#05 椿沢裕実
東京の捜査本部に戻った俺たちは、仙台での情報収集で得た『椿沢綾乃』にまつわる各種情報をデスクである西田係長に報告していた。
「聞けば聞くほど気味悪い話だな。剥いても、剥いても正体がモヤ付いている女だ。その椿の花や義理の両親のトラブルに関連してそうな人物の目星は?」
「今のところ該当しそうな者は……皆無です。今、田嶋さんと佐々木に『椿沢綾乃』の実母である『椿沢裕実』の方の関係者を調べてもらってます。そっちから出てくるかもしれません」
「そうか……。何かあれば、すぐに連絡しろ」
西田係長の顔には疲労の色が浮かんでいる。
俺たちが仙台で情報収集していた間も、ホンボシである久我沼弁護士の所在を突き止める捜査が続けられていたが、顔色を見る限り芳しい成果は出てないようだ。
特命組とはいえ、ホンボシと想定される久我沼弁護士の捜査動向は気になるので、怒られるのを承知で聞いてみた。
「久我沼弁護士の方はまだ――」
「まだだ! 2024年12月7日の朝、自宅から出た後の足跡が全く追えてない! 生きてるのか、死んでるのかも分からんのだ! 防犯カメラ映像もない、パッと神隠しにあっちょうに消えてるんだ! このままだと迷宮入りするぞ!」
西田係長の怒声によって、会議室に居た捜査員の視線が、一気にこちらに向いた。
情報の少なさにみんながピリ付いている感じってところか。
「久我沼弁護士の所在確認をするため、捜査員も増員してもらってるが、このまま成果が出ないと、早々に捜査本部は縮小される。そうなる前にどんな小さな情報の欠片でも捜査本部に出してくれ」
西田係長の隣で腕を組んで目を瞑っていた村田管理官からも焦りの色が見え隠れしていた。
「はい、了解しました。うちの班は引き続き、『椿沢綾乃』の周辺から被疑者特定に繋がる情報を洗い出します」
「ああ、頼む。久我沼ホンボシの線が所在不明のどん詰まりになった場合、舘岡たちが追ってる線が重要になってくる。しっかりやってくれ」
2人に軽く敬礼して、捜査本部から立ち去ると、『椿沢裕実』の方を調べている田嶋と佐々木がいる青梅警察署に向かうことにした。
捜査本部の置かれている高井戸署から、車で1時間半ほど離れた青梅警察署に着くと、署内の会議室の一部を借りて調べものをしている2人のもとに合流する。
「仙台出張、お疲れ様でした」
「ああ、LINEで送ったこと以上の土産はないぞ」
「土産なしか……。牛タン……よ。さらば」
「佐々木先輩、藤堂みたいなこと言わないでください!」
「え? オレ、佐々木さんみたいな不謹慎なこと言わないっすよ! 美佳先輩、心外っす!」
「うるせぇ、うるせぇ、それで佐々木、『椿沢裕実』の方で何か出てきたか?」
「ええ、まぁ、実母の『椿沢裕実』の戸籍から関係者を遡って調べようとしてたんですけど、それが両親の欄が空欄でして。調べてみたら、どうやら孤児だったようで……。本籍地として登録されてた青梅でいろいろと来て調べてたんですよ」
「孤児?」
佐々木は『椿沢裕実』の戸籍情報と、古い小さな記事を拡大して載せたコピー紙を差し出してくる。
記事には4月の某日に15歳前後の未成年の若い女の子が、奥多摩の駐在所で保護されたと書かれていた。記事の日付は今から35年前の1990年5月14日になっている。
内容を詳しく読むと、保護した女の子は酷く衰弱しており、記憶が混濁した様子で意識も朦朧していたが、自分の名前と年齢だけはしっかりと言えたらしい。
けれど、女の子が口にした戸籍情報はなく、警察も手を尽くしたが身元が分からず、孤児として処理され新たに戸籍を作ったと書かれていた。
「この記事の子が『椿沢裕実』だと?」
「ええ、まぁ。それとこっちも見てください」
新たに出された写真をコピーした紙には、出産直後の20代後半に入りかけた女性が、ベッドに横になり女の子の双子を両手に抱き抱えて微笑みながら映っている。
「これは?」
「『椿沢裕実』が『椿沢綾乃』を生んだ時の写真です。とある人から提供してもらいました」
「どっちが綾乃だ?」
「左側だそうです」
泣き叫んで元気そうな右側の子じゃなく、身体の小さな弱々しい子が綾乃か……。病弱だったんだろうか。
それにしても――双子だったとはな……。ん? 双子?
