第四十五話 癒しには逆らえない
密室の空気を、銃声が裂いた。
一線の痛みとともに衝撃が左肩を抉る。
身体が跳ね、反動に突き飛ばされたグラントは足を引いて重心を拾い、衝撃を殺した。
左肩の裂け目から、赤黒い血が溢れる。血を吸った布の重さが肌に貼りつく。
「……ッ、クソ」
呻きながら息を吐き、グラントは音の主を睨んだ。
ネファスト・ノブレサントが、静かに銃を構えていた。
その顔には怒りも焦りもない。ただその端正な眉をかすかに歪め、冷め切った諦めのような色を浮かべていた。
「避けたか。まあ、いい。……理由もなく、こんなものを見せるわけがないだろう」
冷えた、静かな声だった。
吐き捨てるでも、告げるでもなく。ただ、言葉を足元に落とすように。
「お前は〝行方不明〟になる」
グラントは肩をかばいながら現状を整理した。
間合いは遠い。銃ならば五分五分か。いや、相手がネファストでなければの話だ。
歩き方でわかる。こいつは戦闘訓練を受けている。
(……斬るしかねえな)
グラントの手が、腰のホルスターへと伸びた。実戦用の軽量サーベルを抜刀する。
「撃ちたきゃ撃てよ。間に合うならな!」
踏み込む。
銃口の射線に対して斜角を取り、一気に間合いを詰める。
刃が風を斬り、そのままネファストの左脇腹を裂いた。
弾けたのは、血ではなかった。
空気。ひゅう、と音を立てて傷口から空気が噴き出した。
正確には、香りが。
「なに……」
ラベンダー。ナツメグ。ミント。
焦げた杉。わずかに、鉄。
ただならぬ状況に頭の処理が追い付かず、ほんの一瞬だけ身体が硬直してしまう。
そんな隙を逃すネファストではない。ネファストのナイフは弧状に薙ぎ、グラントの右脛を裂いた。
浅い傷だ。痛みだけを刻むような傷だった。
グラントが距離を取ったのを見て、ネファストは微笑んだ。
皮肉でも嘲笑でもなく、どこか慈しむような顔で。
「この程度で癒さなくてもいい」
何――
かすれた声を漏らすグラントに、ネファストは答えなかった。
ネファストの脇腹でぱっくり口を開けていた裂傷が、みるみる塞がっていく。
やがて傷は完全に塞がったが、香りは消えなかった。
香気が――シニストルの
「だが、言って聞くようなお前ではないな」
ネファストは静かに、話しかけている。
香りに。
「……ふざけるなよ。貴様、シニストルに何をした!!」
咆哮した――つもりだったが、空気を押し出すように吐き出すしかできなかった。
ネファストは、どこか懐かしむように目を細めた。
「忘れたくなかっただけだ」
グラントは左足を軸に体をひねり、刃を大きく払う。肩からは血が滲み、脛の裂傷も脈打つように疼くが、踏み込みは迷いがなかった。剣先が低く滑り込み、相手の懐を狙う。
ネファストは半歩後ろへ跳ねてかわした。足運びは軽く、体重移動に無駄がない。カウンターを狙うように右手のナイフが胸元へ滑り込むが、グラントは剣の鍔で弾いた。
金属の衝突音が室内に響いた。
再び距離を取ったネファストが、独り言のように呟いた。
「……仕方がないな。それがお前の戦い方か」
そして、踏み込んだ。
「だが、私では使い方がわからん。触れないと駄目かね?」
その指が、グラントの傷口に伸びてくる。
避けようとしたが、痛みと疲労で反応が遅れた。
指先が皮膚に触れた瞬間、爆ぜるような衝撃が走る。全身の細胞が内側からひっくり返されるようだった。香りと熱が混ざった奔流が皮膚の下へと潜り込み、血管を遡り、骨膜の裏を這う。傷が肉を巻き込み、皮膚が寄り、痛みが熱に変わり、蒸発するように香りが立つ。
――知っている。この感触、この音、この香り。
あの日、別の手から受けたのと寸分違わぬ治癒の力。
叫びは声にならなかった。
「よかったな」
優しい声だった。
グラントは衝動に任せて剣を構えようとしたが、手が震えてうまく握りこめなかった。
震えの原因は、怒りでも、恐怖でもなかった。
――懐かしさ。
「さっさと剣を構えろ、フォッサー」
