#09 続く恐怖
そのニュースを僕が知ったのは、事故が起きてから3日後だった。
亡くなったはずの桧山先輩が送ってきたあのUSBを渡した舘岡という刑事が、奥多摩で交通事故に遭い亡くなったというニュースをネット記事で知った。
記事によると、停車中に認知症を患い深夜徘徊を繰り返していた老人が運転する車に突っ込まれ、車両火災が起き、そのまま焼死してしまったらしい。
ちょっとした縁しかなかったけど、桧山先輩のあのUSBを託した相手が火に焼かれて亡くなったことに、うすら寒さを感じている自分がいた。
うすら寒さを感じてる理由は、目の前のパソコンにある。
あの舘岡という刑事には、
『椿』の原稿データをコピーしたことを舘岡刑事には黙っていた。
言わなかった理由は、世話になった桧山先輩の遺作だからだ。
けっして出来のいいホラー小説ではないけど、桧山先輩は自分の創作の師匠みたいな人だし、形見として持っておきたかった。
USBを提出してしまえば、事件の証拠品として保管され、送検されたあとに、自分に戻ってくるのか分からなかったこともデータのコピーを取ることの後押しをした。
けど、今はこの桧山先輩の『椿』の原稿データを自分の手元に残したことを後悔している自分がいた。
USBを託した舘岡刑事が事故に遭ったうえ、焼死とかしてると、目の前のPCに表示されている先輩の『椿』という作品が呪われてるんじゃないかという気持ちになる。
この『椿』を巡っては、僕の知る限り桧山先輩、そして今回の舘岡刑事と2人が亡くなっている。
偶然として片付けられないものが、この『椿』を巡って起きているような気がしてならない。
僕の杞憂であればいいんだけども……。
『椿』の原稿データを消そうとした手を止め、深いため息を吐いた。
「幹也、お風呂空いたよ。いいかげん、パソコン閉じなー。カノジョが部屋に来てるのに、カタカタ文字打つのはどうかと思うんだけど」
急に声をかけられた僕は、慌てて先輩の遺作である『椿』を映し出していたノートPCを閉じる。
声の主は学部やサークルは違うけど、同じ大学に通い、同い年の
凛は僕のカノジョだと自称しているが、僕が彼女に告白した覚えはいっさいない。
終電を逃し自宅に帰れないと、うちに来て風呂に入り、食糧を勝手に食い荒らして、僕のベットを占領して寝ていく悪魔だった。
本当なら怒って追い出すべきなんだが――。
なまじ凛のスタイルと顔がいいため、いつも僕がなし崩し的に泊まることを許してしまう日々が続いている。
けど、カノジョじゃないんだよなぁ……。
「凛、今日こそ言わせてもらうが――」
「食材、食材。幹也、ちゃんと買ってある? あーお腹空いたぁー。幹也の分も作っとくから、ほらほらお風呂入りなー」
「あ、あのなー」
「はいはい、旦那様ー。お風呂の時間ですよー」
「くっ!」
ニコニコ顔の凛に、またしても文句を言えず、両手で脱衣所の方へ押し出されてしまった。
抗弁を諦め、脱衣所で服を脱ぐと、浴室に入っていく。
一人用のアパートのため、ユニットバスの風呂は狭いのだが、洗い場の小さな棚には凛の私物が所せましと置かれている。
僕の部屋の風呂のはずなのに、完全に凛の第二の我が家状態にされているのであった。
凛の私物を避けて、自分用のシャンプーやボディーソープを取り出し、身体を綺麗にすると浴槽に浸かった。
まったくもって、僕には凛という生物が理解できない。
普通、終電逃したからって、彼氏でもない男の家に上がり込んで、風呂入って、飯食って、寝るなんてしないだろ。
それに、わざわざ僕の部屋じゃなくて、凛と同じサークルの友達の家に泊まらせてもらえばいいのに。
コミュ強の凜には、いろいろと知り合いが多いんだしさ。
ああぁ! よく分かんねぇ。
凛と知り合ったのは、無理やり押し付けられた学祭の実行委員会でだった。
凜は就活に有利になるから参加していたらしいが、僕は押し付けられて渋々参加だったのでやる気は低かった。
だから最初は適当にふんふんと頷いてるだけの存在に徹してたわけなんだが――。
凜と上級生たちが、ムチャクチャな計画スケジュールで話をまとめていくのを見て、頷いているだけだと、自分の生活が危ないと察してしまったのだ。
生活が壊されない範囲の計画にした修正案をまとめて凛たちに渡すと、なぜだかまとめ役にされ、最後まで扱き使われたのが、彼女との出会いだった。
その後、学祭の実行委員として連絡先を交換してた凛から、連絡を取ってくるようになり、部屋の住所を教えたら、このざまである。
そう言えば、桧山先輩も凛と僕との奇妙な関係のことを知って、珍しく大笑いしてたよな。
あの時、桧山先輩は「それ、お前の周り固められてるんだろ。気付いたら包囲されて手を挙げるしかないやつだぞ」と言ってたけど――。
本当にそうなのかもしれない……。いやいや、カノジョじゃないから、それはない。
正気を取り戻すため、手ですくったお湯を顔にかけた。
「幹也ー! 味付け辛めにしたいけど、いいよねー?」
「ああ、凛の好きな味で構わないが――」
って――、違うんだ。これは、普通じゃないだろ……。普通の恋人とやってほしいんだが。
奇妙な関係性を構築したカノジョを自称する生物との今後を考えていたら、やたらと長湯になってしまった。
「ふぅー。さっぱりした」
風呂から上がると、台所で料理をしていたはずの凛の姿がなかった。
「凛、あれ? 凛?」
「ん? こっち、こっち。先に食べてるけど、幹也の分もちゃんとあるよ」
寝室兼執筆部屋にしてる部屋から凜の声が聞こえてきた。
部屋の仕切りになってる扉を開けると、僕の椅子に腰を下ろし、ノートPCの中身を見ながらどんぶりに盛られた親子丼を食べている凜の姿が飛び込んできた。
やっべ、桧山先輩の小説のデータを見られるまんまだった!