「右側は姉の『朋乃』だそうです。一卵性の双子」
『椿沢裕実』の戸籍をもう一度詳しく見る。
本籍地は東京都青梅市、氏名は椿沢裕実、生年月日1975年8月8日生まれ――両親の欄や出生地、続柄は空欄、従前戸籍もなしで新たに本人のみの戸籍が作られていることを示してた。
1995年4月14日に
この旧姓深見浩二こと、椿沢浩二が『椿沢綾乃』の実父か。
その椿沢浩二は、1999年9月4日に亡くなってる。『椿沢綾乃』が生まれる前か……。
1999年10月15日に『椿沢綾乃』が生まれる。
2014年4月14日に
2014年8月8日に39歳で死亡。
戸籍を情報を詳しく見返してみたが、『椿沢綾乃』の記載はあっても、その姉とされる『椿沢朋乃』の記載は一切されていない。
「『朋乃』なんて子は、戸籍にいないぞ?」
「ええ、
「そんなわけがあるかよ。綾乃の出生届は出てるわけだし、その際に姉の朋乃も出るはずだろ?」
双子を無事に生んで、その片方だけ出生届が出されず戸籍がないなんてことは起きないはずだ。
幽霊の正体を探ってるうちに、また幽霊が新たに出てきたぞ。
いったい、どうなってやがるんだよ。
「存在が消えた双子の姉がいたなんてね」
「なんか『椿沢綾乃』を調べれば、調べるほど、普通じゃない感じが出てきたっすよ」
新たな情報に触れた藤堂と水島も、俺と同じように『椿沢綾乃』に関わる周辺の人物が持つ奇妙さを感じ取っているようだ。
「姉の存在が消えてる理由を聞くため、その写真を撮った人物にここで話を聞くことになってます。そろそろ、迎えにいった田嶋さんが連れてくるころだと」
「分かった。その人物の聴取に俺も立ち会う。佐々木は引き続き、どこかに朋乃の戸籍情報がないか調べてくれ。藤堂と水島も佐々木をサポートしろ」
「はいっす」
「了解しました。佐々木先輩どうします?」
「役所だ。役所。実父の椿沢浩二の方も洗ってみたい」
佐々木たちが会議室から飛び出していくと、ちょうど入れ替わるくらいのタイミングで田嶋さんが、杖をついた70代の痩せた男性を支えながら連れてきた。
「田嶋さん、その方が――」
「ああ、その写真を撮った
元記者の宗川久治が礼儀正しく頭を下げると、俺は早々に椅子を勧めた。
椅子に腰を下ろした宗川さんは、こちらの手元にあった拡大コピーされた記事を見て、目を細める。
「これ、宗川さんの書いた記事ですよね?」
「ええ、まぁ、懐かしい記事です。田嶋さんがそれを持って自宅に来られた時には、ビックリしましたがね。浩二と裕実の子の綾乃が亡くなってたとは……」
「失礼ですが、『椿沢裕実』とはどういったご関係で?」
「んー、何と言えばいいんでしょうか……。父親代わりとは言えませんし、親戚でもありませんし、縁が有った者と言うしか……」
「縁が有った者ですか?」
「ええ、その記事を書いた時、養護施設にいた『椿沢裕実』を取材させてもらえまして、そこで顔見知りになりましてね。名前と年齢こそ覚えているものの、戸籍もなく、両親の記憶も住んでたところも分からず、周囲の子たちからも浮いて孤独を抱えていた裕実が可哀想でね。話し相手になれればと月に2~3回くらい面会に行ってたんです。それから、子供が生まれるまで彼女との交流が続いてたんですよ」
「それで、縁が有った者ですか……。なるほど。で、宗川さんから見た『椿沢裕実』はどんな人物でした?」
「かなり変わった子でした。読み書き、計算はできるんですが、施設にきた当初、テレビや電話などの電化製品の使い方が分からなかったんです。記憶障害もあったのでその影響かもしれませんがね。言葉遣いもやたらと丁寧だったのでいいところのお嬢さんではと、戸籍の照合に当たってた警察や役所の職員も当惑してたのを記憶してます。まぁ、でもいくら探しても該当の戸籍は有りませんでした」
