溺れる金魚のかばね

かいまさや

第1話

 すこしばかり前のこと、僕が金魚の模型品について口にしたことを、わずかながらに憶えている。たしか、家政婦の一人から譲ってもらった雑誌に載っていた、油絵具で見事に描かれた熱帯魚の画に、しばし魅せられたためであった。潤んだ魚鱗の煌めく白桃色を基調に、鮮明な朱色の斑模様をまとって、大きな扇のように鰭をヒラヒラとひろげながら水面に静かな円を描くその写像に、僕のこころは波立だったのである。僕はその紙面をハサミで切りとって、子供部屋のコルクボードに画鋲で留め、その油画の写しを観賞するのを細やかな嬉びとしていた。家のしきたりで、幼い頃から俗的な嗜好を禁じられ、日々の大半を家の内か外庭の隅っこで過ごしていた僕には、優雅気ままに遊泳する熱帯魚たちが羨ましく、一方で疎ましくも感じていた。ある時、まるで見せつけるようなその優艶さに、僕の心はたちまち微妙な愛憎の入り混じった感情へとかわって、その幼きに衝動的な加虐心すら芽生えると、僕は思わずその広告を引き破いて、気づくと空っぽのコルク板を前にひとり立ち竦んでいたのだった。やぶけた用紙をグシャリとにぎりしめる手からは画鋲をつたって、鮮やかな朱色の体液が床に斑模様を描いていた。

 そんなこともすっかり忘れかけていた頃、家政婦に呼びだされて食堂へ向かうと、数名の下郎たちが卓の上の大きな金魚鉢を囲んで、なにやら話し合っていた。コイツは黒色の混じっていて品がない、とか、アイツは尾鰭に傷がついていて相応しくない、だとか神妙な面持ちで鉢に入った小魚たちの品定めをしているようだ。彼らは僕に気がつくと、お待ちしていました、と言わんばかりに前の方へ手招きしてきたので、僕はそれに従って卓の上の大きな硝子鉢と対面した。10ぴきほどの美しい金魚が水の球体の中で快適そうに泳いでいる。

「坊ちゃん、いかがでしょう」

一人が僕の方に顔を覗かせながら訊ねると、背後からもう一人が、

「坊ちゃんが選ぶんですよ」

と声をかけてくるので、僕は少し困惑したまま、その鉢に入った金魚をそれぞれに眺めてみた。こう見ると個体によってそれぞれ柄や振舞いが微妙に異なるのに気づかされる。僕は自然とかの油画の追想をさがしながら、その中の一ぴきに目をつけた。ソイツは、混じりけのない透けるような艶をして、射しこむ斜陽を鱗で翻してくるので眩しくなるほどの美しさであった。大きな鰭を身体に冠して、おさない鰓で細やかな拍を刻みながら、忙しない鉢の中でも、ただその一ぴきだけは挙措端正とした閑雅さを醸していたのだった。僕はソイツを指さすと、男たちは

「流石坊ちゃんだ、私もその子が良いと思っていた」

「お前は、そっちの附子だろう」

とか、しばらく下らない戯言を交わした後、下郎たちは小さな網をつかってソイツを慎重にすくい上げ、鉢の横においてあったもう一つの小さな金魚鉢へと移した。僕は座椅子でくつろぎながらその顛末をぼうっと眺めていたが、どうもおかしな感じがする。水の中へとび込んだはずのソイツは、まるで透明な流砂に囚われたように静かに、そしてゆっくりと沈んでいく。すると、ソイツは先ほどの艶然とした態度と変わって、たちまちに小さな体躯をひねったりくねったりしてもがいて、その秀美な鰭を不乱に靡かせはじめた。僕は唖然として、背後を振り返れば下郎らは恍惚とした顔つきのまま沈黙に顕彰の意を評しているようであった。

 ちょうど金魚が鉢の中心まで沈むと、少し前まで威勢よく暴れていたものとは思えぬほどに、そのうごきを静態に残したまま硬直して、ただ僅かに鰓を痙攣させているのがみえるだけである。しかし、ついにその震えすらついえて鎮まると、下郎の一人が後ろから手を回しその鉢を持ちあげて、僕に差し出してきた。

「ほら坊ちゃん、ホンモノの金魚玉ですよ」

僕は未だに理解の追いつかぬままに、その不自然に重たくなった金魚鉢を受けとると、下郎たちは満足げにぞろぞろと食堂から立ち去ってしまった。

 しばらくのあいだ、僕は秒針のみが時をうごかす食堂で、膝にのっかる冷たい球体に閉じこめられたソイツを理由なく眺めていた。優麗と泳いでいた面影もなくして、おどろおどろしく、劇的な体勢のままの歌舞伎絵のように静けさを身にまとって何かを叫んでいるようである。すると、急にその慟哭と目があったような怖気が襲ってきて、咄嗟の動揺に僕はその硝子玉を思いきり宙に投げやってしまった。その終始には目も当てられず、僕はそのまま妙な脈拍の高なりに身を任せて、一目散に食堂を出でて、広間を、回廊を、玄関を、外庭を駆けぬけて、ついに見知らぬ景色までになった。その道すじにそって僕は必死に脚をうごかした。どこかへ逃げてしまいたかった。しかし、途中で終に息が切れて両膝に手をつくと、白い靴下は無惨にも破け、土汚れに血が混じって滲みているのが、ぼやけた視界にうつった。息を整えるために酸欠の頭を無理矢理にもちあげてみると、路の先に朱色に染まる陽が地平とぶつかって欠けてゆくのがみえて、僕はようやく全身の痛みを思い出した。そして、道端に崩れると、己れの内で蠢めく変哲を辺り一帯にひびかせてただひたすらに泣き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

溺れる金魚のかばね かいまさや @Name9Ji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画