すぐに凛が覗き込んでいたノートPCを閉じる。
「ちょ!? 凛、勝手に僕のノートPC開かないでくれって、前も言ったよね!?」
「なになにぃ~。幹也はカノジョに見られたらマズいものPCに入れてるのかなぁ~?」
凜がニヤニヤしているが、見られて困るのは桧山先輩の遺作である『椿』くらいだ。
この作品は死人も出てるから、あんまり人に見せない方がいい気もしてる。
「こ、困る物なんてないけど、プライバシーってものが僕にもあるの。凛でも分かるでしょ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。ちょっと小説を読んでただけなのにさー」
「まさか、読んだ?」
手にした親子丼を食べ終わった凜が、悪びれた様子もなく頷く。
すでに手遅れだったと知った僕は、膝から崩れ落ち、天を仰いだ。
「もぅー、勝手に読むなよ! どうなっても知らないぞ!」
「なんで、そんなに怒るのさー。わりと面白そうだったよ。わたし、ホラー好きだし。因習村ってのも、なんか都市伝説とかっぽくていいかも。案外、こういう話を好きな子多いと思うんだけどなぁ」
「凛が読んだやつは、いわくつきの外に出せないやつなの! 読んだこと言いふらさないようにね!」
「いわくつきってなに?」
「ヤバいやつってこと。この話を蒸し返すなら、凛には出てってもらうから!」
「本気で言ってる?」
「本気!」
さすがに僕も桧山先輩の遺作に関して、凜に言いふらされたら困るので、いつもみたいになぁなぁで見逃すつもりはない。
いつもと違うと察したのか、凜が口にチャックする仕草をすると、黙って頷いた。
「それは、他の人にこれのことを言わないって了承したことでいい?」
凜は神妙な顔つきで黙って頷いた。
傍若無人な悪魔っぽい凛だけど、僕が本当に嫌がることは絶対にしないという安心感は、これまでの付き合いで感じている。
その凜が頷いたから信じてあげることにした。
「よし、じゃあ、許す」
「はぁ~、びっくりした。そんなに幹也に怒られるとは思ってなかった。ビックリしたから眠たくなってきちゃったよー。私、もう寝るね。そこの親子丼食べていいからね。片付けは幹也の仕事。じゃ、お休み」
空になったどんぶりを僕に渡した凛は、椅子から立ち上がるとベッドにダイブして、そのまま寝息を立て始めた。
まったく……。食ってすぐ寝ると消化に悪いぞ……。
というか、普通ならごめんって言って頭下げたりしてから寝ないか? まったく、凜の行動は分かんねぇ。
その後、凜が作った親子丼を夜食として食べ、後片付けをすると、ノートPCに残してある桧山先輩の『椿』は、凜にこれ以上読まれないよう圧縮ファイルにして鍵をかけておいた。
作業を終えた僕は、押し入れから毛布を取り出し、そのまま床で寝ることにした。
これで、いわくつきの桧山先輩の『椿』に関して、何もなかったことに出来たと思っていたんだけども……。
僕と凛との間に不可解なことが起き始めたのは、GWが開けた7日の夜からだ。
7日の夜、本命企業の面接に向けての練習をしてたら、凛からLINEで写真が送られてきた。
写真は部屋の玄関にあるドアポストに椿の花が差し込まれているものだった。
その写真を見た僕は、すぐに桧山先輩の小説のあるシーンが思い浮かんだ。
椿沢から逃げ出した双子姉妹の妹の部屋のドアポストに、毎夜差し込まれていたのが、椿の花だったはず……。
でも、悪い冗談だろ……。また、凜が僕をからかってるんだ。
すぐに『そんな写真で僕をからかうなら、もう家に来ても泊めないから』と返す。
既読が付いたと思ったら、着信が鳴った。
相手は凛だ。
すぐに着信ボタンを押す。
「からかってないって! 帰ってきたら、ドアポストに差さってた! わたしが幹也に嘘言ったことある?」
いつも小悪魔っぽく冗談めかして喋る凜が、珍しく声を荒げていることにビックリする。
「気持ち悪いよ。ストーカー? かもしれないし! これって、この前幹也が怒った小説の――」
「凛、それは言わない話にしてあっただろ」
「でも――気持ち悪いよ。幹也、怖いって」
「ちゃんと部屋の施錠してれば、大丈夫。それでも、もし怖いなら、ディスコ―ドに上がって僕の面接相手になって。喋ってれば怖さもなくなるだろ」
「う、うん。まぁ、そうかも。じゃあ、今から準備する。待ってて」
「ああ、頼む」
その日は、ディスコ―ド上で画面共有しながら、通話を繋ぎ、明け方まで面接の練習をしつつ、凜といろいろな話をして過ごした。
でも、翌日の夜も、翌々日の夜も、凜から同じような写真が送られてきた。
真っ赤な椿の花が、ドアポストに差し込まれてる写真だ。
凜によると前日の椿の花は気味が悪いので、朝にゴミとして捨てたらしいが、バイトから帰ってきたら別のが差さっていたそうだ。
それが3日も続いてる。
「幹也、怖いって! 今日、そっち行っていい? お願い! 一人だと怖いから……怖すぎだって!」
通話越しにも、凜が取り乱している様子が手に取るように分かる。
3日連続でされたら、どうしたって、あの桧山先輩の小説のことが脳裏によぎるよな……。
さすがに凛一人にしとくわけにもいかないよな。
場合によっては警察に通報も――でも、まだ実害みたいなものがないし、取り合ってもらえないかも。
「とりあえず、安全が確認できるまで、何日かこっちに泊めてあげるから、ちゃんと荷物を用意してきて」
現状でも警察が動いてくれるか微妙なところだったので、凛の安全確保のため自分の部屋に来させることにした。
「う、うん。ありがと。ありがとね。幹也。すぐに準備していく」
「時間も遅いし、駅まで迎えに行こうか?」
「ううん、大丈夫。部屋まで行くよ」
「分かった。気を付けて来て」
「うん、待っててね」
凜との通話を切り、もう一度LINEに表示されたドアポストに差さる椿の花を見た。
本当に呪いとかじゃないよな……。
凜のことを待つ間、手持無沙汰だった僕は異変の原因である桧山先輩の小説の舞台である因習村の『椿沢』に関して少し調べてみた。