「いいところのお嬢様ですか?」
「そう。そうなんです。駐在所で保護された時も洋服じゃなくて、けっこういい生地を使った着物を着ていたらしいですしね。ああ、これは裕実の旦那になった浩二から聞いた話です」
「その浩二さんは、婿入りした旧姓深見浩二さんですね?」
「ええ、そうです。警察官の彼が奥多摩の駐在所に勤務してた時、駆け込んできた裕実を保護したんですよ。彼も私同様に保護した裕実のことをずっと気にしてて、施設に面会に来ていたそうで、18歳で施設を出た裕実と同棲して、裕実が20歳の時結婚しました。浩二の方も身内がなくて、私たち夫婦が参加してお祝いを開いたくらいですがね」
「年上の浩二さんの方が婿入りした形ですが、何か理由があったんですかね。少し気になったので」
「ああ、浩二の婿入りですか。結婚の話になった時、裕実が椿沢姓を捨てたくないって言い始めましてね。ほら、自分の記憶の中に残ってた数少ない情報ですから、それを失くしたくないと言ってましてね。浩二も優しいやつでしたから、自分が婿入りすればいいと言って裕実の方に籍を入れたんです。手続きめんどくさいって泣いてましたけどね」
宗川さんは懐かしそうな顔をして『椿沢裕実』たちのことを話していく。
血縁ではないが、まるで自分の子供のことを話しているかのようだった。
「私も家内との間に子供がいなかったので、結婚した浩二と裕実のことはいろいろと世話してたんですよ。2人も身内がいないんで新年や盆といったところではうちに泊まりにきてたなぁ。家内は裕実のことが大好きだったんですよ。それこそ実の娘みたいに可愛がってたなぁ。ああ、すみません。余分な話をしました」
「いいえ、こちらとしてはとても参考になります。宗川さんのご夫婦と良好な関係にあった浩二さんと裕実さんの夫婦関係はどうでした?」
「とてもいい夫婦関係に見えました。お互いに好きあって一緒になったので、見てるこちらが照れるほどでしたよ。浩二があんなに死に方しなかったらと今でも悔やまれて仕方ない」
『椿沢裕実』の配偶者『椿沢浩二』は1999年9月4日に亡くなっている。死亡日時は分かるが、死亡原因は書かれていない。
「あんな死に方ですか?」
「浩二は青梅警察署山岳救助隊に属してたんですよ。行方不明者の捜索活動中に滑落事故で亡くなってしまってね。まだ29歳だったんだよ。翌月には子供が生まれるって時だった」
「滑落事故ですか……。それは悔やまれますね」
「浩二の滑落事故のことがなかったら、私たちと裕実との交流は続いてたんだと思うんですがね……」
「何かあったんですか? そう言えば、子供が生まれるまで交流されてたとさきほどおっしゃられてましたが――」
宗川さんは俺の質問に対して、何か口にしたくないことがあるのか、そっと視線を逸らす。
しばらく無言の時が流れたが、意を決したように宗川さんがこちらに視線を合わせてきた。
「裕実当人も亡くなっていますし、その娘の綾乃も亡くなっていると、田嶋さんから聞かされてます。なので、あの時起こったことをありのままに喋ろうと思います。今まで裕実との約束を守ろうとしては黙って墓場まで持って行こうと思ってましたが、家内も亡くなったし、私自身も余命宣告された身ですので、語っておいた方がいいと心変わりしました」
痩せているとは思ったが、宗川さんは病気で余命宣告されてたのか……。
彼が墓場にまで持って行こうと思ってた秘密とはなんだ?
