第三十九話 捨てられた日常
小さな三差路の奥に、それらは置かれていた。
軽いウールのジャケットと、布製のショルダーバッグ。
ショルダーバッグの紐はまとめられ、仰向けに寝かされていた。ジャケットはきちんと折り畳んだ状態で、ショルダーバッグのフロントを覆うように置かれている。
捨てたのではない。放り出された跡もない。
整然と、置かれていた。
グラントはしゃがみ込んで、まずジャケットに手を伸ばした。ポケットは空だ。
次に、ショルダーバッグ。使い込まれた道具の手触りがした。
留め具を外して中を見る。
中身を一つずつ、順に取り出す。
旧型の端末。工房からの貸与品。
革の二つ折り財布。紙幣、小銭ともに手をつけた形跡はない。
筆記具の入った細長い布ケース。芯の短いシャープペンと、黒の万年筆。
小さく折りたたまれた白いタオル。わずかに空気が重たくなり、柑橘系の香りが鼻を掠めた。
……ジャックも、アンシーも、香りをつくる側の人間なのに、フレグランスを身につけない。調香や試香をするときにフレグランスはつけない決まりらしい。鼻を仕事に使うときにはノイズになるのだろう。
だから、持ち物に香りを移していたんだろうか。
誰にも気づかれないように、静かに楽しむために。
「……」
最後に、ノート。
布張りの表紙は角が擦れて丸くなっていた。何度も開かれ、何度も閉じられた証だ。
グラントは素早くページを繰る。日付、テキスト、式、配合のメモ。罫線に沿って整然と記された文字は読みやすく、滲みひとつない。
日常だ。
香りを記録し、調整し、思いつきを書き留める、静かで個人的な日常。
グラントは何も言わなかった。
ノートを手に取った時の重みを思い出す。
だが、ここにジャックはいない。
物だけがあった。不自然なほどに整ったまま、彼の不在を演出するように。
あるいは、自ら消えることを望んだように。
判断はつかない。
グラントは思考を保留した。
ノートをゆっくりめくりながら、グラントが口を開く。
「……ひとつ残らず、綺麗にある」
「いや」
アンシーが低くつぶやいた。
「……香りがない。香油も、ムエットも。いつも持ち歩いていたはずだ。……忘れるわけがない」
アンシーはバッグをもう一度探ったが、もうすべて出してしまっている。底を探る指はかすかに震えていた。
グラントは、もう一度ノートを開いた。
ノートの最終ページには、日付が記されていた。グラントとの約束を取り付けた日。昨日だった。
その筆致は、わずかに震えていた。行間から、焦燥とも決意ともつかぬ感情が滲んでいる。書き進むにつれ、文字は速くなる。不安を振り払うように、次の言葉へと急いでいる。
……
マリス・トリュフォーのもとへ。
香印について、もっと深く、もっと正確に知らなければならない。
グラントの眉がわずかに動いた。
「マリス・トリュフォー。まさか……」
「知ってるのかい」
グラントはうなずいた。
「ノブレサント・ラボの資料で見た。キャプティブNo.882の調合責任者の名前だ」
アンシーの目が見開かれる。
「……じゃあ、ジャックの香油にNo.882が入っていたのは」
「この女経由か。それはわからないが」
――今日は休みじゃないのか?
昨日の朝にそう聞いたとき、ジャックはたしかこう答えた。
――そうですけど。ちょっと、確認したいことがあるので。それくらいかかります。
「確認したいことがある、と言っていた。何かに気づいたか……探ろうとしていたんだろう」
グラントは指先で紙をそっと押さえた。
……
おばあちゃんは、ぼくのせいではないと言った。
たぶん、適当な慰めではなかったが、
やはりぼくがやってしまったのだと思う。
構成を見なければ
終わったらグラントさんと食事だ
たくさん話を聞いてもらおう
そして、最後。
昨日か、今日か、いつ書かれたかはわからない。
だがそれは万年筆ではなく鉛筆で、明らかに後から書き足されたものだった。
グラントはしばらく、その言葉をじっと見つめた。
筆跡にブレはない。断言するような字だった。
ぼくのせいだ
「違う。おまえのせいじゃない……」
思わず声が漏れた。
手のひらに伝わる紙の感触が、妙に冷たく思えた。
ノートを閉じたグラントは、それをバッグに戻さず、手に持ったまま立ち上がる。
躊躇している暇はなかった。
会わなければならない。
キャプティブNo.882の調合者であり、ジャックが最後に残した名前。
マリス・トリュフォーに。どんな手段を使ってでも。
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