地名以外で検索に引っかかってきたのは、某匿名掲示板のスレッド名だ。
『都市伝説で囁かれてる因習村の椿沢ってホントにある?を確認するスレ』と書かれている。
昨日、9日に立てられたスレッドらしい。
内容桧山先輩が殺された事件に椿沢が関係していたという話だ。
事件の報道に関しては調べてたけど、桧山先輩を殺した犯人は『白川朋乃』と『久我沼雅也』で、すでに死んでると言ってたけど――。
このスレには『白川朋乃』の双子の妹である『椿沢綾乃』が、焼身自殺していたことが書かれていた。
しかも、桧山先輩の書いた例の『椿』を巡って盗作で揉めてたとか……マジかよ……。
つまり、あの『椿』に関わって死んでる人間は3人……。
桧山先輩を殺して自殺した2人も入れると5人も死んでる……。嘘だろ、本当に呪われてるんじゃ……。
スレを読み進めると、事情を探ってた作家が、一連の話をまとめて『ツバキサワアヤノ』ってホラー作品にしたらしいけども。
僕は掲示板に貼られたURLをクリックした。
『カクヨム』というWEB小説投稿サイトに飛ばされ、セミプロ作家が書いたとされる『ツバキサワアヤノ』という作品が表示されていく。
中身は桧山先輩の書いた『椿』を示唆するような話から始まり、先輩が殺されるところや、その後の捜査過程などを推測して書いた作品になっていた。
そして、僕らしき人物が舘岡刑事に例のUSBを渡したことも書かれている。
さらに舘岡刑事と思しき人物が交通事故でなくなったところも、椿沢の秘密の護り手である顔のない女に殺されたことにされていた。
正直、事件とリンクする部分もあって気味の悪い小説というのが読んだ印象だ。
それでも続きが気になってしまい、次の章をクリックしてみた。
「嘘だろ……なんで……。なんでだよっ! なんで、僕と凛の話になってるんだよっ! おかしいだろ! これ!」
開いた次の章では、僕と凜が、舘岡刑事や桧山先輩たちを殺した例の顔のない女に殺される話が展開されている。
凜は自宅に帰ってきたところで、ガス爆発に巻き込まれて身体が肉片となり、僕はその映像を顔のない女に見せられて、自殺したように偽装されて首を吊って殺されるという話だ。
あまりにも現実感がなく、試しに頬をつねってみたところ痛みが返ってきた。
痛い……でも、痛いってことはこれって現実だ。
何がどうなってるんだよ……。自分が死ぬ小説が公開されてるなんて……。
投稿されてる小説の内容に、恐怖を感じていると、玄関のドアベルが鳴った。
「ふぁうぁっ! だ、誰だよっ! 誰?」
深呼吸をして心臓を落ち着けると、小説を読んでいたノートPCを閉じ、寝室の扉を開けて玄関に向かう。
「誰?」
「わたしだよ。わたし、早く開けて、幹也!」
声は凛だった。
すぐに施錠を解いて、玄関ドアを開ける。
真っ青な顔をした凛が勢いよく飛び込んで抱き着いてきた。
「幹也! 怖かった! 怖すぎだよー! 本当にどうなってるの!」
「僕にも、よく分かんないよ。でも、すごくマズい事態に僕たちは巻き込まれてるかも」
「マ、マズい事態? それって何? 何なの? あの椿の花と関係してる?」
普段の傍若無人さが鳴りを潜め、凜は僕の腕の中で小動物のように怯える。
僕は例のセミプロの人が書いた小説のことを知らせるか迷っていた。
内容が内容だけに、怯えている凜をさらに怖がらせる結果になるのが目に見えているからだ。
「聞かない方がいいかも。うん、僕も言いたくないし」
「なになに? なにそれ!? そっちの方が怖いってー! 幹也ー」
「大丈夫。僕の部屋に泊まってたら、凜は絶対に大丈夫だから安心しなって」
小説に書かれたのは、凜が
だから、帰らせなければ小説通りの結末は迎えないはずだ。
それに凜が死ななかったら、あの結末を避けられて僕も死なないはずだしね。
「凛、荷物はちゃんと持ってきた?」
「え、あ、うん。数日分くらいの着替えをもってきた。あとはだいたい幹也の部屋に置いてあるので事足りると思う」
「いつの間にそんな私物を……」
「来るたびに、ちょこ、ちょこ置いてったから……」
知らなかった……。確かになんか凛の私物が増えてるなと思ってたけど、それほどまでとは……。
桧山先輩に言われたこと、もしかして本当だったのかも。
つまり凜はそういうつもりだったとか? いやー、まさかな……。
脳裏に浮かんだ想像を振り払い、荷物の入ったスーツケースに視線を向けた。
玄関扉が凜の持ってきた大きなスーツケースのせいで、半開きのままになっている。
扉を閉めて施錠をしようとスーツケースに手をかけた瞬間――。
隙間から見えた共用通路の上に真っ赤な椿の花が落ちるのが見えた。
「ひぃ!」
扉に引っかかっていたスーツケースを引っこ抜くように無理やり引っ張り、力いっぱいに扉を閉めると施錠をした。
「ど、どうしたの!? 幹也!?」
「な、なんでもない。なんでもない。うん、なんでもない」
「本当に?」
僕より小柄な凜が見上げるような形で不安そうに聞いてきた。
僕の部屋の玄関先に、椿の花が見えたなんて口が裂けても凜には言わない。
大丈夫、窓は施錠してあるし、アパートの住民もいるし、勝手に入って来れないはずだ。
「凛、悪いけどご飯作ってくれる? 僕、調べものしてたから食いそびれててさ」
「ご飯……。そう言えばわたしも食べてない。作る。でも、幹也も台所にいて。怖いから」
「ああ、分かった。でも荷物だけ寝室に運んでおきたいんだけど」
「一緒に行く。独りぼっち怖い」
一緒に寝室に荷物を置くと、そのまま一緒に台所に戻り食事を作る姿を監視する役を仰せつかった。
凜が料理をしながらもチラチラとこちらを確認する。
僕がちゃんといるのかを確認しているらしい。
「大丈夫いるって」
「ちゃんといてね」
「はいはい。大丈夫。大丈夫」
美味しい物を食べることが趣味という凛は、料理の腕も上手い。
見た目からだと、料理下手っぽく見えるんだけど、作ってくれる料理は店で出されるものと遜色ないものが多い。
「ありあわせのものだから、こんなもんだけど」
