第四十話 構造を失くす
――おかしい。
ジャックは最初、それを空気の変化として感じた。
閉じられた部屋の空気は、どこか淡い甘さを孕んでいた。
香りではある。だが香料ではなかった。
フィグ? 糖の重さはあるが、果皮の渋みがない。
蜂蜜? 粘性に乏しい。
イリスの粉末? 根ではなくて、もっと揮発が早い……。
ジャックは慎重に情報を分解し、既知の構成に照らし合わせていく。
だが、どの素材も一致しない。
かすかに似ているものはあるのだが、どれでもない。
ジャックは椅子に座っていた。そう指示された覚えはないが、いつの間にかそうしていた。
白い部屋。過剰に清潔な床。壁も天井も吸音材のように音を呑み込む。足音すら残らなさそうだった。
喉の奥に濁った熱が上がってくる。何かを「外に出したい」と、身体のどこかが反射的に思っていた。
あのときも――そうだった。
オブリエの香りが変わったとき。
沈みが乱れていたのに、何も言えなかった。
――思い出せ。ずっと違和感があった。
そのとき、音もなく入ってくる影があった。
マリスだった。
ジャックは彼女を正面から見据える。視線に揺れはなかった。
それを見たマリスは、面白そうに笑った。
「やっぱり、厄介ね。調香師は」
その声を聞いた瞬間、言葉が口をついて出ていた。
「あなたが、ぼくに、選ばせたんですね」
静かな刃だった。怒りではない。だが疑念ではなかった。
確信。
マリスは少しだけ眉を上げた。微笑みのまま、ジャックに近づきながら言う。
「どうして、そう思ったのかしら?」
問いかけは穏やかだったが、どこか乾いていた。
「……香りは完璧だった。ひとつも狂いがなかった。一度も失敗しなかった。それが、おかしかったんだ。全部が予定されていたみたいで」
ジャックの声はかすれていた。
「どうしてその比率にしたのか、どうしてキャプティブを補うと判断したのか。理由が思い出せない」
「あら。それだけで?」
「完璧に作れたなら、設計の意図は一つ残らず説明できなければおかしい。必ず覚えています」
「ずいぶん自信があるのねえ」
「選んだのは、ぼくだ。でも、ぼくの意思じゃなかった」
「それで、どうして、わたしだと?」
「……ぼくが調香の相談をしたのは、あなたしかいない。ましてや、精油を譲ってもらうなんて」
マリスは微笑を浮かべた。それはそれは嬉しそうに。
ジャックは静かに彼女を
「……何のために? オブリエ様に影響を与える目的で香印に干渉したのなら、それは明確な害意です」
「影響、ねえ。干渉と言うには、少し違うかもしれないわ。私は、彼女を戻したの」
「戻した?」
「私は、強制はしていない。整えただけよ。彼女が選びやすくなるように」
「それは……選択肢の恣意的操作です。補助ではありませんね」
「あなたは、とても真面目ね。立派だわ」
その言葉と同時に襲ったのは、空間が裏返ったような圧縮感だった。
気圧でも粘性でもない。
過剰に整った異物が、空間の密度をわずかに下げている。香気の膜が、感覚の内側に触れてくる。
香り。フィグでも蜂蜜でもない。腐敗でもない。
揮発の手前で止まった脂質、名前のない分泌物の甘み。骨髄に触れるような、前言語の感触。記号にできない。
甘度、粘性、比重――どれもあるが、拡がらない。
分子構造か。ノートが浮いてこない。
閾値以下? ……いや、感覚がずれている?
(……違う)
香りの方が、先にこちらを割り出しているような、視線めいた感覚。神経が選ばれているような、主導権が逆転しているような。
感覚を束ねる前に、解かれてしまう。
アルカではない。香料では再現できない。
だが、香印にしては、制御が精密すぎる。
――これは、香りじゃ、ない?
少なくとも、自分が信じてきた〝香り〟ではない。
香りじゃないとしたら?
