第四十一話 追尾者
ローラン邸の応接間は、深夜の静けさに包まれていた。
グラントはソファに沈み込むように座り、そのまま動かなかった。手元でジャックのノートを開いていた。
そこに刻まれた思考と選択の跡が、手のひらに沈む。擦れた文字から、苦悩の匂いが立ち上ってくるような気がした。
書き込みがある最後のページに辿り着く。
何度見たかわからない。短い、しかし迷いのない一言。
《ぼくのせいだ》
グラントは何も言わずにノートを置いた。そして、ゆっくりと立ち上がる。
***
玄関に入ると、影が現れた。
アンシーだった。彼女の声は沈んでいたが、その表情には毅然とした気配が残っていた。
「……まさか、本当に行く気なのか」
グラントは無言で通り過ぎようとしたが、アンシーは一歩踏み出して、彼の前に立ちふさがった。
「待ちな。おまえ、香特の権限を使うのか」
グラントは一瞬だけ視線を落としたのち、静かに言葉を返した。
「あいつを連れて帰る。それだけだ」
抑えた怒気が、短い言葉に滲んでいた。アンシーは背筋を伸ばし、その怒気を正面から受けて口を開く。声は掠れていたが、目には揺るがぬ意志があった。
「なら、あんたが踏み込む必要はない。あたしが行けば、責任を取れる」
「責任ってのは、先に動いたやつが取るもんだ」
その言葉に、アンシーは一瞬だけ顔を歪める。祖母として、あるいは師としての、怒りとも悔しさともつかぬ感情が浮かんだ。
「祖母として、あの子を迎えに行く」
「駄目だ。アンシー・ローランにそんなことはさせない」
冷たくも真っ直ぐに声を残して、グラントは足を踏み出す。迷いなくアンシーの脇をすり抜け、まっすぐ玄関の扉へ向かった。
「婆さんは死ぬまで〈香りの学徒〉でいろ。正しさを信じて学んできた者は、そのまま正しくいてくれ。そういう場所は、残さなきゃいけないんだ」
アンシーは言葉を探すように唇を震わせたが,結局は何も言わなかった。その視線はグラントの背に釘付けだった。
グラントは扉に手をかけ、振り返らずに言う。
「汚れるのはおれの仕事だ。おれが始末する」
***
夕闇が濃くなる中、マリス・トリュフォーのアトリエに着く。門扉の影が石畳に長く伸びていた。
グラントは足を止め、コートの内側を指先で押さえる。香異特定局のバッジが確かにそこにあることを確認すると、ひとつ息を吐いた。
上層の承認も、正式な命令もない。踏み込めば処分は免れない。だが、机の上の許可印を待っていたら、何もかも手遅れになる。
証拠も命も、消えてしまう。
「手続きは後回しだ」
小さく呟き、ベルを鳴らさず扉を押し開ける。
アトリエ内は整然としていた。
玄関脇の廊下に並ぶ観葉植物、布張りの椅子、飾り棚のガラス器や食器。いずれも生活の痕跡を欠いている。おそらく消臭処理を施してあるのだろう。
だが、その徹底ぶりは異常だった。ここが誰にも踏み込まれていない場所であることを見せつけるために整えられたようでさえあった。
「匂いまで殺すなんてな。……よほど見せたくねえもんがあるらしい」
視線を床へ落とすと、一部だけ色や質感が周囲と浮いている。木製の床板に、新しい塗装を塗り込んだような光沢があった。訝しく思い、しゃがみこんで掌を浮かせる。底のほうから、かすかな風が吹き上がってくる。
空間があるのだ。
補強か、改装か。いずれにしても、最近手が入れられた跡だ。
「……地下か?」
壁際を進むと、廊下の突き当たりに小さなドアがあった。鍵はかかっていない。静かに押し開けると、暗がりの中へと続く階段が口を開けていた。
空気はひんやりとしているのに、どこか重苦しい。息を吸い込むと、なぜか胸がざわつく。その胸のさらに奥のほうで確信めいた思考が生じた。
「この下に何か、あるな」
グラントは一段目に手をかけた。錆はない。踏み板は硬く、軋まない。音も香りもない空間に、彼の足音だけが落ちる。
グラントは無言のまま、地下へと足を踏み出した。
階段を一段ずつ踏み下ろすたびに、靴底が硬質な音を立てた。コツ、コツと冷えた床を鳴らすその音だけが、地下空間に染み込んでいく。
周囲の空気は異様な静けさに包まれ、湿気も音もほとんどない。底から伝わるわずかな風さえ、何かに押しつぶされているように重かった。
グラントは無意識に息を止め、拳を握る。
重い静けさの中を進み、一番下まで降りきった先に扉があった。前に立ち、手をかけた瞬間、部屋の空気がさらに冷え込んだように感じられた。
丁番は不気味なほど滑らかに動き、軋むそぶりすら見せない。扉はそのままゆっくりと開いていった。
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