ありあわせとは? と言いたくなる食事が食卓に並んでいた。
どれも美味しそうな品になっている。
うちの冷蔵庫にこんな食事が作れるものが入ってたかな……。
「でも、ちょっと籠るには、食材も足らないかも……」
「明日買い出しに行こうか」
「大学の授業どうするの?」
「僕はもう単位はほぼ揃え終わってるしね。本命企業の面接の方に時間をとりたいし。凜は?」
「わたしも同じ」
「なら、しばらく籠ってても大丈夫だよね?」
「うん、じゃあ、バイト先に急用でシフトに出られなくなったって伝えておく。とりあえず、1週間くらいだよね?」
「ああ、あんま酷いストーカーなら警察にも入ってもらうしね」
「分かった。じゃあ、1週間って連絡しとく」
凜が自分のスマホでバイト先に連絡する姿を見ていると、自分の腹が鳴った。
「先に食べてていいよ」
空腹に耐えきれず、僕は凜の作った食事に手を付けた。
その日の夜は、凜がお風呂に入りたいと言い出して、僕が浴室の出入り口の見張りをさせれたこと以外変わったことは起きず。
いつも通り凜がベッドを占拠してたから、僕は床で寝ようと思ってたんだけど――。
凜の「怖いから、お願い」に負けて、初めて一緒にベッドで寝ることになった。
「凛、寝た?」
背中越しに凜の寝息が聞こえてくる。
どうやら寝たらしい。ほとんど睡眠がとれてなかったみたいだから、眠気に勝てなかったようだ。
傍若無人な生物の凜が泊まっていく時は何度もあったけど、床で寝てた時は、こんなに緊張することはなかったんだけどなぁ……。
お風呂の見張りくらいまでは頼まれるかと思ったけど、さすがに一緒のベッドで寝るのは、想定外だった。
凜は全然気にしてないみたいだけど……。いちおう、僕も男なんだけどなぁ。
あんまり凜のことを女の子って意識してこなかったけど、今日の一日で意識せざる得ないよな……。
椿の花の件があったから、部屋に来てもらったけど、実質同棲みたいなものだし。
……カノジョ……カノジョ……って言うんだろうなぁ。こういう状態になったら。
そんなことを考えていたら、寝相の悪い凜がこちらに身体を寄せてきた。
寝るぞ。寝る。寝よう。
何が背中に当たってるのか考えるのは放棄して、僕はそのまま眠ることにした。
凜が僕の部屋に来て1週間が経った。
買い出し以外は、日中でも部屋に2人で籠る生活が続いている。
面接の練習を凛に手伝ってもらったり、2人で一緒にサブスクの映画を見たりしながら、一生懸命に椿の花のことを忘れようと努力しているところだ。
その努力はおおむね成功を収めていると思いたい。
凜は元のように傍若無人さを取り戻し始めているし、恐怖もだいぶ和らいだようだった。
ただ、ベッドで一緒に寝るのは「お願い」されるので、今も一緒に寝ているわけだが。
それと僕にも変化が起きている。
凛と一緒に暮らす時間が伸びたことで、桧山先輩が言ってたとおり、僕の周りを凜がすでに包囲してて、降参するしかない状況だということにようやく気が付いた。
まぁ、つまり僕は凜に惚れてしまっているということだ。
たぶん、大学を卒業しても恋人関係を続けたいと思っている。
ただ、一つ僕と凜との間には懸念事項があった。
例の椿の花だ。
凜が家に来てから1週間。ずっと、朝になるとドアポストに差さっている。
おかげで朝一番の僕の仕事は、凜が起き出してくる前に、ドアポストに差し込まれている椿の花をゴミとして処分することだった。
今日もドアポストに差さっていた椿の花を外に投げ捨てて処分してから、部屋に戻って来ていたところだ。
「おはよう。凛」
「ふぁぁあああ。よく寝たー。やっぱ幹也のベッドが一番しっくりくる。ちゃんと幹也の匂いもするしね」
起きてきた凜は、こっちが恥ずかしくなるセリフを平気な顔で口にしていた。
恥ずかしくて照れてるところを見られたら、傍若無人な小悪魔に戻った凜に弄られかねない。
なので、話題を変えることにする。
「そろそろ一週間だけどさ。いったん、凛の部屋の様子見にいく?」
僕の提案に、凜は少し顔を曇らせた。
未だに椿の花こそ差し込まれているけれど、ストーカーからの直接的な被害はない。
ずっと籠るのも限界があるし、ここらで一度状況確認をした方がいいと思い始めている自分がいた。
「それよりも、今日は大学に顔を出さないといけなくて……。幹也も一緒に来てくれない?」
「大学?」
「うん、一週間出てなかったから、ゼミにも顔を出さなくちゃいけなくて」
そうか、そうだよな。凜の部屋の状況確認も必要だけど……。
僕も大学にそろそろ顔を出さなきゃマズいよな。
とりあえず、凛の部屋の状況確認は明日にでもして、今日は大学に顔を出すか。
大学なら人目も多いし、学部棟は入室も学生証で管理されてるから、ストーカーも入ってこれないはずだろうし、大丈夫だよな。
「分かった。一緒に行くよ」
「ありがと」
「でも、とりあえず、朝飯食ってからだよね?」
「うん、もちろん。すぐに用意する」
僕たちは朝食を済ませ、2人で一緒に久ぶりの大学へ行くことにした。
大学に到着し、学部棟まで来ると、凜と別れ、自分の属するゼミの教室へ顔を出しに行く。
GWと就活面接対策も挟んでたこともあり、半月ぶりくらいに顔を出した僕をゼミのみんながジロジロと見てくる。
居心地の悪さを感じた僕は、すみっこで小さくなりながら、他のゼミ生の研究発表を聞くことにした。
ゼミでの用事が終わった際、担当教授にいろいろとお小言を言われたが、それもなんとか無事に終え、凜と約束した昼食時間がちかづいてた時、スマホが振動した。
見ると凛からのLINEが来ている。
約束の時間ギリギリだから、催促のLINEかな?
怒ってたら学食メニュー奢らされそうなんだが……。
そんなことを思いながら、通知の中身を見た瞬間――僕は教室を飛び出し、自宅アパートに向かって駆け出していた。
実害はなかったし、大学は人目があるだろうから、大丈夫だって、油断したっ!
僕と凜が離れた瞬間を狙ってくるとはっ! ちくしょう!
