第3話
ある日のことだった。王子が、彼女との婚約を破棄した。
彼女の泣き顔を見る前に、私は王子の胸ぐらを掴んでいた。一体どういうことなのか問い詰めると、
――本当に好きな人が現れた。その人は死んだものだと思っていたが、ある日、その人とよく似た彼女が現れた。だから代わりに彼女と結婚しようと思ったのだ。娘には悪いと思っているが、その人と結婚するなら、私はその人しか愛することができない……。
身勝手なことを、なんて、柄にもないことを思ったわ。いいえ、散々男を女から奪ってきた私が言える義理ではなかった。けれど、真に欲しいと思う相手ならば、私は例え死んでいても甦らせるでしょう。それができなければ、また欲しいと思えるような新たな恋を見つけるでしょう。代わりで虚しさを埋めるなんて、この男は彼女にも、好きな相手にも、そして己自身すらも貶める行為であることにも気付いていない。
けれどね、彼女の元へ向かうと、意外なことに彼女は涙ひとつも流さなかった。私にはわからなかったわ。怒るか、泣くか、それとも心を無くして呆然とするか。今まで寝てきた男の妻や婚約者はそうしていた。なのに彼女は、微笑むだけだったの。そして、彼女は驚くことに、自分の口から話し始めた。
――私は人間ではありません。殿下によって、殿下の想い人に似せられて作られた人形です。両の足は地面からさほど離れることはできず、魂は存在しないまま、魔女によって石の彫刻から人間の体にしてもらったのです。
私はあんぐりと口を開けてしまったわ。
魂がない? そんなはずはない。ダンスが踊れなかった時、踊っていた王子を見つめる目は、魂を持つもの以外のなんだと言うの。
――この身は殿下を慰めるためにあったもの。殿下が幸せであれは、私は本望です。ですが一度だけ、あなたとお話したかったのです。
彼女はやはり、微笑むだけ。
それなのに、その目の奥には、ありとあらゆる感情が渦巻いて、濁って、打ち付けられて、透明になった。まるで岩や砂に激しく打ち付けられてきれいになる、浜辺の波のように。
――たくさん私を見てくれて、話しかけてくれてありがとう。私は殿下のために微笑むこと以外、何も持っていない彫刻だけれど、あなたにたくさんのものをいただきました。あなたのように強く、美しく、賢く在ってみたかった。
その言葉を聞いて、私の胸がつまった。一度だけしか話すことができない。つまりもう、彼女とは会うことが出来ないのだとわかった。何とかならないの、と聞いても、彼女は首を振るだけ。
――今日あなたとお話するために、私の体を引き渡すことになりました。それしか、私は差し出せるものがないのです。もうお会いすることはありません。
彼女がそう言った時、窓が一気に開かれて、青いカーテンがひらひらと舞った。海より深い色をした夜空に、青白い月がぼんやりとうかんでいた。バルコニーの柵の上に、ぽつんと黒い影が立っていた。よく見たらそれは、フードを被った老婆だった。肌から水気が抜け、しぼんで散った花びらのような唇の下から、ところどころ抜けた歯が見える。くり抜いたような黒い目が、私を見た。
彼女が近づくと、魔女はその姿勢のまま、自分の着ているフードの裾をかぶせようとした。
連れて行かれる。
そう思った私は、ほとんど何かを考える猶予なく口を開いた。彼女に自由な体と魂を持たせるにはどうしたらいいの。何をあなたに差し出せば、この子は心のままいられるの。そう尋ねると、魔女はこう言った。
――この人形を自由な存在に生まれ変わらせたいなら、お前の持つ永遠の若さを引き換えねばならぬ。
私が答える前に、魔女は続けた。
――恐ろしかろう。お前のような、何もかも持っている完全なものが、この私の体のようになっていくのだ。日を重ねる毎に、美しさも強さも賢さもなくなっていくのだ。
魔女の言葉を聞いても、私にはなんの恐怖もなかった。だって私は、老いも弱さも愚かさも知らなかったもの。知らないものをどうやって恐れるというの。そう言うと魔女は挑戦的に笑い、時間がかかるが、必ず彼女を生まれ変わらせることを約束した。
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