宗川さんは、写真がコピーされた紙を手に取ると、元気に泣き叫ぶ子の方を愛おしそうに撫でた。
「そちらは『椿沢朋乃』さんで間違いないでしょうか?」
「浩二が亡くなった直後ということもあり、身重の裕実の代わりにいろいろと私たち夫妻が書類関係で駆けまわってましたし、親代わりみたいなことしてた関係で、双子が生まれた時、命名の色紙を私が書きました。名前は生前に浩二が決めてたんですよ」
「そうなのですね。では、その『椿沢朋乃』の戸籍がないことは知っておられますか?」
「ええ、まぁ、その……
「
「これから話すことは、余命宣告された私の記憶が病気で混濁しているとか思わずに聞いてください。本当にあの時に起きたことなんです」
こちらを真っすぐに見た宗川さんの目に嘘を吐いてる様子は見受けられなかった。
「分かりました。お聞かせください」
「ありがとうございます。『椿沢朋乃』の戸籍がないのは、彼女が死んだことになってると先ほど話しましたが、もちろんちゃんと生まれてますし、私もこの手に抱かせてもらいました。でも、入院中こつぜんと病院から姿を消したんです。朋乃だけが」
「姿を消した? もしかして連れ去りですか?」
「分かりません。院長の話だと神隠しのように消えてしまったらしく……。私も病院からの連絡で駆け付け、警察に届け出ようと伝えましたが――母親である裕実がそれを拒否したのですよ。泣き叫ぶようにして『あの子は死んだ』って騒いでたんです……。遺体はないのにです。私と家内も裕実を説得したのですが、大人しく落ち着いた性格の彼女が、いなくなった朋乃の捜索の件だけは子供のように泣きじゃくって『死んだことにしてほしい』と喚いてたんです」
ずっと誰にも語らず心の内にしまっておいたことを話す宗川さんの表情には後悔が滲んでいる。
「実の子を死んだことにですか……」
「ええ、そうです。直近にあった浩二の事故死のこともあって、裕実が精神的に不安定だったことは否めませんが、あの時は本当に気でも狂ったのかと思いまして……。噛んで含めるように何度も警察に捜索願いを出そうと言い含めました」
「でも、事件化してませんよね?」
「はい、最終的に私たちが折れ、病院側も新生児の行方不明者が出たことを公にしたくなくてかん口令を敷いて、出産に立ち会った院長が、裕実の言った通りに朋乃の死産届を出したんです。そして、私たちが遺体のない棺を火葬して、うちの墓に空の骨壺が入れてあります。出生届は綾乃だけの分を私が代理で出して済ませました。行方不明になった朋乃が生きてるのか死んでるのかも、私には分からないままです」
「宗川さんが今お話ししたことは、発生してた新生児の行方不明事案を隠蔽したことに、ご自身が加担したことになりますよ」
「ええ、だから朋乃の件は墓場まで持っていくつもりでした。田嶋さんが綾乃の中学時代の写真と似顔絵を持って訪ねてくるまでね。今日ここに来たのも、死んだことにしてしまった朋乃への贖罪のつもりです」
宗川さんは抱え込んでいたものを吐き出し、疲れ切ったように、ふぅと大きなため息を吐く。
24年前にそんなことが起きてたとはな……。だが、急にいなくなった我が子を実母が死んだことにして欲しいというのはおかしいが――。
余命少ない宗川さんが、虚偽の話をしてる様子は一切見られない。
「自分が犯した罪は認めますし、残りの人生は刑に服しますので、どうか私の話を信じて頂きたい。朋乃はたしかにこの世に生まれたのです」