LINEには、凜が僕の部屋で何者かに拘束され「警察に通報するな」という紙を持たされている写真が表示されていた。
「凛っ! 無事かっ! 凛!」
慌てて部屋の扉を開け、急いで室内に転がり込む。
室内に知らない人の姿が見えたと思った瞬間――側頭部に強い衝撃を受けて意識が飛んだ。
次に目覚めると、部屋の中はすでにうす暗くなっており、意識を失ってから、けっこうな時間が過ぎていることを悟った。
そんなうす暗い室内だが、間接照明の明かりがうっすらとともっており、人の姿が浮かんでいるのが見える。
「誰だ? 凜か?」
「はい、そこの君、騒がないでね。騒ぐとカノジョさんが死んじゃうよ」
人を照らして出していた間接照明の光が強くなった。
真っ黒なキャップ帽に、サングラスとマスクを着け、男物のパーカーとジーパン姿をした女性が、手足を拘束し、猿轡をした凜の首筋に鈍く光るナイフを突きつけているのが浮かび上がった。
凜を拘束している女の容姿に見覚えがあった。
例の椿沢のスレッドに書き込んでたセミプロ小説家の書いた作品に出てきた、舘岡さんを殺した女と酷似した姿をしている。
あの小説だと、この女は椿沢の秘密を守るために現れるという話だったけど――。
僕や凜の部屋に、椿の花を置いてったのは、この女だったんだな……。
僕たちが油断するまで待ってたってわけか。
「凛を放せ!」
「わたしが提供するゲームに参加してくれる?」
女の表情はサングラスに隠れているため窺いしれず、冗談か本気かいまいち判断できずにいた。
「何を言ってるんだ! いいから、凜を放せ!」
「声が大きいわね。ご近所迷惑だよ。とりあえず、この動画見て」
女がどこからかタブレットを取り出し、台所のテーブルの上に置くと、動画の再生が始まった。
映像にはマネキンの首の部分に首輪らしきもの巻付いてる様子が写っており、リモコンのボタンが押されると、頭が跡形もなく爆ぜた。
「よく見て、カノジョさんの首にも同じ物が付いてるの。すごくない?」
女に言われ、拘束されている凛の首元を見ると、映像と同じ首輪が巻きつけられている。
デザイン性もあって、パッと見で爆弾とは思えない物になっていた。
「で、わたしの手元にはこれね? 分かるでしょ?」
女の手には映像と同じリモコンが握られているのが見えた。
「待て、押すな!」
「大丈夫。まだ押さない」
女はそう言うと、凛の手足を拘束している結束バンドをナイフで解いた。
そして、猿轡を外してこちらへ押しやる。
「凛! 大丈夫か? 凛!」
「う、うん。怪我はしてない。たぶん。幹也は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
「でも、ごめん。大学で急に襲われて……気付いたら、幹也の部屋だった」
「無事ならいいんだ。無事なら」
「でも、これが――」
凜の首には例の爆弾になっている首輪が巻かれている。
その起爆スイッチは女の手にあった。
「さて、ゲームにはもちろん参加してくれるよね? 拒否は――できないよね?」
女はリモコンをチラつかせてくる。
「幹也……」
凛の命を守るためには、女の言うゲームに参加しないといけないようだ……。
「ああ、参加してやるよ」
「なら、これを口に巻いてね。巻いたら、ゲームの内容を説明するね。カノジョさん、渋谷幹也君の口にこれを巻いて」
女が凜に投げ渡したのは、中央にあるゴルフボールくらいのボールの両端に取り付けられた革紐からなる猿轡みたいなものだった。
「ちゃんとボールを口の中に入れてきつめに締めてね。よろしく」
「幹也……どうするの?」
「やってくれ。凜の命がかかってるんだ」
「う、うん。じゃあ」
凜によって装着され、硬いゴム製のボールを咥えさせられ、閉じられなくなった僕の口からは、涎が垂れるのを止められないでいた。
「準備完了ね。ああ、言い忘れたけど、今つけてもらったのも、同じカノジョさんと爆弾を用いてる。そっちは頭が吹き飛ぶけどね。外してもドカンするよ」
「そ、そんなっ! 幹也になんてものを着けさせたの!」
「怒らない、怒らない。ちゃんとゲームをクリアすれば、その爆弾は外せるから安心して。はい、次はこれをカノジョさんの胸に着けてねー」
女がだぶだぶのパーカーのポケットから取り出した小さな物体を凜に投げ渡す。
胸に着けるよう促された凜が、その小さな物体に付いてたクリップで服に挟んだ。
「それボディカメラね。あと、カノジョさんのスマホ返すよ」
女は凜にスマホを返すと、先ほど台所のテーブルに置いたタブレットを操作した。
凜の胸元に着けられたボディカメラの映像が、タブレット上に表示されていた。
「ゲーム中のカノジョさんは、ボディカメラを通してこのタブレットで全部監視してるから、変な気を起こさないようにね。起こしたら――ドカンだよ」
「警察には言うなってこと?」
「そうそう、そういうこと。賢いカノジョさんで助かる。万が一ボディカメラの映像が途切れた時は、こっちからスマホにコールするけど、三コールで出なかったら、ドカンするのも覚えておいて」
「分かった。ちゃんと出る」
「では、ゲームの内容の発表。もうすぐ17時なんだけど、19時までに爆弾を解除できる鍵を手に入れて、ここに戻ってくるだけの簡単なゲームをしてもらうわ」
この女は、何でそんなゲームを凜にやらせようとしてるんだろうか……。
僕がやってもいいはずなのに……。なんで、凜を選んだんだ。
女の意図していることがまったく理解できず、気味悪さを感じていたが――凜は昨日までと違い、女を怖がる様子も見せずにいた。
「鍵の場所は?」
「カノジョさん、貴方の部屋に置いてあるの。だから、今から自分の部屋に帰って鍵を手に入れて、19時までにここへ戻ってくるだけの簡単なゲームだよ」
待て、待て、待て! 凜の部屋! それってまさか
待て、待て! どーしてこーなったんだよっ! こうならないよう立ち回ったはずなのに!
凜に向かって止めるように一生懸命アピールする。
ああっ! クソ! 喋れねえ! 外したら爆発して2人とも死ぬし! チクショウ!
「幹也、どうしたの?」
涎を垂らしながら、必死に凜に行かないよう、アピールするが意図が伝わらない。
「電車じゃ間に合わない……でも、タクシーでならギリギリ往復できるはず。うん、いける。大丈夫、いけるよ。幹也、少しだけ我慢しててね!」
女は凜を止めようと騒いでいる僕の方をチラリを見たが、特に気にする様子を見せず、自分の腕時計を見た。
「なら、17時ちょうどにゲームスタートするね」
「うん、分かった」
やめろ! 凛! 行くな! それは罠だって! 凛! 頼むよ気付いてくれ! お願いだ!
僕は必死になって行かせないよう凜の身体に縋り付いた。
「幹也、大丈夫! 大丈夫だから!」
「はい、スタート。がんばってー」
「幹也、絶対に助けるからね! 待ってて!」
凜はそれだけ言い残すと、縋り付いていた僕の手を振りほどいて部屋から駆け出していった。
誰も居なくなった玄関を見て、無力感に苛まれた僕は、壁にもたれかかることしかできずにいた。
止められなかった……。クソ、クソ、クソおおおおっ!