じゃあこれは、いったい、なん――……
……何の、話だっけ。
「……?」
言葉が繋がらない。思考はある。だが、文にならない。
「気にしなくていいのよ。忘れることは、悪いことじゃないわ」
「いえ……違う、違います。ぼくは……話さなきゃいけないことが」
「急がなくていいのよ。香りはゆっくり伝わる。あなたの言葉よりも、確かに」
思考が形になる前に、何か別のものが神経の内側へ滑り込んでくる。
「でも……彼女の、オブリエの、あの時……香りが……ずっと前と……」
(……構成、構成を見つけよう。ピラミッドでも層構造でもなんでもいい、から)
トップの立ち上がりがない。甘さも持続したまま崩れない。拡散性と粘性のバランスも合わない。
……では、分子量か?
いや──これは、そもそも……揮発していないのでは。
「揮発していない? いや、そんなはず……」
「ねえ、今あなたが感じている香り。どこから来ていると思う?」
「……この、この匂いは……ぼくが……いや、マリスさん……?」
「あなたの中よ。あなたが、感じてるの」
(バランスが見えない。……何か、何か法則があるはずだ。香りは意味を持つ。意味がなければ、それは……)
香りが、中から灯っているように感じる。
鼻先で触れるものではない。肺の奥、意識の縁をなぞるようにじわじわと広がっていく。
嗅いだのではない。内側から感じさせられている。
感覚が、自分のものではないところから始まっている。
不安定に浮いている。だが揺れているのは身体ではない。言葉の骨だ。意味の重力が、下に抜けている。言葉の土台が、静かに崩れていく。
(そうか。ぼくの中に、ある――)
気づいた瞬間、ジャックは呻くことすら忘れた。
そのまま、表情がゆっくりと、確実に崩れていった。
香りが入っているのではない。
皮膚の下に封じられていた何かが、鼻腔を逆走して自分の外へと広がっている――ような、錯覚。
これは香りではない。記憶と感情の混成信号。
だが、あまりにも、香り
口元を両手で覆う。息を乱すまいとする反射と、身体が勝手に拒絶しようとする衝動が衝突し、倒れるようにうずくまった。
「ちが、ちがう……外からくる、ぜんぶ、ぜんぶ、外からくるんだ! 閉じ込めて……早く、早く、吐き出さないと、逃げて、ああ……」
自分の口が何かを言った気がする。だが、それが何なのか分からない。
香りがさらに深く、重くなる。
ジャックは思い出していた。祖母のラボで、瓶に封じられて並べられている香りに――逃げられないように閉じ込められている香りに、安心したあの日のことを。
今、この香りには封がない。空気そのものに、名前のつかない何かが染みている。
居場所を失った香りが、どこからでも入ってくる。
――あのときの安堵は、まやかしだったのか。
――香りは、たまたま出てこなかっただけだったのか。
ジャックは右手の人差し指の付け根に思いきり噛みついた。そのまま人差し指を喉に滑り込ませようとした。吐くことでしか、自分の境界を再確認できないと思った。
マリスはジャックの右手をそっと握り、口からゆっくりと引き離す。
始終微笑みながら。
母の声のような、子守唄のような、やさしさのかたちをした命令が、彼の内部に静かに沈む。
「……あなたが、ぼくの香りを、あのとき、なにか、……なにを……?」
言葉は、そこで崩れた。
記憶が、ひとつ、形を失う。
香りが、記憶の接着面をずらすように滲み込み、過去そのものが姿を変えていく。
「あなたが
そう囁かれた瞬間、彼の呼吸が彼のものではなくなった。吸うたびに、違う
記憶の扉は、扉ごとすり替えられた。吸うたびに、違う過去が肺に満ちていく。
拒絶の声は浮かばない。すべて柔らかな〝同意〟に包み込まれる。
彼の中で、拒絶と同意の境界が静かに溶け落ちた。
言葉が、自分のものではなくなった。
(……何か、言いたいことが、あったような気がする)
「もう、話さなくていいのよ」
マリスは静かにそう言った。
その声すら、香りの一部に聞こえた。
音も、意味も、言葉のかたちすら、香りに吸われていく。
肯定されたら、それはもう、否定できない。
マリスは何も押しつけなかった。ただ「わかる」と言った。それだけで、世界の形が変わってしまった。
もう、何も確かめられなかった。
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