宗川さんはそう言うと、ポロポロと大粒の涙をこぼして泣き出し始めた。
24年もの間、犯罪として警察などの捜査機関に認知されていない事案だし、実母が捜索願いも被害届も出さなかったこともあり、今の俺たちがどう扱うべきか困る話だが……。
『椿沢綾乃』の正体を追っていたら、もう一人『椿沢朋乃』という名の24年前に消えた幽霊が姿を現してきたとはな。
『椿沢綾乃』の周りには不可解なことばかり浮き上がってきやがる。
いちおう、宗川さんの話を聞いたからには動かないわけにもいくまい。
24年前の行方不明者という形で捜索をするか。『椿沢綾乃』の関係者だしな。
「宗川さん、我々としては事件としてではなく、行方不明者として『椿沢朋乃』を捜索させてもらいます。できれば、当時の様子をもう少し詳しく教えてもらえると助かるのですが」
「信じて頂き、ありがとうございます!」
ハンカチで目もとを拭った宗川さんは、俺たちに感謝を示すように頭を何度も下げ、当時の記憶をたどりながら、詳しい話を始めた。
「あれはたしか――裕実が出産して6日後の夜でした。先ほども話しましたが、病院から急に呼び出されまして。当時は綾乃がかなり病弱でしたので、綾乃に何かあったのかと思って、家内と駆け付けたのですが――。病院に着くと院長室に呼ばれましてね。裕実の病室に一緒にいたはずの朋乃の姿がないと言われたのですよ。私たちも焦りましたが、院長も相当に焦ったご様子でした」
「朋乃さんからの連絡ではなかったのですね?」
「ええ、病院からの呼び出しでした。出産当時、身寄りのない裕実の親代わりみたいなことをしてましたので、緊急連絡先は私たち夫妻になっていたんです。さっきも言った通り、死んだことにしてくれと騒いでて、埒が明かなかったので、私たちに連絡がきたんです」
「院長から朋乃さんが消えた時の詳しい経緯は聞きましたか?」
「ええ、まぁ、授乳の時間に裕実の病室に双子を連れてったことまでは、看護師によって確認されたと言われてました。その後、授乳が終わった頃を見計らい看護師が病室に行くと朋乃の姿だけがなく、裕実は綾乃を抱きかかえ、室内に散乱していた椿の花を見て、怯えるように泣き叫んで、『朋乃は死んだことにしてくれ』とずっと言い続けてたという説明を受けました」
「今、なんて?」
「朋乃は死んだことにしてくれと――」
「その前です!」
「病室に散乱していた椿の花のことですか?」
「ええ、そうです。病室に本当に椿の花が散らばってたんですか?」
「はい、そのように院長から聞いてます。真っ赤な色をした椿の花だったそうです」
また椿の花だ……。『椿沢綾乃』の方を調べてた時も椿の花の証言が出てきたが、裕実の元から朋乃が消えた時もか。
綾乃の部屋のポストに差し込まれた椿の花は、義理の父親のトラブル相手かと思っていたがーー。
案外、実母の方の関係者だったのかもしれないぞ。
綾乃に椿の花を送ってたのは、朋乃を攫った人物という線もありえる。
俺は想像の中で湧き上がった疑問を宗川さんにぶつけた。
「裕実さんに椿の花を贈りそうな関係者に、心当たりとかはありますか?」
「いやぁ、全くないです。裕実はあまり交友関係も広くない子でしたし、浩二が亡くなってたこともあり、病室を訪れたのは私たちくらいで、椿の花を贈るような相手に心当たりはありません」
裕実の交友関係が狭かったとしたら、椿の花を贈り、朋乃を攫ったのは病院内部の人間だろうか?