「じつに健気な子だね。やっぱり君にはもったいないよね。さて、これからはカノジョさんの雄姿を応援することになるから、お部屋に移動しようか。まだ希望を捨てるのは早いよ」
女はタブレットを手にすると、壁にもたれかかったままの僕に対して、寝室の方へ移動するよう手招きした。
始まってしまったゲームに無力感を覚えながらも、女に逆らえば凛の命も危険に晒すため、大人しく移動をする。
「どうぞ、座って――って、言っても君の椅子だけどね」
女はタブレットをデスクに置くと、自分は寝室のベッドに腰を掛け、僕には執筆時に使っている椅子を勧めてきた。
言われるがまま、椅子に腰をおろす。
タブレットに表示されている映像には、凜がタクシーを捉まえたところが映し出されていた。
「カノジョさんは順調みたいだね」
凜は終始時間を気にしているようで、タクシー運転手に自宅アパートまでどれくらいかかりそうなのかを何度も尋ねている。
やめろ、見たくない……。僕に凜の映像を見せるな……。
結末を知っている僕は、タブレットの映像を直視できずにいる。
「渋谷幹也君が、ちゃんと結末を教えてあげてたら、カノジョさんだけは助かったもしれないのにね」
猿轡で喋れないため、女の言葉を否定しようと思いっきり首を振る。
椿の花を怖がってた凜にあんな小説の結末を教えて、もっと怖がらせるわけにはいかなったんだ!
でも――こんなことになると分かってたら、絶対に教えてたはずだ!
こんなことが起きるなんて、普通思わないだろっ!
「その表情、僕のせいじゃないって言いたそうだね。『こんなことが起きるわけない』って言いたげだしさ。でも、わたしはちゃんと連絡してたよ。この部屋のドアポストに椿の花を差し込んでさ! でも、届いているのをずっと黙ってたよね? なんで? なんで、黙ってたの?」
女の語気は強く、僕をなじっている感じだった。
椿の花がドアポストに差し込まれた人は死ぬなんて言えるわけないし、凜がガス爆発で死んで、それを見せられた僕が自殺するなんてことも言えるわけないだろっ!
真面目にそんなことを言ってたら、僕が頭のおかしい人だって、凜に思われただろうし。
ああっ! ちくしょう! でも、こんな事態になるなら、凜にそう思われていいから言っとくべきだった! ちくしょう!
「渋谷幹也君のそういう中途半端なところが、こういった事態を招いたことを自覚してる?」
女は困ったとでも言いたげに、肩を竦める仕草を見せた。
全部、僕のせいだって言いたいのか……。
僕はただ、あの結末を迎えないよう、必死で考えて立ち回ってただけなのに!
「まぁ、わたしは別にいいけどね。こういうゲームっぽいことは嫌いじゃないし」
ベッドから立ち上がった女は、デスクの上にあった僕のノートPCを開くと電源を入れた。
「でも、本当に君は中途半端だよね。舘岡薫さんに渡した桧山のUSBのデータをコピーしてたわけだしさ」
立ち上がったノートPCのパスワードを迷うことなく打ち込んだ女が、鍵をかけて圧縮した桧山の先輩の書いた『椿』の原稿データを解凍していく。
僕のノートPCのパスワード何で知ってるんだ? それに鍵をかけてた『椿』の方も!?
「パスワード? ああ、これハッキングしてたから問題なしだよ。君がこのデータを持ってることはインターネットから把握したわけだしね。わたし、わりとパソコンも得意なの。はい、削除っと」
PCをハッキングされてて、こっちの行動が全部筒抜けだったとは……。
コピーがあることも、あのスレッド読んだことも、小説を読んだことも女が知ってた理由はそれだったのか。
「ということで、そろそろ渋谷幹也君にも、なんでわたしがこんな面倒なゲームを用意したのか理解してもらえたかと思うんだけど」
女はあの小説に書いてあった結末通りに、僕たちを葬るつもりだ。
きっと、そうに違いない。
「さて、そろそろフィナーレかな。タクシーが着いたみたいだよ」
見ないようにしていたタブレットの映像を、女が無理やり僕の顔を動かして見せてくる。
タクシーから降りた凜が、自分の部屋がある階へ駆け上がっていく。
「幹也はわたしが助けるんだ……」
やめろ凜! やめてくれ! 扉を開けるな! それはこの女が仕組んだ罠だって! 扉を開けたらお前は――。
自分が読んだ小説の通りに進む事態に対し、何も対処できないことが悔しくて涙が溢れて止まらないでいる。
「カノジョが爆発で吹き飛ぶ映像を見る覚悟は決まった?」
僕は思いっきり首を振って、女に拒否を伝えた。
「拒否はできないわね。貴方たちは知ってしまった者たちだから……。貴方が桧山の小説を保存してなかったら、こんなことにならずあの子と幸せに暮らせたかもしれないのにね。魔が差したのかな?」
ボディカメラの映像は、凜の部屋の前と思しき場所を映し出した。
もう、ダメだ……。凛、頼む。その扉を開けるな。
これから起きるであろうことに対し、半ばあきらめに近い気持ちを抱いてしまい、僕は映像を直視することができず目を閉じて歯を食いしばった。
「目を瞑ってもいいけど、カノジョの最後の姿は目に焼き付けておいた方がよくない? 最後なんだよ?」
女の言葉には耳を貸さず、声にならない声をあげ、目を閉じたままでいると、鍵を開け扉を開く音だけが耳に入ってきた。
凛、凛、凛っ! ごめん、僕が巻き込んだせいで! ごめん、ごめんよっ! ちくしょう、なんで僕じゃないんだよっ!