ナイフを構えながら、ネファストは平然と言った。
「ふざけるな……! なぜ、貴様が……シニストルの……!」
怒りを込めた言葉を吐く。心の底で煮凝った絶望は、怒りの皮を被せなければとうてい吐き出せなかった。
その言葉を聞いたネファストが、淡く笑った。
「ああ、まだ分からないか。存外、鈍い男だな。――私ではない」
胸に手を添えて、続ける。
「使い方がわからないって言っただろう?」
口調が、声質が、変わった。
「癒してくれるんだよ。身体も、記憶も、不自由な心も」
それは模倣ではなかった。
「シニストルはもう、香りになった。ぜんぶ。入ったんだ。香りの中に。閉じ込めた。
笑った。
耐えられない、とでも言うように、口元から感情が零れた。
瞬間、ネファストがグラントめがけて走り出し、全身を使ってグラントにナイフを突き刺そうとした。
グラントは身を翻して距離を取ろうとするが、ネファストも踊るようについていく。
ひたすらに距離を詰める。
サーベルの間合いを、ナイフの初速で埋めようとしている。
明らかに悪手だ。リーチに差がありすぎる。
だが。
「その、動き……」
傷つくことを一切恐れず、負傷は前提といわんばかりに突っ込んでいく、その奇妙な戦い方に覚えがあった。
(シニストルの戦法だ)
錯覚が、現実を乗っ取っていく。
目の前の男は、シニストルとは似ても似つかない。――外見は。
だが、
(違う。こいつはネファストだ。……だが――)
その香りは、肺に残った。
すぐにでも吐き出したかった。吐き出そうと肺に力を込めようとしたが、うまく動かせなかった。呼吸が、香りを手放すことを拒んでいるようだった。吸えば吸うほど、身体のどこかが安堵していく。心臓の鼓動すら、香りに合わせて宥められていく。
……もう、受け入れてしまっている。
あれほど辛かったラベンダーの香りが、今ではもう、懐かしさしか想起しない。
声が聞こえない。誰も見ていない。
癒されたのは肉体ではない。
呼吸をするたび、〈癒し〉を体内に取り入れるたび、シニストルを喪ったという痛みそのものが癒されつつあった。
もう、ラベンダーの香りでシニストルの幻覚に悩まされることも――ないのだろう。
膝をつく。地面に手をつき、吐き出すように叫んだ。
「なんで、これが、癒しなんだよ……っ!」
癒された。
痛み。悲しみ。怒り。無力感。罪悪感。
そのすべてが。
シニストルを〝使った〟のは――ネファストじゃない。
癒されたこの身体だ。
この香りを受け入れてしまった自分自身だった。
これは〈癒し〉ではない。
治すのではなく、
傷を埋めるのではなく、傷ごと抉り取って違う部品に換えてしまう。
意識も、記憶も、人格も。傷があったという事実ごと、跡形もなく――
――殺す。
ようやく、グラントは理解した。理解させられた。
シニストルはずっと、この〈癒し〉という呪いに焼かれていたのだ。
そしてネファストは、それを引き継いだ――容れ物、なのか。
斬り返そうとしたが、足さばきが遅れた。間合いが狂う。体重移動がぎこちない。
――どうやって、戦っていた?
長年の訓練で身についたはずの身体記憶が、少しずつ溶けていくようだった。
戦わなければならなかった人生。その変遷が〝傷〟と
グラント自身が感じていた後ろめたさを、香りはいとも簡単に見抜いた。
手から剣がこぼれ落ちる。
指に力が入らない。
「……少し、癒しすぎたかな?」
ネファストが穏やかに囁く。
その話し方、その声色、その表情は、シニストルだった。
「でも、君の傷は癒やせたよ。グラント」
傷。
それは、どんなものだったか。
甘いラベンダーの香りに、心がふっと弛緩する。
かつてラベンダーで想起されたのは、恐怖、悲しみ、喪失の痛みだった。だがその〝傷〟はすでに彼の心から消え去っていた。
もう、ラベンダーを忘れる必要はないのだ。
だが、そのことにさえ、グラントは気づけなかった。
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