですよね? そんなの表に出せないでしょ?」
「ごふっ、ごふ。なんでそれを……まさか、お前が電話の主か……」
「さて、それはどうですかね。うん、よし。こちらの用事は9割方終わりました。もう少しだけお時間あるので、舘岡薫さんとおしゃべりしましょう。とりあえず、質問。私は誰でしょうか?」
「ふざけるな……。早く救急に通報しろ。窃盗の件は見逃して――ぐぅううううっ!」
女が両手で力いっぱい胸部を押してきた。
折れたあばらが神経や内臓を刺激して、脳みそがパンクしそうな痛みを送ってくる。
「私は誰でしょうか? 舘岡薫さん、ご返答は?」
「し、知るか。がぁあああっ! クソ、触るな!」
「ヒント1ね」
女がパーカーのポケットから、真っ赤な椿の花を取り出して、へしゃげた運転席の上に置く。
椿の花だと……。椿沢姉妹は2人とも死んだはずだろ……。
「もう一回聞くね? 私は誰でしょうか?」
「そんなわけがない。2人とも死んでるんだ。ごほっ、ごほっ」
「そう? じゃあ、ヒント2。5年前仙台のアパートで焼死した若い女の子が『椿沢綾乃』だったという証拠が、丸山という刑事によって捏造されてたとしたら?」
「何を言って――」
「警察は内部の人を信じる悪い癖があるから、証拠品の捏造なんて簡単にできちゃうわけ。
痛みと出血で意識がぼんやりとして、頭が上手く回らないでいる。
「お前は……」
「ヒント3。椿沢裕実の双子の片割れを攫った人は誰? 送検の書類にはこの人物に関しての言及がなかったわね。整合性がの合わない情報は無視するのが警察の悪い癖。さぁ、私は誰かな?」
「無視したわけじゃない……。桧山の事件には関係ない情報だった。がはっ!」
「なかなか正解が出ないね。ヒント4。宗川久治の葬儀に現れ、真っ赤な椿の花をたむけた若い女。あれについても送検の書類には言及がなかった。時期的に白川朋乃はすでに青木ヶ原樹海で死んでたはずだから、別の容疑者が出ると困って無視したわね。さぁ、私は誰?」
「違う、違う! あれは俺の見間違いだ! 勘違い! 宗川さんの葬儀でそんな女は見てない! ああぁ、クソ、目がかすむ!」
「舘岡薫さんは優秀な警察官だと思ったけど、なかなか答えてくれないね。ヒント5。椿沢達弘、佐枝のクズ夫婦がある日を境にクソ真面目にひっそりと生きる選択をしたことに対しても、答えを出してないわね」
「それは……」
「ああ、これはムズカシイと思うから答えておいてあげるね。2人は脅されてたの。養い親として3年間ちゃんと勤めれば解放してもらえるってね。誰に脅されたかは秘密。でも、3年後、用済みとして殺されちゃったけどね。ああ、これは内緒だったね。さぁ、私は誰でしょう?」
女の喋る声が徐々に遠くなっていく。意識も歯を食いしばってなければ飛んでいきそうだった。
「お前は……」
「うんうん、お前は?」
「椿沢……」
「うんうん、椿沢。いいよ。近づいた。それで名前は?」
混濁する意識の中、頭に浮かんだ名前を口にした。
「綾乃か……」
「せーかい。って言いたいけど、ヒント6。漢字の『椿沢綾乃』とカタカナの『ツバキサワアヤノ』どっちでしょーか!」
「漢字に決まってるだろうが……。げはっ、げはっ」
女が俺の目の前に顔を近づけてきた。
「残念。不正解。私はカタカナの方の『ツバキサワアヤノ』。漢字の方は
「ま、まさか、入れ替わりか?」
「ノーコメント。焼死した子に関してもね。あと、白川朋乃として送検された子に関してもね。椿沢の秘密を守る仕事をしてるのは私の方。裕実の双子の姉の子でカタカナの『ツバキサワアヤノ』を名乗る私よ」
「裕実に双子の姉!? それって、もしかして……桧山の小説の――」
「桧山の小説を読んで、椿沢のことを知った舘岡さんには教えといてあげるね。椿沢はまだ存在してるの。この国のどこかにね。裕実の放った火には焼かれずに富と権力を保ってるの。でも、その椿沢の秘密は守られなければならない。外の人間が富を狙って椿沢に入ってこないようにね。だから、私が椿沢の秘密を知った者の処分を任されてる。といっても――」
「お前が『ツバキサワアヤノ』……。顔をみせ……ろ」
力を振り絞り、かろうじて動く右手で、『ツバキサワアヤノ』と名乗った女のサングラスとマスクを奪い取った。
「嘘だろ……顔が……顔がない」
サングラスとマスクを奪い取った女は、目も鼻の穴も口もないのっぺらとした顔をしていた。
あるはずの顔がないことに、本能的な恐怖を感じ、顔を背ける。
「酷いね。バケモノでも見たみたい。まぁ、私は半ば化けものみたいなもんだしね。驚かせたかな。さて、答え合わせも終ったし、舘岡薫さんとはお別れかな。桧山の件は私を助けてくれてありがとうね。被疑者死亡で送検されたことで、全てを主導した私は無罪放免だしね。ありがとう。じゃあ、バイバイ」
のっぺらとした顔の『ツバキサワアヤノ』は、手にしたライターの火を点けると、衝突のショックで随所から漏れ出していたオイルに火を放った。
「やめろぉおおおおおおっ! やめてくれぇえええ!」
燃え広がった炎が車を包み、その熱で肌が焼ける。
『ツバキサワアヤノ』は俺が燃えていく様子を見届けることもなく、背を向けて歩き出した。
勢いを増した炎から発生した黒い煙が車内に充満し、へしゃげた運転席に置かれた椿の花が炎によって燃え尽きると、俺の意識はそこで途絶えた。
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