同時にパァンという乾いた音が鳴る。
明らかに爆発とは言えないレベルの乾いた音だった。
「なにこれ? クラッカー? もう! こんなのでわたしがビビるとでも思ってるの! 幹也の命がかかってるんだからビビるかぁ!」
凜の声がしたので、目を開けると、映像にはクラッカーの紙テープみたいなものが見えた。
いき……て……る。
ボディカメラの映像は、凜が動いている様子を伝えており、安堵した僕は椅子に身体を預けて、身体を弛緩させた。
「あら、ごめん。どうやら
もしかしたら、この僕の口を塞いでる爆弾ってやつも、からかってるだけかも……。
口を塞ぐ爆弾を外そうと、手をかけた。
「外してみたいなら、外してもらってもいいわよ。命の保証はしないけどね。忘れてるみたいだけど、貴方のが爆発したら、カノジョさんのも爆発すると言ったはずだけど?」
サングラスとマスクで、女の表情が読み取れない……。
こっちの心情を見透かしているのか……。
「どうぞ。取ってもらっても構わないわ。2人一緒にドカンして、頭と首を飛ばす?」
相手からの圧に負け、僕は首の爆弾から手を放し、視線に視線を戻した。
「賢い選択だね。さて、カノジョさんは、箱を見つけたみたい」
凜が自分の部屋の中に入ると、テーブルの上に一枚の紙と金属製の小さなボックスが置かれているのが見えた。
「幹也! 鍵の解除コードあったよ! 幹也のノートPCに打ち込めだってさ!」
ボディカメラに見えるように、解除コードが書かれた紙を凜が見せてくる。
英字が並んでるようだが……。
「解除コード読み上げるね。B・O・K・U・M・O・S・U・G・U・N・I・I・K・U」
凜に言われた通り、自分のノートPCに表示された鍵の解除コード欄に打ち込んでいく。
言われた通りに打ち込み終えると、送信ボタンをクリックする。
「開いた! すぐに鍵を持って帰るからね。幹也、待ってて! すぐに帰るから!」
「おめでとう。後はこの部屋に
部屋の時計を見ると、女の言った通り、制限時間とされる19時まであと40分ほどしかない。
凜のアパートからだと、タクシーを使ってもギリギリの時間だよな。
間に合うのか……。間に合ってくれ……頼む。2人とも無事に生き残ろう。凛、頼む。
映像では自分の部屋から飛び出した凜が、階段を駆け下り、待たせていたタクシーに乗るところを映し出している。
「カノジョさんは、タクシーに乗ったみたいだね。到着まで時間もあるし、少し雑談でもしようよ」
女は僕の前に椅子を持ってくると、そのまま腰を下ろす。
「渋谷さんは、先ほどの
質問の意図が分からず首をひねる仕草をした。
「なぜ、英字のみだったのかとか。普通、英数字だと思うんだけど。なんで英字だけだったのか気にならない? わたしは気になってるの。もう一回さっきの解除コードを思い出してみて」
女に言われた通り、さっき打ち込んだ解除コードを思い浮かべる。
B・O・K・U・M・O・S・U・G・U・N・I・I・K・Uだったよな。たしか。
取り立てて変わった――ん?
「何か気付いた?」
ローマ字読み……。ローマ字読みだ……! ローマ字で読むと『僕もすぐに行く』となる。
どこに行く? 何をしに行く? いったいこの女は何が言いたいんだ?
「自殺にはやっぱり遺書がいるでしょ? 最近はパソコンやスマホにそういった遺書を残される方も多いと聞いてる」
遺書? この女は何を言って――。
「この『僕もすぐ
まさか……僕を自殺に追い込むってことか? でも、凜は死んでないぞ? 凛が鍵を持って帰ってきたら助けるって話は嘘か?
こちらの懸念を察したように女は口を開く。
「もちろん、貴方のカノジョさんが無事に鍵を持ち帰って爆弾を解除できたら、約束した通り今後一切2人には手出ししないよ。それだけはちゃんと約束するから」
女の言葉をどれだけ信用できるか分からないが、今は信用するしかない。
この爆弾さえ解除できてしまえば、相手は女一人。
男の僕が抑え込めば、凜が逃げ出して警察を呼ぶ時間くらいは稼げるはずだ。
「無事に帰ってこれたらだけどね。でも、タクシーだと、この時間帯は帰宅ラッシュも重なり混むんだよね」
ボディカメラの映像からは、遅々として進まないタクシーに凜が苛立っている様子がわかった。
制限時間までは、あと30分ほどある。
「ああ、そろそろ踏切だね。ここ、帰宅ラッシュ時は40分以上、遮断機が下りたままになることもある場所だって知ってた? 車をよく使う人だとこの時間は回避するルートだよ……。でも、カノジョさんは、タクシー運転手の提案した回避ルートを拒否したみたいだね」
開かずの踏切……!? 凜は帰る時間を気にしすぎて、ルート選択間違えたのか……。
「ああ、でもあの場所からだったら、踏切くぐれば、走って間に合う距離かな。どうするんだろうね?」
踏切をくぐる!? そんなことさせるわけには!?
「どうやら、カノジョさんは選択したみたいだよ」
ボディカメラの映像には、凜がタクシー運転手に支払いを済ませる場面が映し出されていた。
タクシーから降り、警告音の鳴る踏切に近づいていく。
遮断機は下りたままで、警告音は鳴り響き、上下線とも通過の表示がされていた。
「幹也、絶対に助けるよ」
映像はドンドンと踏切に近づいていく。
やめろ、やめろ、やめろ! 凛! そんなことするな! 危なすぎるだろ!
「健気なカノジョさんだね。貴方にはもったいないかな」
僕は女の方を見ると、凛に止まるように伝えて欲しいと懇願の視線を送った。
「無理だよ。カノジョさんは自分で選択してしまったんだし。わたしが止めるわけにいかないかな。無事にくぐり抜けて帰ってくることをお祈りしとくしかないよ」
嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 頼む! 何でもするから、凜を止めてくれ! 頼む! 頼む!
「無理だって。わたしもルールを守ってるんだから、貴方たちもルールを守ってもらわないと不公平」
女は床に頭をこすりつけていた僕の身体を軽々と持ち上げると、ボディカメラの映像を映し出すタブレットの前に座らせた。
「さぁ、ちゃんとカノジョの雄姿を見てあげて」
女の手からものすごい力で顔を固定され、映像から視線を逸らすことができない。
映像は凜が踏切をくぐるところを映し出していた。
やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ! 凛っ! やめてくれぇえええええええっ!
電車の様子を見定めて、踏切内に侵入していく。
一つ目の線路を渡り終えた時、目の前を電車が通過していった。
「セーフ。ギリギリだったね。一歩早かったらミンチだったよ」
凛、凛、もういい。やめてくれ! 引き返せ! 引き返してくれ!
「幹也、幹也、幹也、大好きだよ。絶対に死なせない」
映像から凜の声が聞こえてくる。
クソ、クソ、クソっ! 大事な人をこんな危険な目に遭わせるくらいなら、桧山先輩の小説なんて保管しなきゃよかった! ちくしょう! なんて馬鹿なことをしたんだ!
