第五章
第四十四話 No.882の名は
雨が降っていた。夜の香異特定局で報告を終えたばかりのグラントは、自席に戻るとそのまま背もたれに体を預けた。
天井の明かりはすでに落とされていた。室内を照らすのはモニターの仄明るいバックライトと、ガラス越しに揺れる街灯の光だけだ。
雨は静かに、執拗に窓を叩いていた。水滴が走り、絡まり、離れていく。室内には低く均一な雨音だけが満ちていた。
机の上には、一枚の報告書。
ノブレサント・ラボの元副責任者マリス・トリュフォー。無香人への危害の疑いで現行拘束。容疑は〈感応〉系香印を用いた洗脳。被害者はジャック・ローラン。
現場で検出された成分分析、行動記録、拘束時の状況。
紙に印字された列を改めて目で追うと、あの夜、解析表を叩きつけたアンシーの声が蘇る。
――No.882が入ってた。
初めて嗅ぐはずの香料にあった、強い既視感。
心臓の裏に届くような抑圧感。それを、他で感じたことがあった。
忘れたはずのものが、嗅覚の奥から滲み出す。
(ラベンダー。だが、それだけじゃない)
報告書の端が湿っていた。手のひらから滲んだ汗のせいだと気づくまでに、時間がかかった。
視線は、印字された名へと戻る。
――マリス・トリュフォー。No.882の調合者。
だが、あれは緻密な処方じゃない。まるで、誰かの皮膚から削り取ったような。
採取された香りだ。
脳裏に、地下室の湿った空気と閉ざされた匂いが重なる。
「……No.882はネファスト・ノブレサントの香印を封じたものだ。それは間違いない。だが……」
冷たい花の香りの裏に、確かに潜んでいたもう一つの香り。
「……シニストル。あれは、シニストルのラベンダーだった。もし、保存されたものが実在するのなら……」
知っているのは、その香りを身に宿したネファストだけだ。
呟きは、雨音に飲まれた。
グラントは椅子を押しのけるようにして立ち上がった。
「……ネファスト。おまえは、何を知ってる」
***
ノブレサント・ラボの応接間には、夜の雨音だけが差し込んでいた。照明は落とされ、人工光の一切を拒むように、部屋全体が無彩色の闇に沈んでいた。
硝子机の前、ネファストは椅子に深く腰掛け、片肘をついて頬杖を支えていた。視線は落とされたまま、動かない。
そこへ、カーペットを踏み抜くような重い足音が廊下から近づいてきた。間を置かず、扉が開く。湿り気を帯びた外気が、室内の空気をわずかに押し動かした。
「……訪問の申し出に、応じるとは思わなかった」
低く抑えた声が響く。
グラントの声音には静けさがあったが、その底で押し殺しきれない感情が濁流のように渦巻いていた。
ネファストは視線を上げずに応じる。
「香異特定局の要請を無視すれば、また手の早い諜報屋が動く。面倒ごとは好まなくてね」
グラントはひとつ前に踏み出した。
「マリス・トリュフォーがジャックの処方に混ぜたのは、キャプティブNo.882だ。そのせいでオブリエ・ノブレサントの香印が暴走した」
ネファストはほんのわずかに視線を動かす。返事はない。無関心を装うような沈黙。
グラントは畳みかけた。
「あの香りは、俺の知っているものだった。……癒し、だ」
その一言に、ネファストの指先が机の縁を一度だけなぞる。感情のかけらもなかった。
「要領を得ないな。〝癒し〟というのは、あまりにも多くの意味を持つ」
「どの力が干渉したのかはわかんねえよ。〈癒し〉は規格外だったからな。……シニストル・メモアロームの香印だ」
ネファストの指先が止まり、ゆっくりと目線が上がる。
「どこまで知っている」
「シニストル・メモアロームのことは知っている。……俺の、部下だった」
「
短く肯く。少しズレた、淡々とした肯定。グラントの胸に説明のつかない違和感が生まれる。
「……。ノブレサント・ラボで、No.882を処方したのはマリスだと聞いた。だが、あれは作られた香りじゃない。採られたものだ」
短く切り込むような言葉に、ネファストは鼻で笑った。
「よく嗅ぎつけたものだ」
「話せ」
「話せ、だと? 冗談も大概にしろ」
ネファストは嘲笑うように顔を歪ませた。机の影から姿を起こすように、ゆっくりと立ち上がる。
「そんなに知りたいなら――見せてやろう」
ネファストは椅子から立ち上がり、部屋の奥へ歩いた。カーテンの影を抜け、壁際の重い鉄扉に手をかける。蝶番がわずかに軋み、密閉された空気が押し出されるように廊下へ流れ出した。
足音がカーペットから石畳に変わる。
長い廊下を進むにつれ、ひんやりとした湿り気が肌にまとわりつく。
やがて現れた階段を、ネファストはためらいなく降りていく。
段を踏み下ろすたび、空気は冷え、重くなり、呼吸の音まで吸い込まれる。
ネファストは一言も説明せず歩き続けた。何を見せられるのか、グラントにはわからない。だが彼の背中から漂う気配が、ただの見学では済まないことを告げていた。
やがて辿り着いたのは、ラボの密閉区画。制御された冷気と気圧が満ち、金属と硝子だけが並ぶ無音の室内。
ネファストは振り返り、奥を指し示す。
「キャプティブNo.882。その香りの源泉だ」
足元から、冷たい香りが忍び込んでくる。
柔らかく、しかし抗えない力で、肺の奥へ沈み込む。
「……この、香りは……」
胸が一瞬止まり、喉の奥に重く張りつく異物感がせり上がった。
――見たくない。
それでも目は、吸い寄せられるように奥へ向かう。視線を逸らそうとする意思を、何かが内側から押し返す。
そこにあったのは、異様なほど均一に咲き揃った真紅のケレンワート。花弁は一枚一枚が艶やかで、人工物のような整い方をしている。
だが、それ以上に異様なのは、そこから立ちのぼる香りだった。
土や緑の気配はない。代わりにあるのは、肌の温もりのような生臭さ。甘さは血の鉄臭さで濁り、奥底には焦げつくような苦みが沈んでいる。
それなのに、惹かれる。遠ざかるべきだとわかっているのに、鼻腔がその香りを追い、肺がさらに深く吸い込もうとする。心臓の鼓動が、香りのリズムに合わせて微かに変わろうとする。
危うく、しかし美しい香りだった。
吸い寄せられるように、グラントは一歩、また一歩と踏み出す。気づけばネファストに背を向け、葉の群れだけを視界に収めていた。
まるで、あいつ自身を――シニストルの肉体をゆっくりと溶かし崩し、そのすべてを植物に吸わせたかのような、香気だった。
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