「病院関係者は、椿の花に関して何か言ってましたか?」
「いつの間にかあったというのを話してた気がします。何分、あの時は行方不明の朋乃を探すことで、病院関係者もバタバタしてましたからね。病院関係者からは、様子がおかしい裕実が朋乃を殺したんじゃないのかという意見も出たと、院長から聞かされました」
状況的には、そう思う人もでるかも……。
母親が双子を出産した産後に、精神的平衡を失い、片方の子を殺害したのを誤魔化すためとかか。
「とても失礼な話だとは思いますが――裕実さんが朋乃さんを殺害したということは……」
自分の子を死んだことにしてくれと叫んでた裕実の精神状態が、まともだったとは思えないし、もしかしたら自分の手で殺してしまったという線もありえたので、確認のため尋ねてみた。
こちらの問いに、宗川さんは小さく顔を振る。
「それはないかと。病院側も徹底的に院内を捜索してましたし、私たちも必死に探しましたが――どれだけ探しても朋乃の遺体がどこからも出ませんでした」
「それで、消えてしまったと……」
「ええ、本当にそうとしか……。本当にそうとしか言えないんです」
ハッキリとこちらの目を見て答える宗川さんは病魔に蝕まれた身ではあるが、記憶が混濁してる様子も見られない。
神隠しかどうかは分からないが、その日、病院内で新生児連れ去りの事案は発生したと見て間違いなかった。
「再確認になりますが、朋乃さんが消えた後、警察に行方不明者として捜索願いを出すことを、裕実さんに断られ続けたことに間違いありませんか?」
「ええ、そうです。説得の場には私たち夫妻とともに院長も同席してましたが、裕実は頑として『捜索願いは出さない』と跳ねつけ続け、死んだことにしてくれと叫んでたんです。3日後、説得を諦めた私たちは、先ほど言った通りに朋乃を死産にして、早々に火葬許可証をもらい葬りました」
「朋乃さんを亡くなったことにしたことは、裕実さんには?」
「もちろん伝えました。そうすると、憑きものが落ちたように落ち着いた様子を見せ、綾乃をしっかりと抱いてたと記憶してます。今思い返してみると、あの時の裕実は何かに憑りつかれてたかもしれません」
宗川さんの口から当時のことを聞けば聞くほど、奇妙な事態だったことだと感じる。
実子の一人が行方不明になっているのに、その子を死産として届け出たら、様子が落ち着いたというのはあまりにも異質すぎる状況だ。
俺自身は結婚したことも、子供を持ったこともないが、宗川さんが話す裕実は世間一般の母親像から、異質すぎて頭が混乱してきた。
聞くんではなかったという少しの後悔を感じていたが、聞いてしまったからには、捜査の情報としてきちんと最後まで聴取せねばという刑事としての意地で宗川さんに質問を続ける。
「その後、裕実さんはどうされました?」
「退院する日が決まって、迎えに行ったのですが、病室に私たちが行くと、綾乃を連れて姿を消してたんです」
「姿を消した?」
「ええ、そうです。病室に書き置きが残されてました。朋乃の件と、それまで世話になったことへの感謝が書かれた書き置きがね」
「それが最後の手紙だったということですか?」
「ええ、そうです。その後、裕実の行方を探しましたが、血縁ではない私たちが行方を知るすべもなく、縁が切れてしまいましてね。本当なら養子縁組を裕実に申し出て、自分たちの孫として綾乃を一緒に育てようと家内と話してたので、ショックは大きかったんです」
「姿を消した理由に心当たりはありますか?」
「一つだけ……」
「何でしょうか?」
「前日にふんわりと、自分の養子になる気はないかと、私が冗談まじりに尋ねたんです。裕実は聞こえないふりをしてましたが……。あとであれが姿を消した理由だったんではと思いあたりましてね。ほら、浩二との入籍でもそうですが、あの子は椿沢姓を捨てたがらなかったので」
「なるほど、世話になりっぱなしの宗川さんからの申し出を断るのは心苦しく、自分が姿を消す方を選んだという感じですか?」
「たぶん……そんな気がします。でも、これは私の勝手な推測にすぎません。本人の心の内は本人しか知り得ませんから」
裕実と綾乃との縁が切れてしまったことを、とても悔やんでいるように見える宗川さんへ、俺がかけられる言葉が見つからなかった。
「舘岡班長、宗川さんも病身ですし、今日はこれくらいで」
見かねた田嶋さんが助け舟を出してくれた。
「あ、ああ、そうだな。宗川さん、とりあえず朋乃さんの捜索も我々で行いますので、またお話を聞くこともあると思います。お体を労わってくださいね。今日は来て頂いてありがとうございます」
「朋乃の件、よろしくお願いします。それと裕実と綾乃のその後をことを教えて下さり、ありがとうございました」
宗川さんは来た時と同じように、俺へ深々と頭を下げると、田嶋さんに支えられて会議室から出ていった。
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