僕が自分の愚かさを悔やんでいる間に、凜は二つ目の線路を渡り、映像は三つ目の線路に差し掛かったところを映し出した。
電車からの大きな警笛が聞こえたかと思うと、鈍い衝撃音がして、ボディカメラの映像が夜空を映し出す。
やがて地面に落ちたボディカメラは、肉片となった
うぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ! りぃいいいいいいいいんんっ!
「あらあら、残念。上下線の見間違いかな。生還ならずだったね。もう少しだったけど、本当に残念。さて、ゲームは貴方たちの負け。遺書も用意したし。お薬も飲んでおこうね」
女は僕の口を塞いでいた爆弾を手で引きちぎって外す。
「ちなみにこんなのダミーに決まってるでしょ。爆弾なんて足の付きやすいもの使えないし。カノジョさんのもダミーだったわけ。抵抗して逃げ出して警察に駆け込んでたらまた違った結末だったかもよ」
「ちくしょうううううっ! ふざけやがって! 凜を返せ! 凜を! 」
僕は女に掴みかかると、全力で首を締めた。
細身の身体から信じられないほどの怪力を出して、女は僕の手を振りほどいた。
「カノジョさんの結末は、彼女が
「ふざけるなっ! 凜が選んだ? 選ばざるえなかったの間違いだろ!」
「そこは見解の相違ね。はい、雑談はここまで。これからはお仕事させてもらうね」
女は僕の身体を押さえ込むと、口を無理やり開かせて錠剤を大量に流し込んでくる。
「はい、お水もどうぞ」
浴びるように水を顔面にかけられ、窒息しかけ、息をするため錠剤を大部分飲み下してしまった。
「ゲホッ! ゲホっ!」
「吐き出したらダメだよ。ほらごっくんして」
女が僕の口に手を当て、吐き出させないようにさせてくる。
その手はニンゲンのものと思えないほど冷たくて、氷を当てられているようだった。
「カノジョが死ぬ場面を直接見てしまった渋谷幹也君は、自暴自棄になり、後追い自殺を遂げてしまう。たしか、
なんでこうなっちゃんだよ……。
凛まで巻き込んで死なせてしまった。クソ、クソ、クソッ!
なんで、こうなるんだよっ! チクショウ! チクショウ! チクショウっ!
「でも困ったことに吊る場所が、このアパートだとないんだよ。だから、ドアノブにしとくね」
女は僕の首にロープを巻き付けると、抵抗する僕を無視するように、そのまま引きずっていき、寝室の扉のドアノブにロープを括りつけた。
「さて、準備はできたよ。遺書はノートPCにある。自殺したカノジョが、ライブ配信してた最後のシーンもタブレットに残した。お薬を飲んだ。ロープはドアノブにしっかりと固定した」
女は暴れる僕をドアに押さえつけたまま、あれこれと確認をしていく。
「ほら、暴れないの。あっちに逝けば、カノジョが待ってるから」
「ひ……とごろし……」
薬の成分が効き始め、急激な眠気が襲ってきて、身体に力が入らなくなる。
「椿沢の秘密を守るためだもん。しょーがないよね。さっきも言ったけど、秘密を知らなきゃ殺されずにすんだよ」
眠気に抗い、腕を動かし、女の髪を引っ張る。
髪の毛はするりと床に落ちた。
「ウィッグ……!?」
「酷いなぁ、髪は女の命って聞いたことないの? まぁ、でも死にゆく幹也君には素顔を見せてもいいかな」
目の前の女はサングラスとマスクを外した。
小説に書かれてた通り、のっぺりした顔が現れる。
髪もなく、目も鼻の穴もなく、口すらない顔だ。
耳の穴だけが存在を主張しているのが、とても気味悪く感じ、身体が恐怖で震えだした。
「化け物を見たような顔をしないでよ。これでも
「ば、ばけも……の」
それまで感じていた凜を殺した女への激しい恨みも、恐怖が勝って消し飛んでしまった。
ニンゲンではないものと遭遇した恐怖で思考が麻痺していく。
「違う、違う。名前はちゃんとあるの? 賢い渋谷幹也君なら、わたしの名前を知ってるよね?」
「答えたら……助けて……くれるのか?」
恋人だった凛の無残な死のことなど、なかったことにしてでも、僕は目の前にいるばけものから逃げ出したいと思う気持ちがドンドン強くなった。
「それは無理。でも、苦しまずに逝けるようにしてあげる」
「しに……たく……ない」
「起きてないと首が締まるよ。ほら、わたしの名前を言って、苦しまずに逝こう」
僕は精一杯の力を振り絞り、首を振る。
「言えば楽に逝けるよ。ほら、早く。わたしはだーれだ?」
眠気で意識がもうろうとなり、身体を支えることができずに床に倒れそうになる。
「かはっ、かはっ!」
ドアノブにひっかけてあるロープが、僕が床に倒れることを許してくれなかった。
首の血管が圧迫されていく。
身体に力が入らず、もがくこともできずにいた。
「あらあら、苦しそう。わたしの名前を言えば、楽に逝けるって。ほら、言ってみ」
顔のない女が、倒れかかっていた僕の身体を元の位置に戻してくれた。
「もう、僕が助かる手段は……?」
「ないわよ。わたしが来た時点でもう生き残れる選択肢はないもの」
「……」
「貴方が桧山の小説の中身に触れないまま、USBを刑事に渡してたら、
「
「『椿沢を認識してない世界』のことよ。でも、貴方は触れてしまったから、こっち側に来てるわけ。桧山もね。あの刑事もカノジョさんも」
「そうか……そういうことか。どのみち僕らはもう手遅れだったんだ……」
僕たちは桧山先輩の残した小説によって、椿沢に触れてしまった瞬間、この結末が決定されてしまってたんだな……。
凛……ごめん。僕が全部悪かったんだ……。
向こうに逝ったら何でも言うこと聞くよ。それで許してくれ……。本当にごめん。
「そういうことね。知ってしまったんだもん」
全部今までと同じだけど、違う場所になってしまった。
それを理解できた時、僕は生き残ることが無理なことを悟った。
「そうか……なら、ジタバタあがいてもしょうがない。諦めること……にするよ」
「賢い選択ね。それで、わたしの名前は分かるの?」
「ああ、分かる。君は『ツバキサワアヤノ』。もちろん、カタカナの方のね……。これでいいだろ? 楽に逝かせてくれ」
「お疲れさまでした。渋谷幹也君、よい夢を」
僕は冷たい肌の『ツバキサワアヤノ』の胸に抱かれながら、襲い来る眠気に抗うことをやめることにした。
凛、すぐにそっちに逝くよ。
僕の意識はそこで途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます